金史抜粋。
金秀王歴十三年、千蘭公主将、入輿。
金秀王歴十七年、千蘭王護、乱を起こす。
同年始霜八日、千蘭軍五万、金国王都、阪司に至る。
同年始霜十一日、金公宮炎上。金王翼自害す。
出立の時刻まで、後わずかだった。黒川は将付きの女官である小島に呼び出されていた。
彼女は無言のまま、黒川を将が最後の時を過ごしている部屋に案内し、扉をそっと閉めて出て行った。部屋には将以外、誰もいない。輿入れ前の公主を、家族以外の男に会わせるのは異例のことだった。
誰とも知れぬ、この気遣いの主を思いながら、黒川は敷物を踏み、部屋の中央へと歩み進んだ。
将は窓際の椅子に腰を下ろしている。白粉と、衣装に焚きしめた香の匂いが漂っていた。将は黒川に気づかないのか、椅子に腰を下ろし、ぼんやりと外を眺めていた。
髪はきっちりと結い上げられ、金環で留められた被衣をかぶっている。ごく薄い布地だから、横顔がぼんやりと透けて見えた。金や銀で出来た簪や髪飾りが、紗越しにきらきらと光っている。光の粒子が将の顔の周りで踊っているようだった。耳や髪、額に飾られたおびただしい宝飾品が重たげに見えるのは、首が細いからだろうか。
黒川の身につけた甲冑が触れあう音に気づいたのか、将は振り向いた。わずかに身動きするだけで、環をつらねた耳輪が立てる儚い音が響いた。
将は被衣を上げて、ほほえんだが、すぐに目を伏せた。透き通るような赤色をしていた唇に、今日は鮮やかな紅が差されている。毒々しいまでに美しかった。
「――ご用でしょうか」
将は側に来てくれるように、仕草で示した。黒川はためらいながらも、今日、金王の後宮へ上がる将の前に立った。
将はゆっくり立ち上がった。黒川の胸ほどしかない、小柄な公主は少しの間、黒川を見上げていた。眩しげだったが、一抹の憂いのある目だった。やがて目を伏せ、揃えていた手を上げた。さらりと袖が下がり、手首が露わになる。磨かれた爪は淡い紅の染料で彩られており、首同様、腕環と指輪に飾られた手が重たそうに見えた。
黒川は自らの手を動かして、握ろうとしたが、思いとどまった。すでに、他の男が触れていい肌ではないのだった。
将は持ち上げた左手に右の指を添えた。
「これを差し上げたくて」
将は左中指から銀の指輪を抜いて、黒川に差し出した。
「それは……」
「黒川君が持ってて」
うち解けた口調で話す将の指先には、母の形見である指輪が光っていた。銀で唐草の透かし彫りがされているだけの素っ気ない品物だった。だが、年月が宿した柔らかい光が宿っている。
「銀は魔よけになるから、きっと守ってくれるよ」
黒川は指輪を受け取った。将の冷たい指先が、一瞬だけ黒川の掌に触れた。その感触ごと黒川は指輪を握りしめた。
お守り、と将は呟いた。声が震えていた。顔を逸らし、被衣を下ろした。仕草を見て、黒川は公主に対する礼を行うと、部屋から退出した。
ほどなく、触れ係の声が響き、公主の出立を告げた。
連れて逃げろと友からは、何度も言われていた。
金王の後宮には、すでに妃が何十人もいる。今更、属国の公主一人を召したところで何も変わらない、そればかりか、生きながらに朽ちていく可能性も高い。
手伝おうと申し出てくれた者もいた。国境まで逃れ、港から船に乗り、海を渡っていけばいいと助言もされた。手形も、馬も、金も用意しようと。
そうしたいとどれだけ願っただろうか。異国へ将を連れて行けるのなら、国も立場も何もかも振り捨てて、二人生きていけるのなら。
――だが、同時に金が千蘭の忠誠を疑い、何か事あれば、すぐさま兵を寄越そうとしていることも黒川は知っていた。
千蘭王護は賢王と呼ばれ、公子功と共に優れた治世を敷いている。金の悪政が続く中でその手腕は他国からも高い評価を受け、厚い信頼を寄せられている。自らの才覚に覚えがある者は、腐敗が進み、家柄と金品が何よりの幅を利かせる金の宮廷よりも、千蘭での活躍を夢見て集まってきた。
