夜鳥の歌い手の声に、薄い哀しみと艶が加わった季節、戦端が開かれた。同盟の盟約は果たされなかった。各国の暗黙の支持と様子見を背景に、ユトリアは軍を進め、黒子の住む街も支配下に置かれた。各都市部への交通と補給の要所として扱われ、瞬く間に、客層から自国の軍関係者の姿は消えた。代わって、現れたのは占領国の兵士たちだった。勝者の傲慢さと驕りでもって、街を闊歩し、商店から品物を奪い、街行く女たちに野卑な言葉をかけた。馴染み客の足も遠ざかっていく。何人が国外へ逃げたのか、それとも捕らえられたのか、分からない。
街は閑散とするかと思われたが、皮肉なことに、酒場は占領軍相手に、以前よりも繁盛し始めていた。兵隊相手の娼婦がどこからともなく集まり、盛り場は賑わいを増していた。
夜鳥にも、兵士が客として訪れるのはめずらしいことではなくなった。中には黒子に自国の歌を歌わせては、傲慢な笑い声を上げる者もいたが、たいていは、歌を聞いて、おとなしく酒を飲む者が多かった。
兵士を相手にするのに、店中が慣れた頃、夜鳥は思いがけない客を迎えた。
その日は、少し騒ぐ兵士がいて、店の女にも、たちの悪い絡み方をしていたから、店内には、やや険悪な空気が漂っていた。嫌悪感をあらわにして兵たちに詰め寄ろうとするボーイ数人を押しとどめ、黒子は自身で、兵たちに近づきかけていた。歌のリクエストを訊くことで、気を逸らさせようと思ったのだが、その時、店と外を繋ぐ扉が開いた。
現れた三人の男たちの服装を見て、店内のざわめきが、水を打ったように静まる。
上下の黒いスーツの下に白シャツをのぞかせ、スーツと同色のネクタイ。何より、牙向いた狼と髑髏を組み合わせた帽章を見れば、肩章や徽章を確かめずとも、武装特務部隊に所属する男たちとは明らかだ。
彼らは、店内を一瞥し、階段を降りてきた。と、中央の男が騒ぐ一般兵たちに目を留め、眉を顰める。ただ、それだけで左右の男たちの表情が強張った。すぐさま、醜態を見せる兵たちの元へ行こうとする左右の男たちを、中央の男は手袋を填めた手を軽く挙げる仕草で止めた。
後ろ手のまま、つかつかと足音を立てながら、自ら彼らの席に歩み寄っていく。
鋭いユトリア語の響きが鞭のように飛んだ。兵たちは直立不動に立ち上がり、敬礼する。
男は不快げな様子で、兵たちに言葉を発し、彼らは乱れていた軍服を直し始める。その間に、男は兵たちに絡まれていた女に優雅に笑むと、戻るようにうながした。足早に戻ってきた女はカウンターに入り、ほっとしたように息をつく。
兵たちが軍服を直すのを見届けた男は、兵たちの名と所属を問いただし、何事かを告げて、同行者が待ち受ける箱席へと向かった。それぞれに腰を下ろした三人の姿は軍服の色と相成って、まるで闇の化身のようでもある。
店にいた客たちは、彼らから目を逸らし、目立たぬようにと背を丸めた。一般兵と違い、将校たちは紳士的であるが、それは飢えを満たした肉食獣の礼儀にも通じる。腹が減れば、あるいは何か気に障れば、たちまち喰い殺されよう。
店主はカウンターを出て、自身で男たちの元に注文を受けに行く。入れ替わるように、酔いも醒めたらしい兵士たちは席を立ち上がり、上官たちに敬礼するとそそくさと店を出て行った。
男達の訪れに気づいたのか、ピアノの音がわずかに乱れ、カウンターで薄い酒を口にしながら、この一場面を眺めていた黒子は、案じるような目をピアノ奏者に送った。
戻ってきた店主は黒子にささやいた。
「歌を、ご所望だ」
黒子はうなずいて、ピアノの元へ歩み寄った。奏者に視線を送る。彼は黒子の姿を目にして、ほっとしたように笑んだ。傍らに立って、奏者に何を歌うか囁く。すぐには歌わないから、少し指を慣らすように告げると、曲ともつかない、柔らかな音の連なりが広がる。歌い手が側にいることに安堵したのか、いつもの調子を取り戻したようだ。
黒子は歌う前に、いつも通り、店内に視線を滑らせた。男たちの訪れに気づいて、席を立った者もいる。奏者に、もう少し続けるように合図して、黒子はピアノにもたれかかった。昔なら、ここで声が掛けられたこともある。騒ぐのが好きな陽気な客が多かった頃だ。黒子の名を呼んで、聴きたい曲名が、店のあちこちからあがって、誰かの野次と笑い声が混じった。紫煙とグラスの触れ合う音と、酒に酔う楽しげな人々がいたのだった。
酒場にしては静かな店内を店主が歩いて、箱席へ酒瓶とグラスを置いた。内の一人が、店主に何か囁き、店主はテーブル上の小さなろうそくに火を灯した。
男たちの面が、浮かび上がる。制帽を脱いだ中央の男は葉巻をくゆらせていた。
彼を目にしたとき、黒子はかすかに息を呑んだ。
右目下にほくろがある。軍人とは思えぬ貴族的な端麗な面立ちだが、眼差しは酷薄なまでに冷たい。重なる面影などないはずだった。なのに、瞼裏に浮かぶ男の顔がある。
まさかと、うつむいたとき、手袋を外した手が目に入った。鈍く光る銀の指輪に刻まれている紋様、蔦と花に絡むその意匠は、わずかばかり異なるが、すでに見知っていた。裏側には彼自身の名も刻まれているに違いない。
――道を違えたと火神は言っていた。
彼の視線が黒子を射る。黒子はそれを挑むかのように、受け止めた。わずかな驚きが男の瞳に浮かんだが、すぐに冷徹な光に消される。
