床へ降り立っても、しばらくは気がつかなかった。満月だったが、あいにく雲が出ていたために、月も月光も遮られている。それは夜、こっそりと出かけた三上には都合良かった。
誰にも見咎められずに暗闇を走り、寮に戻った頃に風が強くなり、雲を吹き散らしていた。今までひっそりとしていた校舎や寮、木々たちが息を吹き返したように、白々とした月明かりに照らされ出す。
たん、と窓から床に足をつけたとき以外、音を立てないようにしていた三上は、窓からの月明かりが更衣室を照らし出したとき、ようやく、自分以外の誰かがいることに気づいた。
最初は、驚いた。一応、この建物にも歴史はあるので、怪談やそのたぐいの話にはことかかない。七不思議とか、どこぞに何とかの霊が出るとかは耳にしたことがある。寮内で、肝試しが行われるときもあった。それでも、更衣室に何か出るとは聞かない。それに聞いたとしても三上は信じない。否定はしないが、馬鹿馬鹿しいと思うだけだった。
自分が信じないのなら、それは人だろう。それもこの学園の生徒のはずで、そうでないときは、三上にとってはあまりいい事態にはならないが、今の様子を見る限りは、大丈夫なはずだ。
人影は壁際に寄りかかって、うずくまっている。少年だった。三上が近づいたとき、不意に風が強く吹いて、窓ガラスががたがた鳴った。その音を聞きつけたのか、うずくまっていた少年が顔を上げる。
目が合ったように思われたが、少年は動きもせずに、ぼんやりしていた。三上は眉をひそめ、少年を見下ろした。少年の顔に視線を走らせた後、ポケットに突っ込んでいた小型のペンライトを取り出して、スイッチを付けた。
無造作に少年を照らし出す。少年はいきなりの眩しい光に目は細めたものの、それだけだった。目がうつろだ。
少年は私服らしい大きめのパーカーを着ていた。こちらに向けられた顔には、表情がない。唇が切れて、腫れているので、三上には何が起きたか分かったような気がした。膝を抱えた体は、小さく、華奢に見える。寮内にいるからにはサッカー部なのだろうが、顔も知らない。二軍、いや、この体格では三軍だろう。
ならば、三上が寮を時間外に出ていたことも門限を破ったことも言いつけはしないはずだ。少年は三上を見ていたが、焦点は合っていなかった。三上でなく、別の場所を見ているように虚空に瞳が据えられている。
少し、おかしいんじゃないかと思った。濡れたように黒々した瞳はまばたきもしていなかった。殴られた衝撃が頭に来ているのだろうか。
「おい」
声をかけてみたが、反応しない。いや、足が動いた。床上をもがくようにして、後じさろうとしている。のろのろした動きで逃げようとしていた。
舌打ちして三上は、少年に近づき、身をかがめた。背中を預けていた壁からずり落ち、少年は這うようにして逃げようとした。三上がいることは認識しているらしい。
三上は怯えたような態度に苛つきながら、何気なく手を伸ばした。掴んだのは手首の上辺りだったが、かすかな悲鳴が上がった。
「何もしねえよ」
低い声で言っても、少年は必死に腕を引こうとする。乱れた呼吸が唇から漏れていた。
掴んだ手が思った以上に細いので、三上は少し戸惑った。なぜ、戸惑うのかよく分からなかったが、とにかく、少年の手を引いた。その力に、よろけて、少年は床に体を打ち付けた。その拍子にちらりと見えたのは手首に付いた何かだった。
三上は少年の着ていたパーカーの袖をまくり上げた。手首にべったりと奇妙な物が張り付いている。ライトで照らしてみるとガムテープの一部だった。幾重にも巻かれていた形跡があった。
三上は別の手首も見た。同じようにテープが貼られていた。それぞれに破られたような形跡があったが、それは両手を繋いでいた部分の名残らしかった。
何が一度に目に入ってきたのだろう。臭いを嗅いだような気もするし、首筋に痣が見えた気もする。抗わないように押さえつけたとき、少年が嫌だ、と呟いたのも覚えている。
