遠い日(3)



 簡単に時間は過ぎる。身を委ねていけば、何事もないように暮らしていける。三上は訳もない屈辱を振り払うように、何かに打ち込めば、結果が得られる。手の中の空虚感を握って、何でもない、と言い聞かせていた。
 むなしさが砕け、三上の手を刺したのは、ナショナルトレセンの合宿が終わった時だった。
 風祭が怪我をしたと、戻ってきた藤代がたっぷり騒いで、聞かせてくれた。うるさいと言いかけた三上だったが、藤代が涙ぐんでいたので、文句を言うのを控えた。
「お前が怪我した訳じゃないだろ」
「そういう事じゃないんすよ。風祭、もしかして」
 藤代は口ごもり、それ以上続けなかった。渋沢はあまり語ろうとはせず、沈んだ顔で、見舞いに行っていた。三上はあえて訊ねず、そのままにしていた。その方が動揺も小さかろうと思った。
 やがて、人づてに、何もかもを知った。将を知るときは、いつでも人づてだ。将の友人や知り合いが人垣のように、自分の視線を阻む。簡単に越えられるはずのそれだったが、三上はその向こうにいる将を想いながら、近づかなかった。
 どれだけの絶望を彼は知るのだろう。どれくらいの重さで、彼の体に絶望はのし掛かるのだろうか。夜の廊下で、自分の前を歩いていった背中が思い出された。曲がっていなかった。一人、暗闇に立つ真っ直ぐな背中だった。足を失うに近い怪我をしても、その背中は伸びているのだろうか。
 単なる気まぐれだと思い、病院まで行った。そうしながらも、自分が将に会う、どんな理由も見当たらないのに気づき、理由を欲しがっていることにも気づき、引き返した。会うことで、心が動くのを恐れた。
 どうして来たんですか、と将は聞かないだろう。その前に、自分から言い出してしまう。口をつく一言が、今の自分を壊すだろう。壊れるほどのものも持っていないというのに。
 三上は自嘲したが、病室へは踏み込めなかった。そうして、病院で嗅いだ薬品の匂いの記憶も生々しい内に、将は新たな選択肢を見出していた。
「ドイツに行くんだそうです」
「ドイツに治療しに行くそうだ」
 遠いな、とだけ三上は、藤代と渋沢に同じように言った。
 遠すぎる。心も距離も、どれだけ離れてしまうのだろうか。近づいた事もないのに、そう思った。
 見送りにも行かなかった。渋沢に行かないかと誘われたが、三上は断った。将が旅立つ日に、空を見上げた。それだけだ。
 雲の多い空、飛行機は一度たりとも見えはしなかった。上空を飛ぶ轟音だけが響いていた。

 高校へと進学したが、三上自身もその周辺もとりたて変わりはしなかった。あったとしても、中学から高校へと上がった際に、ありがちな、予想できる程度の変化だ。
 面白いと思える事も多々あったし、いつか懐かしくなるであろう日々も過ごした。なまぬるいくらいに居心地いい毎日が、そうさせたのか、三上は、わざと痛みを楽しむように、将のことを思い出すときがあった。一度、ちび、とかすかに唇を動かして、悪態をついてみた。正面切って、言ってやりたかった。――ちび。一体、将はどんな顔をしただろう。
 想像はあたたかく、時には微笑が浮かんでしまうときすらあった。だが、後になれば、手ひどく、三上を刺した。痛みに後悔しながらも、将のわずかな記憶に酔い続けた。
 渋沢は、将と連絡を取っているのかもしれなかった。藤代も時々、将の近況を話していた。ほんの一歩、踏み出せば、将の滞在先の住所は分かるだろう。いつでも出来るなと思ったので、三上はいつまでたっても、知ろうとしなかった。
 あまりに、将を思うことで出来た空白の期間が長かったので、それに慣れてしまったようだ。思い出すことで感じる痛みにも慣れてしまったら、それは忘れたことになるだろうか。いや、そのつもりでいると、手ひどいしっぺ返しをくらうだろう。ある日、ふと将の面影が、いつになく強くよみがえって心臓も止まるくらいの驚きを味わうに違いない。
 それを――気づいたとき、三上はため息をついた――それを待っているのが今の自分であるだろうから。
 切なさに急かされ、苦しさに支配され、どうしようもなくならないと動けない。弱い、情けないと知りつつも、竦む足は踏み出すことを恐れている。背後で膨れる圧倒的な感情に押されるのを待っている。
 しかし、その時からも、逃げ出してしまうのではないだろうか。恐れを抱きながら、待ち受けた時は、三上の内にある記憶からではなく、外部から海を越えて、もたらされた。
 帰ってくると聞いて、また藤代が騒いだ。渋沢ですら浮き足立ち、喜び、ひそかに不安がっていた。それならば、将に関わった人間、みなそうではないのだろうか。
