寝付きもいい、寝起きもいいのが自慢だったが、今朝は最悪だ。昨日は寝付くまでに時間がかかった上に、妙に寝覚めが悪い。頭もすっきりしないし、体もだるい。ダヤッカの店で飲んだ酒に混ぜものでも入っていたか。
そこで、思いついた。たぶん、昨日のシモンが淹れてくれた紅茶だ。あれに垂らされていた酒が、どこかの合成酒だったに違いない。
しょうがねえ奴だとカミナは重たい体をベッドの上に起こした。ここは、きちんと一言、言わなくては。ついでに酒代だけはケチるなとも。のろのろとシャツに腕を通し、カミナは胸や腰、尻を掻きながら、靴を探した。踵を踏みつけて、爪先だけを突っかけ、部屋の扉を開ける。
キッチンと一続きの居間にシモンの姿はなかった。テーブルの上にもメモはない。行くなら行くで、何か書き残していくはずだ。食事も用意せず、どこに行ったのやら。カミナはテーブルの上にあるクッキージャーの蓋を開けて、中に二枚残っていたクッキーを一枚、取り出した。
幾分、しけっているそれをかじる。これが朝食とは心許ない。眉間に皺を寄せながら、指先にくっついたかけらを舌先で舐め取った。物音を聞きつけたのは、そのときだった。
シモンの部屋の方からだ。なんだ、いたのかとほっとして、カミナは弟分の部屋の扉を押した。
シモンは戸棚の戸を開き、中をごそごそ探っている。何かを探している、というよりも奥に仕舞い込んだものを取り出しているような確かな手つきだ。
顎を掻きながら、カミナは声もかけず、シモンを見ていた。頭がぼんやりして、よく働かない。あんなとこに何を仕舞っていたのだろう。もしかしたら、へそくりだろうか。なら、今度、手持ちがなくなったときに、ちょっと拝借してみようか。
シモンの足元にいたブータが振り返り、カミナを見つけた。シモンの注意を引きつけるように、ぶっと小さく鳴いた。
手を止めたシモンはまず、下を見て、それからブータの視線を辿って、戸口に立つカミナを見つけた。
「兄貴!」
振り返ったシモンがびっくりしたように目を見開いた。その手が戸棚の戸を押して閉める。
「早いね。どうしたの?」
「早いとわりいかよ」
シモンは勢いよく、首を振った。手に持った包みが、がさがさと派手な音を立てる。シモンが何気なく、手を下げ、体の前へともっていく。
包みを隠すような仕草に見えた。カミナは部屋の中に入り、シモンに近づいた。
「それ、なんだ?」
「く、薬」
カミナは大げさに眉間に皺を寄せて見せた。
「お前、まーだ病院行ってんのか?」
シモンがびくりと背中を揺らす。
「……うん」
「よくなってねえのか?」
シモンの背後から覆い被さるようにして、カミナは薬の名を読もうとしたが、シモンは薬の入った袋を胸元に押しつけてしまった。
「咳止めとか、もらってるんだ」
「ふうん」
ぽんと頭に手を置く。なんだか、また小さくなった気もした。
「金、あんのか」
「それは大丈夫。診察費、安いから」
「なら、いいけどよ」
シモンはシモンで小金を溜め込んでいるようだし、そちらから遣っているのだろう。
「朝ご飯、作るね」
シモンは薬を戸棚ではなく、引き出しにしまい、うながすようにカミナの腕に触れた。
「なに、食べたい?」
「ハム、余ってただろ。あれ、焼けよ」
「うん」
引き出しを開けて、薬が何なのか確かめようとも思ったが、それも何やら憚られて、カミナはシモンと言葉を交わしながら、部屋を出て行った。
朝食も食べ終えて、とくに行く当てもないカミナは、ソファに寝転がり、ごろごろしていた。古い雑誌をめくったり、付きの悪いテレビを、いじったりしてみたが、どうにも暇で仕方ない。
朝食の後片付けを終えたシモンは、部屋の掃除を始め、それが終わると、次は、テーブルの上に何やら衣類を広げ出した。体が動くようになってからは、やたらと、物を整理したり、片付けたりしている。服もだいぶ、処分しているし、そうかと思えば、細々としたことをノートに書き付けていたりもする。いつ見ても、せわしなく動き回って、かと思えば、ぼんやりしているときもある。
「おい、シモン」
カミナの声に被さるようにして、シモンが訪ねてきた。
「兄貴、今日、どこか行くの?」
そう訊かれると、どこかに行かなければならない気もしてきた。なんとなく追い出されているような気分で面白くない。
「お前はなにしてんだよ」
「今から、シャツ縫うんだ」
確かにシモンの膝やテーブルの上には、カミナのものとおぼしいシャツが五、六枚、他の衣類と共に置かれている。どれも派手な柄入りだが、何度も水をくぐって、色あせたり、布が柔らかくなったものばかりで、最近はクローゼットに放り込んだきり、着ていなかった。
シモンは一枚を広げ、取れかけているボタンがないか、ほつれた箇所がないかを確かめている。指が止まり、優しいような困ったような、ため息が漏れた。
「兄貴のシャツ、すぐ、ボタン取れるし、脇の下破けるよね」
