鬼と化し



 修験者、渋沢語る。

 ――この世にはないような時だった。あってはならない時だった。
 帝の寵愛深い女御が、物の怪に悩まされ、多くの僧都、修験者たちが宮中に招かれては調伏に失敗しているとの話は聞いていたが、まさか、その加持祈祷のために、俺が呼び寄せられるとは思ってもみないことだった。
 子を思う左大臣の心も、女御を思う帝の心も、分かりはするが、宮中という雅やかでありながら血腥い場所に身を置くのがためらわれ、申し出を俺は断り続けた。
 世には、俺より優れた修験者、高僧が幾らでもおわす。その方たちが、女御を必ず、救ってくれると何度も何度も伝えたが、どうしても聞き入れてくれず、ついに、帝の命まで下ってしまった。
 ここまでくれば断ることも出来ない。身一つで内裏へと向かった。
 足を踏み入れた宮中は人々の無数の思いと俗念、煩悩で、作られた御殿だった。心の奥に隠された呪詛、嫉妬、怨嗟、欺瞞、ありとあらゆる負の哀しい思いが満ち溢れた場所だった。物の怪たちすら引き込むような、人の思いの渦だ。
 行き来する人々の顔に陰りがあるのは、女御に取り憑いたという物の怪に怯えているからだろう。その通り、女御のおわす御殿は、とくに重苦しい空気だった。厚く垂れ込めた恐怖、その中にある物の怪の気配。幾多の僧、修験者が加持祈祷をして、払おうとしたというが、いずれも、失敗したという。
 どれほどの強い物の怪かと思ったが、いざ払ってみれば、その手応えは、力があるというよりも、ずるがしこい狐狸の類だった。これが、女御の体をすみかとして、あちこちで人々を脅かし、たぶらかしていたのだ。
 女官や女房たち、父の左大臣、兄の近衛中将からの話も耳に入るので、風祭の女御が、後宮でも一番若く、もっとも帝に愛されている女御なのだとは知っていた。
 あどけなくて、可愛らしい方、お優しい方、と皆は口を揃えて言うが、その通りの人だろうと思った。御帳台の中から感じられる気配が、宮中の誰よりも澄んでいたからだ。いや、寂しげでさえあった。今をときめく者でも人である限り、心に何か秘めて悩むことはあるのだ。
 心に憂いや不安を秘めた人間を物の怪は好む。ふたたび、寄りましとされてもおかしくはなく、左大臣のいま少しの祈祷を、という願いを俺は受けた。あのような、儚い清らかな心を持つ女御が、またも物の怪に苦しめられるのが哀れでもあった。
 毎日のように、側に伺候するのが当たり前となったが、風祭の女御は、つねに御帳台の中に臥していた。
 漏れ聞こえる小さな声は、子どものように幼いものだったが、しっとりした優しさに満ちている。時折、漂ってくる香の匂いが、御帳台の中の人が、帝の寵妃である高貴な方だと伝えてきた。それ以外に、俺がその人について分かるようなことは何もない。姿形も知らぬ。それは当たり前のことであるのだから、不思議にも思わない。一刻も早く、女御がすこやかになり、俺もふたたび、山に戻れる日が来るのを待ち望んでいた。
 が、長い間、取り憑かれ、すみかとされていたので、女御の体はなかなか健やかでなく、夏に向かう季節でもあったため、すぐには回復されなかった。そのため俺の逗留は延びた。
 蝉の鳴き声は日に日に太くなり、夏が都を押し包んでいった。人を狂わせるような暑さが毎日続き、その日はとくに、ひどかった。風は吹かず、日は遮るものなしに、ぎらぎらと都を照らす。暑さで苦しむ者も多いだろう。乾いた風の中に、病の湿った嫌な匂いがかぎ分けられる。病が流行らなければいいのだが、と俺は思い、日一度の祈祷のために、女御の住まう御殿へと向かった。