 すべてから離れ、三上は傍観者の立場を選んだ。大学での生活は、そうさせてくれた。同時に三年前の感傷を憎く思っている頃、藤代から連絡があった。
 三上の皮肉げな、時に人をはねつける調子を持つ言葉も、藤代の朗らかさの前には、逆にはねつけらてしまう。誘われて会う気になったのは、迷いだとしかいえなかった。会って五分で帰ってやろうかと、子どもじみた考えを抱きながらも、久しぶりに会えば、さすがに、それなりの楽しさがあった。十分もすれば、藤代の相変わらずの陽気な声を聞くだけで、いささかくたびれもしたが。
 三上は藤代に構わず、来る途中で購入した雑誌を広げた。藤代は三上に構わず、話し続けている。三上の頁を持つ手が、わずかに震えたのは、藤代の声にいっそうの熱が帯びた話題のときだった。
  「本当に帰ってきたら、どうしよう。風祭、変わってるんですかね。背とか伸びてたりして。俺よりは低いかな、高くなってたら悔しいっすね。でも、風祭だしなあ、平気かな」
 三上は長々と続く藤代の話を聞き流す振りをして、聞いていた。広げている雑誌の文字が、絵のように目に刻まれた。文字の意味も掴めなくなったのに気づいたので、三上はようやく顔を上げて、藤代に訊ねた。
「俺を呼び出して、話したいのがそれか」
「え」
 藤代は、心底驚いた顔になり、三上をまじまじと見つめた。
「先輩も聞きたいかと思ってたんですけど」
「なんで、俺が。何の関係もないだろ」
 藤代は三上の動揺に気づかなかった。自分でも不思議そうに、そういえば、そうだなあとぶつぶつ呟いている。
「ま、いいじゃないすか。めでたいことなんだから」
 それで藤代は終わらせた。試合があるから来て下さいよ、と別れ際言って、呼び出したとき同様に、さっさと去っていった。騙されたような気分だった。
 渋沢から電話があったのは、その日の夜だ。携帯電話の液晶画面に表示されている名前に、いやなシンクロをしやがると三上は舌打ちした。
「――試合があるんだが」
 渋沢も藤代と似たような事を話し、同じように、この一言を言った。
「知ってる」
「来ないか」
「行けたらな」
「待っていると思う」
 渋沢の言葉に、三上は電話を切った。絶対に行くものかと決め、そう思う側から、その考えすら読まれているようで、嫌になった。渋沢は知っている。藤代も勘づいている。隠せていると思っているのは、自分一人だけの思いこみに過ぎなかった。
 途端に、気が抜けた。今まで、自分が必死になってやろうとしてきたことの意味のなさに気づいた。守ろうと思っていたのは何だったのだろうか。失うと思っていたものは何だったのだろうか。
 どこにも、そんなものはなかった。守るものも見せたくないものも、持っていなかったのに、隠そうとしていた。持っている振りをしたがっていた。
 馬鹿だなと一言呟いたが、三上は国立競技場へは行かなかった。
 かわりに、思い出を追いかけることにした。彼と自分のではなく、彼の思い出を辿ることにした。そのくらいの感傷に浸るのは許してやろうと思った。ドイツほど遠いわけではないのだから。
 三上は桜上水中学まで足を伸ばした。陽気のいい、過ごしやすい日で、外を出歩く人々の姿をちらほら見かけた。
 中学校のグラウンドを体操着姿で駆ける生徒たちを眺め下ろし、帰るときは来た道とは違う道を辿った。川沿いの道へ出る。草地を吹いていく風に、やや汗ばんでいた皮膚が冷やされた。髪も揺れる。河川敷には、犬を連れた人や子ども連れの姿が多かった。子どもの甲高い声が三上の居る上の道にまで届いた。
 何気なくそちらを見下ろし、三上は見つけた。
 河川敷の斜面に、ボールを横に置き、将が寝転がっていた。それが周りの風景に馴染んでいたから、三上は驚けなかった。
 黙って側に立ち、見下ろした。少年期の最後の清々しさが、将の顔のあちこちに残っている。
 将は顔に落ちた影に、目を開き、三上を見上げた。淡いほほえみが浮かぶ。三上同様、驚いてはいなかった。
「先輩」
 三上は答えなかった。この瞬間を愛おしんでいる自分に、なぜだか泣きたくなった。
 将は身を起こした。葉っぱが髪と肩にくっついている。転がり出したボールを、慌てて、止めて、将は照れくさそうにした。
「何やってんだ」
「すみません」
 将は顔を上げ、三上を見つめた。三上も将を見下ろした。この時間を壊したくないと、痛烈に感じた。
