鬼と化し



今上帝、水野語る

 この世に手に入らぬものなど何もないと思っていた。奢りではなく、それが事実だからだ。天子と呼ばれる一天万乗の男は、それが当然なのだ。
 風祭が入内したときもまた、俺はそうだと思っていた。身も心も、俺のものであり、それは俺や風祭が死ぬときまで変わらないものだと。
 俺の元へ献上される大勢の姫。一族の期待を背負い、帝の子を孕むための華やかな人形だ。だが、その内の一人と思うには、風祭はあまりにあどけなかった。入内してきた日から、それが俺の目には眩しかった。
 当たり前とされていることに驚き、戸惑い、恥ずかしがり、笑う。風祭の驚く様子に、俺はおかしがり、戸惑いに保護欲を覚え、羞恥に嗜虐を感じ、笑みに心を奪われた。
 東宮時代から一体、何人の女御、更衣、女官たちを侍らせてきただろう。俺の興味を引き、次代の帝を作るために、与えられた者たちを、俺は受け取ってきた。美貌を、家柄を、才を、富を、自分たちが持つものを誇り、俺を喜んで受け入れる相手を、俺は、自分自身へのそれも含んだいくらかの蔑みと共に、自由にしてきた。
 期待もない、体の欲求に従うだけの味気ない交わり。歌のやり取り。閨のわざ、語らい。確かに女たちの心も体も開いていた。
 俺が女たちを愛しいとさえ思えば、潤った快い行為へと変わるものを、だが俺は拒んでいた。拒んでいたのだった。
 その恋情にめしいた目を、風祭が開かせてくれた。風祭だけが俺に今までの憂いや不安、苛立ちといった、心にかかるすべてを忘れさせ、新しい心を呼び起こしてくれた。
 何でもないことが、風祭が隣にいるだけで違う。世は輝きに満ち、常に新しく、美しくなった。これが、幸福か。これが、恋なのか。知りそめた初めての思いに俺は酔った。
 風祭を愛おしむことに、誰はばかることもない。父は左大臣、兄は近衛の中将、都でもっとも栄えている権門だ。そんな後ろ盾を持つ風祭を、俺は溺愛していれば良かった。閨になれない体を愛撫し、夜中、腕から離さず、一日、一日、開いていく風祭の様子を見守り、愛し続ければ良かった。
 俺自身、三日と離れていれば、風祭が恋しくて仕方ない。ただ、隣にあるだけでもいいのだ。髪に触れ、目を覗き、その声を聞きたい。
 他の女御や更衣たちの存在がなければ、風祭だけを侍らせていたかった。彼女たちの背後にある貴族たちの思惑がなければ、俺はそうしていただろう。――いや、他の者の心など、気にも留めず、俺の思うままに、風祭だけを愛していれば、俺は愚かな天子と呼ばれながらも、風祭の心を得られたのかもしれない。
 他の女の元に渡るのは勤め、風祭の元へ渡るのは恋。しかし、それは俺の心の内だけの区別だった。他の者に、そのようなことを漏らす訳にはいかない。けれど、世は風祭をこう呼んだ。――帝の寵愛深い女御、と。俺が愛するのは風祭だけだったというのに。
 俺を迎える風祭は、いつもほほえんでいた。うやうやしくはあるが親しみも交じり、慎みと羞じらいを忘れず、かといって距離を置くほどでもない態度。裾に、肩に、こぼれ、あるいは俺の体に絡んでくる闇のような髪と、昂ぶる俺を優しく包むかのような瞳。幾重もの絹織物に隠されたしなやかな体。風祭のすべてが、苦しくなるほどに、俺の胸を騒がせる。
 のぞめば、欲しいものは何でも与えようというのに、風祭の願いはたまさかの里下がり程度だった。滅多に口にしない願いだったが、俺はなかなかそれを許さなかった。他のことなら何でもかなえようというのに、それだけは渋った。
 離れている間の恐ろしさに耐え切れそうにない。入内前から風祭の元には、降るように文が届けられ、今だに思いをかけているものもいるとか。風祭自身は、そのことをまったく知らず、俺が何気なく口にしても意味を理解していない。
