エンジン音を響かせながら帰宅した自分に、目を丸くしたシモンを、せっついて、二人一緒にトランクに荷物を積めるだけ詰め込んだ。古い毛布に、枕、寝袋、鍋にやかんにフライパン。食料、着替え。どこにあったのか、バーベキューコンロまで出てきて、荷物はトランクどころか、ルーフにも、後部座席にも溢れた。夜逃げもかくや、と言わんばかりだ。
戸締まりをして、鍵を閉めて、カミナは階段を飛び降りる。シモンは落ち着かない様子のまま車の脇でカミナを待っていた。乗れ、乗れと背中を叩いて、うながす。
「みんなに、どこ行くのって聞かれた」
シモンはカミナを見上げ、カミナはシモンを見下ろす。
「海だろ、海」
「ほんとに?」
「おまえなあ。ここまで準備しといて、それはねえだろ」
シモンの頭に手のひらを置いて、髪の毛を乱すと、カミナは運転席に乗り込んだ。
「行くぞ。ぼやぼやしてたら置いていくからな!」
「ま、待ってよ、兄貴!」
慌てて、シモンが助手席に回った。もたもたと乗り込むシモンに遅れまいとブータも飛び上がって付いてくる。一人と一匹が席に落ち着いたのを見て、カミナはエンジンをかけた。
シモンが手元を見ているのに気づいて、カミナは目だけで笑った。
「こんな風に街を出るなんて、初めてだな」
「うん」
シモンがまばたきをして、不意に顔を背けた。何も言わず、問いかけず、カミナは車を動かした。
見慣れた、ごみごみした下町から、車通りの多い大通りまで、すぐ、といっていいほど、簡単に出られた。これだけの時間で、遠ざかる距離が、今までの暮らしのすべてだった。
息詰まるような思いに、カミナは目を細め、唇をわずかに歪ませ、これまでではなく、これからのことだけを、思った。
晴れている内に、なるべく遠くまで行こうと思ったが、シモンがせがむので、カミナは街を出てしばらく行った先で、車を停止させた。
丘の上からは街が一望できる。うっすらした緑の中に、どこかいびつな円を思わせる、ごみごみした雑多な色が寄り集まったものが、それだ。
シモンが車から降りる。カミナも追いかけるようにして降りたが、シモンのように見晴らしが良い場所までは行かずに、バンパーによりかかった。
シモンはカミナの三歩ほど先で、立ち止まった。首を動かして、右から左、左から右、と視線を廻らせて、今までいた街を、目に焼きつけでもするかのように瞬き一つせず、眺めている。
ビルディング群と階層も様々な都市高速の合間に光る、赤や黄色、緑といった派手やかな点々は、看板だろう。風の吹く方角によっては、わあんというざわめきのような音とクラクションやサイレンの音がかすかに聞こえてくる。
それほど、遠くまで来ていないのに、見下ろす街は小さく見えた。
「夜なら、夜景が綺麗かもな」
「だね」
シモンがうなずくと、ゆっくり右手を挙げて、ゴーグルと前髪を押さえた。
「風も気持ちいいや」
伸びをするシモンの腰辺りで、新しく買ってやった青い上着の裾がはためいている。
夜まで待つか。
呟いた一言に、シモンは振り返って、何も言わず、笑った。時は少なく、時間は山ほど残されていた。
夜も更けてから、二時間ほど走っただろうか。道の途中、カミナはちかちかとネオンを光らせる看板を見つけた。都市と都市を結ぶ道路沿いには、ドライブインとガソリンスタンドを兼ねたモーテルが必ずある。看板はそれを示すものだった。時間的にもこのあたりで、今日は休んだ方がいいだろう。迷わず、看板の示す方へとハンドルを切った。
車を降りてから、とりあえず、一番看板が派手に光っている建物へ向かう。事務所や受付といったものはなく、酒場とレストランを合わせた建物がガソリンスタンドの横にあったが、客の姿はなく、煙草をくわえた男が、一人、カウンターの向こうにいるだけだった。男の前には酒瓶とグラスと灰皿があり、それぞれ中身は器の半分ほど、あった。
カウンターの中と出入り口周辺だけに、明かりが灯っていたが、出入り口側の電球は切れかかっているらしく、じ、じ、とかすかな音を立てながら、不規則に明滅している。それ以外の明かりといえば、フロアの片隅に置かれたジュークボックスの光だけだった。歌は流れていない。
入ってきたカミナとシモンを一瞥した男は、煙草を灰皿に置いた。日焼けした腕に、金のブレスレットが光る。
