どこまでもふたり
9



 まっすぐに伸びた道を、ひたすらに走る。地平線の先を目指しながら、遠くにそびえ立つ岩山を眺めながら、車を走らせる。すでに寂れた裏道なのか、対向車も後続車も滅多に見かけない。
 車の中では、ラジオから流れる歌が、途切れもせず響き、時折、どちらかが指を伸ばして、音量を上げ、局を変え、言葉を交わす。
 砂地に散らばるくすんだ緑色の草むらと、赤茶けた岩肌と、綿をちぎって流したような雲が浮かぶ青い空との間を行く内に、緑の色が深まってきた。
「今日は、海、見えるだろうな」
 独り言のようにカミナは呟いた。
「見えるよ、きっと」
 右腕を伸ばして、シモンの頭を撫でた。
 焦がれるほどに強く思う。早く、海が見たい。
 太陽がゆっくり天に昇っていく。空の真上から照らされて、道は白く見える。シモンは外を見つめたままだ。
 途中で、本道から外れて、別の道に入った。小一時間は走っただろうか。男の言うとおり、街の名前を記した看板を通り過ぎた。
 もうすぐ、と言ったのはシモンだったのか。自分だったのか。
 最初に見つけたのはシモンの方だった。
「あっ」
 低い押し殺したような声だった。
「たぶん、いま、見えた!」
 シモンの声が弾んだ。速度をゆるめながら、ちらりとシモンの視線を追う。
 岩の間から、時折、青く光るものがのぞいた。あれが、海かと、カミナは思う。
 もっと側で見せてやろうと、近づける場所を探して、海岸線に沿って車を走らせた。見下ろしていた海が、だんだん近づいて、同じ位置になっていく。シモンは窓の外から片時も目を離そうとしない。
 海面は太陽の欠片を散りばめたように絶え間なく、きらきら光っている。光の粒がつなぎ合わされて、その眩しさは痛いほどだ。
 カミナはサングラスをかけているから、そうでもないが、シモンはゴーグルを額に上げたきりで下ろそうとしない。
「お前、ゴーグルしたがいいんじゃねえか」
「だって、もったいないよ」
 こんなに光ってるのに。
 光を受けるシモンの目の濡れたような輝きに、カミナは、好きにしろ、とだけ言った。
 窓枠に腕を置き、その上に顎を載せて、シモンは海を見ている。カミナは指を伸ばして、ラジオのスイッチを切った。タイヤが路面にこすれる規則正しい音と風を切る音が大きくなった。
 シモンの髪が後ろになびいて、額が露わになっている。きゅっと細くなった目が笑っていた。気持ちいい、という独り言が聞こえた。とても小さな声だったから、ラジオが付いていたら聞き逃していただろう。
 聞こえたことが嬉しかった。来て、よかった。そう思えて、ようやく不安は薄くなった。すぐにまた、不安は戻ってくると分かっていても一瞬の安堵がもたらすものは大きい。
「兄貴」
「どうした」
 おかしそうな、笑うようなシモンの声だった。
「あの光ってるのぜんぶ、宝石だったらいいのにね」
 ぎょっと目を見開いて、シモンを見ると、慌てたように肩を押された。
「兄貴、前、見て、前」
 ふらついたハンドルを急いで戻し、カミナはぶつぶつ呟いた。
「お前が、らしくないこと言うからだろ」
「そうかなあ」
 シモンの横顔を盗み見た。海からの光の反射がサングラス越しにも眩しすぎて、目が痛かった。まばたきして、前へ視線を戻した。
 ――海はいよいよ、近い。

 街から続いてきた道は、海岸の手前ほどで、砂に覆われて半ば消えかけていた。これ以上、いけばタイヤが砂に取られる。人が歩くほどにまで速度を落とせば、タイヤに踏みしめられて、砂がじゃりじゃりと音を立てた。
 カミナはエンジンを切った。
「行くか」
 言うと、同時に車のドアを開けて、外へ出た。足の裏が靴越しにもざらつくのが分かる。
「足元、気をつけろよ」
 助手席側のドアから出てきたシモンに声をかけて、カミナは砂浜へ、ゆったりした歩調で向かう。追いついてきたシモンの肩が、腕に触れた。布越しのあたたかさに、不意をつかれ、息が詰まりそうになった。堪えて、まばたきする。
 嗅いだことのない匂いが、海から流れて、それがやけに目に染みた。匂いだけで、塩辛いのが分かる。生臭くもあるし、乾いているようでもある。だが、不思議に吹かれていると、心地良い。
「これが、海の匂いかなあ」
 シモンが呟く。カミナは、喉の奥で咳をして、答えた。