 恋の意味すら知らず、風祭は俺の元へ届けられたのだ。無垢のまま、無邪気なまま、世の思惑も、己自身の思いも知らず。ただ、帝という人でない、人に生まれた存在に仕えるために。
 俺は許すべきだったのか。里へ下がらせ、父母と気の置けないひとときを与え、再び、俺の手元へ戻ってくる日を待つべきだったのか。
 だが、その間に待つ恐怖、嫉妬を俺は堪えきれないだろう。一度、手に捉えたものは、一瞬たりとも手放せない。
 その俺の執着が、誰にも渡すまいという浅薄な考えが、俺の手から風祭を失わせた。
 すべて、手に入るとは、何という思い上がりだっただろう。しかし、帝とは、この幻影を最も強く信じなければならない男だ。帝がすべてを持つからこそ、臣下たちは仕え、俺から与えられるものを尊び、俺に与えようとする。
 幻の上に真が成り立ち、それは誰も疑わない。気づいても口にすることはない。それこそが世の理だ。
 俺もまた、思っていた。すべて手に入ると。そして、手に入ったと。
 風祭以外、俺の望むものは現れまい。そして、手に入ったというのなら、これから先も有り続けるのだろうと。ただ愚かに、俺は思っていたのだ。
 ――いつから、それが囁かれるようになったのか。
 風祭の女御に物の怪が憑いた。
 側に仕える者たちが恐ろしさの余り、口をつぐむほどに暗く、冷たいあやかしが、その身に巣くい、口はばかられるような出来事ばかりが、風祭のいる殿で起きているという。
 はたして、女房たちを呼び寄せ、大臣が話を聞き、また直接、女御に目にかかれば、もはや噂とではない事実なのだった。
 つねに遠くを見据える焦点の定まらぬぼんやりした目、冷たい肌え、口をつく奇妙な言葉、もの狂いの歌。時に、凍りつくような目を浮かべ、のろわしい言葉を吐く。恨み辛み、憐れみの言葉。耳を塞ぐような響きを持つ哄笑。
 すべてが今までの風祭と違う。あの、おっとりした心優しい、しかし凛とした風祭とは、あまりにも違いすぎる。
 俺は命じた。風祭の身から物の怪を払うことが出来れば、褒美は思いのままとして、陰陽師や修験者、僧たちに、夜となく、昼となく、祈祷をさせた。
 あの物の怪を払い、滅せられれば、俺の平安は戻るだろう。ふたたび、風祭とむつみ合えるだろう。今度こそ、側から手放すまい。それが世を傾けるというのなら、俺は位を譲ろう。院となり、風祭だけを側に置き、この浮き世に二人、生きよう。
 ひそかな決意もむなしく、風祭の身に巣くった物の怪は、宮中を跋扈した。都の闇は濃くなり、風は生臭く、柱の間を行きすぎ、人々の肌を冷やした。
 日々思う。誰でもかまわない。風祭の身に巣くった物の怪を払ってくれ。望むものは何でも与えよう。報償は思いのままに、いや、風祭を救ってくれるというのなら、帝の位すら俺には惜しくはないというのに。
 願いをあざ笑うかのように、誰も風祭の体に身を潜めた物の怪を払うことは出来なかった。どれだけの僧侶、山伏、祈祷師、陰陽師、巫女が、様々なわざをもって、物の怪に対しただろう。
 彼らは、首を振り、うなだれ、風祭の前を去るだけだった。ときには、気を失い、顔を青ざめさせ、みなが言った。
「念の強い物の怪でございます。あれほどに、邪気の凝り固まった物の怪は見たことがございませぬ」
 憎む心を抑え、ののしりたい言葉を封じ、俺は探し続けた。風祭を、俺を救ってくれる、何者かを、この日の本の国中に求めた。
 そうして、現れたのが、あの男だった。山中に身を置き、降りてきては人々を助けてきた世に名を知られた尊い聖だ。再三、請われても、宮中に上がる身でないと断るその男を俺は帝の命をもって呼び寄せた。
 まさか彼が、俺と風祭の平穏を護るべき存在が、すべてを変えることになると、誰が思うだろうか。
 誰も思うまい。私欲を捨て、神に仕え、身を清らかに保ち、その身を人々を護るために捧げたという聖が、女御に恋着を抱くとは。そうして、女御を辱め、その執着の果てに、鬼と化すなどとは。