千蘭に人望が寄せられるのを、仮にも宗主国である金が面白く思わない訳がない。事あるごとに、千蘭に難題を課した。
ゴウ河の治水、たび重なる阿冦の侵略に対する防備、街道の再整備、鞍火山周辺の開墾、
そのたびに、護と功は成功を重ね、人心と信頼を厚くしていった。
金は苛立ち、次の要求を寄越した。
公主を王の妃として献上せよ。
――なぜ、今までそうしなかったのか、というくらいに当たり前の要求だった。
千蘭ただ一人の公主である将は、実は護の実子ではない。妹の子である。先王の公主薫と武勇を謳われた天将軍謙介との子であり、早くにこの二人が亡くなり――とくに謙介の死には暗殺が囁かれているが――護が養子として迎えたため、身分も扱いも公主として、千蘭王夫妻の実子同様の立場にあった。
千蘭王家の家族の仲睦まじさは諸国によく知られていた。だからこその金の要求だった。公主は、ていのよい人質に過ぎない。
兄の立場に当たる公子は反対した。正妃も反対した。が、千蘭王だけが迷った。ここで金の要求をはねつければ、これを口実として金は千蘭を潰そうと動くだろう。
戦うべきだと公子は言った。今こそ、兵を挙げ、新しい世に代えるべきだと。
しかし、何百年もの繁栄にあった金という大国にはいまだ、余力がある。退廃が蔓延るといえど、千蘭王の心を戦いではなく、堪え忍ぶ方へととどめる力が、金には残されていた。
あと四年、いや、三年でもいい。軍を整え、他国の協力を取り付け、金に立ち向かう兵力を用意するのに、それだけの月日は必要だった。だが、それだけの時を稼ぐために、我が子を生贄として捧げるのか。大望のためとはいえ、それこそ、人倫にもとる行為ではないのだろうか。
王として、父としての心に、護は裂かれた。公子もまた、父の心を知り、千蘭と金の国力の差を思った。正妃は知りながら、なお反対し、しかし悩んだ。三人の煩悶を将は悟り、ある日、父の前に跪き、言った。
「出立の日をお決め下さい。そして、金の使者にその日をお告げ下さい」
ああ、と呻いたのが、誰であったのかは知れない。が、公主が後宮に上がる日は、陽柳の月の佳日と決まった。その日から、将には家族以外の男の目通りが許されなくなった。
黒川は遠目に、女官にかしずかれながら、庭を歩む将を目にした。それが最後だった。
二人が初めて出会った桃の月はすでに終わっていたのだ。柳の葉の青さに、桃の花のにおやかな色を重ね、失われた思いに、限りない苦さを覚えた。
――千蘭には春慶という行事がある。春の訪れを慶び、祝う祭りであり、桃の花の盛りに行われる。野に、あるいは庭園に宴席を設け、酒や食事を楽しむ。いわゆる花見である。
千蘭の宮廷でも、もちろん毎年、行われていた。桃李の庭園を解放し、王や公子が主催となって、宴を催す。男は男で、女は女で、それぞれ席を違えての宴なのだが、まったくの交わりがない訳ではない。花贈といって、女たちが桃や梅の花弁を浮かべた酒を男たちの席に運び、男たちは女たちにその礼として、菓子や衣装、あるいは装飾品などを贈る。
これが老若男女問わず、宴に参加する者たちにとっての楽しみでもあった。庶民の花贈となれば、もっと野放図な楽しみにもなるのだが、さすがに宮廷ではそこまで乱れない。せいぜい、袖口に恋文を差し込んだり、目当ての宮女にこっそりと特別な贈り物を捧げたり、あとの逢瀬の約束を交わしたりと、雅やかなものである。
黒川もまた、公子功の宴席に招かれていた。公子は兵連所での黒川の兄弟子であった。兵連所とは武術や兵法を教える道場の名称であり、軍学に限らず、他の学問も教える。これは千蘭のあちこちに開かれ、老若問わず、やって来た者には広く門戸を開いていた。そうして、千蘭は人々を兵士を育てていた。
