忘れられるような種類の記憶ではなかったから、三上は、時々、将のことを思い出した。
回数を重ねるたび、記憶が漉されて、一つ一つの印象が、心の中で、くっきりと陰影を帯びて残されていった。
ほとんど口を開かなかった将が、ありがとうございましたと礼を言ったときの悲しい響きや、大きな黒い目が宙をじっと見据えていたところ、暗がりでうずくまっていた体の頼りなさ、あどけない顔立ち、細い手首を掴んで、怯えさせてしまったときのこと。思い出す胸は、そんなとき、将の手を掴んだ指先と共に、ひりひりと火傷じみた痛みを生じた。
時が経つにつれて、痛みもいつしか消え去り、三上は将の記憶を閉じこめた。将を思い出すことに飽きた訳ではなかったが、続けていくのも、自分らしくないような気がしていた。あいつはどうしているのだろうと、ふとした折りに思い出すのが、ふさわしい。それで終わらせたつもりだった。
だから、思いがけない再会は、驚きがあるばかりだった。表に出すほどの大きさではなかったが、ささやかな悪戯をしかけられたときのような、間の悪さを味わった。
始めは同姓同名の別人かと思った。それくらい、三上があの夜見た将と、その日、グラウンドに立つ彼とでは印象が違って見えた。目の前にいる少年が、あの将なのだと気付いたのは、かいま見えた瞳の激しさのせいだった。
そこには苛烈なまでの意志があったが、あの夜の脆さは影を潜めている。小さな体に覇気が満ちており、思わず目を奪われそうな何かがあった。
言葉には表しにくい光の気配とでもいうのだろうか。彼の凛とした面、仲間に向ける眼差し、そして何よりも、そんな風に笑うのかと驚いた。
出会ったときは、笑顔を浮かべるような状況ではなかったので、三上は感情が振り切れてしまったような将の顔しか知らない。すれ違ったときも、上級生に対する緊張感が張りつめた表情を見ただけだ。だがチームメイトに向ける表情や笑みが、本来の彼なのだろう。
初めて見る部分を、へえ、と軽く受け流せる自分がいたし、激しく動揺している自分も三上の中に確かにいた。サッカーを続けていたことや、同じ部活の少年たちと、それなりに絆を結んでいるのに、まあ、いいんじゃねえのと、あざけりとひねくれた祝福が入り交じった心を抱いた。
渋沢も将を見つけ、嬉しそうな羨ましそうな、それでいて残念そうな複雑な顔をした。
「変な奴」
別れ際、三上が吐き捨てるように言うと、渋沢はやんわり笑った。
「俺も、そう思うよ」
渋沢が指していたのは将のことではないだろう。三上が、将を指したのではないのと同じように。
思いがけないほど近くで、顔を合わせても、将は三上を見知った素振りも、知りながらそれを隠すような気配も見せなかった。三上の顔自体は、きっと将が武蔵野森に在学中に知っていただろうが、それ以上のものはなかった。比べれば、渋沢に見せる親しみと尊敬の度合いの方が大きかった。三上はなぜだか、それでいいと思った。
自分はゼロだ。渋沢はゼロではない。幾つか、持っている。手にしたものを比べるようなことをするくらいなら、始めからゼロでいい。
将との距離が近づいても、自分はそれに対応するすべを知らないだろう。それならば、同じ学校にいたことがあってもまったく接触のなかった元先輩と後輩でいる方が良かった。
三上と同じように持っていない藤代はそれに気づいていないからこそ、得ようとして、こっそりと桜上水のサッカー部員に、もしくは将に、近づいているようだった。
なぜだろう、どうしてだろうと、疑問を抱かない自分に、三上は苛立った。一枚、皮を剥いでしまえば、自分にも渋沢や藤代と同じような心があるということではないか。本当は、得たいのではないか。ゼロでなく、一でもいいと思っているのではないか。
将に対する、そんな心は棄ててしまいたかった。あることすら認めたくない。だが目を背ければ背けただけ、思いの根深さに気づく。腐らせたくて、引きちぎってしまいたくて、けれど、どうしようもない。種子はいつの間にか芽吹いて、育っていた。