不審を抱かれる前に、黒子は奏者に合図した。前奏が流れ出す。歌い始めても、彼の視線は黒子から離れなかった。氷に抱かれるごとき、視線だった。
その夜、黒子は彼の名を知った。
氷室辰也。貴族階級出身の上級将校。今のこの国では、それで充分だった。
氷室は数日を経て、ふたたび店に姿を見せた。酒を飲み、葉巻をゆったりと吸う姿は、初めての来店時と同じで、ただ連れがいないことだけが違いだった。店主は何か気に入らない点でもあったのだろうかと、少し気を揉んでいたが、氷室は注文時以外には、誰と話す訳でもなかった。寛ぐ、というほどの、柔らかな雰囲気はなく、かといって、監視するような態度でもなく、ただ、一時を過ごしている、無感動な横顔だった。
店主を通じ、黒子はリクエストを受け取り、望まれるままに歌った。歌は国関係なく好まれている、古めかしい民謡だった。
歌い終えて、店内の客からは拍手が贈られたが、氷室の指は葉巻を持ったまま動かなかった。何か考えに耽るような横顔で煙を眺めていた。歌が気に入らなかった訳ではないのは、過分のチップを置いていったことから明らかだった。
近頃では自国通貨よりも、価値のあるユトリアの金貨を、店主は手のひらの中でもてあそんで、厄介な客になるな、とため息混じりに呟いて全部、黒子に渡した。
予感は的中して、氷室はたびたび、店に姿を見せるようになった。大抵、一人でやって来て、箱席に座る。酒をゆっくり飲んで、店主に歌を頼む。他の兵士や士官たちが好むような国歌や軍歌といった歌を氷室は希望しなかった。少し昔の流行歌や、誰もが口笛で奏でられるような懐かしい旋律を持つ歌、それが氷室が頼む歌だった。黒子が歌う間に葉巻を吸い、チップを置いて帰る。
おそらく、街に駐留している軍の中でも、かなりの上層部に位置しているであろう氷室が来るには、夜鳥という店は安い。女たちもいるが、その手の酒場女ではない。羽目を外すのであれば、娼婦が出入りする店も、もっと高級な女たちが相手する店も同じ地区内にはあるが、氷室は夜鳥では、酒と葉巻を嗜む時間のみを求めているようだった。
軍規に厳しく、上層部とも親しい名門貴族出身の将校が店に来ると知られて、柄の悪いユトリア兵たちは、夜鳥を避けるようになった。こればかりは助かるなと、飲み代を幾度となく踏み倒された店主は言うが、何度訪れようが、氷室がもたらす張り詰めた糸のごとき緊張感が柔らぐことはなかった。
近づかず、一定の距離を置いて、機嫌は損ねぬよう、目立たぬよう、ひそやかに。それが氷室に対する接し方で、彼もそれを望んでいるように思えた。
彼が店に来る目的が、静かな時を過ごす以外にあるのだと知らしめたのは、氷室の訪れが、しばし途切れていたある週だった。
開店前、黒子はピアノを磨き、途中、奏者が置いたままにしていた楽譜を手にしてみた。なめらか指運びとはいえないが、調子を取る程度ならピアノは弾ける。時折、喉を鳴らすために、開店前、つま弾きながら歌うこともあった。
鍵盤を指で撫でるようにすると、波のように音が広がる。
「黒子、あれ、歌ってくれ」
「俺も聞きたい歌あるんだ」
音を聞きつけて、グラスを磨いていた店主や、テーブルや床掃除を行っていたボーイたちが、手を止めて、声を掛けてくる。
何を歌いましょうかと黒子が問いかけようとしたときだった。
扉を開けて、軍服姿の男たちが数人、どかどかと靴音も荒く、店に入ってくる。はっと身を強張らせるボーイや、気が強い者は敵愾心をむき出しにした表情を浮かべた。不穏な空気が流れる前に、店主はカウンターをくぐって、従業員と兵たちの間に割って入った。
眉を顰めつつも、おだやかに口を開く。
「―― 一応、開店前なんですがね」
店の主には、兵たちは目もくれなかった。
「黒子テツヤはいるか!」
楽譜を置いて黒子は立ち上がった。
ピアノを離れて、こちらへ近づいてくる、盛り場に居るにはあまりにも簡素過ぎる衣装をまとった細身の歌手を、男たちは、幾分、意外そうな眼差しで迎えた。
「黒子は僕ですが」
兵長の袖章をつけた男が、黒子をじっと見下ろし、いかめしい声音で告げた。
「氷室大佐より、本日はこの店に足を運ぶ時間がないため、屋敷へ招待したいという言葉をお預かりしている。すぐに準備をしていただきたい」
丁重な態度と物言いにも関わらず、そこには命令の響きがあった。
「なにを……」
もの言いかけた店主の腕を押さえ、黒子はうなずいた。
「外套を取ってきます」
店主に目配せして、黒子は店裏の小部屋に外套を取りに走った。
「おい、黒子」
追ってきた店主の気遣わしげな眼差しにうなずいた。
「僕なら大丈夫です。断った時の方が恐ろしい」
逆らえば、何が待ち受けるかは明白だ。占領国の兵士を相手にする商売というのは薄氷の上で踊るにも似ていた。
「――くそっ、あいつら好き勝手しやがって」
目に余るような振る舞いも多い、ユトリア兵相手に、恬淡と接している店主にしては、めずらしく言葉荒げ、壁を苛立たしげに拳で打った。
「あんなお偉いさんがうちみたいな店に来るのが、おかしいと思ってたんだよ」
「……そうですね」
外套を羽織り、黒子はボタンを留めた。氷室を信頼しているとか、そんな訳ではないが、不思議なことに、恐れはなかった。
「気ぃつけろよ。何にかはわからねえけど」
あきらめ顔で見送る店主に、うなずいた。
「いってきます」
