夜に啼く鳥
(3)



 ――日が傾き始めていた。黄昏の気配がすでに街には漂い始めている。窓から離れ、椅子に座る。 時計を眺める。立ち上がりかけ、また腰を下ろす。幾度も、幾度も同じ動作を繰り返し、最後に黒子はそっと額を覆った。
 一人で行くべきなのか。
 言葉に従うのであれば、そうすべきだった。だが、動けなかった。彼に会うために行く、というのなら、それは、愚かで不実な行為に思えた。かち、かち、と鳴る時計の秒針が、いやに耳に障る。
 なぜ、日向は戻らないのか。嫌な想像が次々に浮かぶ。

迷った挙げ句、黒子は決めた。
 キトリムへ行って待とう。日向が遅れているだけなのなら、直接、向かうはずだ。
 脱いでいた外套を取り上げたとき、扉が叩かれた。控えめな、小さなノック音だ。我知らず、安堵のため息をついた黒子は、すぐさま扉を開こうと立ち上がりかけ、気づいた。
 音は止み、それからまたしばらくして、小さくノックされる。こつ、こつ、と鳴らされる音に聞き覚えはあるが、いつものやり方ではなかった。
 扉の外にいるのは日向でない。
 ざわつき始めた胸を押さえ、黒子は靴を脱いだ。足音を忍ばせて、扉に近づく。覗き穴からそっと外をうかがうと、黒の外套姿に帽子を深く被った男が、またも扉を叩くところだった。
 一人ではなかった。灰色の外套を纏った女とその足元に立つ小さな女の子が一人。
 ――黒子は扉を開いた。
 男は幾分青ざめて、固い表情で、後ずさった。くぐもりがちな声が唇から漏れた。
「黒子という方の家は……ここですか」
黒子はうなずいた。
「日向さんから、ここに……行けと」
 口ひげを蓄えた男と妻らしき女性、そして女性と手を握る幼い少女。男が小さなトランクを下げた以外は、荷物らしい荷物もほとんど無い。男女に共通しているのは、追われる者の恐怖を浮かべている、ということだ。今までにずっと見てきた逃亡者たちが必ず浮かべる表情だった。
 黒子は何も言わず、三人を部屋に招き入れた。素早く左右に目線をやったが、廊下に人の気配はなかった。
「日向さんは?」
 黒子は小声で訊ねた。幼女は母親に手を握られながらも、黒子の部屋に好奇心を隠せないようで、視線をあちこちと巡らせている。ほほえましい光景だが見守る両親の表情は強張るばかりだ。
「それが追われる内に、はぐれてしまって……この住所だけを頼りに」
黒子は我知らず、唇を噛んでいた。誰かが脱出したい者をここへ連れてきて、それから、またどこかへ連れて行く。目的の場所まで、黒子が案内することもあるが、知るのはそれだけだ。日向以外の人間と連絡を取る手段もないし、誰が協力者なのかも知らない。今日の出発の連れというのが彼らなのだろうか。
 だが、迷いも不安も三人の前で見せてはならなかった。彼らこそ、疑心暗鬼と恐怖の中に放り込まれているらしく、女は子どもを背にかばう様にし、男もまた妻と娘の前に立つようにして、黒子と対している。
「――何か他に、日向さんから聞きましたか」
「君の名前と……それからキトリムで待ち合わせしたいと」
 黒子は息を吐いた。キトリムは旧市街にある古い墓地だ。今日、日向が言い残した言葉に重なる。
「分かりました。行きましょう」
 幼女が、黒子の言葉を聞きつけて、ふてくされたような、拗ねるような声で母親の腕を揺らした。
「ママ、また歩くの?」
「ちょっとだけよ」
「うそ。さっきもそう言って、たくさん走ったじゃない」
 けがしてて転びそうになったの私、知ってるのよという幼女の言葉に、黒子と男は同時に女の足元を見た。ストッキングは伝線し、靴ばかりか足元は泥だらけだ。
「足を見せてごらん」
 男の言葉に妻は首を振った。
「平気、歩けるから」
 構わず、しゃがんだ男が妻の足から靴を脱がせた。痛みに声を漏らす彼女の足は、爪が割れ、豆が潰れ、血が滲んだひどい有様だった。
「どうして言わなかった」