「部屋を頼む」
「前払いだ。朝飯は付けるか?」
カミナがどうすると、シモンを見下ろすと、シモンもどうしようとカミナを見上げていた。そこで、シモンの肩の上のブータが鳴いたので、朝食付きでの泊まりに決まった。
男は二人に背を向けると、カウンター後ろの酒棚の引き出しを開き、鍵を取り出した。銅色した楕円形の金属板には、02と数字が刻印されている。
磨かれて艶のあるカウンターの上に、鍵を置いて、滑らせるようにして、カミナに渡す。受け取ったカミナの横では、シモンが物珍しげに、室内を見回していたが、ふらりとカミナの側から離れた。
薄暗いフロアを歩いて、ジュークボックスに近づいていく。ブータが細い尾を揺らしながら、シモンの後をちょこちょこと付いていっていた。
カミナがシモンにコインをやろうと、財布を開こうとすると、男が煙草を銜えながら、首を振った。
「壊れてんだ。コインなしで聞ける」
「じゃあ……」
男の声を聞きつけたシモンが、すまなそうな顔で戻ろうとする。男はひらひらと手を振った。
「気にすんな」
カミナが目でうながすと、シモンはまだ戸惑ったようにジュークボックスを眺めながら、指先をさまよわせた。
「どこを押したら――」
「どこだっていい。どれでも同じだ」
男は肩をすくめ、煙草を吹かした。
「同じ曲しか鳴らねえんだよ」
シモンは指を伸ばし、ボタンにそっと触れた。
少し、間があって、中の機械が動き出したのか、歯車の噛み合うような音や唸るような音が響いた。青やピンク色の光が明滅し始める。
男が後ろの棚から曇ったグラスを一つ、手に取った。シモンをちらっと見やり、もう一つグラスを出したが、そちらに注がれたのは、酒ではなかった。
薄暗い酒場の中で、そこだけ眩いほどに色鮮やかなオレンジ色の液体に、カミナが目を細めたとき、ようやく歌が流れ出した。
――君を愛さずにはいられない。だから、君と出会う前の悲しさを抱きしめて、これからは思い出の中で生きていくんだ。
女のコーラスと男の声が絡み合う。歌が流れる中で、男が注いだ酒は、安酒に特有の強さと臭みでカミナの喉を灼いた。
煙草も勧められたが断って、海までの道のりを聞いた。
「バカンスにしちゃ、時季はずれだな」
カミナとシモンを見比べた男はそれだけ呟いて、銜え煙草で道を教えてくれた。
「この道を、南に、ずっと行けばいい」
途中でルートを逸れて、港町へ向かう。近づいてくれば、町の名を記した案内板が見えてくるから、それを目印にする。
「――タウンの方角へ走ってたら、途中から海が見えてくるぜ」
男が話しているときも、シモンがオレンジジュースを飲む間も、部屋に引き取るときも、壊れたジュークボックスは延々と同じ曲を流し続けていた。
酒場の扉を後ろ手に閉めたとき、歌声は途切れたはずなのに、諦念というには、あまりに、切々とした男の声の響きは、いつまでも耳に残った。
モーテルに二人以外の客の気配はない。停まっていたのは、カミナとシモンが乗ってきたマスタングと、男が使っているらしい古いピックアップトラックだけだ。
建物の軒下には、ペンキもはげた白いデッキチェアと、虫に喰われてぼろぼろの色も褪せた籐椅子が置かれている、というよりも放置されている。扉上で手元を照らすはずの照明は切れていた。
「薄気味悪いモーテルだぜ、まったく」
舌打ちしながら、カミナは握っていたため、生ぬるくなった鍵を、鍵穴に差し込んだ。少し耳障りな音が聞こえたが、引っかかることもなく、鍵は開いた。握ったドアノブは冷たく、がたついていた。
カミナはドアを開いて、シモンに先に入るようにうながした。ブータに先導されて、シモンは恐る恐る、といった足運びで、中に入る。壁を手探りして、明かりのスイッチを探しているようだ。
シモンのすぐ後ろを、荷物を持って続いたカミナも、シモン同様に、スイッチを探した。表の明かりがないから、探しづらい。
結局、廊下の電気は諦めて、ベッドルームの明かりを付けた。かなり大きめに作られたダブルベッドは、獣人の客を当て込んだものか。他には、安っぽいビニール張りの緑と赤の椅子が二つに、緑色のガラス製の灰皿が置かれたテーブル。オレンジ色のライトに照らされて、どれも、てかてかと光っている。黄ばんだ壁紙は、昔は花模様が描かれていたらしいが、今は、赤い花を描いていたとおぼしい、赤い点々だけが目立つ。
