幼なじみ4



――シゲルは軽い風邪と疲労程度だったが、サトシは肺炎を起こしかけていた。
「起きて平気なのか、シゲル」
 白い病室に入ってきたのはオーキド博士だった。
 シゲルの体調が完璧に良くなるまでは、と自宅のポケモンの世話を知人に頼み、シゲルにつきそっている。
 シゲルはリンゴとブドウをかごに盛ってやって来た祖父に顔を向けた。
「食べるか?」
 皿とナイフを探して、オーキド博士はリンゴの皮を剥き始めた。
「きつくないか? そろそろ家へ戻れると先生が言っておったぞ」
 祖父の皺深くごつごつした手は意外に器用に、リンゴの皮を剥いていく。
 シゲルは祖父をじっと見つめた。
 シゲルが意識を取り戻しても、祖父はシゲルを怒るような素振りはまったく見せなかった。それどころか甲斐甲斐しくシゲルの世話を焼く。 「よし」
 皿にリンゴを置いて、楊枝を指すと博士はシゲルに差し出した。
「……ありがとう……」
 シゲルはおずおずとお礼を言った。
 博士は目元を優しく細めた。
「のう、シゲル」
 シゲルがリンゴを刺した手をびくりと震わせる。
「あんまりわしの寿命を縮めんでくれな」
 オーキド博士はそうっと言った。
 シゲルの唇が震えた。ぱたぱたとこぼれた涙でパジャマに染みができる。
「――ごめんなさい」
「泣かんでいい」
 オーキド博士はシゲルの頭を撫でた。
「男の子は冒険したがるもんじゃ。気をつけるんじゃぞ」
 頭を撫でる手は父によく似ていた。……父が祖父に似たのだろうか。
 シゲルは首を振った。
「ちがう、遊びに行ったんじゃないんだ」
 シゲルは泣きながら続けた。
「家にいたくなくて……マサラにいたくなくて、走ってたら迷っちゃって……サトシをひどい目に遭わせた。みんな、僕のせいなんだ……」
 オーキド博士はシゲルのまだ小さな体を抱き寄せた。
「シゲルはなにも悪いことなんぞしてないぞ。いい子じゃ、とてもいい子じゃ」
「お、おじいちゃん……」
「もういいんじゃ。早く元気になってくれな」
 博士はしっかりシゲルを抱きしめた。
 どうしてもっと早くこの孫をこうして抱きしめて、暖かく包んでやれなかったのだろう。
 シゲルの涙に混じって、博士の目からも涙がこぼれた。
「―― 一人だけにしとってすまんな……」

 泣き疲れて寝付いたシゲルに毛布を掛けてやると、博士はカーテンを閉めて、病室を出た。まっすぐ向かったのは、サトシの病室だった。
 面会謝絶の札がかかったドアの前の椅子に、寝不足で目を真っ赤に腫らしたハナコが座っている。
「ママさん……」
「博士」
 ハナコは白い顔を上げた。
「サトシの容態はどうなんですか」
「峠は越したそうなんですが、まだ油断はできないって……」
「そうですか……」
 博士はハナコの横に腰掛けた。
「シゲル君は?」
「もうかなり良くなっておりました」
「そう、良かった」
 ハナコの顔が少し和らいだ。
 博士はハナコの方に深く頭を下げた。
「申し訳ない、ママさん。みんなわしのせいですじゃ」
「何言ってるんですか、博士」
「もとはといえばわしがシゲルを一人にしておったから、始まったことです。謝って済むことではないですが、まことに申し訳ない」
「博士、いいんですよ」
 ハナコは首を振った。
「サトシが追いかけて行ったんです。あの子がそうしようと思ったからサトシはシゲル君の後を追いかけていったんです」
 ハナコはほほえんだ。
「こうと決めたらてこでも動かない子なんですもの」
 博士はサトシの病室に目をやって、うなだれた。
「――シゲルを見ておると、どうしてもあれの親を思い出しましてな」
 ハナコは黙って聞いている。
「シゲルはあの年頃にしては、かなり早熟で、天才だと息子……あれの父は言っておりました。父親と母親の葬儀のときも涙を見せないで、黙ってじいっとしておるだけでした。わしは気がつかんかった、シゲルがどれだけ深く傷ついていたか。泣かないのではなく、泣けないのだということをまったく気がつかんで……」
 博士の拳が震えた。
「どれだけ頭がよい子どもだと言うても、子どもは子ども、歳以上に大人になれるわけがないはずじゃ……いや、早熟なぶん、自分の心を隠すことに長けておるのかもしれません。わしの方がシゲルに甘えておったんです……」
 博士はシゲルの頭を撫でた手をじっと見つめた。
「さっき、初めてわしのことをおじいちゃんと呼んでくれました」
 博士はゆっくり言った。
「わしにそんな資格などありはしないというのに……」
「博士、家族に資格なんかありませんわ。シゲル君を大切に思うなら、もう博士はシゲル君の家族なんですよ、きっと」
 ハナコは静かに言った。
「ママさん……ありがとう……」
 博士は乱暴に目元をぬぐった。
 ハナコはそっと手を組むと、祈るような表情で目を閉じた。

