別居婚



 ――閣下は、もうお会いになりたいと思われないんですか?
 問われた言葉に、ロシウは微笑で答えた。彼女は、その笑みに自分なりの答えを見つけたのか、やはりほほえみかえして、部屋を出て行った。
 新補佐官が出て行った後もロシウは、手を止めず、書類に目を通しては、サインをしていく。流れ作業、といってもいい中で、さきほどの問いが、頭に再度、浮かぶ。
 いつもいつもいつも思っていると、思うことが当たり前になりすぎて、思っていることすら忘れてしまうものだ。
「逢いたいに決まっている」
 思わず呟いて、ふっと微笑を漏らすと、インク壷にペン先を浸した。
「――大変そうだな」
「仕事ですから」
 さらさらとペンを滑らせる。サインが終わると、今度は印章を押さなければならない。
 ふんふんと横で感心したようなうなずきが聞こえる。
「すげえ。でも、俺は二度としたくない」
「そもそも、真面目にしたことない……って、ええっ!」
 ロシウは初めて、横にシモンがいることに気づき、椅子から腰を浮かせた。
「な、な、なんで、ここに」
 言って、ロシウは、青ざめた。
「聞きました?」
「何を?」
 シモンは机にひょいと腰を下ろし、にっこりほほえむ。暗褐色した体の線に沿うような形のインナーに、黒い細身のズボン、茶色の革ベルト、先端が丸くなった、足首までを覆う頑丈そうなブーツ。そこに幾分、くたびれた灰色のマントを羽織っている。
 まだ動悸が治まらないロシウは、とりあえず、体勢を戻しつつ、訊ねる。
「ど、どこから入ったんですか」
 ふふんと得意げにシモンは笑うだけだ。腰掛けている位置が高いので、幾分、目線が上になるが、ロシウにはそのからかうような、楽しそうな表情が見て取れて、彼がどうやって入ってきたのかも理解する。
「……無駄に、螺旋力を使わないでください」
「だって、普通に入ってきたら、色々うるさいし、第一、面白くないじゃん」
 シモンはロシウの眉間の皺をちょいとつつく。ロシウはの眉間の皺はさらに深くなった。
「表から入ってきたら、お前のとこ連絡いくだろ。そしたら、ロシウ、絶対、しかめっ面プラス真面目な顔で出迎えるだろ。そんなロシウ見たくない」
 ふよふよとシモンの指が額をつつく。ロシウの表情はますます厳しくなっていく。
「つまり、あなたは、僕の驚いた顔見たさに、螺旋力を使い、表からではなく、直接、ここに入ってくるという訳ですね」
「そういうこと」
 にっこりと笑う顔は無邪気にも見えるが、ロシウは騙されない。
「……シモンさん」
「ん?」
「とりあえず、どいてください。書類が取れません」
「あ、悪い、悪い」
 机から立ち上がったシモンは、大統領用の椅子の肘掛けに腰を置いた。
「……シモンさん」
 そこも邪魔だ、というと、シモンは、深いため息をついた。
「しょうがないな、ロシウは」
 シモンはロシウの膝をまたぎ、そこに腰を下ろす。高さのずれはあるが、正面から顔を合わせる形になった。
「なっ」
 第三者から見れば、ロシウがシモンを膝の上に抱いているように見えるだろう。ロシウの頬に赤みが差す。
「何を」
「久しぶり」
 顔が近づいて、鼻先に口づけられる。僕も安い、現金な男だ、とロシウは感じつつ、黙ってシモンの口づけを受けた。ブータの姿も見あたらないことだし、そういう意味合いで訪れたと思ってもいいだろう。
「元気してた?」
「とりあえずは」
 ロシウは仕事を続けるのを諦めて、肘掛けの上に手を休めた。シモンはロシウの両頬を手ではさみ、顔を覗き込んでいる。指先の愛撫にロシウは目を細めた。頬骨から顎へと指が滑る。少し荒れた指先だったが、その感触は何よりも心地良い。
「シモンさんは、どうですか?」
「まあ、普通かな」
「そうですか。それはよかった」
 言葉終わりに、シモンが唇を重ねてきた。軽い音を立てながら、唇をついばんで、ロシウの唇が濡れた頃、舌を差し込んでくる。久しぶりに味わうシモンの舌は熱い。柔らかい舌の感触を充分に味わっていると、シモンの手が胸へとあてられ、さらに下へと下りていく。服の上から感触を確かめるように、局部を撫でられ、やんわりと握られた。
 背筋を強い欲望が這い上がっていく。ロシウは肘掛けを強く握りしめ、シモンの体を抱くのを堪えた。誘われているのは分かるが、さすがにここではまずい。
 口づけを終えて、シモンが顔を離す。瞳に情欲がちらついていた。自分も同じような色を浮かべているはずだ。
「今日、何時頃、終わる?」
 右手の甲で唇を拭うシモンが、かすれ気味の声でたずねる。
「十時半までには」
 同じように低くかすれた声で、ロシウは答えた。
「部屋で待ってる」
 最後にかすめるような口づけをして、シモンはロシウの膝から降りた。机を回って扉の方に歩いていく。途中、思い出したように振り返った。
「おみやげ」
 投げ渡された記録チップをロシウは受け取った。どういう遊び心からか、チップは牛を思わせる白黒のまだら模様だ。
「ありがとうございます」
 背を向けたまま、手を振って、シモンは歩き出した。帰るときは表からかなとロシウが見送っていると、その姿は扉を開ける前に、ふっと消えた。
 部屋の静けさが急に味気なくも思え、ロシウは指先で唇に触れる。湧き上がる欲望を抑えてから、ふたたび、書類仕事に取りかかった。


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