乾いた空気の中には幾分、埃っぽい臭いが混じるが、思った以上に清潔だった。
鍵や財布をテーブルの上に放ると、風に押されたのか、テーブルの上の白いカードが一枚、落ちた。足下に滑るようにして落ちたそれをシモンは拾い上げる。
「ようこそ、我がモーテルへ。ごゆっくり、おくつろぎください」
「んなもん、用意するなら果物くらい置いとけってんだ」
ウェルカムカードをシモンはポケットに仕舞い込んでいる。カミナは床の上をちょろちょろと動き回るブータを避けて、バスルームをのぞいてみた。空気はひんやり冷たいが、かび臭さはない。
シャワーのコックを捻って、バスタブに向けて、しばらく水を出す。湯はちゃんと出た。栓をして、湯を溜め始める。濡れた手をズボンの腿あたりで拭いながら、バスルームを出た。
「シモン、溜まったら、お前、先、入れ」
緑色の椅子に座っていたシモンは、照明の加減か陰影の深い面を上げて、うなずいた。
シモンと交代で風呂に入る。熱い湯はシモンが入った後だからか、柔らかかった。ふと感じた寒気が、こみ上げてくる寂寥感だと気づき、カミナは手で顔を覆って、しばらくうつむいた。発作のように襲ってくる泣きたいような気持ちを堪えた。
風呂から上がると、椅子に座って、テレビを見ていたシモンがこちらを向いて、立ち上がった。椅子の背もたれにかけていたタオルを持って近づいてくる。
「兄貴」
シモンが微笑しながら、手を伸ばした。
「まだ濡れてる」
髪からしたたる雫がぽたりと落ちた。屈まず、カミナはシモンの体を引き寄せた。シャツの裾から指先を忍び込ませ、肌に触れると、シモンは体を竦ませた。
「俺……」
肩に触れると、シモンが震えているのが分かる。拒まれたのはこちらなのに、シモンの方が傷ついているようで、カミナはそれ以上、強くは出られない。
「……兄貴、したいの?」
「まあ、な」
喉に引っかかるようなかすれた声に、自分が強く欲情しているのに気づいた。
「口で、いいなら」
シモンを遮って、カミナは言う。
「抱きてえ」
シモンがうろたえたように、視線をあちこちに彷徨わせながら、臍あたりで、指を組んだり、ほどいたり、握ったりしている。
「……体……痩せて、なんか、みっともないし、抱き心地とか……よくないよ」
右手をシモンの左肩に回して、体を抱き込んだ。
「ばーか」
シモンの指がシャツを掴んだ。きつく抱きしめかけて、シモンが潰れそうだと気づいた。力を弱めて、抱き直す。
「いまさら、そんなこと、気にするような仲じゃねえだろ」
声が震えないように、ゆっくりゆっくり言った。
腕の中でごそごそとシモンが動いて、顔を上げた。
「兄貴の、すけべ」
「なんだと」
ふふっと笑って、シモンは額をカミナの胸にくっつけた。
「俺もしたいな」
指がカミナの腕をそっと掴む。
「すごく、したい」
甘えるように抱きついてきたシモンの肩を、カミナは恐る恐る抱き直した。ずきんずきんと、胸が痛い。涙が浮かびそうになる。泣くな、と自分に命じる。なのに鼻水が出て、涙が溢れて、頭が痛くなる。
身をかがめると、シモンの両の手のひらが、頬を包む。言葉を言われる前に唇を塞いだ。すぐに離した。
今度は、シモンは何も言わなかった。カミナも何も言わず、シモンの体を横にした。服を脱がせた。シモンの服の上に重ねるようにして、自分の衣服を置くと、カミナはシモンの上に覆い被さった。
力を込めれば、シモンを抱き潰しそうで怖かった。それなのに、シモンの両腕はカミナをしっかり抱きしめてくれた。泣きながら抱き返した。鼻水を垂らしながらシモンに触れて、しゃっくりあげながら体を重ねて、新しい涙と汗と鼻水を混じらせながら射精した。こんなに苦しいのに、これほど悲しくて、恨めしくて、情けなくて、胸が張り裂けそうなのに、そこには快感があった。それが悔しくて、また泣いた。
シモンの顔にも涙が落ちたはずなのに、何も言わなかった。痩せた薄い胸に顔を押しあてれば、鼓動を刻む心臓の音が聞こえた。
とくんとくんとカミナのそれよりも早く脈打つ音を聞くうちに、涙は乾いて、頬を引きつらせる。カミナは腕を上げ、頬を乱暴に擦ると、シモンの胸から枕へと頭を動かした。