 サトシが意識を取り戻したのは、シゲルが退院した次の日だった。
「おじいちゃん」
 シゲルがドアから顔をのぞかせ、不安そうな顔で言った。
「サトシに会いに行っちゃダメかな……」
「ん?」
 オーキド博士が、パソコンに向かっていた体を椅子ごとシゲルの方に向ける。
「ダメかな、おじいちゃん……」
「いいや、そんなことはないぞ」
 シゲルが部屋に入ってくる。
「行ってきていい?」
「ああ。もう面会もできるとママさんも言っておったしな……」
 立ち上がりかけた博士をシゲルは押しとどめた。
「おじいちゃん、僕一人で行って来るから」
「……大丈夫か」
 博士はシゲルの目をのぞき込む。
 シゲルはもう以前のように目をそらすことも、感情のない視線で見つめ返すこともない。
「大丈夫。サトシに話したいことあるんだ……」
「そうか」
 博士はシゲルの頭を撫でた。
「行っておいで。気をつけてな」
 走り出すシゲルを見つめる博士の目には深い慈しみと愛情が込められていた。
 ――オーキド家には笑顔が生まれ始めている。

「シゲル君」
 病室から出てきたのはいつも通りあでやかなハナコだった。
 手に花瓶と花束を持ち、にこやかにシゲルを見下ろす。
「一人で来たの?」
「はい……おばさま、サトシにあってもいいですか」
「もちろんよ。きっと喜ぶわ」
 シゲルの真剣な表情にハナコは何か言おうとしたが、それは優しいうながしの言葉になっただけだった。
「さ、入ってちょうだい。私は花を生けてくるから、しばらくサトシの相手をしていてね」
 ハナコは、緊張した面もちで入っていくシゲルを見送ると手にした花に顔をうずめた。
「……いいにおい」
 病室の中でどのような会話が交わされるのか、ハナコにはなんとなく察しがついた。
 退院の日、ハナコの元へ謝りに来たシゲルの手はオーキド博士の手と繋がっていた。
 子どもらしい柔らかな表情をぎこちないながらも浮かべるようになったシゲルにハナコはどれだけ嬉しかったか、安堵したか分からない。
「――二人ともいい子たちよね」
 カスミ草がハナコの吐息を受けて揺れた。