 背中を流れていく汗が衣に滲み、見苦しい有様を見せるほどに蒸し暑い。地表を靄がゆらめき、庭の草木もぐったりと頭を垂れていた。
 誰も彼も熱さに当てられたのか、いつになく御所は気怠げな静かさがあり、蝉の鳴き声だけが眠気を誘うように辺りに響いていた。
 女房たちもいさかか、だれた様子で、女御の側にも、それほど人気はなかった。いつもぴったりと寄り添っている乳母子だという女房も、どこに行ったものか、姿が見えない。
 温んだ空気の中、俺はかすかに雨の匂いを嗅いだ。しばらくすれば、雷を伴った激しい雨が降るだろう。この暑さも多少、和らぐかもしれない。女御も少しは気分が清しくなるだろう。
 風が吹き込み、淀んだ空気が動き始める。几帳の垂れ絹がかすかに揺れるが、強くはない風だ。何か起きるとも思えない。取り立て気に留める必要もなかった。
 背後でさらさらと衣擦れの音が響き、嗅ぎ慣れた匂いがした。みゆきと風祭の女御が呼ぶ、一番のお気に入りで、いつも側に控えている女房だ。彼女には、ささやかなものであるが俺に対する険を感じる。女御を、よほど大切に思っているのだろう。
 確かに、女御の生まれも立場も、俺のような卑しい修験者が側に控えるには、高貴すぎる。いつも雲に包まれた美しい山頂のように、それを見るには、同じ頂か、それ以上の高みを誇るものにならなければ、見ることは出来ないのだ。
 みゆきの女房は俺の側を通り過ぎていく。慎ましやかな香の匂いは、どことなく風祭の女御のそれにも似ている。
 俺は目を合わせないよう、顔を伏せかけ、息を飲んだ。
 風が――今までのぬるんだものと違う、湿った冷たい風が吹き込んで、垂れ絹を大きく揺らした。ひるがえった垂れ絹の隙間から、白く淡い光が溢れてくる。確かに、そう感じた。
 あれほど長い一瞬を俺は知らない。
 風にそよぎ、あるいは肌にかかる、ほんの少し乱れた黒髪、それを引き立てるような白い肌、なめらかそうなその肌は、触れたら溶けそうな羅にだけ包まれていた。
 ほっそりした首、淡い陰をたたえた鎖骨、桜の花弁を置いたような胸の突端、しなやかな線を描いて下肢へと続く腰の曲線、何もかも露わだというのに、一枚の薄衣で秘め隠そうとしているゆえの妖しさがあった。
 触れたいと思った俺の心を、咎めるように、いや、許すように、吸い込まれてしまうような黒い瞳が、こちらに向けられていた。睫毛が縁取った瞳はかすかに震えていて、怯えているようにも思えた。まばたきしたのを、俺は見たのだろうか。動くのが信じられないような、綺麗な瞳だった。
 すぐに、垂れ絹は元の位置に下がった。風祭の女御の姿は、ふたたび見えなくなり、俺は祈祷を続けた。何事もなかったように、女御の姿が見えたとき、俺は目を閉じていて何も見なかったのだと自分に言い聞かせるようにして、俺は女御の回復を祈願した。
 やがて、降り始めた雨の中、住まいとして与えられた御殿の一角に、逃げるようにして戻った。
 頭の芯が、鉛を流し込まれたように、熱い。がんがんと耳の側で血が脈打っている。全身が燃えるようだった。一時も冷えることなどない。
 目に浮かぶのは、かいま見えた風祭の女御の姿。心を支配するのはその人へ対する浅ましいまでの欲望。
 触れたい、抱きたい、あの体を余すことなく、俺のものにしたい。腕へ抱き、舌を這わせ、指先を絡め、すべてを自分のものにしたい。そんな欲望が俺を支配していた。
 物の怪に取り憑かれたのだろうか。暑さに紛れてあやかしが、俺を惑わせようとしているのか。
