どこまでもふたり
5



 ひゅうっと細く、鋭い音が耳元に響く。絶え間なく続く音に、身震いしながら目を開く。
 赤っぽい土の上に四つんばいになっていた。顔を上げると、太陽が沈みかけている。その残光が、土をいっそう赤く染めている。まるで、血のようにも見えた。
 ぞっとしねえ。呟いたが、声が風にさらわれていく。膝をついたままで上半身を起こし、目を見開いた。
 わずかな土の盛り上がりだけが、唯一の変化といっていい荒野に、刀が一本、突き刺さっている。柄や鞘の造りに見覚えがあった。
 あれは、シャクの刀だ。村を出たとき、今までの鬱憤を晴らす意味もこめて盗み出し、早々に売り払った。なかなかいい値段で売れたのだ。手に入れた金はどう遣ったかは覚えていない。
 どうして、あんなものが、こんなところに。思って、目をしばたかせる。残照かと思いきや、刀の鞘の部分には紅い何かが引っかかっている。ぼろぼろの紅い布きれ、いや、マントだろうか。
 その後ろに男が立っていた。逆光のせいで、カミナの目には、男の顔立ちも定かではないのに、相手の瞳だけははっきり、見えた。
 深い、深い、哀れみ。それに、静かな怒り。
 目を逸らし、ふともう一度、視線を戻す。男の視線が浮かべるのは哀れみと、それから悔しさ、それとも妬心か。
 こんな俺が羨ましいのか。カミナは笑った。男を嘲り、自分を侮蔑しながら笑う。
 ――俺には、シモンがいる。俺のためなら何でもして、何もかもを許して、受け止めてくれるシモンがいる。羨ましいだろう。お前には、誰もいないんだろう。だが、安心しろ、俺にも誰もいなくなる。お前と同じだ。一人になる。たった一人に。
 歪むカミナの表情に、今度は男が顔を逸らす。男が握った拳をカミナは見つめる。男が自分を殴りたいと思っていることが、痛いほどに分かる。殴ればいいのに、そうしない理由も分かって、カミナはうつむいた。
 けれど、無理だ。どれだけ、悔やんでも、願っても、自分は彼になれない。彼も自分にはなれない。
 いっそ彼のように、先にいなくなれたなら、いいのに。
 指先が掴んでいた、固く、赤色を帯びた土が、さらさらとした白い砂に変わっていく。
 もう風の音は聞こえない。顔を上げると、男の姿はなかった。カミナがいるのは、日が沈む荒野ではなく、白い砂に覆われた平原だった。
 ほんのわずかな身動きにも、灰のように軽く、粉っぽい砂は舞い上がり、カミナの目を打った。ひりひりした痛みに、ああ、これは骨の砂だと気づく。緩慢な動作でカミナは腕を上げ、顔を庇おうとし、止めた。シモンの骨だ。殺し続けてきたシモンの心の数だけ、砂粒は増えるのだ。
 気が済むまで、心が晴れるまで、打ってくれればいい。望むままに、詰り、恨んでもらえたら、どれだけ楽だろう。けれど、それは許されない。
 カミナはうずくまった。砂に埋もれていく。目から、鼻から、口から、耳から、砂が入ってくる。息が詰まる。なのに、苦しくなかった。痛くなかった。どこまで許すつもりなのだろう。優しさなど、ない方が、救いになるときもあるのに。
 泣こうとして、泣けないことに気がついた。冷たく、優しい砂に全身を包まれた。

 ――自分を現実に引き戻してくれたのが、何の臭いなのか、すぐに分かった。すぐに消えそうでいて、鼻と喉の奥を刺すような清潔で乾いたこの臭い。消毒薬のものだ。大きく鼻で空気を吸い込み、カミナは目を開いた。
 勢いよく起き上がりかけて、ふたたび、身体を横にした。白いシーツが被せられた診療台に寝かせられている。白くかさついたタオルをカバーがわりにした小さな枕を頭の下に引き込んだ。
 見えるのは、白い天井、リノリウム張りの床、銀色の流し、仕切がわりの薄い緑がかったカーテン。壁には、絵と文字で人体組織の説明をするポスターが貼られている。
 手洗い、うがいをしましょう。健康のためには日々の食事をバランスよく。他にもそんな文字が、視線を廻らすたびに、視界に入ってくる。
 安定剤か何かを注射されてから、診療室の奥に運ばれたのだろう。
 なんてざまだ。カミナ様とあろうものが。
 天井を見上げながら、笑おうとしたが、唇は動いてくれない。への字になって、じわじわと目頭が熱くなる。
 落ち着け、落ち着け。言い聞かせて、ゆっくり深呼吸する。
 そうだ。弟分の余命を告げられたくらいで、動揺してどうする。俺が、シモンを支えるのだ。兄貴で居続けなければならない。格好いい兄貴にならなければならない。やれるはず、できるはずだ。なにしろ、深い、暗い、何もない、地下から何も持たず身一つで出てきたカミナ様だ。一人になっても平気に決まっている。
 ―― 一人。手で顔を覆った。