店の前で待っていた黒塗りの車に乗り込む。盛り場の歌手を迎えにやるには立派すぎる車だった。
氷室が居しているのは軍が徴集したであろう、富裕階級の商人の構えていた屋敷だった。屋敷本来の持ち主は、侵攻時にはすでに、街にはいなかったが、行方は知れなかった。いつの間にか、誰かの姿が消えるのは、いまやめずらしくなかった。自分もその一人になるのかもしれないなと黒子は、ふと思う。
お仕着せ姿の家令に丁重に出迎えられ、客間に通された。
「いますこしのお待ちを」
女中の手によって紅茶が運ばれる。あたたかい茶を飲みながら、黒子は氷室を待っていた。かちかち、と飾り時計の針の音だけが聞こえる静かな部屋だった。
使い込まれて艶を放つチークの戸棚やテーブル、クッションの細かな花の刺繍、柔らかな黄色の壁紙。楽園に遊ぶ子羊と、それを見守る羊飼いを描いた絵画。暖炉には火が入っており、薪が時折、はぜて細かな火花を散らした。炎の揺れを見つめ、秒針の音を聞く内、眠気すら覚えそうな心持ちになる。
あたたかな部屋だ。持ち主の息づかいと愛着が宿る家具、団欒の居間に相応しい絵。マントルピースに飾られた絵皿や、古めかしい写真。何やら記憶にあるような気がしなくもない。朧気に思い出していると、それは、ずっと昔、物心ついて間もない頃の幼い黒子が家族と過ごした居間に似ているのだった。
目眩を感じ、こめかみを押さえた。ぽとりと雫を落としたかのような、淡い悲しみの影が胸を過ぎり、黒子はそっと首を振った。
この屋敷の持ち主は、黒子の生まれ故郷と土地を同じくしていたのかもしれない。豪奢よりも華美よりも、団欒をこよなく大切にしていた人柄が思われる部屋の内装だった。
物思いに耽る黒子は、静かに開かれた扉から、迫り来る夜を思わせるようにひそやかに忍び込んできた男の気配に気づかなかった。
氷室が黒子の横顔を見守り、唇を開くまで、短いとはいいがたい時間があった。
「――わざわざ、来てもらってすまないね」
身じろぎした黒子が、立ち上がろうとしたのを氷室は片手を挙げて、制した。
スーツの上は着ておらず、シャツにネクタイ姿だったが、店での姿よりは、くだけたようにも見えるのは、ここが彼の私邸だからだろう。
「今日は店に行く時間がどうしても取れなくて、無理を言った。彼らは礼儀を守っていたかい?」
それなりに、と黒子は正直に答えた。
氷室の口元が笑んだ。
「なら、よかった」
氷室は黒子の隣の椅子に腰を下ろし、からかいとも嗜虐ともつかない光を浮かべた瞳で見据えた。
「店にいても、どこにいても、君は、いつも、そうなのかな」
微笑する氷室を、黒子は訝しげに見やる。
「とても静かだ。そのまま、消えるのかと思うくらいに」
「幽霊ではありませんので」
「そうだった。亡霊では困る。招いた甲斐がないからな」
「……ご用をうかがいます」
ああ、と氷室はうなずいた。
「歌ってほしい」
指さす方には、壁際に置かれたピアノがある。
「調律はしてある。君の声だけでも構わない」
黒子は立ち上がり、ピアノの方へ行った。氷室の側から離れた分、暖炉から遠くなり、部屋の隅に残っていた冷気が、体をひやりと包む。
扉がノックされ、酒瓶とグラスを盆に載せた家令が入ってきた。主のために酒の準備を整え、これは黒子のためだろう、ピアノの側の小テーブルに水差しとグラスを置いて、暖炉に薪を足し、一礼して部屋から去っていく。
二人きりになった部屋で黒子は訊ねた。
「何を歌いましょうか」
「そうだな」
氷室が口にする曲名は、店で依頼される歌と、何が違うわけでもなく、黒子はピアノの音を交えながら、望まれるままに歌った。店で飲むよりは、ゆっくりした手つきで、氷室はグラスを傾け、やがて葉巻を取り出した。
喉を休ませる時間を挟みながらも、氷室が呟くように告げる歌を、黒子は歌い、氷室は、煙を吐きながら聴いていた。
立場も背負うものも違う二人が過ごす居間は、暖炉に温められた空気と歌声が満ちて、一見したところ、夜半の団欒にも似た光景だった。敵意はないけれど、なごやかさもない、不可思議な時間が流れ、最後に、氷室が告げた曲名の意外さに、黒子はうなずきつつも、目を逸らさずにはいられなかった。
たった一度だけ店に客として訪れた火神がことに気に入っていた歌だった。最近では、兵に里心をつかせるからとあまり歌われない。酒がそうさせたのか。酔ったとも思えない白皙の将校は、黒子の歌うのを待っている。
胸に宿る面影を振り払おうとは思わなかった。
――忘れ得ぬ、かの面影よ。あなたは、あの日を覚えておいででしょうか。
続く歌詞にあるように、二人で花を見たこともなく、酒杯を交わし、尽きせぬ言葉を交わしあったこともない。一時の時間を分け合い、寄り添っただけだった。それでも、あの日々は優しいものだった。哀しくはなく、けれど愛しい。
少し調子を外した声で、彼は歌っていた。思い出しながら黒子も歌う。
――今宵別れれば、いとし君はいつ帰る。いつの日に、君かえる。
帰らぬ人を思い、過ぎゆく時間の中に身を置いて思い出を抱き、なおも、願うように、祈るように、言葉は続く。
――いつの日に、きみ帰る。
――いつの日に、きみ帰る。
歌を終え、声の余韻が消え、部屋に静けさが戻る。
氷室はいつの間にか閉じていた瞼を開いた。
「――君の歌は評判だが、それほどにうまくはない」
