どのくらい走ったか分からなかった。気がつくと辺りは真っ暗で、どことも知れない森の中のようだった。
せまいマサラタウンのことだ。きっと走り続けている内に町を出て、どこかに迷い込んでしまったにちがいない。シゲルは木の根元に座り込んだ。
我に返れば、どっと疲れが襲ってくる。服は水に浸かったようにびしょぬれだった。
どうしようかとも思ったが、動く気もしなかった。座り込んで、ただぼうっと宙を見つめている。恐怖はない。森の暗さも、獣たちの鳴き声や物音もシゲルには遠く感じられた。
ひょっとしたら野生のポケモンに襲われるかもしれない。そのときは死ぬだけだ。
なるべくサトシや祖父のことは考えないようにする。サトシや祖父のことを考える事の方が、森とそこにある危険よりもずっと怖かった。
「シゲ……りゅ……」
微かな声が響いた。泣き声も同時に響く。
シゲルは打たれたように立ち上がった。その物音を聞きつけて、小さな影が走り寄ってきた。
「なっ――!」
サトシは棒立ちになったシゲルにしがみつき、雨と涙と鼻水と泥とでぐしょぐしょになった顔で――笑った。
「よかった、シゲりゅに会えた」
頬が腫れている。
「シゲりゅ、足が早いな」
「お、追いかけてきたのか」
サトシはうなずいた。
シゲルは呆けたようにサトシを見つめていたが、すぐに手荒く突き飛ばした。
「どっかに行けよ」
サトシがしりもちをついて、シゲルを見上げる。
「僕のことはほっといてくれ」
「やだ」
サトシは頬をこすった。跳ねた泥が広がる。
ぬかるんだ土に手をついたままサトシは言った。
「シゲりゅと家に帰る。シゲりゅが帰るまでここにいる」
「僕は帰らない」
「どうして?」
「一人で居たいからだ」
「――寂しくないの」
シゲルははっとした。
(寂しくない?)
母は家を出る前にシゲルにそう聞いたのだ。
「大丈夫だってば!」
母の背中を押して、父の元に近づけながらシゲルは言った。
「じゃあ、なるべく早く帰るわね」
「行って来るな、シゲル」
二人が笑顔で車に乗り込む。今日の夜は三人だけで誕生日祝いをしよう――そう言い残して、行ってしまった。
約束は父と母とともに冷たい土の中だ。
「どうして……」
シゲルは叫んだ。
「サトシはそんなに笑えるんだよ!」
止まらなかった。止めようと思っても、父や母の顔が浮かぶ。
葬儀の日に降った雨、姉の泣き声、兄の横顔、祖父のうなだれた姿、がらんとした家、泥だらけのバースデーカード――それらを思い出すことを止めてしまうことはできなかった。
「僕は邪魔にされてるのに! みんな僕を置いていくのに、一人にしていくのに、どうしてサトシはまとわりつくんだよ! お母さんが居るくせに、どうして僕の側に来るんだよ!」
「シゲりゅ」
「いつだって置いてけぼりだった。せっかく一緒に居られると思ったのに、また一人だ!僕だって……僕だって……」
シゲルは膝をついた。熱いものが目から出てくる。
「お母さん――お父さん……」
シゲルがしゃっくり上げた。
「な、なんで、死んじゃったんだよう……お祝いしようって……ケーキ食べようって、い、言ったくせに……うそつき……」
サトシはしばらくシゲルが肩を震わせて泣くのを見つめていたが、そうっと立ち上がり、シゲルの側にしゃがみ込んだ。
手を伸ばして頭をなでる。
「シゲりゅ、いいこ」
シゲルは泣き続けた。今ままでのぶんを取り戻すように泣き続けた。悲しいのは消えないのに、胸につかえていた重いなにかが軽くなっていく。
泣いて、泣き続けて、気がついたらサトシの腕の中で眠っていた。
サトシはしっかりとシゲルを抱きしめ、自分も泣いていた。シゲルよりは小さく、声を抑えて泣いており、レインコートの下の体は熱く、震えていた。
「サトシ?」
返事がなかった。サトシはしくしくと泣き続けている。
シゲルは体に回されたサトシの腕を掴んで、サトシの顔を上げさせた。
「サトシ?」
頬の腫れはひどくなっていたが、なにより顔色が真っ赤で、呼吸が荒い。
シゲルが顔をのぞき込もうとすると、いやいやをして、シゲルの肩に顔をもたれかけた。
「気持ち、悪いよう……」
サトシは言って、肩を震わせた。
「サトシ……?」
シゲルの胸が鼓動を早くする。
ふとサトシが言った。
「シゲりゅ、いい子。もう大丈夫」
シゲルは言葉を失って、泣き続けるサトシを抱きしめた。
それから辺りを見まわす。どこもかしこも闇とそこから浮かび上がる不気味な影だけである。サトシの荒い息がやけに大きく響いていく。
それ以上に自分の心臓の音がうるさい。
「サトシ」
呼ぶとサトシは何も反応しない。シゲルはサトシを抱いたまま、立ち上がろうとして、倒れ込んだ。湿った土の匂いをかぎながら、シゲルはもう一度立ち上がろうとした。
サトシの体がひどく重く感じられる。思いついて、サトシをおんぶするようにしてまた歩こうとする。
足を引きずり、何歩か進んだところで、シゲルは膝をついた。
(助けなきゃ)
その言葉が頭の中をぐるぐるまわるのに、力はまったく入らない。
(サトシを助けなきゃ)
立ち上がり、転び、サトシを抱えて、また立ち上がる。
(助けなきゃ)
なおも進もうとして、シゲルは息を呑んだ。
(――どこへ行けばいいんだ)
道などあるわけがない。真っ暗な森のなかではどこも同じようにしか見えない。
シゲルは唇を噛みしめ、足を進めようとして、倒れた。すでに足は限界のようだった。
サトシと折り重なって倒れながら、シゲルは涙をこぼしかけ、こらえた。
(サトシの方がきついんだ)
シゲルは何度も立ち上がろうとする。だが、それは地面の上でもがいているだけだった。
(サトシ)
気が遠くなった。なにかの鳴き声がする。
「シゲル!」
誰かが叫んだ。
「サトシ!」
懐かしい声――父親かと思った。辺りが眩しくなる。
「シゲル、しっかりするんじゃ!」
(――おじいちゃん!)
目を開いた。真っ青な顔をした、オーキド博士とハナコが屈み込んでこちらをのぞき込んでいる。ウィンディが吠えている。
ばたばたと足音が聞こえ、大勢の人の気配がする。
「ひどい熱!」
サトシを抱き上げたハナコが叫んだ。
「早く病院へ運ぶんだ」
「こっちの子も早く!」
声とともに抱き上げられる。祖父の泥だらけの白衣が目に映った。
「僕……」
「しっかりするんじゃ、シゲル。すぐに病院へつくからな」
「ごめんなさい……」
「いいんじゃ、もういいんじゃ! お前が生きとるならもういいんじゃ!」
森を駆け抜け、シゲルを病院まで連れて行く博士は何度もそう繰り返した。
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