「なんともいえねえ匂いだなあ」
  風が吹いているときはそうでもないのに、弱まると、肌がべたついてくる。
 砂を踏むたび、足元が柔らかく、沈む。舗装された路面のように素早くは歩けない。海へ近づけないことに苛立ったのか、シモンが靴を脱ぎ出した。
 靴下も脱いで、素足で砂の上に立ったシモンが、あっと叫び声を上げた。
「なんだ、どうした!」
「兄貴、砂が熱い!」
 あつい、あついと言いながら、シモンは急いで波打ち際へと駆けていく。カミナはしゃがみこみ、砂に触れてみる。本当に熱かった。
 日光を遮るものがないのだから当然だなと思いつつ、カミナも靴を脱ぎ捨て、シモンのように飛び上がるようにしながら、波打ち際へと走った。
 シモンが立ち止まっていた場所は、砂が黒く濡れていて、焼けたような砂を踏んできた足裏を優しく冷やしてくれる。気がつけば沈んでいくような感触が心もとなく、カミナはしきりに足を上げ下げするが、シモンはじっと足元を見つめるばかりだ。
「……すごいや。水が自分で動いてる」
 打ち寄せてきた波が、シモンの足指を撫でる。砂に足跡を残して、シモンはさらに前へ進む。今度の波は足首まで届き、シモンが付けた足跡を消して、また海へ戻った。シモンはさらに歩いて、臑の半ばまでを水に浸けた。
 海の彼方を見つめる瞳が、何かに取り憑かれているようにぼんやりしている。さらに一歩、踏み出そうとする前に、カミナはシモンの肩を掴んだ。
 大きく波が打ち寄せて、二人して、よろけた。踏みとどまったカミナはシモンの体を抱き込むようにして支えた。引いていく波に攫われる砂が、足の指の間をすり抜けた。
 シモンが何かを言う前に何か言わなければいけない。なのに、口の中がからからに乾いている。何も出来ず、そのまま海に倒れ込んだ。
 浅いとはいえ、横になってしまえば、全身が海に浸かる。目に口に鼻に、塩辛い水が入ってきて、息苦しさと痛みに口から泡が零れた。シモンを抱えたままでいたことに気づいて、慌てて、両腕から力を抜く。シモンにもがく様子はない。
 砂底に手をついて、身体を引き上げる。腕を伸ばせば、波に揺らぐシモンの上着のどこかが指に触れた。しっかり掴んで、カミナはシモンの身体を海面へと引っ張り上げた。
 肩を大きく揺らして、息を吸いこんだかと思うと、シモンは大きく咳き込んだ。
「おい、シモン」
 咳を続けるシモンが顔を上げた。
「び、びっくりした」
 息苦しさからか涙目ではあったが、笑っている。
「兄貴」
「お、おう」
「本当に、しょっぱいね」
 カミナは一瞬、虚を突かれ、まばたきした後、自分の指を舐めた。
「ほんとに、しょっぺえな」
 舌にいつまでも残るような、えぐみのある塩辛さだ。涙の味よりも濃くて、もっともっと冷たい。
「上手く煮詰めて塩作ったら、儲かりそうだな」
「兄貴は、そればっかり」
「お前だって、さっき似たようなこと言ってただろうが」
 シモンの額をこづいて、カミナは腰に手を当てた。ずっとずっと遠くでは、海面と空が一つになっている。
「……広いなあ」
「――でっけえなあ」
 同時に言ったことに気づき、顔を合わせ、笑い合った。

 濡れたまま、砂浜を歩いて、車に戻った。持ってきたタオルで体を拭いて、シャツやズボンを絞り、車のバンパーの上で乾かす。
 町までは、そう遠くないはずだったが、シモンは海から離れがたい様子を見せている。いっそここで泊まるかというカミナの提案に、シモンは嬉しげに賛成した。
 そうと決まれば、寝床を作らなければならない。車の中で寝起きしても構わないとシモンは言ったが、一日だけならともかく、続けての車中泊は体力的にきついに決まっている。雨風しのげそうなところはないかと、カミナは辺りを探し、見つけたものに、にんまりと笑みを浮かべた。
「おい、シモン――」
 車のそばで休んでいるシモンに早速、知らせようと大声を出しかけ、カミナは顎をひと撫ですると、車に戻った。
 シモンはブータを膝小僧の上に乗せ、車の陰でしゃがみこんでいた。日向から眺める顔が、やけに青白く見えて、カミナは早足で、シモンの側に近寄り、肩に手をかけた。
「シモン」
「兄貴」
 眠たそうな声に、肩の力がかくんと抜けた。
「なんか、眠たくなって」