 帰りたくない。帰らなければならない。言わなければならない。言いたくない。聞かなければならない。聞きたくない。
 逃げ出してしまいたいのに、足を家に向けていた。すれ違った相手の肩に何度、ぶつかっただろうか。幾度も舌打ちされ、怒声を投げかけられ、気がついたらアパートの前に立っていた。
 転がった瓦礫の欠片を蹴飛ばしながら、足を引きずるようにして前へ進む。本当はこのまま、どこかへ逃げ去ってしまいたい。だが、足はゆっくりとではあるが、歩みを刻んでいく。板張りの廊下を、ところどころ踏み抜かれたままの階段を、きしませながら、カミナは自分の部屋まで戻っていった。
 途中、廊下に置かれた壊れた家具や住民の荷物に幾度も躓き、よろけた。最後に、何かの金具に足が引っかかり、つま先に生まれた痛みに、大きくよろけて、姿勢を保とうと伸ばした腕が、壁にぶつかった。そのまま勢いで、カミナは扉にぶつかった。
 拳を握り、扉に叩きつけようとして、奥からの足音に気づいた。シモンが鍵を開きにやってくる。
 うつむいた視線の先には、始終、カミナが蹴りつけるために、へこんで、汚れが黒くこびりついた扉の隅が写った。力なく蹴り飛ばして、カミナは身を引いた。
 上、下、真ん中。鍵が開かれていく音は、いつもの順番どおりで、居てくれたことに安堵し、居ることに苛立った。
「おかえり、兄貴」
 ブータを肩に載せたシモンも、いつものままだった。
 扉を大きく開いてもらっても、足を踏み出せなかった。シモンは自分がいるから入れないと思ったのか、ぴたりと壁に身を寄せる。
 扉の内側に入る。ドアが閉まる音が、やけに耳の奥に響いた。
「ちょうどよかった。今、ごはん、できたとこだったんだ。じゃがいもたくさん買えたから……」
 カミナの顔を見て、シモンが慌てたように付け加えた。
「あのね、じゃがいものグラタンだけど、チーズ使ってあるから」
 野菜ばかりじゃ腹が膨れないと文句を言ったのを覚えていたのだろう。
「お肉は、ちょっとお金足りなくて……ごめん」
 カミナは乾ききった口の中を舌で湿した。しゅんとしたシモンに、何とか言葉を返そうとしたが、ひどくかすれて、低い声が出てしまった。
「いや、かまわねえよ」
 シモンはまばたきして、少し不思議そうにカミナを見たが、気を取り直したように笑う。
「でもね、お酒、あるんだ」
 けっこういいの。ダヤッカがくれたんだ、とシモンは嬉しそうに言って、カミナの横を柔らかい足音を立てながら通り過ぎた。
 台所へ行こうとするシモンの背中にカミナは、恐る恐る声を掛けた。
「シモン」
 シモンが振り返る。
 いつもの大きなどんぐり目。そこにカミナは、恐怖や不安を探そうとした。どこかに必ずあるはずだ。
 もうすぐ自分が死ぬという恐怖。誰もが抱いて、しかし、気づかないままにやり過ごしているはずの死への恐怖。シモンの眼の色は夜の色だが、濁ってはいない。澄んで、こちらを見返す様は、晴れ渡った夜空のようだ。浮かぶ光は、またたく星にも似ている。清明でどこにも曇りはない。一心に、ひたむきにカミナを慕う、まっすぐな眼差しだ。
 振り返れば、どんな暗い場所にも、この眼があった。この瞳があったからこそ。
 気づいた瞬間、崩れた。
「シモン」
 名を呼ぶ声が震えた。
 一人だ。一人になる。もう、呼んでもシモンは応えなくなる。その時が迫っている。
「――お前が、いなくなったら、俺は、どうしたらいいんだ」
 シモンが撲たれたように、大きく震えた。
「兄貴」