 女房たちは、回りに知られることを恐れ、口をつぐんでいた。帝の怒りを恐れ、左大臣の激怒を思い、黙することを選んだのだ。己の身を護ることしか考えぬ、その愚かさが、あり得ない、あってはならない事をなさしめた。
 女房たちは、女たちを呼び寄せた俺に平伏し、口々に自らの無実を訴え、将さまは鬼に心操られておいでになりますと言いつのった。どれだけ腹立たしくとも、俺の知らぬ風祭を知るのは、側に使えていた女房たちだけだ。眉をひそめながらも、俺は話を続けさせた。
 ――やって来た鬼を、風祭は自ら迎え入れたという。それからというもの、鬼は風祭のもとを、昼夜何時でも訪れ、そのたび二人は帳台にこもり、睦み合っている。鬼が傍らに臥す間、風祭のすすり泣きは途絶えることなく、切々とした言葉とただ事ならぬ気配だけが漏れ聞こえる。だが、鬼が去れば、風祭は普段と変わりない様子で過ごしている。
 そう聞いて、俺は、かすかなのぞみを持った。
 もしかして、という幻想を持つ。それが希望であると、望みであると信じ、都中の僧、修験者、山伏、陰陽師、巫女、ありとあらゆる者に命じた。
 鬼をはらえ。女御の側に物の怪を近づけさせるな。昼となく、夜となく、護摩の煙がたかれ、高僧たちの誦経が内裏中に響いた。
 これは、鬼との戦いだ。俺が得るか、悪鬼が得るか。
 渡さない。誰にも渡してなるものか。風祭は俺のものだ。俺だけのものなのだ。
 この一時の執着が、はばからせたのか。かの鬼の訪れは途絶えた。
「風祭の女御様におかれましては――」
 風祭の元へと渡らせた使者の女房が、風祭の様子を伝える。気が塞ぐ様子は見せるものの、鬼の訪れが絶えると共に、徐々に落ち着きを取り戻しているという。
 そう聞けばこれ以上、待つこともできず、俺は風祭の元へ渡ることを告げた。左大臣が喜び、その手はずを整えた。
 昼中の行幸だった。人々は誰しも安堵し、少なからず、興じるような表情を浮かべていた。徹底的な口止めを行ってはいても、風祭の身に起きたことがすべて隠してしまえる訳ではない。鬼が心奪われるほどの女御として、風祭の名は世に知れた。こうなる前に、中宮立后を行うべきだったと悔やみながら、風祭の住まう殿へと渡る。
 幾重もの帳が、几帳が、俺の前から取り除かれ、風祭への道を作った。
 風祭は藤の襲の小袿をまとい、円座に座して静かに俺を待っていた。このようにして、あの鬼のことも待っていたのだろうか。埒もない考えに首を振る。
 ゆったりと面を上げた風祭の表情に、俺は足を止めた。幼い面影を残していたはずなのに、いつの間に、これほどに大人びた、いや、なまめかしいまでも姿を見せるようになっていたのだろうか。
 ざわりと騒ぎ出した胸を押さえ、俺は側に座する。引き寄せても、風祭の憂い顔は、変わらなかった。悲しさを含んだ眼差しのままで顔を伏せた。
 俺は言葉を紡ぐ。その曇りをはらえるのでないのかと信じて。
「――心配しなくても良い。大丈夫だ。すべては、御帳台の中で起こったこと、誰が見た訳でもない。忘れてしまえばいい」
 封じ込め、忘れ、なかったことにする。それが、人の為せる精一杯の抵抗だ。
「元気になったら……そうだな、ここで管弦の宴を開こう。久しぶりに、箏の琴を聴かせてくれ」
 俺の言葉を風祭はうつむいて、聞いている。そっと衣擦れの音が響く。上がった風祭の手を俺は握る。
「主上……」
 風祭の震える小さな手、涙でいっぱいの目。俺に差し出されていても、俺を見つめていても、もはや、俺のものではないと悟らざるをえなかった。
「僕は――忘れられないのです。忘れたくないのです」
「莫迦なことを」
 俺はぎこちなく、笑う。
「本当なのです。罪深いと知りながら、あの方を」
 お慕いしているのです。