 照れ笑いしたシモンの額を軽くこづいて、カミナはその腕を引いて、体を引っ張り上げた。
「ちょっと、こっちこい。いいもの見つけた」
 車を停めている道路から海へ行くが、さきほど、遊んだ波打ち際とは反対側へ行く。
 砂浜と岩場の間に、手洗い付きとおぼしい平屋があった。
 ドアには、どっしりとした丸い南京錠がぶら下がっていたが、これくらいなら何とかなる。カミナは、まさか、と見上げてくるシモンに、その通りだ、と笑って見せた。
 こんな時でも携えてきた七つ道具から、ピンを取り出して、ドアの前にしゃがむ。錠は重たいが、造りは簡単なものだ。鍵穴から差し込んで、先をちょこちょこ動かす。
 背後では、シモンがうろうろしながら、周りを見回しているようだ。砂を踏んで歩き回る足音が聞こえる。
「兄貴、いいの?」
「いいんだよ」
 適当に答えて、カミナはさらにピンを動かす。かしゃり、と手応えが伝わり、錠が開いた。
「よし」
  カミナは錠を砂の上に落とし、早速、扉に手を掛けた。
「兄貴」
「大丈夫だって」
 心配そうなシモンに適当な返事を返して、カミナは扉を開こうとした。立て付けが悪いのか、扉の上部が引っかかっていたが、扉に足を置いて、何度か、引っ張ると、ばきりとどこかが裂けたような音を立て、建物全体が揺れた。
 驚いたのか、シモンがカミナに身を寄せてくる。
「お、開いた」
 シモンの肩に手を置き、骨の尖りを自分の手のひらでくるむようにして、カミナは中へ入った。
 ほこりっぽさと、潮の臭いが逃げないのだろうか、どこか、生臭い室内だった。
 外の明るさに慣れた目には暗く映るが、そのうちに、物のあやめがはっきりしてきた。
 店の作りから見れば、海水浴客相手に簡単な食事を提供しているのだろう。調理場とカウンター、それに小さなテーブルと、その上に上げられた簡素な作りの丸椅子がある。
 左手の方に靴を脱いで上がるようになっている板張りの床は、手足を伸ばしてくつろげる休憩所だろうか。ここに持ってきた毛布だの寝袋だのを上手く敷き詰めれば、車の中よりははるかにましな寝場所が出来上がった。
 自分たち用に、一台のテーブルから椅子を二脚、下ろして、残りの椅子とテーブルは隅へ動かし、場所を広げる。できた空間に、食料を運んで積み上げ、自分たちで持ってきた荷物や、元々、店にあった物も、適当にまとめて置けば、思った以上に居心地のいい、かりそめの我が家が出来た。
 店の裏手は岩場だが、隙間から真水が流れ出してきており、この水を店の持ち主も使用しているのだろう、樋が作られ、さらに水を溜めるため、岩を浅くくりぬいたものまで据えられていた。
 桶がわりの岩には苔が生えているが、絶え間なく流れる水のおかげか、澱みもない。口にすれば、水は冷たく、甘かった。周りを見回して、カミナは上等だ、と呟いた。今までで、最高の我が家になるだろう。
 持ってきた水筒に、とりあえず、水を満たして、小屋に戻ると、シモンは壁に貼ってある値段と品名がかかれたメニューの木札を見上げていた。
 カミナは水筒を置き、先ほど、店で見つけたがらくたを積んでいたテーブルに近づいて、腕を伸ばした。取り上げたものを何気なく、もてあそびながら、シモンへと近づく。
「どうかしたか」
 待っていたように、シモンは困ったような、そのくせ面白がるような目で、カミナを見上げてきた。
「お客さん来たら、どうしよう?」
「そんときは、愛想よく挨拶してごまかせ」
 言って、カミナはシモンの頭にひょいと帽子を載せた。
「兄貴?」
 古びて、かさかさに乾いた麦わら帽子のつばは大きくて、思い切って上にあげないと、視界がきかないようだ。シモンがつばを指で持ち、上へ押しやりながら、カミナを見上げてきた。
「これ」
「被っとけ。日よけだ」
「うん」
 シモンの頭に手を置いて、もう一度、帽子を下に引っ張ったから、カミナからははにかんだように笑うシモンの口元だけが見える。
「前が見えないよ」
 シモンは今度は両手でつばを持つと、後ろへずらした。目があった。
 笑う顔が幼く見えて、目を逸らしそうになり、カミナはあわてて、もう一度、帽子のつばを下に引き下ろした。
「兄貴」
 憤慨したようなシモンに笑いながら、告げる。
「散歩、行くか」