将との再会から始まった出来事の諸々は、三上にとっては不快なことが多すぎた。水野の存在は、自分自身が築き上げてきた地位ともいうべきもの、それに対する誇り、自尊心を傷つけていた。反発を抱き、水野に取った行動を、三上はとくに後悔はしていない。あの甘ったれたお坊ちゃんを、もっと傷つけてやれば良かったとすら思っている。
しかし、水野の父親であり、サッカー部の監督を務める桐原が倒れたときは、さすがに焦ったが、その焦りすらも、自分という人間の卑小さを見せつけられたようで、嫌だった。結局、仮面を被るのに、多少、長けたと思いたいだけの器の小さい人間だ。それだけだ。
桐原に付き添っていたのは、将だと聞いた。病院へ行かなかった理由は、それだろうか。
病院へコーチ共に行った渋沢は、やや憔悴気味の顔で戻ってきた。監督の状態や明日からのことについて、手短に語り、途中で、ぼそりと言った。
「シャツが血だらけだった」
「監督、だいぶ吐いたって――」
三上の言葉を渋沢は静かに遮った。
「いや。風祭だ。監督の血だと言われたけれど、どきりとするな」
三上は部屋に帰った後、寒気を覚えている自分に驚いた。馬鹿なと否定する。自分が心配しているのは監督だ。
それでも浮かぶ。将の真っ向から切り込んでくるような瞳。そこに充ち満ちていた怒りの光。それが消え、感情が沈んでいく。あのとき、三上が見た涙を流さない瞳。その持ち主はきっと三上を恨み、嫌うだろう。代わりに水野へ、労りと優しさを向け――そこまで考えて、ぞっとした。
まるで、水野に嫉妬しているようだった。あの男に、将の世界に、より良い形で存在する彼に。いや、そんなことではない。彼とは合わないだけだ。どうしたって、話も気も合いはしない。そういう種類の人間なのだ。水野が三上をそう思っているように、三上もそう思っているだけなのだ。
サッカーの力量という点から彼を恨むなら、自分でもまだ許せる。だが、将の側にいるからという理由で水野に嫉妬は抱きたくない。水野という存在は、もう少しまともな、いびつでない、あえていうなら、真っ当なやり方で憎んでいたかった。水野へ向ける灰色の思いの中に、将に抱く感情を交じらせたくなかった。
自分と将との記憶や感情の中に、誰かを入れたくない。それが三上の考えだった。無理だからこそ、自分は苛つくのだろう。三上の見知らぬ誰かが将と関わるのならまだしも、渋沢や藤代といった三上もよく知る人間と将は、これからも関わっていく可能性が高い。それが見える場所で三上は、将が自分に向けるものとはまったく違う表情や声を彼らに見せるのを見ていなくてはならないのだ。
予想通り、将は合宿場の廊下で出会ったとき、渋沢や藤代に見せたのと違う、気まずげな、罰の悪い表情を浮かべた。これが当たり前のことなのだと知りつつも苦々しく、三上はことさらに将を無視して通り過ぎた。
自分は将に対して何も期待していない。将は将で勝手に藤代や渋沢、それにあの水野と仲良くやっていればいい。自分は嫌われてやろう。憎まれたっていい。ゼロではなくなるのだから、それでいい。決めて、そう思った心をどこかに置いた。下らない思考も決意も、この場所では不要だった。
きっかけを探さないまま、地域選抜での時間は終わるかと思われた。期待なのか願いなのか分からない想像は、一日目の夜に終わる。
三上は缶ジュースを買いに行っていた。消灯直前の静まりきれない少年たちのざわめきが、空気を遠くから震わせていた。自販機の前でコーラを飲み終えて、手洗いに寄り、割り当てられた部屋に戻ろうとしていた。
途中で、足を止めた。将が廊下にいた。歩いていて、ふと足を止めたという雰囲気で、窓の外を見ている。月が出ていて、風が強い。窓の桟もガラスもかたかた震えていた。
あの夜に似ている。三上は渇いた喉に痛みを覚えた。横をすり抜けかけて、三上は潰れたような、奇妙な掠れ声で将を呼んだ。
「風祭」
振り向いた将はまばたきして、合宿所で顔を合わせたときのような気まずそうな硬い表情になった。
「先輩」
三上はこんなことにも勇気が必要なのだという苦い思いで、口を開いた。
「……もう、大丈夫なのか」