「これくらい平気よ。時間がないんでしょう」
 首を振り、靴をはき直す妻を傷ましげに見下ろしながらも、男は休もうとは言い出さなかった。
とりあえず傷口が膿む前に簡単な手当だけでも、と黒子が包帯や薬を入れた戸棚に手を掛けようとしたとき、車のエンジン音が幾つも聞こえた。ブレーキのかけられる甲高い音とドアの開閉音、鋭い響きを持つ人の声が続く。どかどかと石畳を軍靴が踏みならす。
 部屋の空気が凍りついた。階下の扉が開け放たれる乱暴な音は、かすかな地響きと共に黒子の部屋にも伝わってきた。
 娘を抱き寄せる妻を、万感の思いを込めて見つめた後、男が動いた。
 扉を開け、出て行こうとする男を、とどめたのは黒子だった。今、動けば、捕らえられるのは明白だ。それを為そうとするのは、妻と娘だけでも、という男の強い心からだろう。
 男を睨むように見上げ、黒子は、だめです、と一言告げた。
 黒子は自身の部屋を見回し、部屋に作りつけのクローゼットに近づいて扉を開いた。物置代わりとして使われていたようで、今でも、代々の部屋主が置いていったがらくた類で溢れている。奥行きが意外なほどにあるが、手前にごたごたと積み上げられた品物で、そうは見えない。これは火神の置きみやげともいうべき、整理方法だった。
 三人に、黒子は視線だけでうながした。男が青ざめた顔でうなずき、妻の肩を抱いた。クローゼットの暗がりと埃っぽさのせいか、少し不満そうに顔を潜めた幼女の前に黒子は膝をついた。
「君はとても良い子でしょう? 見ただけで分かります。だから、静かにできますね」
 黒子が唇の前に人差し指を立てると、幼女は黒子の顔を、愛らしいしかめ面で睨んだ後、ぷいっと横を向いた。
「できるわ」
 幼女は母の手を払い、クローゼットに入っていった。
 黒子は扉を閉め、薬罐に水を汲み、火に掛けた。カップを一つ準備する。古い、香りも飛びかけた紅茶の葉が少しだけ残っている。
策があるわけでもない。服の上から指輪を探る。声にも出さず、唇も動かさず、火神君、と呟いた。動悸を押さえ、湯が沸くのを待つ。やってくるのはどの部隊だろうか。いや、どの部隊でも構わない。ユトリアの兵であるのは間違いないのだから。
 湯気が上がるのを待つまでもなかった。扉が激しく打ち鳴らされ、ドアノブが廻される。
「反抗民が逃げ込んだという情報がある! 扉を開けろ!」
 黒子が錠を下ろし、扉を薄く開くと、治安部隊の軍服をまとった男たちが、隙間から群がるように、どかどかと部屋に入ってきた。不吉な黒い色が部屋に溢れる。
 隊長格らしい男が、黒子を睨めつけ、叱咤するような響きの声を出した。
「名は!」
「黒子テツヤです」
 途端、男の表情が強張った。眉間に寄せられた皺の深さには、このまま家捜しを継続するか、それとも報告を優先するかの迷いが浮かんだが、彼は後者を選んだようだった。
「全員、待て!」
 男は、年若な兵に耳打ちして、顎をしゃくった。駆け出した少年兵の軽やかな足取りは、命を受けた自身を誇りに思うような、弾んだものがあった。
 武装した屈強な男たちの中にあって恐怖はなかったが、黒子は目を伏せていた。湯が沸いたのか、しゅんしゅんと薬罐が口から湯気を立て始めた。
 家捜しは行われるだろうか。いや、それには及ぶまい。たった一つ、そして最強の手札を、黒子は持っていた。このカードを出した後、どうなるかは考えまい。
 やがて、廊下から聞こえた足音に黒子は顔を上げた。彼の足音を聞き覚えていた自分に、少し驚いた。彼自身が捜索の指揮を取っているとは思わなかった。それとも、自ら動かなければならぬほど、兵の数は減っているのだろうか。
 つかつかと軍靴の音を響かせ、現れたのは氷室だった。野戦使用のオーバーコートに身を包んだ氷室は、黒子を見て、ふっと短い息をついた。
「君のアパートメントだったのか」
「はい」