疑問を生じさせる幾つもの痕跡が少年には残っていた。三上は好奇心と幾らかの嗜虐的な思いで、少年が着ていたパーカーをめくった。
下に着ていたのは制服用のシャツらしかったが、衣服としての機能は果たしていなかった。ボタンがなくなり、縫い目から裂けてしまっている。覗いた肌に、ひどい爪痕や青い痣があるのに、三上は目を細めた。かすかに、かすかにだが、青臭い臭いを嗅いだ。ある程度に成長した男なら、必ず嗅いだことがある臭い。体から生じる、欲望の証拠の臭いだ。
三上は少年の肌に触れた。臍の辺りに布地とも皮膚の感触とも違う痕跡が残っていた。まだべとついていたし、他にも飛んでいる箇所があるようだった。汚れたものに触れたようで三上はすぐに手を引いた。
少年の黒い目が食い入るように三上を見ている。怒りとも非難ともつかない、激しい悲しい目だった。
「お前……」
気づいた事実に、まさかという思いで、三上は呟いた。サッカー部内で二軍がしごきの名を借りて、三軍へ苛めを行っているのは聞いたことがあった。それでも、このようなことは初めて目にした。
「どうするんだ」
少年は何も言わない。目を伏せて、じっとしている。息の音もしなかった。一瞬、三上はこいつはこのまま、息を殺して死ぬつもりではないかと思う。
周りから迫ってくるような沈黙の中、人の声が届いた。足音が近づいてくる。少年がかすかに身じろぎし、暗闇に逃げ込もうとしたので、三上はライトを消した。薄い光も消えて、更衣室は再び、闇に包まれる。
がらりと扉が開いた。三上は振り返り、数人がどやどやと駆け込んでくるのを認めた。ご丁寧に、懐中電灯まで彼らは持っていた。部屋内が照らし出され、三上と少年の大きな影が天井や壁に映し出される。
少年一人だけと思いきや、もう一人いたことに、動揺が広がる。三上は少年から手を離して立ち上がると、口は開かずに、入ってきた少年たちをねめつけた。
「そいつ――」
一人が口を開く。ライトが三上の顔を照らした後、さっと下ろされる。また別の動揺が巻き起こる。目の前にいるのが一軍の三上だと分かったせいらしい。
「あの、そいつ、俺たちの」
「ちょっと、みんなで遊んでて、鬼ごっことか」
言い訳じみた言葉を並べ出す。三上は答えずに、手にしていたペンライトを弄んでいた。
何を言っても返事が返ってこず、不安めいたざわめきが大きくなる頃、三上は顎をしゃくった。
「部屋に戻ってろ」
「だけど」
三上が視線を投げるまでもなく、口答えしようとした少年は仲間につつかれ、引っ張られていた。皆一様に自分たちの悪事が露呈したゆえの恐れと、どうにか逃れようとする狡猾さを浮かべている。
「じゃあ、俺たち失礼します」
へつらうような言葉の後、ドアが閉まる。廊下を駆けていく足音が遠ざかった。
ふたたび二人きりになると、三上は少年を見下ろした。
「どうするんだ」
少年が顔を上げて、三上を見返した。いっそあどけないといってもいい、子供っぽさが残る顔だと三上は気づく。かすかに瞳が揺れ動いた。それ以上、少年の表情の変化を三上は見られなかった。月が、また隠れたのだ。手にしていたライトを点けようとは思わなかった。三上は暗がりに慣れてきた目で、少年を見ていた。
少年は何も言わずに、頼りない動きで立ち上がった。暴行を受けたままの体で、脱衣場を出ていこうとする。三上も脱衣場を出た。歩いて平気なのだろうかと考えたが、結局、黙ったままだった。
泣くとか怒るとかの反応があれば、三上もどうすればいいか、選べただろうが、少年は感情を出さず、淡々と歩いていた。足取りは遅く、三上はその後に続いて、自分もゆっくり歩いた。寮内は静かだったが、時折、ドアの前を通り過ぎたとき、小さな話し声や笑い声が聞こえた。ドア一枚、壁一枚隔てて、別世界が広がっているように思えた。