黒川が通っていた卯具兵練所は、千蘭の国都、卯藍の中でも、とくに武勇に秀でた者が集まるところで、また公子が自ら、弟子入りしたとしても高名な兵連所であった。
功は立場に奢らず、鍛錬を怠ることがなかったので、よく兵練所へやって来た。彼の兄弟子に当たり、卯具兵連所の副主である松下とよく剣を交え、黒川を始めとする弟弟子たちにも、よく稽古を付けてくれた。
卯具兵連所の子弟たちはみな仲が良く、結束も固かった。貴族武官、文官、平民と様々な身分の者が通っていたが、分け隔てなく、みな交わり、闊達な雰囲気であった。それこそ、千蘭という国を縮小したかのような、場所であったのだ。
当然、春慶の祝いには、卯具兵連所のみなが招かれた。すでに何度か招かれた者は、さすが公子の催す宴は、庶民たちの者とは格が違うと語り、ついで、花贈のときにやって来る宮女たちの美しさを話した。
黒川は聞くともなしに、兄弟子たちの会話を耳にしていたが、ふと松下が兵連所の長主に言った言葉に、気を引かれた。
「今年は、公主殿下も参加されるのかね」
「しねえだろうよ。功もだが、陛下ご自身が可愛がっているそうだから、俺らみたいな奴が集まる席には、出さないだろうな」
そういえば、功にはきょうだいがいるのだった。その認識を思い出したに過ぎない。千蘭では王、正妃、公子についで身分高い公主、まさか会えるとは思いもしなかった。
誰もがそう思っていたのだろう。それきり、公主の話題は上がることはなかった。
春を喜ぶ千蘭の人々を祝福するかのごとく、春慶の日は、雲一つ無い晴天だった。風はさわやかで甘い花の香りを国のあちこちに運んでいた。
みなが、楽しみにしていただけあり、公子の開いた春慶の宴はそこに並んだ料理といい、花園といい、楽士の腕といい、何もかもが、王宮の雅やかさと闊達さと豪奢に溢れていた。
粋人としても知られる功ゆえに、宴席は興を凝らされながらも、親しみに溢れたそれになり、招かれた人々は、それぞれにくつろいで、酒や料理、花を楽しんでいた。楽器を奏でるものもいれば、唄を口ずさむものもいる。もうしばらくすれば、花贈が始まるだろう。
それこそが、血気盛んな男達が揃うこの宴席での楽しみになる。
黒川も男だ。楽しみでないといえば、嘘になる。宮廷の女たちの華やかさには期待を抱いていた。その前に、酔いの火照りを覚まそうと黒川は席を離れた。宴は賑わっていたし、何人かが席を離れては女たちの宴をのぞきにも行っていたので、一人、二人抜けたところで誰も気づかない。
春の陽気は、靄のように庭のあちこちで香り立って、幻か、夢でも見ているのではないかというくらいに、華やかだった。
桃の花は満開で、薫りがこぼれ、いち早く、盛りを終えた花弁が、風に吹かれては、はらはらと宙に舞う。ことさらに花を愛でる趣味はもたない黒川でさえ、咲き誇る花々の美しさに、足を止めずにはいられなかった。
眼に染みる新緑と鮮やかな花の中、黒川はふと、何かが視界の端にちらついた気がして、葉の間を、眺め直した。
風の揺れで花がこぼれたのかと思いきや、それはどうやら人影らしかった。足を踏み出して、近づいていく。
ある植え込みを抜けた先にある桃の木の下に少女がいた。枝に向けて手を伸ばしている。白と薄緑の装束が、黒川の目を引いたのだった。
何をしているのかは、一目で分かった。桃の枝に、領布が引っかかっている。持ち主は懸命に手を伸ばし、背伸びし、時に地を蹴り、飛び上がりもしているが、小さな手は枝の近くにも届かない。
じっと上を見上げているその背中が途方に暮れたように小さくなっていた。
黒川は背後から手を伸ばした。若草のせいで、足音はしなかった。
するりとしなやかな感触が手に触れる。下の方で息を呑む音が聞こえ、揺れ動く気配がした。