シモンはこちらに体を向けたようだ。手探りで体に触れて、カミナはシモンの腰を抱いた。泣き疲れたカミナの体に染みてくるようなあたたかさがあった。
シモンがぽつんと呟いた。
「夜景、すごかった」
「……そうだな」
「外から見ると、街ってあんなに綺麗なんだね」
「ああ」
眠気の中で聞くシモンの声の響きが子守歌のようにも思えて、いっそう瞼が重くなる。
「兄貴」
「ああ」
シモンは笑ったようだ。
「ねむたいね」
「おう」
シモンより先に寝ないようにしよう。決める側から、眠りそうになる。聞こえてくる穏やかな呼吸音は、シモンが眠ったということだろうか。確かめようとしても、もう体は動かなかった。
夜中、目が覚めた。隣のシモンの顔を覗き込んだ。目を閉じて、寝息を立てている。軽く、肩を揺すってみた。起きる気配がない。
シモンは眠っている。眠ったままだった。ほっとして、カミナはふたたび、横になった。
こんな小さな安堵を、これから幾度、味わうのだろう。思って、また、たまらなくなったから、瞼や頭に残る眠気をかき集めて、目を閉じた。寝つくのに、いつもよりは時間がかかった。それでも、眠ることは出来た。
朝食は、フロントにもなっている酒場で出ると聞いていたので、朝の身支度が終わると、カミナとシモンは連れだって、朝のひやりとした空気の中を昨日の酒場まで歩いていった。
扉を開けると、油の香ばしい匂いが漂った。男はシモンとカミナとブータが入ってくるのに気づいて、新聞から顔を上げると、酒場のテーブルを指さした。
切れかけた照明も、光を明滅させているジュークボックスも、酒瓶やグラスの位置も何一つ変わっていない。カウンターの中の男の立ち位置でさえもそうで、昨日からそこに居続けだったのかと思わせるほどだ。違うのは、新聞を広げていることくらいか。
テーブルに用意されていたのは、アイシングのかかったドーナツが山ほどと大鍋に入ったままのトマトスープ、あちこちがへこんだポットに入ったこれも大量の、しかし薄いコーヒー。二人分のカップとスープ皿、スプーン、紙ナプキン。
二人分にしては多すぎる量だ。追加料金は払わない、と心に決めつつ、カミナはシモンと向かい合ってテーブルについた。シモンがスープを皿に注ぎ、コーヒーを入れてくれる。その間にドーナツを一つ、手にとって、口に運ぶ。旨い、まずい、ではない。普通の味だ。食べられないことはなかった。
コーヒーでドーナツを流し込み、とろりとしたトマトスープをスプーンで掬う。スープの具に使われている茹ですぎたマカロニをろくに噛まないまま飲み込んだ。ともかく、どれもあたたかいのは、安モーテルにしては上出来だ。
シモンはドーナツをかじるブータに、スープの中に入っていたソーセージの切れ端を与えている。
不意に、ばさり、と大きな音が響いた。カミナがカウンターに目をやると、男が新聞を畳んだところだった。男と目が合う。
「読むか?」
その新聞は誰が持ってくるんだ。言いかけてカミナは肩をすくめ、首を振った。未開の地ではあるまいし、ここで商売をやれる以上、人の行き来はあるに決まっている。
シモンのスープ皿の中身はあまり減っていない。スープを掬う匙の動きはゆっくりだ。
「皿、寄越せ」
返事される前に皿を取って、カミナはシモンのスープを飲み干した。口を拭いつつ、立ち上がる。同じように立ち上がって、こちらを見上げてくるシモンの頭に手を伸ばし、後ろ髪を撫で回した。
男に部屋の鍵を返す。
「気ぃつけて」
煙草をくわえた男が軽く手を挙げた。カミナも手を挙げた。シモンは頭を下げた。ブータも愛想良い声で鳴いた。
名前くらい聞けば良かったと車に乗り込んでから気がついた。同時に、名前を聞かれなかったことにも気づいて、そういうものだなと納得した。
マスタングのエンジンを掛ける。付けっぱなしだったラジオから、歌が流れる。
――青い鳥が、虹の向こうへ飛んでいけるのなら、僕だって行けるはず。幸せの小さな青い鳥が虹の彼方へ飛んでいけるなら、僕も飛んでいけるはず。
アクセルを強く、踏み込めば、モーテルはタイヤが巻き起こす土埃の中に消えていった。
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