 黒子の部屋を見回し、氷室は微笑した。それは冷たいというよりも寂寥感の感じられる胸苦しいものだった。
 静かに足を進めた氷室は、黒子の前を通り過ぎ、つと、足を止めた。
 蒸気を吹き上げる薬罐を下ろし、火を止める。
 振り返った彼は、手を軽く振った。
「――ここはいい、引き上げろ」
 部下達に命じ、敬礼する彼らに見向きもせず、氷室は部屋の中央に立つ黒子に近づいた。
 兵たちが階段を降りていく荒々しい音が遠ざかる。
 静けさが戻りつつある部屋で、氷室は互いの吐息すら聞こえそうな距離で黒子と向かい合うと、手袋を幾分、荒い手つきで外し、指を伸ばした。
 顎に手をかけられ、上向かされた。唇が重ねられても、黒子は動かなかった。服の釦が一つずつ外されていく。衣服の下に隠されている鎖に目を留め、指輪を認めたようだった。まばたきというには長すぎる時間、けれど瞠目と言うには短すぎる時、氷室は目を閉じ、黒子の素肌に触れた。
 抗わず、氷室を見つめていると、彼はからかうように言った。
「歌っている君の方が俺は好きだな」
「軍服を着ないあなたの方が、僕は好きです」
 ははと笑って、氷室は身を引いた。
「明日、迎えを寄越す」
 瞬間、浮かべた視線は黒子の背後まで見通したのではないかと思わせるほどの鋭さだった。
「分かりました」
「待っている、ともいわないんだな」
 一人ごち、氷室は身を翻した。黒子は動かず、立っていた。
彼の足音が階段を下っていく。階下で待っていたのか、兵士の声が上がる。ふたたび、兵士たちが黒子の部屋の階まで上がってくることはなく、建物全体から、人の気配が消えていく。
 窓越しに、車の扉が閉まる音が聞こえた。エンジン音が遠ざかっていく。窓に近づき、遠ざかる車を見送った。
 薬罐に湧かしたお湯が冷めるほどの時を過ごす間に、釦を留め、服の乱れを整えた。
 クローゼットを開く。
「行きました」
 そっと声をかける。吊された服の奥から、顔を堅くこわばらせた男が現れた。
「大丈夫だよ」
 男は隣の妻に言葉をかけた。娘の口を片手で塞ぎ、残る手できつく抱きすくめている女は、ああと呻いた。
 黒子は彼女の腕に触れ、ほほえみかけてから、娘の口を塞いだ手をはずさせた。
 ううと苦しそうな声を上げていた幼女は、ほっとしたように息をついた。
「ママ、とても苦しかった」
「神様!」
 低く、叫んで、女は娘を両の手できつく、きつく抱きしめ、ふたたび不満の声を上げさせた。
 男はため息のように微笑を浮かべたが、やがて黒子の方へあてた視線には、憂慮と悲しみの色が交じっていた。
 妻と子を抱きしめた彼は黒子に、うながすような気遣うような音で告げた。
「――君も一緒に行こう」
 黒子は首を振った。
「いいえ」
「だが、君は」
 それを黒子は男以上の穏やかな、断固たる声で遮った。
「行きましょう。国境越えに間に合わなくなります」

 言葉通り、翌日、氷室からの迎えは来た。
 あちこちに傷を負い、衣服に血を滲ませながらもやって来た日向には、墓場で手短に事情を話していた。来いという言葉を拒むと頬を打たれた。掴んでくる腕を振り切って、部屋に戻った。撲った日向こそ、苦しげな顔だった。彼から、火神にこの愚かともいうべき選択は伝わるのだろうか。
 武装した兵が乗り込んだ車が二台、護衛としてついていた。車中から見える街には瓦礫と弾痕が目立ち始めていた。街の片づけに兵を回す余力がないのだとは黒子の目にも分かった。
 連合軍の支援を受けたレジスタンスは、市内のあちこちにひそみ、激しい抵抗を見せ始めていた。黒子を乗せた車は常に、無線でやりとりして、安全な進路を確認しながら、屋敷まで走った。一度、倒れた街路樹が道を塞いだ場所があり、車から降りた兵士たちが、障害物を取り除いている間は、車内にいる黒子にも伝わるほどの張り詰めた空気が漂った。
 恐れていた襲撃はなく、車は、無事、到着した。
