別居婚
2



 午後十時を五分ほど過ぎて、家に着いた。護衛に囲まれて車を降りる前に、ロシウは運転手に声を掛けた。
「明日は、こちらが連絡してから迎えを頼む」
「はい」
 翌日の予定を多少、ずらすことに関わる調整は、すでに済ませていたので、これで明日は普段に比べれば、ゆっくり過ごせるだろう。
 息を吐きながら、SPに囲まれて自宅玄関まで向かう。彼らは、ロシウが部屋に入り、何事もない、という連絡を行うまでは、警戒を解かない。
 ロシウが住むのは政府関係者の宿舎だ。とはいっても、大統領の住まう敷地である。警備上の問題もあるから、他の者とは建物の場所から違う。部屋の広さや装飾に、贅沢は必要とはしていないので、簡素なものだが、部下の気遣いで、それなりに暖かみのある部屋となった。玄関にも、政府職員の気遣いで、大きな観葉植物が置かれている。
 名も知らぬ、大きな葉を持つ木の隣に立ち、声紋と光彩で、鍵を開く。途端、漂ってきたあたたかい匂いに、ロシウは首をかしげた。
「それでは、私たちはこれで」
「――ああ。おつかれさま。明日も頼む」
 SPのリーダーにほほえみかけて、ロシウは扉の内側へと身を入れた。SPのほとんどがロシウが大統領に就任してからの護衛だが、彼らも何とはなし事情を察している。ロシウは構わず、彼の名を口にしながら、扉を閉めた。
「シモンさん?」
「お、はやかったな」
 キッチンからシモンが顔をのぞかせる。
 襟元をゆるめながら、ロシウはキッチンへ入った。昼夜の食事は大抵、要人との会食になるし、そうでない場合も政府内の食堂で済ませる。朝は車内か、執務室で軽く取ることが多いので、このキッチンは滅多に使われない。
 清潔さを保ったままのキッチンで、シモンはぐつぐつ鳴る鍋の前に立っていたが、ロシウがキッチンに入ってきたので、鍋の中身をおたまでかき混ぜた。
「なに、作ってるんですか?」
「煮込み」
 ほら、と赤い煮汁の入った小皿を差し出された。野菜と肉らしいものもよそおわれている。
 ロシウは受け取って、まず煮汁を飲み、ついで具も食べてみた。肉とおぼしいが、歯ごたえがある。独特の風味はあるが、味は悪くない。
「これは、肉、ではないように思えますが」
「肉。でも内臓。胃袋」
「……独特の感触ですね」
「まずい?」
「いえ。これはこれで」
 なかなか、というとシモンは火を止めた。
「着替えて来い。飯にするぞ」
「あ、はい」
 ロシウはキッチンを出た。手も洗えよーとシモンの声が追いかけてくる。帰宅してすぐに、シモンと寝室に行こうと考えていたので、どうも調子が狂う。
 衣装部屋に入り、部屋着を出しながら、SPへ連絡する。通信機を置いて、着ていた服を脱ぎ、着替えた。脱いだ服は皺にならぬようハンガーにかけ、さっとブラシをかけた。
 私服の数からいえば、このような部屋は必要ないのだが、政府代表としての礼服や制服は、相当数ある。相手の地位や出席する行事、儀式に合わせて、衣装の格も違うし、季節事で揃えれば、どうしてもこのような部屋が必要なだけの枚数に達してしまうのだ。他にも勲章やら襟章、たすきといったものが、クローゼットや金庫に収められている。
 手洗い場で、石鹸を泡立て、手首までしっかりと洗って、居間に出ると、テーブルの上に夕食の支度がされている。グラス二つに、煮込みが盛られた皿、それにパンが山と積まれた籠、スプーン。
 整えられた、というよりも、無造作に置いているところがシモンの性格が現れているが、年々、まめというか、上手くなってきている気がしなくもない。旅先でどんな経験を積んでいるのやら。
 シモンは葡萄酒の栓を開いて、二つのグラスに注いだ。ロシウもこの年齢になれば、酒を嗜む。グラスを持ち上げて、久しぶりの再会を祝う。
 近況を短く伝え合ってから、ロシウは訊ねた。
「どこで、この料理を覚えてきたんですか」
 この食感は慣れれば美味しい。味付けもくどくないので、食が進む。シモンは旺盛な食欲を見せ、パンの山をどんどん崩していく。
「この間、行った町。農場ばっかりで、牛や羊の方が、人間より多いってとこだった」
「ああ、だからチップが牛……」