 俺は、この手を離すまいと、決して、離さないと誓って、ここへやって来た。それだというのに、俺の手からは力が抜ける。
 なぜだというのなら。
「――渋沢さま」
 人々の悲鳴を包み込むように、風祭は柔らかく言い、ほほえんだ。
 御簾の外に鬼が立っていた。
 目が光り、笑う唇からすべてを砕く牙が覗く。したたり落ちる腐汁、ずれ落ちる肉塊、のぞく骨。人の姿を残したからこそ、人が恐れる鬼になれるものなのか。
「風祭」
 鬼が囁いた。殷々と響く鐘の音のように、その声は、辺りに満ち広がっていく。
 鬼が長く黒い爪をした手を差し出した。  女たちが倒れ、男たちが悲鳴を上げる。たった一つの存在が、この殿を地獄へと変える。
 俺の手から、風祭の手が離れた。その目は、もはや、鬼以外の誰も映し出そうとはしていない。
 御簾内から風祭はいざり出て、立ち上がった。ざわめいていた外が静まりかえる。鬼の声に応えて現れた尊い女御の姿を目にし、戸惑いと賛嘆を隠しきれないのか、ため息が後に続く。
 鬼だけが笑う。唇から、黒い靄が溢れ、辺りに硫黄の臭いが満ちる。どろりと濁った目が細くなる。風祭は両手を開いて、噛みしめるように呟いた。
「お待ちしていました」
 言った風祭の目の端から、光が落ちた。
「そう、思ってくれたか」
「心から」
 鬼はなおも笑う。むせび泣くように笑い、風祭を抱いた。ぼたぼたと腐肉が落ちた。
「こんな、おぞましい姿でもか」
「どんなお姿でもお慕いしております」
 風祭は鬼の体を両腕で抱きしめた。肩が震えている。かすむような声で、渋沢さま、と続けた。
「鬼とか化そうと、物の怪になろうと、変わらず、心よりお慕いしております。どうか、信じて下さい。どうか、どうか……」
 は、は、と鬼が笑う。あざけるように、悲しむように。
 そのどす黒い皮膚色の手が動き、風祭の衣を爪で切り裂いた。肩から絹が滑り落ちる。白いまろやかな肩が露わになり、胸元がのぞく。
「人前で辱めを受けても、まだそう思うか」
「何をされても、何を言われても、お慕いしております」
 鬼は乱暴に風祭を組み敷いた。切り裂かれ、脱がされた単衣を縟にして、風祭の裸身が鬼を迎える。ああ、甘い声が唇から漏れ、腕が鬼の体を抱き、指が乱れきった髪を梳く。
 風祭は笑んでいる。たとえようもなく、幸福に、無邪気に、同時に包容するように。
 誰も気づかないのか。あのどす黒い邪気を纏った鬼が、いつしか、子どものように他愛ない有様になっていくのを。
 嘆きの声が上がるが、風祭の歓びの声の前に消えていく。うち萎れる者、顔を伏せる者、耐えきれず去っていく者。それでも、風祭と鬼の睦みあう姿に魅入る者は多い。頬を紅潮させ、人は羨みの視線を向ける。
 あれほどにおおらかで、あれほどに歓びに満ちた姿を、これほどに幸せな交わりを、俺たち人は行えるものなのか。指が絡み合い、唇が重なり、足が腰に回り、腕は体を抱き、肌を指が辿る。汗で体に張りついた髪、吐息、意味のないうわごと、そこにあるすべてが、これ以上ないというほどに、生を思わせる。
 風祭。お前から目を逸らす俺を赦してくれ。これ以上は、耐えきれない。限りなく愛おしい者が、限りなく憎い者に愛され、抱かれて悦ぶ姿、それを天が言祝いだ恋と気づいたとき、俺にはもはや、風祭を見つめることは出来なかった。
 避けたのではない。恋に悦ぶ二人を羨みながら、そう出来ない俺には、もはや逃げるしかなかった。俺をいたわしげに見つめてくる臣下たち。向けられた愚かで純朴な不安と心配の中、俺は風祭と渋沢を羨んでいる。理から解き放たれ、お互いだけを想い合い、睦み合う二人を、恨めしく思っている。俺もまた鬼と化し、あの輪の中へ加わりたいと願っているのだから。



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