 かつて幾度となく黒子が訪れた屋敷では、今までに見たことのない数のユトリア軍兵士が集まり、多くの木箱や様々な荷物が次々と軍用トラックに積み込まれていた。まるで、夜逃げだと黒子は思い、それが正しかったことを後に知る。すでに、この時点で、ユトリア軍上層部は、他国からの撤退を決定していた。
氷室は自ら黒子を迎え、夕食を共に取るように告げた。歌は求めなかった。
 給仕人のいない晩餐にも関わらず、氷室の雰囲気も仕草も、それを忘れさせるほど優雅なものだった。王宮で開かれる晩餐会でならば、さぞ相応しかろう。しかし、ここは間もなく、敗北を迎えるであろう国の占領地で、彼は抵抗勢力に押されつつある軍の指揮官の一人であった。
 用意された冷たい前菜とスープ、主菜と続いて、デザートワインが饗される頃、ようやく、氷室が口を開いた。
「来るとは思わなかったよ。考える時間は十分にあっただろうに」
「迎えを寄越すと言ったのは、氷室さんでしょう」
「そうだったな」
 ワインのグラスを傾け、氷室は独りごちた。
 沈黙だけが続く食事を終えて、氷室が私室としているらしき部屋に移動した。初めて訪れる部屋は厚いカーテンで閉じられ、卓上の蝋燭だけが唯一の光源だ。酒瓶とグラスがすでに用意されていて、氷室は慣れた手つきで、グラスに酒を満たした。
 進められたが黒子は断った。
 氷室は立ったまま、グラスを口に運び、中身を干した。かたん、とグラスをテーブルに戻し、問いかけた。
「来た理由を教えてくれないか」
自嘲するような横顔だった。
「哀れみ? それとも、代償?」
 黒子はどちらにも首を振った。
 哀れみを与えるほどの優しさなどでは、ないはずだった。見逃してくれた礼だろうか。だが、それを我が身で贖えると驕れるはずもない。
 どちらでもなく、けれど、なぜ残ったのか、なぜ、ここへやって来たのか、答えは見つからず、言葉もなかった。それは、氷室を恐れる心が初めからなかったことにも繋がっているようだった。
 それ以上の答えを求めず、氷室は椅子に腰掛け、小さなナイフを取り出した。銀の光がきらめく。ケースに収められた葉巻を取り出し、先を切り落とす。軸の長いマッチでゆっくりと火をつけた。
 煙を口に含む彼は、瞬間、年老いて見えた。
「これが最後の一本だ」
呟かれた言葉に滲む色に、黒子は氷室に近づきかけた。
「そして、もう、同じものは手に入らない」
 氷室が言葉と共に煙を吐き出した。顔の周囲に煙が漂い、彼の表情を朧気にする。葉巻の先が燃え、灰となり、落ちそうになっても、氷室は動かなかった。
 紫煙の向こうに見える彼の目が、不意に、ぎらりと剣のような光を帯びた。
「裏切り、分裂、逃亡――唾棄すべき行為ばかりが蔓延っている」
氷室の手に力が込められるのが分かった。煙が乱れ、葉巻が握りつぶされる。
「昨日、正しいとされたことが翌日には誤りとされ、あろうことか、その翌朝に、また正当なものになり、夕刻に、やはり撤回される」
 凍てつくような怒りが全身から溢れ、氷室は声音を荒げた。
「その裏にあるのは何だと思う? 保身だ。己の命だけは守りたい、兵たちの生命など知ったことではない、そういうことだ。発言に責任の欠片も持たない豚、それが俺たちが従っていた者の正体だ」
 握りつぶされた葉巻の残り火が、カーペットを焼き、きな臭い臭いが漂う。黒子はブランデーの入ったグラスを持ち上げ、まだ薄く煙を立ち上らせている葉巻の上に垂らした。
 じゅっとかすかな音を立てて、火は消え、煙と酒の入り交じった空気が残る。
 氷室は言葉なく、片手で顔を覆っていた。怒りの焔は消えて、そこにいるのは、冷徹な軍人でもなければ、貴族の公子でもない、数多の別れと死を見つめ続け、疲れ果てた一人の男だった。
 恐れるはずもなかった。彼もまた、取り残された者だった。記憶は、慰めにもいたわりにもならず、心を烈しく苛む。忘却という時が与える恩恵を拒むのは、持ち得る記憶が、胸痛むほどに愛しいからだ。それが諸刃の剣のように、己の身を切り裂こうと手放すことなど、捨てることなどできない。