 違う。俺は魅入られたのだ。――帝が寵愛する理由が分かった。左大臣が、近衛中将が、顔色を変えて、お救いしたいと騒いだ理由も、女房たちが慕い、守ろうとする理由も分かった。
 あれは誰なのだ。この世にあっていいような人なのだろうか。物の怪すら魅入られて、取り憑かずにはいられなかったのではないのか。
 振り払うことも、思い切ることも出来ない。一瞬たりとも忘れることが出来ず、かいま見えた幻のような姿を牛のように反芻するばかりだ。
 俺の日々は、女御の御前へ伺候し、ほんのわずかな気配を感じることだけに、費やされることになった。ひどい乾きの中、海水を飲み続けているような苦しさだ。しかし、一度、口に含んでしまえば、止めることは出来ない。
 気配、ささやかな声、衣擦れの音、甘い匂い、姿を思わせるすべてのものに、俺は恋い焦がれ、欲望を抱き、自分が集めたそれらの記憶を、女御の御前を下がった後も、思い出し続けた。かけらでも、集めていけば、いつか、風祭の女御の形になるのではないかと、思いつつ。
 夜ごとの夢、昼ひなかの幻、その中で、俺は風祭に逢い、その瞳をのぞき込み、陶然たる心地で、体を抱いている。帝たる男しか触れられない、見られない相手を思っているのだ。何という罪だろう。
 俺の身分、そして修験者という立場から見れば、二重、三重の禁忌を犯している。それでも思い切れない。ひたすらに、願望を強くするばかりだ。狂ってしまえればどれほどに楽か。
 俺の心に生まれた邪な黒い魔が囁いている。
 何をしているのだ、とそれは言う。お前は女御の側にいるのだ、帝と同じほどの距離にいる。帝とお前の違いは何なのだ。御帳台の内に入るか、入らないか、それだけではないか。一体、この機会を逃す愚か者がどこにいるのだ。
 ともすれば、その声にうなずく自分がいる。そうしようと決めて、側に上がった日もある。しかし、女房みゆきの存在がそれをとどめた。彼女の険のある視線、女御に対するうやうやしい態度、それらが俺を弾劾するのだ。不届きな、天を恐れぬ輩めと。
 身が引き裂かれ、心が惑い、何が邪で、何が聖なのか、その境界が見定められなくなる。別れだけを恐れる日々、ついにその時がやってきた。
 御前へと上がった日、あの女房がいなかった。俺が女御の姿を見てしまったときも彼女はいなかった。では、今日も何かがあるというのだろうか。そんな偶然を期待するほど、俺の身のうちは風祭への煩悩に悩まされていた。
 女房たちは、思い思いにくつろいでいたが、その数も少なかった。祈祷の際に焚く煙を嫌ってか、このときばかりは、座を辞す者もいるのだ。
 庭木について鳴く、蝉の声は細くなっていた。朝夕、わずかな間ではあるが、冷たい風が吹くのが、忍び寄る秋の気配を知らせていた。
 秋になる頃には宮中を去る。風祭には二度と会えまい。俺はまた、山へ籠もり、訪ねてくる者あれば、彼らの懊悩を払う。ここへ来る前と何一つ変わらない生活が戻ってくる。望めば、風祭の面影をはらえるだろうか。すべて忘れ、ふたたび、道を求め、修練に励むことが出来るだろうか。
 嫌だと思うよりも、無理だと考えるよりも前に、立ち上がっていた。足が勝手に動く。いや、俺はためらわずに歩んでいるだけだ。女御が臥す御帳台へと。
 女房の一人が目を向け、内の一人が、俺にどうしたのだと訊ねてきた。答えずに、俺は帳台に近づき、垂れ絹をめくり、中へ入った。あれえ、と女房の声がかすかに響いたが、俺の耳には、意味をなさなかった。
 帳台の中で、風祭の女御は顔を伏せ、くつろいだ袿姿で、横になっていた。