廊下に付いている常夜灯の小さい明かりが、少年を照らす。小さな影が足下に溜まる。どこか見知らぬ場所を目指して歩いていくような気がした。見慣れた寮の廊下が今日は遠い。
階段を上り、廊下を歩き、角を曲がって、少年は足を止めた。ドアの前だった。
振り返って、少年は初めて、言葉を口にした。
「ありがとうございました」
少年は頭を下げた。髪がさらさら揺れて、影が大きく動いた。
少年はドアを開く。部屋の内側から明かりが漏れた。三上はちらりとドアの横にある名札を見て、二人の少年の名前を確かめてから、背中を向けた。
「風祭!」
押さえたような叫びが聞こえた。ドアはすぐに閉まり、何も聞こえなくなった。三上は部屋に戻り、着替えてベッドに潜り込んだ。これから眠るのかと考えると、奇妙な思いだった。今まで見ていたことの方が夢のように思えた。
それきり、少年との接点はなかった。しばらくは二軍の少年たちの幾人かが三上に対して、おどおどした媚びるような態度を見せていたが、三上は知らぬ顔をしていた。
関わりは持ちたくなかったが、被害に遭った少年の名をサッカー部の分厚い名簿をめくって確認するくらいはしていた。少年の名はおそらく、風祭将。中等部一年、サッカー部所属、予想通り三軍。分かったのはその程度の情報だった。
一軍には二軍ほど、三軍との接点はない。三上は練習中、三軍が集まっているところを遠目にしたが、将がどこにいるかは見つけられなかった。
探そうとは思わなかった。彼にしてみれば、事情を薄々察した自分の存在は重たいだろうし、三上もあえて、将に近づきたいとは思わなかった。
彼をどういう目で見て、声をかければいいのか、迷うだろう。踏み込んで、何かする気にはなれなかった。それでも、少年たちの行き過ぎた行為は、あの日で終わりになったらしかった。
そういえば、偶然に一度、すれ違ったことがある。三上の横には渋沢がいた。将は穏やかな顔つきの少年と、重たそうな段ボール箱を運んでいた。唇の腫れは治っていた。
上級生に気づき、将たちは廊下の隅に寄った。三上に見覚えのあるような素振りも表情も見せなかった。
渋沢は微笑して、後輩二人を先へ行くよううながした。その視線に含まれた優しさが将に向けられていると三上は気づく。
「すみません」
「ありがとうございます」
二人は礼を言うと、足早に通り過ぎた。がちゃんがちゃんと段ボール箱の中身がやかましく鳴った。将ともう一人の少年の背中が廊下に遠くなると、渋沢がぽつりと呟いた。
「三軍の子だ」
渋沢がぽつりと呟いた。
「そうか。……小さい奴だな」
そう漏らした三上に、渋沢が視線を向けた。
「知っているのか」
落ち着いた渋沢の声音に驚きが混じっていた。
「誰を」
「風祭を」
「三軍だろ。知らない」
切り捨てるような三上の口調に、渋沢は静かに言った。
「頑張ってるよ」
「お前は知っているんだな」
「ああ」
渋沢は廊下の角を曲がった将を見た。遠ざかる将は、こちらを見ていたようにも三上には思えた。
日の光の下で見た将は、ずいぶんと小さく、小学生が間違えて紛れ込んだように見える。
あの体が、大人になりかけた少年たちの激しくも卑しい欲望を受け止めたのだと思ったとき、三上は初めて、怒りに近い思いを抱いた。拳を握りしめてしまうくらいの込み上げてくる感情があった。
それ以降、将とすれ違うこともなかった。姿も見かけなくなった。転校したと知ったのは、ずっと後だ。それも人づてにだった。名簿を繰れば、将の名前には横線が引かれていた。次の改訂時には削除されるだろう。
三上はそのとき、渋沢に言った。
「二軍のしごき、どうにかしろ」
「分かっているよ」
渋沢にしては、苛立ったような口調だった。こいつも風祭が転校した理由の一部を知っているのだろうと三上は思った。
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