どこまでもふたり
7



 翌朝は、どこに行く気にもなれず、かといって、シモンとずっと顔を付き合わせているのは、耐えきれない。髭も剃らず、シモンが用意してくれていた、ベーコンの切れ端と野菜の端や芯を煮込んだスープを啜ってから、部屋に引っ込んだきりだった。
 何か考えるよりは、頭を働かせないで、うとうとしていた方がいい。ベッドの上でうずくまって、時間を過ごしていた。
 シモンは扉の向こうで、動き回っているらしく、足音が絶え間なく聞こえる。少しはじっとしていればいいのに。一度ならず、そう云おうと口を開きかけて、カミナは枕に顔を埋めた。たまに痒くなる体のどこかをぼりぼり掻いて、寝返りを打って、背中を丸めて、目を閉じていた。浅い眠りについてまもなく、扉がノックされた。
 わずかな間をおいて、カミナは返事した。
「……おう」
 扉が少しだけ開いた。
「兄貴、俺ちょっと、上に行ってくるね。お昼はパンケーキ焼くけど、食べる?」
「わからねえ」
「そう。じゃあ、また後で教えて」
 きい、と蝶番を軋ませながら、扉が閉まる。カミナは寝返りを打って、目を閉じた。枕には自分の髪の脂の臭いが漂っていてその奥に、昨夜のシモンの匂いも薄く残っている。
 ――起き上がった。
 靴に足をつっこみ、紐も結ばないままで歩き出す。扉を勢いよく開けると、シモンが驚いたように振り返った。
 両手に洗濯かごを抱えている。肩の上にはブータ。二人して、カミナの方をぽかんとした様子で見上げている。
 決まり悪さにカミナは目をそらす。首筋を意味もなく掻いた。
「上って、どこだ?」
「屋上。洗濯物、干してくる」
「ああ」
 気が抜けたのをごまかそうと、カミナはシモンに近づいてかごを取った。
「兄貴も行ってくれるの?」
「暇だ」
 ありがとう、とシモンが言い終えるまで待たず、カミナは歩き出した。かごからは水気を帯びた洗剤の匂いが漂う。部屋を出て、鍵を閉める。
「あっち」
 階段を示して、シモンは歩き出した。ぎいぎいと廊下が軋む。階段も音を立てる。誰かが腐った板を踏み抜いたのか穴が開いていて、かと思えば、適当な板で塞いで、変な段差になっている箇所もある。足元を確かめながら、カミナは階段を上がっていった。
 後ろに続くシモンはゆっくり動く。カミナが洗濯かごを持っていても、それは変わらない。階段を上がる足取りは、どこか重たそうな疲れが残るようなそれだ。ブータは肩から降りて、シモンの足元にいる。
 手足の短い体では、段を上がるのにも一苦労だろうに、よじ登るようにして、シモンを追いかけていた。引っ掴んで、自分の肩に乗せようかと思ったが止めて、カミナは踊り場で二人を待った。
 シモンは手すりを持って、体を段の上に引き上げている。手を引っ張る代わりに、カミナは話しかけた。
「屋上、あがれるんだな」
「そうだよ。知らなかった?」
「ああ」
「そっか。教えれば良かった。晴れてるときは、すっごく気持ちいいんだよ」
 得意そうにシモンが笑う。
「ふうん」
 カミナは次の言葉を探したが、口を開く前に、屋上の扉に辿り着いた。金メッキもはげて、緑青がまだら状にのぞくドアノブを回せば、思いがけないほど、まばゆい光が目を射た。
 日光の鋭さにカミナは目を細めた。カミナの陰になっていたシモンには、光も柔らかく伝わったのだろうか。
「天気いいね」
 カミナの横をシモンがすり抜けていく。思わず、その腕を掴んで、引き留めたくなり、そんな衝動に駆られた自分の心に歯がみしたいほどだ。
「兄貴、ここに干すから」
 振り向いたシモンが、早く、というように、カミナに向けて、目を細めた。
 屋上には、他の住人の洗濯物が干されている。色とりどりの洗濯物が風に揺れる中、一本だけ何もかかっていないロープがある。シモンが立つその赤茶色の物干しロープには、色あせた洗濯ばさみがぶら下がって、風が吹くたび、かしゃかしゃと小さな音を立てる。洗濯ばさみが落とす、細くでこぼこした影と、シモン自身の小さくいびつな楕円型の影の色が濃い。
 失われていく時間というものが、目に見えるのなら、きっとこんな何でもない形で現れるのだろう。
 目眩を感じながら、カミナはかごを握り直し、シモンへと近づいた。
