飲んで、吐いて、飲んで、吐いて、泥のように眠った。目が覚めたら、意識が朦朧としている間に、また飲んだ。そうしなければ、とてつもなく深い沼に足を取られて、息をすることもままならない。
酔わなければならなかった。意識を濁らせていないと、上澄みのように恐れが浮かび上がってくる。生まれる後悔が染みを残していく。考えてはだめだ。そんなことがあっていいはずがないのだから、悪夢から逃れるには、酔っていなければならない。体の内側をぐずぐずに腐らせて、すべてを淀ませていなければ。
どこかの軒先で壁に手を突いて、えづいた。胸あたりのむかつきが、喉にせり上がって灼けるような痛みを残して、口から流れていく。
安い合成酒が胃液と混じり合って、その酸味がどろりとした意識の中でも鮮明に感じられる。舌を刺したその味と酸っぱい臭気に、涙が浮かんだ。
もう少し、早く気づいていたら。そうだ、シモンが初めて、風邪を引いたときに、寝かせているだけでなく、すぐに医者に、あんなもぐりではない、もっとちゃんとした病院で調べてもらっていれば、もしかしたら、もしかしたら。
時間はあったというのに、あんなに痩せていき、寝汗がひどくて、あまり眠れないと苦しんでいたのに、大丈夫だよの一言で、納得していた。あれだけまめまめしく、家事をやって、身の回りの世話もしていてくれたシモンが、だるさにベッドから起きあがれない日もあったというのに。あのとき、背負ってでも病院へ行けば良かったのだ。カミナがしたのは、家の中が汚いと八つ当たりした挙げ句、ふて寝して、酒を呑みに出て行っただけだった。
こんな男に何を言うのだ。こんな男に頼れる訳がない。道化ているだけの男は、一人そうし続けているのがお似合いだ。ずっと飲んで、酔って、愚か者になってしまえば、きっと何が起きても、つらくない。悲しくも苦しくもない。
手探りで、酒瓶を探す。ズボンの後ろポケットに、小さな酒瓶が入っていた。取り上げて、栓をひねり、瓶を傾ける。口の中に、どことなく油臭さのある密造酒が流れ込んでくる。咽せて、そのせいで、またえづいた。
げえげえと喘いでいると、誰かの声と気配が近づいた。
糞野郎が、見せ物じゃねえ。どっかに行っちまえ。罵ろうとして、もう一度、反吐を吐いた。
「――もう、しょうがないなあ」
カミナは閉じていた目を開いた。汗と酒と小便臭い裏路地には似合わない、どこか幼いかすれ声。唇がへの字になった。
「しょうがない、で済ませられるお前は偉いよ」
こつんと、誰かが腿の辺りを蹴った。
「おい、シモン、気になってたんだがな、お前、ちゃんと喰わせてもらってんのか。ずいぶん、痩せてんじゃねえか」
話はつけとくからいつでもダヤッカの店に行けと、キタンが言っている。俺には、そんな甘いことを言いやしねえのに、とカミナは思う。
どいつもこいつもシモンには甘いじゃねえか。まるで、自分がシモンを手ひどく扱い、虐待でもしているかのようだ。
そんなことはない。暗くて、内気で気弱な穴掘りシモンを、明るいお日様の照らし出す地上に引っ張ってきたのは自分だ。地上を連れ回して振り回した挙げ句、殺すのもカミナ様だ。
どうだ、参っただろう。はは、と笑ったつもりが、泣き出しそうな嗚咽に変わる。
「お、今の声、聞いたか? だいぶ、弱ってんな」
キタンが笑っている。酔いが醒めたら、絶対に殴ってやると決めて拳を握ったつもりが、誰かに指を握られる。
「兄貴、歩ける?」
シモン。名を呟いたが、顔を上げられない。今の自分の顔を見せる勇気もシモンの顔を見る覚悟もない。
「あーあ、べろべろじゃねえか。情けねえ。こいつも兄貴ぶってるわりにゃ、甲斐性ねえからな」
「そんなことないよ」
握られた指に力がこもった。
「俺の方こそ、兄貴がいなきゃ、だめなんだ。他の誰でも、無理なんだ。兄貴じゃないと厭で、兄貴じゃなきゃだめなんだ」
キタンが深い深いため息をついた。
「そこまで言われたら、仕方ねえな。手、貸してやる」
おらよっと、体が持ち上げられた。
「図体ばっかでかいなあ、こいつは」
うるせえ。唇だけが動いた。
「ゲロくせえ」
「ごめん」
「お前が謝ってどうするよ」
そうだね、とシモンが穏やかに笑みを含んだ相づちを打つ。笑うな、とカミナは思う。そうして、シモンにはどうしていて欲しいのかを考える。思いつかない。
自由にならないカミナの体を支えながら、シモンとキタンはゆっくり、歩き出す。
体に触れるシモンの手を感じ、カミナは唇を噛みしめた。シモンの声は下から、キタンの声は横からそれぞれ響いてくる。
「兄貴がね、キタンに惚れた女ができたって言ってたけど、ほんと?」
「おうよ。そのうち、会わせてやるぜ。たまげるくらいのいい女だ」
「楽しみにしてる」