手に取った布を渡すため、黒川は視線を下に向けた。磨き込んだ黒檀のような髪と瞳があった。目が大きくて、あどけない顔立ちが、春の光を集めたかのようにも見えて、一瞬、黒川は桃の精でも現れたのかと、我ながら馬鹿らしいことを考えついた。
が、人である証拠に、唇に笑みが浮かんだ。柔らかい声が、感謝と喜びを伝えてくる。
「ありがとうございます。風で飛ばされてしまって」
領布を受け取り、そっと体に巻きつける。風がゆるゆる吹いて、絹から薫き物の薫りが立ち上った。どこに勤める者なのだろうか。指先に宿る布の感触は、なめらかな絹だった。
宴のために、良い衣装を着るのはめずらしいことではない。縁結びにも繋がる行事だから、ことのほか、身なりに気を遣う者も多いのだ。
それにしても、黒川の目の前に立つ者は、祝いの席に向かうにしては飾り気がない。もっと華やかな衣装をまとわせ、装飾品で飾れば、このあどけなさすら艶めかしくもみえるのではと、姿勢良い立ち姿にふと思った。
見入ってしまっていた自分に気づいた黒川は、相手の瞳が何の恐れも怯えもなく、自分の視線を受け止めるのに、奇妙な気恥ずかしさを感じた。これほどまでに、あたたかい嬉しげな目で見つめられたことなどない。
だからなのだろうか。いや、酔いのせいだろう。そういうことにした。
黒川は手近な桃の枝を手折り、それをつややかな黒髪へと挿した。
相手の頬に花弁が落ちたように血が差した。
「あの……」
黒川は、自らの行為に羞恥を覚え、かすかに微笑すると、そのまま去った。歩く途中で、無性に照れてしまい、さざ波立つ己が胸の内を自嘲するように笑った。
――相手は侍女だろうか。ならば、また逢えるかもしれない。そのときは、どう名乗ろうか。春にふさわしいともいえる出会いに、いつしか、黒川の頬も紅潮していた。
若さ溢れる者ならではの喜びを抱えながらも、表面は何事もなく、黒川は宴席に戻っていた。誰にも見とがめられなかったため、黒川はあの侍女について、充分に思いにふけることが出来た。
おかしなことに離れてしまった今になって、面影が強く浮かんでくる。幼さを残した頬のふっくらした線や、優しい甘い顔立ち、何より、一心にこちらを見上げてくる凛としたあの黒い深い色の瞳――。
花贈の女たちがやって来る頃合いになったというのに、黒川がそれに気づいたのは、風の中に甘い香りが漂い、華やかな気配が伝わってきたときだった。
はっと男たちが、視線を交わしあい、さざめくような囁きが生まれる。
衣擦れの音、女たちの笑い声が、風に乗って運ばれ、やがて、ひときわ優雅な物腰の女性が侍女を引き連れて現れた。手に杏の花が咲き誇る枝を持ち、宴席を見やる視線には、じつにあたたかく優しいものがあった。
松下と歓談していた公子が、おやと立ち上がった。
「母上」
声が届いた者は、はっとそちらを見やり、貴婦人を見出すと、みな慌てて、拝礼をしようとした。
いいのですよ、と鷹揚に手を振り、正妃礼子はにこやかに笑んだ。
「笑い声があちらにも聞こえてきましたよ。楽しそうだこと」
ゆったりと席を眺め回す。背後の若い侍女たちがくすくすとこぼれるように笑う。さすが、正妃付きの侍女ともなれば、容姿や物腰も、普通の宮女とは違う。品のある色香が春の陽気とかさなって、ふわふわと匂うようであった。
男たちの視線を感じ取ったように、侍女たちは、将来を期待されている若武者たちに、艶麗に笑みかけた。背後での若い恋のやり取りを知っているのか知らないのか、礼子はただ穏やかにほほえんでいる。
「陛下が、とかく若い者は乱れがちだから、様子を見に行こうとおっしゃって。私が代わりに来たのですよ。あんな固い方がいらっしゃったら楽しい席もつまらなくなるでしょう」
「母上」
遠慮のない母の言葉に、公子はたしなめるように苦笑した。
千蘭王の家族仲がよいのは知られた話ではあるけれど、今ここに新しく証明され、宴席の男たちの顔もほころぶ。この王とその家族に仕える誉れへの思いは厚い。