 かごを足下に置くと、待ちかねていたようにシモンが手を伸ばし、洗濯物を取り上げる。広げて、ぱん、と皺を伸ばし、手慣れた仕草で干していく。
 一、二枚、手伝ったが、シモンの方が手際がいいので、カミナは諦めて、床に尻を付けた。
 洗濯物を干すシモンは楽しそうだ。こんなことの何が楽しいというのだろう。
 ロープが揺れて、洗剤の香りがこちらにまで漂った。シモンが今、干しているのは、カミナの予備のシーツだ。両手を広げて、背伸びして洗濯物を広げるシモンのひかがみが眩しいくらいに白い。
 シモン、と呼んだ声がかすれた。振り向かないシモンをもう一度、呼ぶ。
 手を止めたシモンがこちらを向く。目が合う前に訊ねた。
「――お前、なんかないのか」
「なんかって?」
「これ喰いたい、とか、あれしたいとか、見たいとか、欲しいとか、ないのか」
 女はどうだろう。シモンは、まだ女を知らないはずだ。あの細い体に庇護欲をそそられる女は必ずいるはずだ。女以外にだって、旨い食べ物や酒、それ以外のすべてが、 金を惜しまなければ、何でもできる、何でも手に入る、何でも揃う。それくらい大きな広い街にいる。狭い、息苦しい地下の村にいた頃には、叶わなかったことも、叶う。豊かで、すべてがある地上にいるのだから。
 もっと早くシモンを連れ出せば良かった。欲しいものは何か、願いは何なのかを聞いて、その通りにしていればよかった。そうしていたら、もっと――もっと。
 きょとんとしていたシモンは、カミナの真面目な顔を見て、吹き出した。
「兄貴は、なんでもいきなりだ」
 笑うシモンの前髪が揺れる。と、強い風が吹いて、シーツを止めていた洗濯ばさみが一つ、飛んだ。大きく波打つシーツの表面を押さえるシモンの肩から、ブータが飛び降りて、洗濯ばさみを口にくわえて、シモンの足元に戻る。
 ブータに礼を言い、頭を撫でると、シモンは洗濯ばさみを今度こそ、飛ばないようにしっかりと止め直す。
「俺、とくにないみたい」
 シモンはのんびり言って、ごめんね、とすまなそうに笑う。
「……すまねえ」
 呟いたカミナの声は、シモンには聞こえなかったようだ。ブータだけが振り向いて、またすぐに尻を向けた。
 シモンはシーツの皺を丁寧に伸ばした。風向きが変わって、洗剤の香りがこちらにまで漂ってくる。乾く頃には、これに太陽の匂いが混じるはずだ。
 今日はよく晴れているから、古びたシーツも、新品のように真っ白に見える。シモンが洗濯物から指をゆっくり離すと、首だけ動かして、横顔を見せた。
「――したいこと、言えばいいの?」
「何か、あるか?」
 勢い込んで、カミナは身を乗り出した。シモンは足元のブータを抱き上げて、ぽつんと言った。
「俺ね、海、見てみたいな」
「海?」
 そんなものがあるとは聞いていたし、映像でも見たことはあった。たゆとう水面は、不安になるくらい、どこまでも続いていたが、受けた印象は、それだけで特に興味も沸かなかった。
 問い返したカミナに、シモンはうなずいた。
「水がいっぱい溜まってて、塩辛くて」
 それから、と続けるシモンの顔を、カミナは見ていた。
 そんなところ言えばいつでも連れて行ったのに。思いかけて、カミナはわずかに目を伏せた。本当に連れて行っただろうか。自信がない。
「すごく大きくてすごく広いんだって。そんなに大きくて広いって、どんなことなんだろうって思ったんだ」
 羨望もなく、渇望もなく、憧れの響きもない。淡々とした声音だった。
「でも遠いね。しょうがないや」
 ついさっき、とくにない、と答えたとき同様ののんびりした言い方で、シモンは会話を切った。空になったかごを両腕に抱える。
「やっぱり、兄貴に何か、買ってもらおうかなあ」
 シモンが笑う。向けられた笑みはまっすぐで、どこにも偽りはなかった。
「俺、けっこう、欲しいものたくさんあるんだ」
「おう、何でも」
 買ってやる。言いかけたカミナは言葉を切った。
 勢いよく、立ち上がり、シモンを指差す。
「よし、海、行くぞ! 準備して待ってろ」
 言い置いて、屋上を飛び出した。階段を下りて、部屋に駆け込み、机の引き出しをすべて開けて、中をあさった。戸棚もクローゼットの引き出しも全部、開いて、金目のものを探し、ポケットに押し込み、入らないものは革袋に放り込んだ。