  「あっ、シゲりゅ!」
 ベッドの上でフシギダネのぬいぐるみを抱きしめ、外を眺めていたサトシが顔を輝かせた。
 シゲルは椅子に座って、手にしたつつみを差し出した。
「これ……」
「なに?」
 サトシが身を乗り出す。
「ケーキ。後でおばさまと食べてくれ」
 サトシが嬉しそうに笑った。
「俺、ケーキ好き。シゲりゅは?」
「僕も……好きだ」
「そっかー。じゃあ、一緒に食べような」  サトシはシゲルが来てくれたことが嬉しいのか、にこにこ笑い続けている。
 その頬が以前よりは痩せていることにシゲルは気づいた。
「体、どうなんだ」
 サトシはまばたきをして、
「俺、外に行きたいのに、まだダメって」
 サトシは不満げに頬をふくらませた。
「シゲりゅ、もう外行ってるんだろ?」
「うん」
「いいなー……」
 サトシがため息をついた。
 膝を抱えて、頬杖をついたサトシはシゲルを見つめる。
「どうかしたのか」
「ん……シゲりゅ、シゲりゅって言っても怒らないね」 「――サトシ」
 シゲルはゆっくり言った。
「……ごめんな。俺のせいでひどい目に遭わせた……ごめんな」
 サトシは頭を下げたシゲルに目を丸くした。
「シゲりゅ、なんか悪いことしたの?」
「うん。サトシを死なせかけた」
「俺、死んでないよ」
「そうなりかけたんだ。僕のせいで」
 サトシはまばたきを繰り返し、何か思いだそうとした。
「……あっ!」
 サトシがおびえたような表情でフシギダネのぬいぐるみをきつく抱きしめた。
 シゲルはくちびるを噛んで、サトシが次に何を言うのか待った。
「――シゲりゅ、博士のこと、まだきらい?」
「!」
 サトシはあの日と同じような悲しそうな目でシゲルを見た。
 シゲルは小さく首を振り、そっと言った。
「ううん……大好き」
「ほんと?」
 サトシがまだ不安そうに聞く。 「本当。おじいちゃんのこと大好き」
 シゲルははにかんだように繰り返した。声が少し大きくなる。
「大好きだ。きらいなんて嘘だ」
 サトシがもう一度、不安そうに聞く。
「俺のこと、きらい?」
 シゲルは大きく首を振り、はっきり言った。
「ううん。大好き」
 サトシの顔がぱっとほころぶ。
「俺も、俺もね、シゲりゅのこと大好き!」
「うん!」
 シゲルがサトシをまっすぐに見つめ、笑った。
「僕、おじいちゃんもサトシもおばさまもみんな、好きだよ」
「俺も、俺も!」
病室に笑い声がはじけた。
 サトシがばたばたと足を振り、フシギダネを放り投げる。
 シゲルも負けないように、立ち上がりぬいぐるみを受け止め、放り投げる。
「俺なー、長い注射したんだぜ。でも泣かなかったんだ」 「僕だって、苦い薬いっぱい飲んでるんだからね」
 笑いあい、小突きあい、ベッドの上で暴れた。 サトシの病室が個室だったので誰も止めに来ない。
 さんざん暴れ回って、サトシとシゲルは並んでベッドに横になった。
「サトシ、治ったら遊びに行こうな」
「うん」
「いいもの見せてやるから」
「いいもの? なに?」
「治るまで秘密だ」
「ちぇっ」
 サトシは唇をとがらせて、大きくあくびをした。
「シゲりゅのケチー……」
 語尾が伸びていく。シゲルもあくびして、目をこすった。
「サトシ……遊ぼうな……」
 子供二人の声が響いていた部屋はやがて、静かな二つの寝息だけになる。
 部屋が静かなのを不思議に思い、そっとドアを開けたハナコの目に入ったのは、ベッドの上で身を寄せ合うサトシとシゲルだった。
「あらあら、布団も掛けないで」
 花瓶を置いて、ほほえんで近づいたハナコは、あることに気づき、また笑みを深くする。
 二人の足下でぐちゃぐちゃになっていた布団を引き上げ、かけてやると、ハナコはサトシとシゲルそれぞれの髪を梳いて、目を細めた。
「ママさん……」
 そこにやって来たのはオーキド博士である。どうしてもシゲルのことが心配で、病院へやって来たのだった。
 ハナコが唇に人差し指をあて、手招きすると、博士は足音を忍ばせ、二人が眠るベッドにまでやって来る。
「やや、これは……」
 オーキド博士がハナコと同じく、目を細める。
「かわいいですわねえ……」
「まことにそうですなあ……」
 さわさわと外から心地よい風が吹き込んでくる。 ハナコと博士の視線は、二人の子供から離れることはなかった。
 幸せそのものの笑みを浮かべ、安らかな寝息をたてるサトシとシゲルの手はしっかりと握りあわされていた。
 


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