 自分から一言でも発すと音を立てて、戻ってこないものがここにある。壊さずに、時を進められるのは、将だけだ。いや、彼もそう思っているかもしれない。それならば、自分たちは互いに口を開かず、黙って見つめ合うだけなのだろうか。それも、また甘美な思いだった。
 静かで濃密な視線と時間が過ぎ、やがて、将は唇を小さく動かした。
 言葉の形が、まず目に入り、次に言葉が三上の耳に届いた。
「あいたかった」
 あまりにもささやかな呟きだった。
 三上はかちりと何かが噛み合う音を聞いた。過ぎた時間にも、抱いた思いにも、はめ込まれる一言だった。
 出会った夜と逆だった。三上は自分の部屋まで歩いた。数歩後を将は黙って、三上に付いていった。付いてこいとは言わなかった。付いてきていいですかと訊ねなかった。三上はかすかに顎を動かし、将も小さくうなずいただけだった。
 部屋まで辿り着くと、将を招き入れてドアを閉めた。三上の少し前で、うなだれがちに立ちつくす将はボールを握りしめていた。その手から、ボールを取ると、床に転がした。ボールは廊下をゆっくり滑り、部屋の奥まで行くとベッドの足に当たり、そこで止まった。
 三上が先に立って、部屋に上がり、ベッド際で立ち止まる。将は途方に暮れたような悲しい顔をしていた。言葉を発するべきだと悟る。
 舌で口の中を湿し、それでもかすれる声で、三上は訊ねた。
「抱いてもいいか」
「はい」
 将はうなずいた。耳朶が赤いのに、頬が白く、服にかけた指が震えていた。三上は将が服を脱ぐのを手伝い、裸にするとベッドに横にした。
 三上も服を脱ぐと、ベッドに入った。抱き合うと、互いの緊張した筋肉や関節が皮膚越しに触れ合った。
「やっぱり、男なんだな」
「先輩も男ですね」
 不安そうだった将は、三上のぼそりとした一言に、やっと小さく笑った。
「毛、薄いな」
「気にしてるんです。言わないで下さい」
「ここは、色が白い」
「そこは日に当たらないから……」
 将がふっと息を吐いて、目を閉じた。三上の指が絡んでいた。
「触っても、平気か」
 将はためらいがちな仕草で、三上の首に腕を回し、体を寄せた。
「平気です」
 女との経験はあったが、将の体を開くのにそれが役に立ったとは思えなかった。初めてのような緊張があった訳ではない。だが怖かった。人の体に触れるのが、これほど恐ろしいとは思わなかった。指先で押し潰してしまわないか。吐息で溶けてしまうのではないか。ほんの少しでも間違えれば、取り返しがつかない事をしてしまうのではないか。
 将は目を閉じているかと思いきや、まばたきもしないで、三上をじっと見ている。将の瞳の中の三上自身も、将本人も怖がっていた。
 三上はどうすればいいのかいっそう分からなくなり、将の体をなぞってみた。背中に掌を当てて、あたたかさと柔らかさに心を静めている途中に思い出して、膝に触れた。
「ここだったんだな」
「はい」
「二つ、痕がある」
「縫い目もあるんです。分かりますか」
「ああ」
 二つの手術跡を三上は同時に指でなぞった。淡く盛り上がった赤い肉があった。
「痛いか」
 数年の時間を経て、三上は訊ねた。
「少し」
 将の答えも数年前のそれだった。
「意地、張るなよ」
 将は唇を笑ませた。三上はその体を抱いた。肩に将の頭がもたれかかった。髪から漂う草と日なたの匂いに目を閉じた。息づかいが重なっていく。微睡むような気持ちで、こめかみに唇を当て、少しずつずらしていった。将の唇まで近づくと、薄目を開いた。同じように目を開いていた将と視線があった。
 瞼を閉じ、唇を触れあわせた。ありとあらゆるものから、解放されたときのような晴れやかな、それでいて悲しいくらいの真白な思いが込み上げた。
 ――三上が将と体を繋げたとき、どちらも顔を歪めて、唇から息を吐いた。将が肩越しに、痛い、と呟いたのが聞こえる。
「悪い」
 思わず、謝ると将が首を振った。
「平気です」
 顔をしかめてその言葉もないと、三上は、ふとおかしくなった。微笑が漏れると、愛しさが増した。将の体を抱く手に、なお力がこもった。出会ったときから抱いていた思いが形になった。やっと言える。
「風祭」
「はい」
「ずっと、こうしたかった」
「僕もです」
 将が苦痛の表情を和らげて、小さく笑う。
 閨の呟きだ。忘れることも出来る。三上は将の頬に片手で触れた。口づけて、深く、身を沈めていった。先輩、と将は呟いて、そのときだけ泣いたようだった。

 儀式のような行為を終えて離れると、将は血を流していた。気づかずに二人でしばらく、横たわったままでいたから、その間に、血はシーツに染みを付けた。
 起き上がろうとして、血がつけた染みに気づいた将は顔を強張らせた。