 衣に焚きしめた香の匂いが、俺の体を包む。
「みゆき?」
「違う」
 俺の声に風祭の女御が顔を上げ、見る間に頬を染めた。
 初めて目にした恋慕う相手の顔立ちは、寵愛を恣にしているという噂とはかけ離れ、どこか童子めく、幼い可愛らしい顔立ちだった。けれど、その優しさが艶となって、顔の輪郭のあちこちを飾る。帝の寵愛の理由を俺は知った気がした。
 大きな瞳が、こぼれんばかりに震え、何度も瞬く。そのまま後じさろうとする。裾を踏みつけ、腕を捉え、組み伏せた。
「あ、あ……」
 かすかな悲鳴が上がる。腕の中に、女御の香りと体を捉えたという喜びが湧き上がり、俺はただ、心のままに振る舞った。
「渋沢さま、いやです。お止め下さい」
 抵抗でさえ、俺は楽しんでいた。この女御に俺に抗う力はないのだから。
 逃れようと左右に振る首に髪が絡みつく。なめらかな肌は、少し汗ばんでいて、いっそう、香の匂いと混じり合った体臭が香り立つ。
 首筋に顔を埋めると、風祭の女御は、体を強張らせた。胸元を開き、ひんやりとした肌をまさぐる。柔らかな乳首を口に含むと、舌の上で固くしこる。細かく震える肌が、見る間に熱を帯びた。
 風祭の女御は口から小さく声を漏らし、顔を背けた。俺の妄執を浅ましいと思っている。うとましいと、遠ざけたいと、思っているのだ。帝しか触れることのない肌に、卑しい修験者が触れ、思うままにされている悔しさからか、涙が零れていった。
「許してください」
 顔を背けながら言う。俺は応えず、ただその体を探る。想像と同じ、時として想像以上の喜びがその体には秘められていた。
 風祭の女御の涙はとまらない。震える体から、嘆きがこぼれ落ちる。
「どうして……女房たちはみな渋沢さまに恋いこがれているのに、なぜ僕を……」
 恨めしげな呟きに、背筋がぞくりと粟立った。
 なぜ、と聞く。つれない男の仕打ちを怨むように。己を卑下するように、なぜ自分を、と訊ねる。
 言葉に秘められている心を、俺は受け取ってもいいのだろうか。これは、俺の欲望が見せる幻ではないのだろうか。
 それでも言わずにはいられない。幻を俺のものにするために。この思いを果たすために。
「俺が想うのは風祭だけだ」
「嘘です」
「本当だ。一度、姿を見たときから、いや、違う。気配を見知ったときから、ずっと、想っていた」
 いやいやと風祭は力無く、首を振る。
「風祭。俺を見てくれ」
 黒い髪が俺の顔をくすぐる。小さな顎をとらえ、顔を上げさせた。
 濡れて震えるこの瞳を前に、一体、誰が嘘いつわりを口に出来るのだろう。
「信じてくれ。これが嘘だというなら、今ここで首を落とされても構わない」
 すべて真実だ。風祭を思う気持ちが、嘘だというのなら、まやかしだとされるのなら、俺は、ここで死のう。
 風祭が、かすかなうめき声を上げた。恐れの中に喜びを、哀しみを見出し、更に深い絶望を感じたように風祭は目を閉じた。開かれた小さな唇を吸った。
 ああ、とどちらのものか分からない、ため息が漏れる。
「渋沢さま」
 風祭の体から力が抜け、俺に寄り添うように崩れた。喜びと、それを上回るほどに激しい情欲が、俺の手を急がせた。
 口を吸い、怯えて竦む舌を俺のそれに絡ませる。震える体と手を重ねる。視線を合わせるだけで、風祭の瞳が濡れる。紐を解き、手を差し込めば、風祭がはっとしたように、身を引こうとした。
 思うままにならない苛立ちと、拒まれた怒りに俺の手は乱暴に風祭を引き戻し、またも組み伏せる。逃げられないように、己の身でしっかりと押さえ込む。