葉巻を灰皿に置いた氷室は、身動きして肘をついた。
「なのに、聴きたくなる。妙な声だね」
「褒めてもらってるんでしょうか」
氷室は笑んで、黒子にグラスを勧めた。一杯だけ付き合い、二杯目は断った。彼は気にせず、葉巻をくゆらせていた。
夜鳥も店を閉めようかという頃合いに、氷室がグラスを置いて、呟いた。
泊まっていくように。
言葉に黒子は首を振り、部屋を出た。
かすかな声で名を呼ばれた気がして、振り返ると、氷室の眼は、とうに黒子から逸らされ、闇を切り取った窓に当てられていた。
※
その日をきっかけにして、黒子はたびたび、氷室の屋敷を訪れるようになった。黒子が屋敷への招待を拒まないと知った氷室は、いきなり迎えを寄越すことはなくなった。
呼ばれるときは、開店前に青年兵が店を訪ねて来る。黒子がいなければ彼らは店主に言伝を残し、そういう日、黒子は店の表には顔を出さず、氷室の迎えを待つ。黒塗りの車に乗って、氷室の屋敷へ向かい、時には晩餐を共にすることもあった。
語り合う訳でもなく、氷室は黒子に、様々な曲名を告げ、問いかけるでもなく、黒子は氷室が名を挙げた曲を歌った。泊まれという言葉にだけは従わなかった。氷室はそれを許していた。いつでも屈せられる傲りからでなく、拒まれるのを望んでいるようにも見えたが、それが正しい見方なのかは分からない。
内面だけでなく、ある程度の距離以上を踏み込ませない、氷のようなものを、氷室は常に保っていた。たまに微笑するときでも優しさはなく、冷ややかさがつねに漂い、眉間を顰めるか、わずかに眼を細めるだけで、周囲にいる者が、居住まいを正し、緊張感を露わにする。
兵士たちの市民相手にした略奪や粗暴な振る舞いが、徐々に減っていったのは、彼が治安を乱す兵士に対し、容赦ない処罰を下したからだともいう。それを行い、なおかつ咎められない権限がすでに氷室には与えられていた。
事実上の街の統率者だが、黒子は恐ろしくなかった。彼に相対しても、恐怖は生まれない。かといって、親しみを感じているのとも違う。氷室を厭うこともないが、慕情を抱くわけでもない。
時折、思わずにはいられなかった。氷室と彼は、何を語り、どんな時を過ごしてきたのだろう。彼の屈託のない笑みに、氷室はどう応え、兄と言わしめたほどの絆は、どうやって築かれていったのだろうか。
決別の果てに、氷室はここに在り、黒子も同じ場に居る。いないのは彼だけで、互いの間に立つ一人の男のことなど、おくびにも出さない。歌う者と歌を求める者、それだけの関係を保っている。
火神がどこにいるのか、何をしているのか、黒子には分からない。占領国に対する不利な情報の報道は一切無く、国外からの情報も何もない。火神が残した言葉を思えば、彼の立場は想像できたが、ユトリアは盤石の体制で侵攻を続け、勝利のみがもたらされている。彼の戦いが、どのような苛烈なものなのか、想像もつかなかった。
いずれ、伸ばした自分の指先が分からぬほどの暗い闇が、街を、国を、世界を覆っていくのだろう。闇が終わる日は来るのか。夜明けという時を生きてふたたび、迎えられるのか。
惑うとき、鎖に下げた指輪を探る。この重さがなければ、きっと、心は我が身を離れ、そのまま消え失せていたかもしれなかった。いつの日にか。その言葉だけを頼りに、今、在る。
繋がっているというには、心もとないほどの、はかない細い細い縁の糸の片端が、彼にまだ結ばれているのならば、どうか、と黒子は祈る。
無事でありますように。怪我の痛みに苦しむことなどありませんように。そして、その荷の重さを我が身にも分け与え、彼がわずかなりとも休めますように、と。
――祈りが聞き届けられた奇跡を、それを知らしめる二人の使者を黒子が目にしたのは、夜鳥でだった。
開店して、客足がそれなりに増える時間に、やって来た二人連れで、新品でも、くたびれてもいない、ごくごく普通の服装で、うち、一人がかなりの大男という以外、とくに目を引くような外見でもなかった。
数人連れの客がやって来て、従業員が気づかない内に、カウンターとピアノの間、黒子がどちらに行く場合でも、必ず通る通路に位置した席に、二人は腰を下ろしていた。
初顔らしく、注文をするタイミングを計っているらしい、周囲を伺う様子に気づいたのは店主だった。ボーイに、おいっと声をかけ、席へ向かわせる。
少し雑談を交わしたらしく笑顔でカウンターへ戻ってきたボーイは酒瓶から、グラスに酒を注いだ。誰にともなく、彼は言った。黒子の耳にも声は届く。
「仕事探しに来たんだとさ。カトッツから、わざわざ!」
軍駐留にともない、景気が上向いているのは事実だった。人口が増えれば、食料や日用品の需要も増える。流通や製造業、ことに軍に関わる仕事は給金も良いため、最近では稼ごうと田舎から出てくる人間も多い。大柄で、しっかりした体格も野良仕事で鍛えたものかと思えば、うなずける。
店内は、夜半らしい賑わいを見せ、黒子もカウンターからピアノの側に移動して、夜更けての酒を楽しむに、ふさわしい、ゆったりした調子の歌を一曲、歌う。
歌い終え、席のそこかしこから拍手が送られる。一礼した黒子は、あの初顔の男たちがこちらを見て、空になったグラスを振っているのに気づいた。