功は背後の侍女たちに視線を送り、笑みを深くした。
「それで、こちらに花贈に来て下さったのですか」
「ええ」
花の枝を揺らし、礼子はうなずいた。それから、なぜだかくすりと悪戯っぽく笑った。
「可愛い花を持ってきたの」
きゃあっと侍女たちが笑いくずれる。花の匂いと重なって、若い女の甘酸っぱい体臭が、酒よりも男たちを酔わせる。
「まずは、宴の主人に杯を捧げねば」
礼子は振り返って、手を差し伸べた。宴席の主人に花と酒を捧げてのち、他の参加者に花を浮かべた酒が贈られる。侍女たちも手に花や酒壺を持っており、主人からの許しを待ち受けているようだった。
「さ、将。お兄様に杯を」
正妃の後ろ、侍女たちの固まりが、ふわふわと衣を揺らしながら動いた。隠されていた中心から、小さな人影があらわれた。
つややかな黒髪と黒目をよく引き立てる白絹を重ねた衣装をまとい、手には酒の入った壺を持っている。唇には春のような笑みが浮かんでいた。見かけた者なら、誰もがそれを自分に向けることを望まずにはいられまい。
その笑みを向けられた喜びよりも先に、驚いた功は母を咎めるように見た。
「母上、将は父上が」
「もう十三ですよ」
やんわりと功をたしなめ、礼子は将の肩に手を置いた。将は、兄を見て、少しはにかんだようにまた笑った。
「ごめんね、功兄」
「いや……困ったな」
「公主殿下であらせられますか」
松下も、感に堪えぬように呟いた。
「はい。花贈に参らせてもらいました」
将がまだはにかみの消えない、甘い笑みを浮かべて松下にうなずいた。
王と公子が手中の玉とこよなくいつくしみ、滅多なことでは人前に出さない公主が、まごうことなく今ここにいた。
ささやきが広がり、みなが公主へ目を向ける。あれが、と誰もが思った。そこに、憧憬が混じる。美しさに誘われたそれでない。が、心和ませる春を誰もが愛さずにはいられまい。
公主は満座の視線を集めたことを感じてるのか、頬がうっすら赤い。いっそ地味だといってよい、白一色の姿だが、何色に染まらない清楚さがあった。
功が目を細める。正妃は、王もまた、そのような目で、将を見るだろうと思い、またほほえんだ。
公主は装飾品を身につけておらず、ただ持って生まれた匂うような気品だけをまとっていたが、一つだけ、まさしく春に相応しい可憐な簪を髪に挿していた。
虚をつかれたように、黒川は公主を眺めていた。
桃の花簪――公主の髪を彩っていたのは、春の陽気に誘われ、黒川が手ずから折った桃の枝だった。色づいた花弁が黒髪に揺れている。唇も、花弁をそのまま置いたかのように、淡い桃色であった。
頬も今は同じ色だ。ほんのり染まった指先で、そっと兄の盃へと壺を傾ける。母が持つ杏の枝から、そっと花弁をつまみ、盃へと落とした。
功がとろけるような笑みを浮かべ、その酒杯を干した。
「うまいな」
いとしい肉親へ向ける、ひたすらに甘く、優しい笑みと言葉だった。
そうして、上座の男たちの盃を満たすと、将は母親に連れられて、行ってしまった。侍女たちは残って、席に一段と鮮やかな華を添えている。礼子もそれを咎めようとはしなかった。花贈とはそういうものなのだから。
にぎやかな宴席に後ろ髪引かれたとでもいうように、つと、公主は振り返った。黒川は公主の背中を見つめていたから、その視線をすぐに受け止められた。
将の少し不安げな瞳が、ぱっと輝いた。恥じらいも含んだ、ひたむきなまでのまなざしだった。それらは、宴席のみなに贈ったものでなく、ただ一人に向けられた視線だった。
ふたたび胸に湧いた波に、黒川は手にした盃の表面を見つめた。いつか、この波は自分を呑み込んでしまうだろう。甘く、切なく、予感した。
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