 薄暗がりの中で、その体を露わにする。荒々しい俺の手つきに、風祭は逃げようとした理由を口にした。
「こんな体……見ないで下さい」
 誘う響きはなく、媚びの色も見えず、焦らす手管でもない。風祭は、本当に恥ずかしがっているのだった。帝がこのうえなく鍾愛していることすら忘れたかのように、身をよじって、あちこちを隠そうとする。
「お願いします」
 どうか、と哀願を続けようとした唇を塞ぎ、俺はその体を露わにした。華やかな色彩に一つの光りを置いたように裸身はきらめき、あるいは、霞むように淡く光る。帝も、またこの姿を目にし、情慾と愛おしさに身を沸き立たせたのだろうか。
 風祭は震えている。間違いようもない恐怖に身を竦ませ、それでいて快楽への期待を含む、甘い肉の薫りが俺を駆り立てた。
 すでに内腿を濡らすほどに蜜が溢れている。指を絡めると、ひくんと風祭の体が大きく震えた。
「渋沢さま」
 羞恥と快楽に、風祭の声が染まる。
 いとおしい、と思った。俺には、もう、それだけしか残されていない。かき抱き、脚を割り、腰を進める。幼いとしかいえない未熟そうな体が、途端に溶けた。
 風祭がのけぞり、吐息と声を漏らす。嬉しい、と風祭の唇が刻んだ。俺の名を呼び、首に腕を回し、涙を湛えた目でほほえんだ。俺が動くたびに、風祭が溶ける。甘い声が、俺を呼び、しなやかな腕が俺を抱き、しあわせだと、うれしいと呟く。
 幻なのか、夢なのか。俺を見上げる瞳、身も心も吸い尽くされる。俺には何も残されない。風祭の中で解き放たれ、その心と体の在処を探るだけだった。
 ――そうして、辿り着いたのは、冷たく堅い地面と饐えた臭いが立ちこめる牢獄だった。帝の憤怒が地中から伝わってくる。日の本を統べる、ただ一人の聖なる方の妃を汚した罪が、そのまま雷のように俺の体を撃った。左大臣の憎しみ、兄中将の怒りも俺を砕こうとする。
 いっそ、そうして欲しい。可能ならば自ら行うことも出来ながら、俺はそうしない。
 自死も選ばず、光もない闇のただ中、地面に横たわり、風祭だけを想っている。この身に巣くった空恐ろしいほどの執着を感じながら風祭だけを思っている。
 どれだけ殴られ、蹴られ、罵られ、打ち据えられても、骨を砕かれ、肉を裂かれようとも想いが絶てない。振り切ることも忘れることも出来ない。
 汗と垢と黴の臭いが漂う獄に、閉じこめられ、何日過ぎたのか。腐りかけた飯を喰らい、淀んだ生ぬるい水を飲み、ただ、風祭だけを想い続けた。
 今頃、帝の側に臥し、その腕に抱かれているだろうか。俺に見せたのと同じ涙を見せ、俺に告げた言葉を口にし、帝の体に腕を回し、あえいでいるのだろうか。
 思考が麻痺していく。すべての感情が一つの方向へ向かって、突き進んでいくのが分かる。怒り、憎しみ、嫉妬が混じり合い、おどろおどろしい呪詛と変わって、口をつく。
「今、ここで死に、鬼と化しても、本意を遂げてみせる。必ず、必ず、鬼となって、風祭を手に入れてみせる」
 己を浅ましいと、情けないと、思う心すら、棄てた。そうせねばならなかった。
 呪いながら、憎しみながら、俺は言葉を紡ぐ。
「悪鬼と化し、とがめ立てする者、邪魔立てする者には仇なし、必ず、とり殺してくれる」
 地面をかきむしる。石の壁に爪を立てる。指の肉が裂け、爪が割れ、血が滲む。憎しみが体から溢れ、血の中に染み込んでいく。
 俺の呪詛を聞きつけた獄卒が恐れをなして上へと届けた。左大臣が近衛中将と共に、帝に此を告げ、祟りを恐れた人々に俺は放逐された。