 黒子は秘密を打ち明けるように、ひっそりと囁いた。
「……あなたに似ている人を知っています」
 氷室は顔を上げた。
 初めて、彼の瞳が優しげな、懐かしげな色を浮かべた。黒子に、それからそのずっと向こうに、注ぐような眼差しは、やがて、ゆっくり伏せられた。
「……ならば道だけが違ったんだろう」
 指を組んで、氷室は伏し目がちに呟いた。
「自分の選んだ道を、お互い、正しいと思っている」
「その道は、これからも交わらない?」
 氷室は唇を笑むともつかない形に歪ませた。
「ずいぶんと、遠いところまで来てしまったからね」
 氷室が差し招いた。歩み寄った黒子の前で氷室は手袋を外した。長く形良い指を動かし、填めていた指輪を外した。
 黒子の指を静かに引き寄せ、口づけて、氷室は薄く笑った。
「持っていてくれ、いらないなら捨てても構わない」
 銀だから、つぶせばいくらか金にはなるだろうね。そう続けて、黒子の指に填めた。
 大きすぎた。薬指で指輪はするするまわり、指をおろせば落ちそうになった。もう一つの指輪と同じように。
 黒子は鎖からもう一つの指輪を外した。氷室の手を取り、その指輪をはめた。氷室はその指輪を撫でた。過去に触れるようにして、そっと撫でた。黒子は氷室の頬に手を伸ばした。氷室は黒子の手の上から自分の手を重ね、目を閉じた。
「どうしてなんだ……大我……」
 静かであるがゆえに、胸張り裂けるほどの響きを秘めた呟きだった。
 彼を父のように撫で、母のように口づけ、火神のように側にいた。それから恋人のように抱きしめた。
 それは歩み寄ることができない二人が黒子を介して繋がりあう時とも、孤独を抱いた者が寄り添いあうわずかな慰めともいえた。
 氷室の指先は優しく、けれど黒子はその愛撫に酔うよりも氷室を抱きしめることだけに心を傾けた。短い時間が終わったとき、氷室は黒子の胸の中で、眠っていた。
 寝顔を見つめ、髪を撫でた。火神がしてくれたことを、黒子は氷室に行い、少しだけ泣いた。
 涙が乾いたのを見計らったように、氷室は身を起こし、黒子を抱き寄せた。
「ミルレドの街を通るようにして、国外に出るように」
 氷室はそう囁いた。彼の呟いた、最初で最後の甘い、悲しい響きの言葉だった。
 側にいたい、という気持ちに嘘はなかった。だからこそ、彼は許してくれないだろう。連れて行ってもくれないだろう。
 翌朝、荷物らしい荷物はほとんど持たず、ミルレドの街へと発った。護衛だという士官が旅券を渡してくれた。ユトリアのそれではなかった。
 去り際、彼は、やってきた方角と、黒子が今から向かう国境へと交互に目を向け、ぽつりと呟いた。
「きっと、もうすぐ、すべて終わるんでしょう」
 何もかもすべてが。
 ――国境を越えて半月後、古い宿の広間で、一台のラジオから流れた途切れがちの音声で黒子はユトリアの敗北と連合軍の勝利を知った。

 戦争を終え、連合軍統治下に置かれた国内では、新たな狩りが始まった。
 密通者や内通者たちが次々と、捕らえられた。連合軍に拘束された者は、まだ幸福だったかもしれない。少なくとも裁判を受ける権利は与えられたからだ。
 私刑によって命を終えるかつての支配者、あるいは内通者たちは、どれほどの数に及んだか。私刑を戒める令が下されても、その手が緩むことはなかった。町の広場や空き地には、男女問わず、吊された体が風に吹かれるまま、揺れていた。運がよければ、死んですぐにおろされた。悪ければ、臭いで私刑の行われた場所が知れるまでそのままだ。
 黒子もまた、氷室大佐の愛人として戦時中、利益を得たと連合軍に身柄を拘束された。
 治安統制部の緑間と名乗る男が、黒子の尋問を担当した。緑間は優しくも断固たる口調で、様々な質問を投げかけてきたが、黒子は黙していた。