我知らず、言葉と共に廊下の手すりをきつく握りしめている。
将は意味が掴めないような顔で、何がですか、と問い返した。
「二軍の奴らのことだよ――夜に脱衣場で、お前が」
三上は言葉を切った。将は三上の顔をじっと見つめて、少しうろたえるように目を伏せていせた。
「――やっぱり三上先輩だったんですね」
将の口から漏れた意外な言葉に、三上は手すりを握る手を離した。
「分からなかったのか」
「暗かったし、ぼんやりしてたから、自信がなかったんです」
「ああ――」
うなずきとも言えない返事で三上は黙った。そうかと納得した反面、不快さも感じている。なぜ、分かってくれなかったのだという理不尽な思いが、その不快感に通じていた。
将は顔を上げ、かすかに笑った。
「あのとき、先輩がいてくれて良かった。一人だったら、あれ以上、逃げられなかったと思います」
淡々とした口調だった。三上は将との距離を測るように、横顔を眺め、少しだけ近づいた。
「お前、逃げてきたのか」
「途中で逃げました。……逃げられたんです」
「そうか」
三上は話を止めようとした。将も三上の心を知ってか、知らずか、口を閉じた。
どこか廊下の方で、誰かの笑い声がした。明るい声だった。沈黙に耐えられず、三上はふたたび話を戻した。
「病院には行ったのか」
「行ってないです」
将が微かに身じろぎした。動いた空気が、将の柔らかい体臭を伝えてくる。三上はそれ以上、将に近づくのを自分に禁じた。
「……怪我や、病気は」
質問ばかりだと三上は嫌になった。だからといって他に話すべき事が見当たらない。今更、話を逸らすのも、変えるのも、おかしいだけだ。
「大丈夫でした」
将は小声で、付け加えた。
「……最後まで、された訳じゃないんです。あの、なんていうか……口を」
三上は遮った。
「言わなくていい」
大きくはないが、強い調子に、将はゆっくりまばたきした。頬から、血の気が失せていたようにも見えた。
「思い出させたい訳じゃない」
三上の言葉に将は笑った。泣きそうな笑い方だった。
「感謝してるんです、先輩」
俺はお前の先輩じゃないと不意に、三上は叫びたくなった。あのとき、何もしなかった。それなのに、将は自分を先輩と呼び、感謝までしているという。止めてくれと言いたかった。
すべてをあの時間にまで巻き戻し、将と何の関わりも持たずに、別れたかった。そうして、この乱れていく一方の心を正したかった。――たとえ、時間が戻ったとしても、自分は絶対に同じ選択をするだろう。確信がありながらも、そう思った。
「俺は、お前に感謝なんかされたくない」
将は驚きも怒りもせずに、はい、とうなずいた。
「忘れた方が、いい事だしな」
「はい」
「俺も忘れるから、お前もそうしろよ」
「はい」
忘れられないことを知っていて、忘れるという。相手も忘れられないはずなのに、はいとうなずく。奇妙さに、三上は耐え難くなった。将は、まだ動こうとしないので、三上は先に足を踏み出した。背を向けて、廊下を行こうとする。
「三上先輩」
三上は振り返った。呼び止めたまま、どうしていいか分からない様子の将が、三上を見つめていた。小さく開いた唇の奥に、闇が見えた。呑み込まれる前に、三上は言った。
「誰にも言わねえよ」
将は何も言わずに、大きな目でまばたきを一つした。
三上は歩き出した。今度、呼び止められたら俺はどうするのだろうと怯えながら、それを待った。
視線だけが三上を追っていた。将は、もう呼び止めなかった。
将と直接、顔を合わせ、言葉を交わしたのは、それきりだった。
東京都選抜のメンバーには選ばれなかった。三上は将と顔を合わせる機会も理由も一切、無くした気がした。ありもしなかったのに、そう思った。
持っていないものを失うという奇妙な事態に陥ったとき、人はこんな虚ろさを心に抱えるのではないだろうか。
自分は何を持っていたかったのだろう。――疑問への答えを、三上はとうに知っていた。
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