 都の道を足を引きずり行けば、ばらばらと石礫が投げられる。礫が当たった瞼が腫れ上がり、血を流した。血など幾ら流しても構わない。もう誰も俺を修験者として扱わない。俺もまた、人々の間を行き、物の怪を払うことはしない。
 どこへとも知れぬ場所までただ歩いた。
 ――俺の望みは一つだけだ。
 風祭、お前を手に入れたい。一度限りの夢に終わらせず、命あるかぎり、お前と睦み合いたい。
 あの一時が幻でないのなら、俺にすがって、嬉しい、と呟いてくれた心が、かけらでも残っているのなら俺は鬼になれる。人の血を啜り、肉を貪り、骨の髄までしゃぶる、悪鬼となろう。
 潰れた目から血が溢れた。鬼に相応しい涙だ。魔を呼び寄せ、この身を喰らわせよう。魂を擲ち、欲望だけを身にすまわせよう。
 水も飲まず、木の実も口にせず、俺は風祭だけを思い続ける。暑さに身を灼かれ、生きながらに腐り、死を閉じこめ、人でないものに変わる。
 俺は呟く。憎い、と。
 俺は囁く。いとしい、と。
 喉が裂け、声が潰れても、呟き、囁く。憎い、いとしい。憎い、いとしい。にくい、愛しい。引き裂くすべてがにくく、風祭だけがいとしい。
 執着が身を溶かし、魂を腐らせる。腐臭が俺をよみがえらせ、邪気が俺の体を動かした。
 溶けそうな眼球からは世界が歪んで見える。
 俺に見えるのは黒くねじ曲がった世界だ。遠くの山が近くに見え、眼下の村は、手に掴めそうなほどに小さい。
 一歩、踏み出した。願えば足下に雷を伴った黒雲が湧く。
 風を切り、唯一の光の元へ俺は向かう。祈祷のために通った御殿は、何一つ変わらず、俺が舞い降りると、すさまじい悲鳴が上がった。
 どす黒い肌、炯々と光るまなこ、牙が生え、ぼろをまとう腐りかけた俺の姿を見て、女房たちは衣をかぶり逃げまどい、あるいは倒れ臥す。几帳が蹴倒され、かわらけが割れ、鏡台は倒され、部屋は荒れた静けさに包まれた。よほどの者でなければ入れない場所なので、駆けつけてくる者はまだいない。
 腰でも抜けたのか逃げられない女房数人の横を通り過ぎる。
 風祭は円座に座して、俺がやって来る方向を見ていた。姿を現しても、恐れる気色もない。檜扇もかざさず、袖で顔も隠さず、首をかしげるようにして、鬼と化した俺を見ていた。横には、みゆきと呼ばれる女房が風祭に取りすがって、震えている。
 ほんの一時、風祭の目は閉じられ、開いたときには不可思議な光とともに笑んでいた。
「おあいしたかった……」
 手を差し伸べる風祭を俺は抱き上げる。風祭は俺の首を抱いて、体をしっかり寄せてきた。その様子を見て、ひっ、と一声漏らした女房は、それでも風祭の衣の裾をつかんだ。
「いけません」
 がちがちと歯の根も合わないほど震えながら、それだけ呟いた女房は、ふと下を見た風祭の目を見て、固まった。それは俺に見せた怯えよりも激しい恐れだ。人が見てはならない闇の深淵を覗き込んだ者なら、その恐れの意味が分かるだろう。
 彼女の手から力が抜け、そのまま、くたりと床に崩れた。
「ありがとう」
 風祭は誰にともなく、笑って、言った。
 帳台の中へ入り、風祭を横たえる。目を合わせれば、嬉しい、と風祭は笑い、俺の首へ腕を回した。
 これを恐怖というのなら、そうなのだろう。逃れられない恐怖は快楽に変えるしかない。魔すら魅入らせてしまう、風祭のこの瞳。数多の思いを吸い込み、飲み尽くしてしまうような深い黒色に俺は鬼である我が身を沈めた。
 救いか、さらなる破滅か。俺を導くのは、すでに風祭だけだった。


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