注文なら、とボーイを呼ぼうとしたが、男は黒子をはっきりと差し招いている。曲のリクエストか、と黒子は自ら席へ近づいた。奏者は、客の席へ向かう黒子を見て、静かな曲調の曲を奏でだし、店内にはふたたび、ひそやかな話し声が満ち始めた。
黒子に声を掛けたのは、黒縁眼鏡に短髪、怜悧そうな面立ちの男だった。
「お前が夜鳥の歌手の黒子?」
肘をついて、見上げられる。おや、と黒子は、違和感を感じた。ボーイの言葉からすれば、ずいぶんな田舎から出てきたはずだが、その割には、街慣れしている雰囲気が感じられた。とはいえ、客の出身を探っても、意味はない。
「はい、そうですが」
「歌を頼むと、他に代金はかかるか?」
いいえ、と黒子は首を振った。
じゃあ、と男は、少し前から流行りだした、甘い恋歌を歌うように頼んだ。
短いその一曲が終わると、二人は黒子に拍手を送り、ふたたび席に来るようにうながした。
チップだろうと席へ向かった黒子に、男が切り出した言葉は、あまりに意外なものだった。
「じつは、火神ってやつが言っていったんだが、あんたの歌声は、地方の酒場には惜しいってね」
黒子に片目をつぶりつつ、言う。
「今の歌で、それがよく分かった。どうだ、俺らと一旗揚げてみないか」
まず、まばたきをして、言葉を呑み込んでから、黒子は、思いがけない誘いに驚いた風に、眉をひそめた。
「……嬉しいお言葉ですが、これ以上の舞台では声量がきっと足りません」
「振られたな、日向。じゃあ、次は俺の番だ」
身を乗り出したのは、日向と呼ばれた男の隣に席を占めていた大柄な身体の男だ。体格には不釣り合い、といっては失礼だが、穏やかで優しげな顔立ちの男で、こちらは体つきに見合う大きな手のひらで、黒子の手を取った。
「指輪をしていないようだし、独身かい? 口説いてもいいかな」
男は自身の手のひらに黒子の手を握り込むようにすると口元に近づけた。指先に口づけられ、ちらりと見上げられる。
日向が、見てられねえとばかりに、目を逸らす。それが、周囲を探るための目つきであることに黒子は気づいていた。
「相手なら間に合っていますので」
やんわりと黒子は身を引いた。
「だめだ。俺も振られたよ」
「当たり前だろ、ダアホ」
日向は男をこづき、こづかれた男は黒子に残念だよともう一度笑みを向けた。
黒子は肩をすくめるようにして、席を離れつつ、酔客にからまれた戸惑いをなだめるように胸に手を遣った。男の手のひらから忍ばされた紙片を、胸元へ滑り込ませ、ピアノの方へ戻る。
男たちの視線が背中にあてられているのが分かった。奏者に、短い曲名を告げて、一曲、歌う。黒子の歌が終わると、男たちは立ち上がり、酒代を置いて、店を出て行った。他に席を立つ客はおらず、黒子は二曲、歌ってから、喉を休めるためと店主に断って、客の前から辞した。どこからも不審の念など湧かない、いつも通りの行動だった。
店裏の倉庫兼事務所代わりにも使われている小部屋に入ってから、初めて黒子は、自分の心臓が早鐘を打っているのに気づいた。指先は冷えて、細かく震えている。
震えを押さえながら、紙片を取り出し、広げた。
見覚えのある筆跡だ。名を呟こうとして口をつぐみ、同じようにこみ上げそうになった涙を堪えた。
望むならどうか二人を頼って他国へ逃れて欲しい。それは俺自身の望みでもある。
短い一文に黒子は、立っておられず、壁により掛かった。もう一度、文字をなぞり、これを託した彼を思った。頼みを引き受けた二人の男に感謝した。
心さえあればいい。この心さえあれば、生きていける。
「火神君……」
小声で囁いて、紙片を握ったのと同じ指で黒子は指輪を握りしめた。
翌日から二人組は、店にやって来ては黒子を口説いた。彼らに火神の消息を訊ねたい心を黒子は押し殺し、首を振った。彼らの絡み方はしつこくなく、気に入りの歌手を冗談交じりに口説く酔客といった、酒場ではごくありふれた風景だった。店主も、他の客も大して気にする風はなかったが、さすがに、氷室が姿を見せたときには、黒子も今まで感じたことのない緊張が背中を走るのが分かった。
それが習慣なのか、それとも職業柄か、店に入る際、氷室は店内を一瞥する。冷ややかに流れていく視線に気づく者はほとんどいない。どこにいても、彼の冷徹な眼差しは揺るがなかった。
日向にもその連れにも、氷室は興味を見せず、いつもの歩調で、すでに彼の席となった箱席に向かい、腰を下ろした。日向たちもまた、氷室の黒い軍服を見て、多くの市民たちが行うように、目を伏せ、交わし合う声を幾分、低くした。それだけだった。席は立たず、グラスを干していく。
氷室は店では直接、黒子と言葉を交わすことはほとんどないので、リクエストがあるときは店主が受ける。今日も店主が、注文と曲名を確認するために、席へ向かった。
氷室の席は、彼ら二人とは離れている。とはいえ、視界に入らぬでもない。今日、彼らが話しかけてきたのなら、氷室は目を留めるだろうか――否。店で客から直接、声をかけられることはめずらしくなく、黒子がそれに応えるのも、仕事の内だ。近頃では、氷室の存在に客の方が遠慮がちになっているだけで、氷室に気づかない者は、今まで通り、黒子に声をかける。
地味な衣装をまとって、音もなく、ピアノへ向かう黒子の姿を、気づいた者だけが目で追い、中には呼び止めて、歌って欲しい曲名を、先に告げる者もいる。うなずき、勧められるグラスに首を振りつつ、黒子はピアノの側に立つ。