もつれる舌でカミナは呟く。そのうち、とはいつだ。早くしないと、てめえのいい女は、シモンに会えずじまいになるぜ。俺の弟分で相棒で手下で、穴掘り名人のシモンに会えないとは、何てかわいそうな女なんだ。
言葉は最後に、ひぐ、という情けない喘ぎに変わった。急いで呑み込んだら、口に残っていた嘔吐物の滓まで呑み込んで、その酸っぱさにまたえづきそうになった。
アパートまでの道のりで、また二度ほど、戻して、それで少し楽になった。目をしばたかせて、唇を噛みしめながら、残りの道を力の入らない足で歩いた。
アパートに辿り着いて、一度は、ベッドに寝かされた。シモンは、キタンに何やら言い置いて、部屋を出て行った。気を遣って締めたのだろうが、さして大きくもないドアの開閉音が頭の内側に響く。
ぶつぶつとののしり言葉を誰ともなしに呟きながら、カミナは起き上がった。途端、また胸が悪くなって、ゲップに似た音を口から漏らした。
「ゲロかけやがったら殺すぞ」
冗談とは取れないキタンの声に、カミナは首をもたげた。
「よお、人間タクシー。これからも、頼むぜ」
キタンは親指を下へ向け、悪態を一つついた。カミナは口の端をゆるめた。
「すまねえな」
一瞬、きょとんとカミナを見たキタンは、気色わりい、と言い残して、部屋を出て行った。
シモンと言葉を交わしている音が聞こえた。じゃあな、の声だけがはっきり、カミナの耳に残る。キタンの足音は遠ざかり、入れ違いにシモンが部屋に入ってきた。水の入ったボトルと氷を入れたボウル、それにグラスを乗せた盆を持っている。
「兄貴、お水」
机に盆を置いたシモンは、すでに水で満たされていたグラスを差し出した。カミナの指に力が入らないのを見て、グラスに手を添えて、水を飲むのを手伝ってくれた。
飲み干したカミナは、まだ飲むかと訊ねてくるシモンにうなずく。
「少し、冷たくするね」
氷が、一個、二個、三個、グラスに入る。かきん、かきん、とガラスに触れる音までが冷たい。差し出された水を、今度は一人で飲んだ。
頭の後ろが痛くなる位に冷えていた。グラスをシモンに返す。
「兄貴、あんまり飲み過ぎたら、身体、壊すよ」
ベッドに座り、うなだれているカミナの前に膝をつき、シモンは下から顔をのぞき込んできた。
「……なんで」
じっと見上げてくるシモンを、カミナは、同じようにじっと見下ろす。
「なんで、お前は、強いんだ」
「強くないよ」
「怖くないのか」
「怖いよ」
「なら、なんで、泣かねえんだ」
「兄貴が俺の分まで泣いてくれるからかなあ」
シモンを初めて見るような思いで、見つめ直した。
「俺が泣かなかったら、お前、泣くのか?」
「……俺が泣いたら、兄貴が泣くよ」
「てめぇ」
シモンを引き寄せて、拳でこめかみを押す。
「あはは、痛い、兄貴、痛いってば」
シモンが足をばたばたと動かし、笑いつつ、柔らかく抗う。
「兄貴に対する、口の利き方をわすれたか、こいつ」
腕に抱え込んで、その頭をげんこつでこづき、ゆるく首を絞め、カミナも笑った。
「兄貴、俺、もう降参!」
「まだまだっ!」
じゃれるように取っ組み合いをした。
笑って、笑って、笑わなければならないのに、いつの間にか、泣いていた。
逝かねえでくれ、シモン。死なないでくれ、シモン。やっぱり鼻水を垂らしながら、床に這い蹲って泣いた。
「兄貴」
シモンが肩を揺する。
両腕をその腰に回し、強く抱く。いや、抱くというよりもすがりつく。鼻先をくすぐるのは甘酸っぱいような、乳臭いような、まだまだ子どもの体臭だ。
シモンの手が髪を撫でる。優しく、優しく、宥めるように、カミナの頭を撫でながら、抱きしめてくる。
泣かないで、とシモンは言わない。何も言ってくれない。言ってくれればいいのにと思う。
泣けばいいのに、と言おうとする。けれど、何も言えない。シモンが泣いてしまえば、自分のすべてが崩れてしまうと分かっている。
「いやだ、俺はいやだ。いやだ、シモン……」
うん、とシモンがうなずく。
腹に顔を押しあて、鼻水と涙をぐしゃぐしゃに混じらせながら泣いて叫んでいると、シモンが頭を撫でてくれながら、優しい声を出した。
「ほらね。兄貴、俺の分まで泣いてくれる」
馬鹿野郎、と言う声が震えて、また涙が出て、こんなときなのに笑えるシモンが憎らしくて、憎らしくて、息が詰まるほどに苦しくなった。
俺はどうしたらいい、シモン。問いかけようとして、カミナは鼻水を啜った。
そんなことは聞けない。答えもない。意味もない。
胸からこみ上げてくる生あたたかいものが喉にへばりついて、何も言えない。涙だけが溢れた。泣くのをやめようとすればするほど、とめどなく溢れていった。
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