 どかどかと足音を立て、体に引っかかった何かを床に派手に落としながら玄関を出ようとすると、降りてきたシモンが、ちょうど戻ってきたところだった。
「兄貴」
 もの言いたげなシモンをもう一度、指差した。
「シモン、準備して待ってろよ!」
「う、うん……」
 でもなにを、と問いかけたシモンには返事せず、カミナは足音も荒く、ふたたび、家を飛び出していった。



 ごねて、おだてて、なだめて、すかして、口八丁、手八丁。なりふり構わないであの手この手で、家から持ち出したものを現金に換えた。たったこれだけ、と落ち込む暇もない。
 札束、金貨、銀貨、銅銭、手ずれして黒ずんだものも、まだ新しいぴかぴか光るものもすべて一緒に革袋に入れて、これだけは離さないとばかりに音も立てぬよう、しっかり小脇に抱え、周囲に目を配りつつ、一目散に駆け込んだのは、唯一の心当たり。
「キタン! おい、キタン! いるんだろ!」
 名を呼んだカミナが口を閉じると、物音がガレージの方から聞こえた。そこいらに積み上げてあるがらくたを蹴飛ばし、かき分け、幾つかは床に落としながら、そちらに向かった。かなりの広さがあるガレージには、数台のバイクと車がパーツを取り外されたり、エンジンをむき出しにしている状態で置かれていたが、その内の何台かは修理か、それとも買い手が付いたのか、防水布が掛けられている。
 音も気配もするが、キタンの姿はない。構わず、カミナは大声で叫ぶ。
「キタン! どこにいるんだ!」
「……うっせえ」
 一台の車の下から、ごそごそとキタンが這いだしてきた。黒いオイルがつなぎばかりか、顔や腕、指先にこびりついている。いかがわしいジャンク屋から、堅気の中古車修理販売屋になりつつあるという男は、不機嫌そうに工具を置いて、カミナを振り仰いだ。
「てめえの頭には、待つ、とか、静かにしとく、って回路がねえのかよ」
 ぶつぶつ呟くキタンに、カミナは手に持った革袋を放る。じゃらっと、中の硬貨が派手な音を立てた。ずっしりと重たげな革袋と、カミナをキタンは不審そうに交互に見やる。
「キタン、乗り物ねえか? 度肝抜くようなかっこいいやつ」
「はあ?」
「海行くんだよ。シモンと。あいつを、だっせえ乗り物に乗せられるか」
 キタンは立ち上がって、背中を向けた。
「……頼む。金が足りねえなら、何とかする」
 革袋片手に、キタンはガレージの一角に歩んでいく。硬貨が擦れ合う音が響いた。
 奥まで歩いて、キタンは振り返った。重たい革袋を手のひらの上で軽く揺らす。
「へっ。どんなとこから出てきた金だか」
 キタンは革袋を開いて、中をのぞき込むと、すぐに口を固く閉めた。
 腕を上げ、革袋をカミナの方へ放り投げる。足元に重たげな音を立てて落ちたそれをカミナは見つめ、キタンを見やった。すがるような眼差しを自分は今、浮かべているのだろうか。
 キタンは眉を跳ね上げ、ため息をついた。
「いつだって唐突で、行き当たりばったりで、後先考えてねえ野郎の何がよくて、シモンがひっついてんだか、ほんと訳がわからねえ」
 キタンは片手を腰に当て、カミナをねめつけた。キタンから視線をそらせず、かといって、言うべき言葉もなく、カミナは、すまねえ、とだけ呟いた。
「いきなり来て、車を寄越せだあ?」
 ふたたび、キタンは大きなため息をついた。
「ほんと、ふざけたことばっか抜かしやがる」
「すまねえ……」
「――なのによ」
 腕を伸ばしたキタンは、くすんだ緑色の布を掴み、力強く、引っ張った。
 ばさり、と布が落ち、埃と油の入り交じった風が起きた。カミナはふたたび、言葉を無くして立ちすくんだ。
 布の下から現れたのは、精悍な、それでいて大らかな雰囲気を漂わせる車が一台。薄暗いガレージの中で光るような、鮮やかな赤色をしている。
 バンパーに軽く手を置いて、キタンは唇の片端を上げた。
「これまた、ちょうどいい車があるんだよな」
 キタンが、へっと口を歪めて、上を見上げる。
「足りねえ分は、ツケといてやらあ。言っとくが、取り立ては厳しいからな」



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