二人は、静かに話し込んでいるだけで、黒子に話しかけては来なかった。続けざまに、長めの歌を二曲、ピアノの演奏を一曲挟んで、短い一曲を歌い終えた黒子に、二人がグラスを振って、合図した。
小さくうなずいて、席へ向かう。自分の足音がいつもより大きく聞こえるのは、気のせいに過ぎない。氷室は葉巻に火をつけ、伏し目がちになりながら、煙を味わっているようだった。
大柄な男の方が、微笑を浮かべて、黒子にチップを渡した。紙幣を受け取り、黒子はうっすらと笑んで見せた。
「――そういえば」
氷室の視線は感じられない。黒子は言葉を続けた。
「お二人とも、お仕事、探しているんでしょう」
初めての黒子からの言葉に、二人が短く、視線を交わし合う。まばたきする間に鋭さは消えて、二人は、いつもの酔いにまかせて、軽い戯れを口にする男たちに戻っていた。
「君に伝わるほど、困ってる風に見えたかい? 恥ずかしいなあ」
「実は、僕のアパート、空き部屋がかなりあるんですよ」
黒子は微笑して、客との内緒話だというように、そっと顔を近づけた。
「家賃もとっても安くて。お仕事探しの拠点に、ぴったりかもしれませんね」
※
空き部屋に住み着いたのは日向だけだった。それに合わせて、黒子が覚えたのは、幾つかの合図とノックの仕方だった。
ドアは決まった数だけ叩かれると、隙間から紙片が滑り込む。ノックの数で紙片を日向に届けたり、黒子自身が開いて、用事を済ませていた。大した用事はなかった。頼まれる使い事、ちょっとした食料品の買い出し、時折、どこからともなくやって来て、立ち去っていく人々への道案内。これは、旧市街の路地に、黒子が精通していると分かったとき、日向が苦渋の顔で頼んだことだ。
店に来なくなった日向の態度は、素っ気なかった。連れだった男も姿を消した。彼らの冷淡さは、黒子への疑いもあるだろうが、必要以上の内実を知らせぬ為のものだったろう。
黒子に望まれたのはひそやかな協力だった。出過ぎず、目立ちすぎず、あくまでも、影に徹し、必要なときだけ、扉を開く行為だった。
ほとんどの者は黒子の部屋には来なかった。空き部屋を使用しているのだと思われたが、彼らこそ亡霊のようで気配すら漂わせず、ましてや出入りする人影を、黒子はほとんど見かけなかった。
朧気に理解できたのは、日向たちが行っているのが国境越えのための脱出の手助けだということだ。どんな手段で、人々がやって来て、どんな方法で抜け出していくのか、黒子にはまったく分からない。
何も知らなければ、何も言えない。たとえ、捕らえられても話すことも口にすることもない。知らぬ事が最良の協力であった。ましてや、今や氷室大佐の気に入りの歌手として知られている今となっては。
愛人、と蔑み混じりとも、羨望ともつかない言葉を投げかけられるときもあった。否定も肯定もせずに、言葉を受け止めた。そう見えても仕方ない関係性ではあった。
周囲から少しずつ遠巻きにされ出したのは、黒子から氷室に対して、何らかの言葉なり態度なりが伝われば、自身の身が危ういという考えからだろう。それは今の時勢、賢い判断ともいえた。どんな理由で、誰が反抗分子の汚名を着せられ、捕らえられるか、誰にも分からなかったからだ。
店主自身にそうした態度は見られず、淡々と黒子に賃金を払い、氷室に接し、時折、軽口とねぎらいの言葉を掛けた。
店で歌い、氷室の前で歌い、日向を手伝う。その繰り返しの中で、黒子は自身が、境界に身を置いているような、どっちつかずの、狡賢さを守っているような気がしてならなかった。何かあれば、すぐに逃げられるよう機をうかがう卑しさが自分の言動や行動に滲み出てはいないか。そこに、私心が混じっているのではないか――彼思うゆえの、利己心とも言べきそれが。
日向に食料を届けたとき、黒子は話したいことがあると切り出した。ひそやかな協力が始まってから、初めての黒子からの問いかけに、彼は部屋内に黒子を招き入れた。
最低限の家具が置いてあるだけで、あまり生活感のない部屋だったが、少し不思議な臭いがした。糞と餌の入り交じる、この臭いは、生き物の臭いだ。その通り、ある扉の前を通ると、ざわめきにも似た、くうくう、という音や翼をはためかせる羽音が聞こえた。
気を取られた黒子に、日向は、あっさり教えてくれた。
「伝書鳩だ」
連絡用ということらしい。何羽いるのか。数匹とは思えぬ気配だった。
鳩部屋を通り過ぎ、台所のテーブルに、黒子は紙袋を置いた。かさばっているのは日向に頼まれた以外の品々で、以前には品切れになっていたものが手に入ったからだ。
めざとく、日向が袋の大きさに目を細めた。
「ん? 結構あるな」
「コーヒーが手に入ったんです。あとお砂糖と小麦粉も」
おお、と日向は頬をゆるめた。
「ありがとな」
日向は黒子から袋を受け取り、中身をテーブルにぽんぽんと出していく。手伝おうとした黒子の手を留め、日向は素っ気ない口調で訊いた。
「で、話って何だ」
「――もっと自分の立場を活用すべきではないかと思います」
日向の鋭い眼差しが飛ぶ。
「たとえば」
「軍の動向を探るとか」
日向は鼻で笑った。
「素人がスパイの真似なんて止めておけ。あの大佐は、お前が、何もしねえから気に入ってるんだろ」
「何もしない……?」