 シモンから渡された映像チップに牧畜や乳製品、堆肥の流通についての提案があったのだ。ま、シモンにしてみれば、面白いから撮っている、思いついたから言ってみる、というだけらしく、ロシウが思うような真面目なそれではないのだが、意外に焦点を付いている上に、各地をゆっくり見て回る時間もそうそう取れない大統領としては、非常に助かる情報ではある。
「農場、手伝ってたんだけど、その家の奥さんの煮込みが、また絶品だった。真似したけど難しいな」
 やっぱりニアは偉大だ、などと言い出すので、彼女の味覚と料理の腕に関してだけは、積極的な沈黙を守るロシウは、話を変えることにした。
「そういえば、シモンさん。先日、気になる本を見つけまして」
「ん?」
「題名が、『漢の地球旨いもの巡り――寒いとこもあれば、あったかいとこもあるのはなぜだ北半球編』というのですが」
「うん」
 シモンのうなずきの速度が、普段より0.2秒遅い。
「いわゆる、グルメ本なのですが、不思議なことに、取材先が、今までシモンさんが行った地域にすべてあてはまるんです」
「ふうん」
 シモンは目を逸らした。
「……シモンさん」
「……なんだよ」
「これ、書いたのあなたでしょう」
「……」
「本を書くなら、こちらでも出来ると思いますが」
「できねえ」
「できます」
「グルメ取材ってのは、自分で歩いてこそなんだよ!」
「認めましたね」
 ずるいぞ、とシモンは言い出したが、ロシウは聞かない。やはり、と、こめかみを押さえた。
「あれを書いてるのが、元政府関係者じゃないかって、話題になってるんですよ」
「はあ?」
 シモンはスプーン片手に、眉をひそめた
「……エッセイ部分に、政府要人だった人間でないと書けない部分が多々、ありまして。主に、俺がラガンに乗っていたとき、グレンラガンに乗っていたとき、合体した時等々」
「あれ? 俺、そんなこと書いたっけ」
「書いてるんですよ!」
「ま、いいだろ。細かいことは気にするな」
 食え、食えとごまかされ、ロシウはぼそりと呟いた。
「……発行禁止」
「言論弾圧反対」
 思いがけない切り返しだった。こんな四文字熟語もシモンの語彙にあったのだ。口にしたら、間違いなく、シモンが気を悪くするので、ロシウは言わなかった。お預けは食らいたくない。
「しかしですね――」
 別の方向から意見しようとしたが、シモンが遮った。
「ま、久しぶりなんだから、堅苦しいこと言うなって」
 絶妙のタイミングで向けられた、何とも眩い笑顔で言われれば、ロシウは従わざるを得ない。これを無意識にしているのだから悔しいというか、恨めしい。
 はあとため息をついたロシウに構わず、シモンは皿にお代わりを注ぎに席を立った。
 戻ってきたシモンが持つ山盛りの皿に、ロシウは呆れたように、それからほんの少し、怨みと心配も込めて忠告した。
「食べ過ぎると、眠くなりますよ」
 スプーンで煮込みを口に運んでいたシモンは、ちらりとロシウを見たが、かえってきたのは、そうだな、という生返事だった。
 パンを千切ったロシウは、びくりと手を震わせた。シモンは知らん顔をして、煮込みを食べ続けている。シモンの爪先はロシウの臑からさらに上へ向かう。膝を通り過ぎて、腿の方にまで伸びてくる。
「酔っているんですか」
「さあな」
 シモンはほほえんで、グラスを持ち上げた。と、腕が震え、グラスの中のワインが大きく揺れて、シモンの左の親指にこぼれた。
 ロシウはシモンの腿の奥に触れた足先を引っ込め、にっこりほほえんだ。
「酔ってるみたいですね」
 シモンはグラスを置くと、右肘をつき、下から掬いあげるような、幾分、悔しさを滲ませた眼差しでロシウを見やった。
 と、シモンは、左手を口元に寄せ、ワインがこぼれた場所に唇があてた。唇で触れた後は舌でそっと舐める。かすかな濡れた音が響く。赤い舌が、細い指をゆっくり舐め上げていく。
 ロシウはそれを見つめていた。シモンの笑みを含んだ視線と出会うと、彼は手を伸ばし、シモンの左腕をつかんだ。腕だけを引き寄せて、指先に口づける。
「そこは、汚れてないぜ」
「ええ」
 中指を唇で噛みながら、ロシウは指と指の間にある薄く伸びた皮膚をそっと舐める。シモンの手にかすかな力がこもる。手の甲へ唇を滑らせ、シモンがさきほど舐めていた場所を、見せつけるようにして舐める。