 氷室辰也という男について話せというのだろうか。だが、黒子は何も知らない。
 歌を聴きに来ていた。屋敷に呼ばれた。それは戦争が終わるまで続いた。黒子がしていたことには薄々、気づいていただろうが、何も言わなかった。冷たい目で見据えられたが、すぐに逸らされた。そのときの横顔は彼の背負う孤独を滲ませた。
 一夜だけ、肌を重ねて分かったのは、彼の孤独が、もはや誰の存在でも埋められない深いものへと変じていたことだった。淵へ身を沈めたいと思っただろうか。だが、黒子はすでに出会っていた。いつか、という言葉を残していった男と。
 沈黙を守り続けた黒子だったが、ある日、教会から弔いの鐘が鳴り響くのを耳にし、ふと訊ねた。
 予感だろうか。ユトリア兵の捕虜は莫大な数に及ぶとも聞き知っていたが、彼は捕虜の辱めを我が身に許さないと思えた。
「氷室大佐はいま、どこに?」
 尋問が始まって、初めて黒子は自ら、問いかけたのだ。それまでは、必要最低限の言葉しか発しなかった。書類に目を落としていた緑間は、はっとしたように顔を上げたが、すぐに答えを告げた。
「……彼は、トレオで自決した。部下たちの命の保証を願い出た後に」
 黒子は緑間の目を見つめた。緑間は、少し口元を歪めていた。苦いものを口にしたときのように。
 黒子は緑間を見つめ続けていた。責めたかったのだろうか。緑間は机に手を置いて、立ち上がった。窓の方へ歩んでいった。彼の背中は、氷室より、火神よりも大きいようだった。その分、疲れているようでもあった。
「彼から預かったものや聞き知ったことは?」
「何もありません」
「――俺が担当している間に、協力して欲しいのだがな」
 拘留されている狭い一室に戻されると、黒子は胸元を探った。服の上から、丸い小さな感触が感じられた。
 何の秘密もない。いいや、氷室辰也という男の心が、ここにある。それだけだ。そして、それは黒子のものであり、いつか、別の男に渡すべきものなのだった。
 その日は来るのだろうかと黒子は格子の入った小窓から、空を見上げた。いつ、どんなときでも空は同じ色だった。人が心に抱く感情だけが、違うのだった。
 なんて青い色だろうと黒子は、それだけ思った。

 裁判にかけられる事が決定して間もなく、異国の地から、一通の手紙が新聞社宛に届いた。
 国が誇る作曲家からのそれだった。愛国心溢れる彼の曲に、戦時中の人々はどれだけ慰められたか。祖国愛を讃える詩をもとに創られた交響曲と妻がロドム人であることが理由で、彼は家族共に、追われる身となり、西の自由国へと亡命していたのだ。
 新聞社は翌朝、朝刊一面に彼からの手紙の文面を掲載した。
 ――私は悲しみと怒りを覚えている。我が同胞たちが、偽りと憎しみから、一人の英雄に無実の罪を着せようとしていることに。
その書き出しで始まった手紙は、黒子が戦時中、何を行っていたかをすべて明らかにした。
 レジスタンスを匿い、彼らの手助けをしていたこと、多くのロドム人たちを危険を顧みず亡命させ、そのために国内にとどまりつづけていたこと、その中には自分と家族も含まれていたことを。
 一転して、黒子を取り巻く世間の目は変わった。世論を受けて、連合軍臨時政府は略式の裁判を執り行い、無実の判決を下して、黒子を釈放した。
 日ごと、変わる待遇の最後は公用車によるかつての自宅までの送迎だった。同乗していたのは緑間だった。
 霧のたちこめる街を車は静かに進んでいく。
 車中、ほとんど黙していた緑間は到着後、黒子と共に車を降り、ためらいがちに黒子を呼んだ。
「一度、お前の歌を聴いたことがあるのだよ」
 緑間は、それが確かならば、少しはにかんだような声で告げて、その歌を口ずさんだ。
 黒子は驚いて、緑間を見上げた。照れたように彼は眼鏡を上げながら、視線を逸らした。