充分、罪とされる行為は行っている。レジスタンスへの協力など即刻、銃殺に処されても当然だった。
訝しげな黒子に、日向は手を振った。
「探りも入れず、お世辞も言わない。おねだりも告げ口も何もしない。煩わされないから、お前のとこに来るんだ、大佐殿は」
「……そうでしょうか」
氷室の横顔が浮かび、消えた。彼を憎んでいるわけではなかった。
「黒子、俺にも、向こうにも深入りすんな。自分の命を一番に考えろ」
棘はなかった。自分へのいたわりがこめられた言葉だからこそ、黒子は言わずにはいられなかった。
「だけど、僕は……蝙蝠にはなりたくない……」
日向が黒子に向き直った。ぽんと頭に手を置かれる。
「お前はお前の役目を果たしてる。十分だ。ってか、それ以上、役に立ったら俺の仕事がねえよ、それくらい分かれ、ダァホが」
ぐしゃぐしゃと髪を撫でる荒っぽい手つきは、ずっと昔、同じような立場に身を置いていた医師を思わせるものだった。
部屋を出て行き際に発した、ありがとうの言葉が日向に届いたかは定かではない。
月日が経つと共に、黒子が案内する人の数は増えた。まさかという思いに打ちのめされ、固く強張った表情を誰もが浮かべ、国境を越えて、逃れていく。
ひっそりと沼の底に沈んだ泥のように、ねばついた噂が囁かれていた。とてつもなく、おぞましいことが起きているのだと。捕らえられたが最後、想像もつかない恐怖が、逃れようとしている人々を待ち受けている。
不適合者、と占領国は告げる。其れは必要ない者だ。社会に不安をもたらし、破滅をもたらし、平和な生活を壊す。不適合者は不必要である。排除せねばならぬ、と。
烙印を押された者が、一体、どこでどのような扱いを受けているか、人々は言葉を呑み込む。目を伏せる。口にすれば、その場所に自分をこそ、追いやってしまうから、恐怖に口を閉じる。いま、この国で高らかに笑うのは死神だけだった。
ゆるやかにではあるが、店へ訪れる人間も減り、それにあわせたかのように、氷室の足も徐々に遠のいていった。屋敷に呼ばれる回数も減って、それは黒子を疎んじたとか、機嫌を損ねたとか、感情的な理由ではなく、もっと、現実的なそれだった。
戦況の悪化だ。海を越えた大国が、ようやく同盟に加わり、連合軍が生まれた。八カ国に及ぶ連合軍に対し、ユトリア軍の敗色説は濃厚になりつつあった。情報統制は行われているが、連合軍が空から撒くビラは、降伏を呼びかける内容で、始めは拾うことも、目にすることも許されていなかったが、取り締まりも追いつかないほどの間隔で、連合軍の戦闘機はビラを撒き続けた。軍拠点への空襲も相次いだが、反撃は滅多に見られず、対抗する戦闘機の準備すら覚束なくなっていると囁かれた。
レジスタンス活動も活発化しつつあったが、かえって弾圧は厳しくなり、それにともない、日向たちの動きには激しさとさらなる密やかさが加わった。先が見えてる方が馬鹿は無理をする、と日向は呟き、その頃から、黒子に亡命を勧めるようになった。
断ったのは意地でも何でもなかった。黒子が去れば、残った者だけでは脱国者の案内もおぼつかない。日向が仲間を少しでも安全な場所へ逃しているのを黒子は知っていた。捕らえられたレジスタンスには、その場での処刑命令が出ている。
死と隣り合わせにいながら、どんなときでも日向の背中は疲れを見せなかった。
懸命にもがき、未来を見据えて、今を動く者がいる限り、自分も共に在ろう。ここにはいない、別の地に在る彼もおそらく、そうするはずだ。
日向が残るなら自分も残る。それが決めたことだった。自分の身の内に生じたこの決意を無謀と呼ぶか、無茶と呼ぶか。
死も破滅も望んでいないけれど、恐れはなかった。鉱石のように、固く確かな心を知っている。それを抱いている限り、我が身が揺らぐことはない。数度の勧めを断った後、日向はもう、止めなかった。
時に日向と、時に一人で、動く中、戦時体制は深まり、総力戦、という言葉が幾度となく、本営から発表された。国民への物資供給よりも軍へのそれが最優先とされ、商店は空き棚ばかりで、配給は途絶えがちになった。灯火管制が敷かれ、街から灯りが絶えた。
嵐をやり過ごすように毎日を息をひそめて送る人々が、酒場に来るはずもなく、代用食も乏しいこの状態で、店側が酒やつまみを提供できるはずもない。
開店休業の日々が続き、ついに店主は、ある日、両手を挙げた。
「俺は、先に降参しておく」
言葉短く言って、店にあるわずかばかりの酒と食料を黒子を始めとした残っている数少ない従業員たちに分け与え、閉店を宣言した。妻の居る田舎に疎開するそうだ。
「行く当てないなら、お前も来るか?」
黒子も声を掛けられたが首を振った。
「いえ、僕は」
首を振る黒子に何を感じたものか、あまり深入りするなと意味深な言葉をかけて、店主は去った。
夜鳥の閉店を氷室は知っていたらしい。閉店後間もなく、通信兵が訪ねてきて、メッセージカードを渡していった。白いカードに、いつでも自分の所にくるように、と記されてあった。添えられていたのは花束ではなく、十箱に及ぼうかという生活用品や缶詰めを始めとした食料品といった物資だったのが現実的だ。
来いというのなら、兵糧攻めにでもした方が良いだろうに。氷室から贈られた品を、黒子は拒まず、部屋に置いた。愛人と噂されてきたが、初めて利益を受けたなと、何やら苦笑が浮かんだ。