 シモンの目が、顔から零れそうなほどに大きく見開かれる。
 思いがけないほどの動揺が浮かび、それを覆い隠そうとする冷静さがあり、それが逆に、カミナを青ざめさせた。
 この最後の、ぎりぎりの崖っぷちのような状態でさえ、どこかで甘く思っていた。すべてが悪い冗談で、いつも自分に振り回されているシモンが、茶目っ気を起こして、皆を引き込んで、カミナに一泡喰わせようとしているのだと。
 何もかも、真実だった。何一つ、嘘はないのだ。
 ふらふらとシモンに近づき、両肩に手を置く。シモンの肩の骨が手のひらに刺さる。責められているようで、体が震えた。
「なあ。死なねえって言え」
 カミナはシモンの肩を掴む手に力を込めていく。肩の骨が砕けそうな痛みに顔を歪めるシモンだが、しかし、何も言おうとはしない。
「嘘だって言え。病気なんかじゃないって!」
 カミナはシモンを揺さぶった。揺り落とされたブータが床に転がり、壁にぶつかる。
「お前が、俺を置いていってどうすんだよ!」
 がくがくとシモンの首が揺れる。されるがままのシモンの体に力はなく、カミナの腕の力でようやく立っているようだ。
「お前は、いつだって、俺の子分で弟分で、俺の後をひっつきまわって、俺を助けんだろうが!」
 このまま揺さぶり続けている間に、シモンの首が取れたらどうしようと子どもじみた恐怖が走る。なのに、手を止められない。
「おら、何とか言えよ、シモン! なあ、おい!」
 指に鋭い痛みが走った。カミナはシモンを揺さぶるのを止めた。シモンの肩に戻っていたブータが左手の小指を噛んだのだ。第一関節と爪の間に小さな小さな丸い噛み痕が穿たれ、そこにたちまち赤い血の玉が盛り上がってきた。
 手首にひやりとした感触があたる。シモンの指がカミナの手の甲に添えられた。
 荒れ気味で、皮膚の硬い、ざらりと乾いた指先だ。とても小さい。短く切られた爪もとても小さい。こんなに小さいなんて、とカミナは愕然とした。どれだけ握っていても頼りないではないか。握る己の指の隙間から零れてしまうではないか。
 唇を震わせながら、カミナはシモンと目を合わせる。
 一心にこちらを見上げてくるその瞳。気弱さはなく、内気さもなく、ただ張り裂けそうなほどに深い悲哀があった。伝えたことがカミナを苦しませる、それだけをシモンは心苦しく思っている。
「……ごめんなさい」
 血の玉がぱちんと壊れ、赤い流れがシモンの肩を汚す。視界の隅が赤くなる。シモンの瞳の色はどんどん暗くなる。円が見える。周りは赤くて、中心は暗い。目の前でその円がぐるぐる回り、赤と黒が混じり合い、まだら模様になり、溶けていく。ぼやけていく。
 気がついたら、床に崩れ落ち、カミナは泣きじゃくっていた。しゃっくり上げるたび、鼻水が垂れて、よだれも垂れて、涙と入り交じり、顔と床をぐしゃぐしゃに汚した。
 シモンの手が肩に触れる。腕を掴み、細い体を抱いた。細い腕は逆に、カミナの体を抱きしめた。必死ですがりついた。
「兄貴、ごめんね、ごめんね」
 シモンが繰り返し呟いて、カミナの背中を、頭を撫でる。
「ごめんね……ごめんね」
シモンの薄い胸板に押しつけた顔や額に、こつりと何かが当たる。いつも身につけている革ひもに指輪を通したものだった。
 こんなものが。こんなものしか。こんなもので。言葉が出ない。嗚咽にしかならない。
 今まで手に入れてきた金貨や宝石が遠くに霞む。あんなにたくさんの輝きと喜びがあったのに、何も手元に残らない。残っていない。残されない。



<<<

>>>



<<<