「そのとき、お前はどこに帰りたいのだろうと思った。そんな思いになる歌を歌っていたからな」
 かすれ気味の声で、黒子はゆっくりと告げた。
「――その場所に戻れるのなら帰りたいと思っていました」
「今は、違うのか」
「はい」
 そうかと緑間はうなずいた。はいともう一度、黒子もうなずいた。
 それ以上、言葉はなかった。
「元気でな」
 去り際、緑間は黒子に自分の連絡先を記した紙片を渡した。黒子は破りかけ、それをポケットにしまった。
 部屋は荒らされているのかと思いきや、整頓されていた。もちろん、捜索はされているだろうが、そのままというわけではなかった。少しずつ位置の変わった家具やクローゼットから、黒子は少しずつものを出して、トランクに荷物をまとめた。重くなかった。
 鎖に通した指輪の感触を確かめて、黒子はエレベータでなく、階段を使って一階まで降りた。建物を見上げて、まばたきすると振り向くことなく、歩き出した。
 霧がかった道は、黒子の姿を消し去った。路面に散ったままのビラや埃も冷たい風に吹かれ、どこへともなく舞い上がり、消えていった。



 街灯だけがさびしく光る通りに、一台の車が留められた。エンジンはかけられたままだが、車から人が降りる様子はない。
「踊る子犬亭」
 おぼろな光に照らされた青銅の絵看板を眺めながら、助手席の男が呟いた。
「犬ってつくのが気にくわねえが、ここだな」
 ドアを開けようと手が伸ばされる。
「青峰、二日後にここで」
 言い置かれようとした別れ際の言葉に、運転席の男は、ハンドルを握り直し、静かに言った。
「迎えはない」
 くくっと火神は喉の奥で笑った。
「だったら、俺は帰らねえぜ」
「ああ。それで構わねえ」
「なんだ、それ。俺はもういらねえってことか」
 冗談めかした言葉に、真剣な返事が返ってきた。
「――好きにしろってことだ。俺もみなもそれでいい」
 やってくれるなと火神は呟いた。青峰は懐から包みを出し、火神に手渡した。
「もってけ」
 火神は中身を確かめ、口笛を吹いた。
「うちの組織はこんなに金持ちだったっか?」
「いくら、バ火神でも歌手のヒモはあんまりだろ、ってやつが多くてな」
 火神は紙包みを懐にしまった。ドアを開け、滑るようにして道に立つ。すまない、という声はドアの閉まる音と共に車内に残った。
 車が黒い煙を吐き出して、遠くなるまで火神は道に立っていた。本音を言うなら、少し怖かった。様々なことが少しずつ、怖かった。
 戦いが終わり、過ぎた年月は長いともいえた。短いともいえた。別れと喪失のみを重ねてきた年月だった。儚い言葉を頼みにするには、苛烈すぎる時間を思う。あまりに多くの死を目の当たりにしてきた。心も、遠い過去のままだとはいえまい。
 胸に去来するためらいと不安を押さえつけ、火神は店の扉を開いた。ここも半地下の店だった。客の手のひらに磨かれて黒光りする手すりが階段につけられていた。何百、何千という人数の客が行ったように、火神も手すりに手を置いて、足を踏み出した。
 古びたピアノの音に寄り添うようにして、涼やかな声が歌っている。
 ――約束の季節、巡り来て、いつの日、君帰る。
 一段下りて、一歩近づいた火神は、ピアノの側に立つ歌い手をまっすぐに見つめた。
 長身の客を認めた歌い手は、瞳を震わせながらも、ほほえんだ。
 火神も微笑した。恐れも不安も消えた。静かな、哀しみに似た喜びだけが胸を満たした。
 歌は続く。わずかに震え、涙にも似た滲みを声に混じらせて。
 ――いつの日に、きみ帰る。
 ――いつの日に、きみ帰る。
 時は流れ、季節は移ろい、去った人々は戻らない。けれど、変わりゆく世界の中に残る、確かなものを抱いて、火神はふたたび、階段を下り始めた。
 歌が終わる頃、この階段も終わっているだろう。

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