日向は嫌悪を示すだろうか。今や、街に残った唯一の知り合いといっていい男の元を黒子は訪れた。部屋は相変わらず簡素だったが、以前と違うのは、鳩がいなくなっていることだった。まだ部屋に残る、生き物の残した臭いが懐かしくすらある。
日向は、黒子が運んできた品々に、さすがに驚きを隠せず、目を見張った。闇市でも開けば、一財産稼げそうな貴重な食料品類だ。卵にハム、チーズ、塩漬けの豚肉、それから種々の缶詰め、乾パン、日用品は石鹸やタオル、下着や衣料品、靴に毛布、剃刀もある。
こうやってテーブルに置いた品も、ほんの一部に過ぎない。
「いただきましたのでお裾分けに来ました」
「ふうん」
誰に、とも訊かないのは、この時勢にこれだけの物資を持っている者の見当がついたからだろう。軽く肩をすくめた彼に言った。
「嫌なら、無理にとはいいません」
日向は、長いため息をついて、桃のシロップ漬けの缶詰めを持ち上げた。
「貰っても盗んでも、結局、同じだ」
あいつらの物資、減らすなら誰も文句言わねえだろ、と日向は缶切りを持ってきた。
二人して味わったシロップと桃の甘さは、舌が痺れるほどの美味だった。
夜となく、昼となく、以前はユトリア寄りだった放送を流すばかりだったラジオは、今や連合軍の放送を拾うようになっていた。連合軍以外ではそれに呼応する自国軍、それからレジスタンスたち。彼らは呼びかける。勝利は近い。奮起せよ。今少しの辛抱だ、と。音声は時に、乱れながらも、今まで沈められ、封印されてきた怒りを解放せよと人々をうながし、鼓舞する。
集会は禁じられ、届け出のない三人以上の会話も禁止され、人気の絶えた街だが、痛いほどに張り詰めた空気が生まれ始めていた。占領軍兵士は以前のように、闊歩していなかった。市民たちは服従の影に反抗を見せ始めていた。押さえつけられていた憤怒が、徐々にではあるが膨らみ、破裂する日も近い。新市街側の地区では、レジスタンスとの戦闘が始まろうとしていると噂も流れていた。
市街戦が始まれば、どうなるかも分からない。外出は控え、部屋に閉じこもる毎日だった。日向はこのところ、忙しくしている。が、逃亡者はおらず、黒子が案内を頼まれることはもうなかった。
新市街で戦闘準備をしているというレジスタンスとの関わりでもあるのだろうか。地区に出入りしているというのなら、軍に見つからなければいいが、と、日向を気遣いつつ、ラジオを聴いた。
ユトリア軍と連合軍からの放送が入り交じって、調子の外れた歌でも聴かされているようだ。スイッチは切らず、聞き流している内に、窓際でうたたねをして、はっと目を覚まし、顔を洗う。
ここ最近、疲れきっているのに、体が休まらない。目が冴え冴えとして、眠りは浅く、細切れになる。今から何が起きても、すぐに気づき、すぐに動けるようにしていなければならないような気分だ。きっと、皆、そうに違いない。
住民がどれだけ残っているのかも分からない街並みを眺めやっていると、扉がノックされた。間隔を置いてもう一度、約束された数だけ、扉が叩かれる。
黒子が扉を開くと、数日、姿を見なかった日向が立っていた。彼は後ろ手に扉を閉め、部屋内を見回した。
目顔で誰もいないとうなずくと、日向はふっと息をついた。革のジャケット姿で、幾分、くたびれているような様子で、彼は扉に背を預けた。充血した目元を擦り、まばたきをする。彼もほとんど、休んでいないのだろう。
あたたかい紅茶でも出そうと黒子が台所に行きかけると、日向は黒子を呼び止めた。眼鏡の奥の瞳が、見透かすような、憂うように、またたく。
「どうしたんですか」
「潮時だ。ここで動くのは終わりだ。決まった」
逃亡の手助けは必要なくなったのか。追っ手が迫っているのか。それは、もはやこの街が、とどまるには危険すぎる場所となったのか。彼は、黒子の知らない繋がりでもって、何らかの情報を掴んだに違いない。
「わかりました」
黒子、と日向は改まった口調で告げた。
「俺は他の奴らと合流する。お前も一緒に来い」
一瞬、言葉が出なかった。行ってよいのか。足手まといにならないか。――そこに、彼はいるのか。
声の出ない黒子を迷っているとでも思ったのか、日向は厳しい目を向けた。
「嫌だっていっても引っ掴んで行くからな。荷物はあまり持っていくなよ」
「はい」
出発の日を告げて、日向は部屋に戻った。
手が震えた。会えるかもしれない。たったそれだけで、息も止まるような思いだった。
街を出る日にちまで、二日あった。持って行くほどの荷物もない。日向に習って、何気なく書き残したメモや、手紙、書類はすべて処分した。指輪を握りしめ、思うたびに早まる鼓動を戒めた。我が身に息づく激しさを思い知らされる。
落ち着かない数日を過ごし、迎えた当日、日向は、めずらしく慌てた様子で黒子の部屋の扉を叩いた。
「黒子、悪いが連れが出来た」
彼の拳の間から、白い紙がのぞく。事情を悟り、うなずいた。問いかけはしない、彼も答えはしない。時間もなかった。
「夕方までに戻ってこなかったら一人で行け。キトリムへ行くんだ。いいな」
眉を顰め、黒子は日向を見送った。
一人。昔ならば当たり前のそれが、今では、不吉な言葉だった。
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