「俺がやるから、寝てろ」
 三上は乾いて褐色になろうとしている染みを見つけると、ジーンズと下着を履くと、キッチンでタオルを濡らして持ってきた。
「すみません」
「すぐに、消える」
 お前みたいに。続きを呑み込んで、三上は濡らしたタオルをシーツの上に置くと、何度か叩いて、そのままにしておいた。
 将を休ませた後で、シャワーを浴びさせた。血と精液で、足の間が汚れていたからだ。
「汚れたな」
 後ろめたさを感じつつ、三上が言うと将は首を振った。
「そんなこと、ありません」
「そうか」
 言葉の強い調子に、三上は罪悪感を感じることで、自分を慰めるのを止めた。
 歩くのがきつそうだったので、タクシーを呼んで、将を帰らせた。次の約束もしなかった。連絡先も聞かなかったし、教えなかった。じゃあな、と三上が言うと、将は、はいとうなずいて、お世話になりましたと、頭を下げた。
 部屋に戻って、タオルを持ち上げると、染みは薄らいでいた。まるで、破瓜の血のようだと思い、将は初めてだったと思い当たった。
 シーツには洗濯しても、目を凝らせば見えるうっすらした痕が残った。自分の体にも痕が付いた気がした。決して消えない、色あせないたぐいのそれが。

 将がドイツに戻るまでに、一度だけ、会う機会があった。一時間ほど、藤代や渋沢、それに水野、その他の大勢の男達と一緒になった。
 渋沢は、突然、藤代に呼び出された三上が機嫌悪いのではと、心配していたが、三上は礼儀を失わない程度に、その場に集まった何人かと話していた。後は、渋沢と世間話をしていれば、時間が潰せた。この後も別の飲み会の約束があったから、それまでの間、三上は、とかく注目されがちな若い選手達の間にいた。
 将とは最初、短い言葉で挨拶しただけで、殊更に言葉を交わそうとはしなかった。将は他の友人達に、始終話しかけられて、忙しそうだった。
 一度だけ、気まぐれのように、二人が隣り合う瞬間が訪れ、その際に、三上は低い声で訊ねた。
「痛んだか」
「今は大丈夫です」
 将は目線を三上に当て、安心させるようにうなずいた。三上は将の頬から顎にかけてを人差し指と中指で、素早く触れた。将が目を細め、すぐにうつむいた。
 たぶん、こんな時間は、ある一言を口にしたら、これから幾らでも持てるのだろう。
 三上は将の輪郭を目でなぞって、かけはなれた言葉を言った。
「いつ、帰るんだ?」
 将は三上の指先を見つめて、言った。
「……日に戻ります」
「何時の飛行機?」
「十一時半です」
 それだけ、将の口から聞きたかった。三上はうなずいて、どういう顔をすれば分からなかったので、唇を笑ませた。将も歯を見せない、静かな笑いを浮かべた。それだけ見ると、三上は藤代の背中を蹴って、店を後にした。藤代の何なんですかという声が追いかけてきたが、笑い声に消されていった。

 その日、十一時半には間に合うように、家を出た。そこへ行くのが当然な気がしたから、迷いはなかった。将を見つけた三上は、離れたところから、皆に囲まれる彼を見ていた。
 出て行こうとしたが、将と目が合ったので止めた。一瞬の見つめ合いで、すべて終わらせられた。
 藤代の声がひときわ大きくなり、それに答えるように将が笑った。その唇が紡ぐのが、皆に向けた別れの言葉だった。荷物を持ち上げた将が、振り返りつつ歩いて、手を振った。三上はそこまで見て、柱の影に引っ込んだ。
 そのまま、柱に背を預けて、見送りに来ていた者が帰るのを待った。幾人かは展望台へ行ったようだった。繰り返されるアナウンスや、行き交う人々のざわめきを聞くともなしに聞いて、三上は立っていた。何も思わなかった。感じなかった。空虚感もなく、静かな満ち足りた思いだけがあった。
 いつか。遠い未来か、近い未来かに、その日が来る。ドイツに自分が向かうのか。彼が再び、戻るのか。それとも、直接、顔を合わせることなく、何年後にテレビ画面越しに彼を見るのか。人づてに名を聞くのか。
 定まらない未来の中にある再会の時、自分は口を開くだろう。あいたかったとささやくだろう。そうして、やっと始まるのかもしれない。
 三上は頭をもたげ、案内板を見た。将の乗った便はすでに離陸していた。雑踏とざわめきの間をかいくぐるように歩き出す。足音が耳についたが、すでに追いつけない日々からも、三上は遠ざかっていった。この一歩が、近づくための一歩だと悟っていた。


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