 水筒を左手で取り、右手でブータを抱き上げた。シモンが足音を立てながら近づいて、横に並んだ。
「帽子、ありがとう」
 返事する代わりに、シモンの帽子の上にブータを乗せた。海まで並んで歩いた。

 耳を澄ませば、シモンが上げる水飛沫の音が、潮騒に混じるのが聞こえた。靴を脱いだシモンはブータと波打ち際で足首までを水に浸して、遊んでいる。
 たまに歩いて、足跡を残し、振り返っては、波が足跡を撫でて消し去る様を見守っていた。それだけのことが、面白いらしく、何度も繰り返している。遠ざかっては、また戻り、時々、しゃがんで、ブータと何やらのぞき込んでいた。
 カミナは木陰でシモンとブータを眺めていた。最初は一緒になって、陽の下にいたが、腹が鳴ったのを機に、小屋に戻って、パンとチーズ、サラミを持ってきた。ポケットナイフで、サラミとチーズを切り、ちぎったパンの間に挟み込んで、簡単なサンドイッチを作る。
 シモンにも進めたが、まだいい、と首を振られた。塩気のある風にあたりながら、一人で食べていると、酒が欲しくなった。持ってきてはいたはずだが、探しに行くのも面倒で、カミナはぼんやりと、シモンを目で追いかけていた。
 もっとはしゃいでもいいはずなのに、シモンの動きはおとなしやかなものだ。
 腰をかがめて、水を掬い上げ、手のひらからこぼす。濡れた指先を振り、砂の上を歩く。立ち止まり、足首を上げ、落ちる飛沫を眺め、また歩く。
 自分たち以外の足跡はない砂の上を乱暴に走って、側により、肩を抱き、大声で騒いでやろうかと思う。つられて、シモンも笑うかもしれない。近づいていきたいのに、腰が上がらなかった。降り注ぐ陽が眩しくて、動けない。
 最後のひとかけらを口に入れてしまうと、カミナは手に付いたパン屑を払った。
 と、シモンが振り返った。カミナがひょいと手を挙げると、シモンがこちらに向き直って、足を踏み出した。駆けてくるシモンの姿に何がなしか胸をつかれ、カミナはまるで抱きとめでもするかのように、腕を上げ、広げかけていた。
 風にあおられて、シモンの頭の上から麦わら帽子が落ちる。立ち止まったシモンは、わずかに顔を傾け、帽子を見たが、そのままにして、カミナの元へ駆けてきた。
 上げていた腕の行き先を見失ったかのように、カミナは、いいのか、と落とした帽子を指さした。
 わずかに息を乱したシモンは、もう一度、振り返ったが、大丈夫と返事した。麦わら帽子にはブータが駆け寄って、つばの上に重石がわりにでもなったつもりか、体を乗せている。
 シモンが胸元を探り、カミナにほほえみかけた。
「兄貴、これ、あげる」
 シモンの親指と人差し指の間には、指輪が挟まれていた。
「いらねえ」
顔をしかめたカミナに構わず、シモンは革ひもを首から外した。
「すぐに売ったりしちゃ、いやだよ」
 言いながら、カミナの首にかける。手首の白さが、まるで光を放っているようで、カミナは眩しさに目を閉じた。
 革ひもが頬と鼻先に引っかかり、シモンの指がそれをそっと摘む。カミナは目を開く。
 首元を見つめているため、シモンは目を伏せている。睫毛が落とす影がはっきり見えた。かすかに顔を動かすと、するりと革ひもが首に落ちた。指輪はシモンの肌に触れていたためか、ぬくみがある。
 ここで、口づけたら、こいつはどんな顔をするだろう。思って、目を伏せた。泣くのは自分だ。
「紐、ちょっと短いかなあ」
 指輪を引っ張ったシモンはそれでも満足げだった。
「……俺、もう一回、海行ってくる」
 照れたようにシモンは手を引き、カミナから離れた。引き戻そうとして止めた。
「ばてる前に、帰ってこいよ」
「うん!」
 帽子を拾い上げて、駆けていくシモンの背中を見ていたカミナは、指輪を摘んだ。
 眇めて、輪の向こうを眺めれば、細い円の中にシモンが見える。青い、青い海も、白い砂も、雲も、すべて入っている。
 どの指に填めようかと思う。
 どの指にも填らない。小指の先に引っかかっただけだ。
 それを知っていて、これからも何度も試すだろう。どの指にも填めようとするだろう。けれど、指輪は、シモンの指には大きすぎたように、カミナの指には小さすぎるのだ。


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