 シモンの唇が薄く開き、舌がのぞいた。吐き出される息の熱が感じられるようだ。
「ロシウ」
「何でしょう」
「こっち、来い」
 ロシウは言葉に従い、立ち上がるとテーブルを回って、シモンの横に立った。
シモンがちょいちょいと人差し指で招く。腰をかがめて、顔を近づける。途端、噛みつかれるようなキスをされた。
 シモンの口からは酒精の香りがする。自分も同じだろう。ついでにいえば、煮込みの味もするので、食事の続きをしているようだ。
 舌を差し込む。目を開くと、同じように目を開いたシモンが満足げに笑っている。手をシモンの座る椅子の背もたれに置き、もう片手はテーブルについて、ロシウはさらに深く、シモンに口づけた。
 どうやって寝室まで行こうか。たぶん、行きましょうと素直に言っても、シモンはうなずかない。その気にはなっているはずなのに、ここからが意外に難しいのだ。
 一度、シモンの手みやげの酒により、理性が吹っ飛ぶほどに酔ったときがあるが、あの時は、自分やシモンの体の状態、それに気持ちまで、何もかもをストレートに口にして、面白がったシモンが何でも言うことを聞いてくれた。だが、ああいうわけにはいかない。たまにだから、いいのだ。
 ともかく、口づけに専念しようとロシウがシモンの肩に手を置こうとしたとき、シモンの方から唇を離した。赤く濡れた唇が何とも悩ましい。
「よし」
シモンは潤んだ目をまばたきさせると、ほほえんだ。
「ロシウ、風呂入るぞ」

 食卓はそのままに、シモンはロシウを引っ張り、浴室に行く。
 ロシウの上着に手を掛け、手際よく脱がせていくシモンに、ロシウは呟いた。
「……サービスいいですね」
「たまにはな」
 そこまでは良かった。
 ロシウを裸にし、自分も服を脱いだシモンは、ロシウと浴室へ入ると、湯船の縁へ座るように言った。
 言われたとおり、湯船の縁にロシウは腰を下ろす。シモンはコックをひねり、湯を出し始める。この目線とシモンの体の位置は、目の毒だ。手を伸ばしてもいいだろうが、
 欲情を見計らったように、シモンはロシウの体に湯を掛ける。あたたかい感触はいいのだが、次が問題だった。
「お客さん、初めて?」
「は?」
 ロシウの戸惑いに構わず、シモンはボトルからボディーソープを出して、己の手のひらで泡立てた。
 まさか、とロシウが思った瞬間、シモンは身をかがめて、ロシウの体をそのまま手で洗い出した。
 首筋、肩、腕、ときた。
 これでは、ロシウも一言、言わずにはいられない。
「――シモンさん、まさか、変な店、行ってるんじゃないでしょうね」
「へえ」
 シモンは意味ありげに、ちらりとロシウを見上げた。手はロシウの手首から肘付近を洗い終わったところだ。
「なんですか」
「お前にもそんな知識あるんだと驚いている」
 シモンの手が胸板を擦る。右胸を円を描きながら洗う手が、乳首をかすった。左胸も同じような手つきだ。散りかけていた熱が、また集まり始める。
「大統領が行く店は、どんなサービスしてくれるんだ?」
「行きません。あなたと違って、僕は忙しいんです」
「俺だって」
「……では、この無意味なほど淫らなサービスの知識は一体、どこで手に入れたんですか」
「大丈夫。俺が試すのはお前だけだから、安心しろ」
 ロシウは立ち上がった。
「答えになっていません。だいたい、あなたに試してるのは誰なんですかっ!」
 シモンの知識の入手先を追求しようとしたが、シモンはロシウの顎をとらえて、自分の方へ引き寄せると、ロシウの唇を吸った。上下とも吸われ、噛まれ、その間に左手が背中を撫で回し、残る手が腰を擦って、臍の回りをつつくと、腿の付け根へと降りていった。さわさわと腿の辺りを指が蠢く。近づき遠ざかり、という動きが泡のぬめりをともなっている。
 唇を離したシモンはロシウに頬を寄せ、囁いた。
「俺に試すのは、ロシウだろ?」
 だから、と耳に息を吹きかけながら、シモンは続ける。
 俺もちゃんとお前が洗ってな。
 ロシウの心はシモンに屈し、泡だらけの手に包まれたペニスは固く、熱を帯びた。


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