針と糸を用意したシモンにカミナは呆れた。
「そんなボロ、捨てとけ」
「まだ、着られるよ」
繕い始めたシモンを、カミナはしばらく見ていたが、あくびを続けざまに三度したところで、椅子から立ち上がった。
「出かける?」
「ああ」
「いってらっしゃい」
シモンも立ち上がる。赤や青、緑や黄色、縞模様や花柄、蝶やトランプ柄といった派手やかな色彩の中、そこだけが曇ったように、シモンのくすんだ灰色のシャツが見えた。
見送られて、出て行く前、カミナはもう一度、振り返る。手を挙げるシモンのシャツは、カミナのものよりも、もっと古びていた。
踏み抜かれた腐った部分を避けて、階段を降りながら、カミナは、唇を歪めた。
派手な染めと柄を好むカミナと違って、シモンの服の好みは控えめで、地味な色合いしか選ばない。好きな服を着るという自由も選択もない、ブタモグラの毛皮だけをまとっていた昔を今も引きずっているようだ。
あんな地味な服を、くたびれても後生大事に来ているから、訳の分からないことを言うのだ。たまには新しい服でも買ってやろうか。それとも、仕事が終わってから入った報酬を今回は弾んでやって、そこから買わせようか。
とにかく、新しい服を買え、と言わなければならないだろう。相棒が、あんな地味で目立たない服を着ているとは、いただけない。
通りを歩く途中、足を止めたのもその思いが頭の隅に残っていたからだった。
若者向けの洋服屋だった。マネキンの着ている青い上着に目を引かれ、カミナは立ち止まって、ガラスの向こうをのぞいた。
袖丈も、身幅もシモンにちょうどよさそうだ。値札を見たカミナは肩をすくめた。懐が温かくなった時に考えよう。売れてしまっていたのなら、それまでだ。
ちらりと頭を過ぎったのは、あんな鮮やかな色の上着を買って戻ったとき、シモンはどんな顔をするだろう、ということだった。喜ぶには喜ぶだろうが、無駄遣いして、と思うかもしれない。
もう一度、上着を見て、カミナは歩き出した。とりあえず、酒場と賭場だ。路地に入り、カミナは足を速めた。
※
「――二度と、顔を出すなよ」
胸ぐらを掴み、ドスのきいた声で、男はそれだけ言うと、カミナを突き飛ばすようにして、外へ押しやった。
てめえの口はにんにく臭え。聞こえぬように、毒づいてみたが、すでに扉は閉められて、男の姿はない。カミナは口元を拭い、立ち上がった。かすかに血の味がしたが、薄皮一枚切れただけだろう。運の巡りを自分で何とか良くしようとした割には、軽いおとがめですんだ。もっとも、それも儲ける前だからだろう。カミナは袖口に隠し持っていたカードをすべて捨てて、賭場前から歩き出した。
通りに出て、角を曲がり、周囲に素早く目線を配り、誰も着いてきていないのを確かめると、懐に手を入れる。
手のひらに、中身の詰まったずっしりと重たげな、革袋の感触があった。イカサマはもっと腕を磨いてからがいいだろうが、別の技量は、我ながらなかなかのものだ。
中身を開いてみると、金貨と銀貨が詰まっている。しけた賭場の用心棒の割には、いい稼ぎをしているらしい。それとも、締まり屋か。どちらにしても、カミナにはありがたい。
「へっ」
口の中を切っても、腕に傷をこしらえても、充分おつりがくる。まずは、一杯やって、腹ごしらえだ。カミナの目は酒場を探し始めたが、めぼしい店は見つからなかった。賑やかそうな方を選んでいる内に、通りの奥へ、奥へと迷い込んでいく。
この地区は、見知らぬ場所、というほどではないけれど、慣れた道でもない。あまり奥に行って、因縁を付けられてもまずいが、結局、 これは、と思うような店が見つからないまま、繁華街を通り過ぎてしまい、この辺りで働く者が住んでいるような古びたアパート街に出た。街の構造からいえば、このまま行っても、郊外に行くだけだ。
舌打ちして、来た道を戻る。来たときは、やり過ごした通りの向こうに、飲み屋の看板を見つけた気がして、カミナは、小道からそちらに渡った。
いい加減、腹が空いてきた。どこでもいいから、一杯引っかけて、何かつまんで、店を移そう。
そんなつもりで、わざわざ、看板の店を求めて、やってきたというのに、カミナが見つけたのは、酒場や食事が出来るような類の店の看板ではなかった。それらしく見えなくもないが、ここにある診療所の看板らしい。
周りにはも、汚い、せせこましいアパートが建ち並んでいるだけだ。こんなときは、潔く諦めて、ダヤッカの店に落ち着くに限るだろう。
夕刻過ぎ、建物の影は、すでに濃く、暗くなっている。診療所の前を通り過ぎかけたカミナは、立ち止まった。
シモンは、キタンは、何と言っていただろうか。カミナはもう一度、その看板に目をやる。
リーロン診療所。
腕の擦り傷はひりひりと痛んでいる。これも、立派な怪我ってやつだ。独りごちて、カミナは体の向きを変えると、診療所の緑色の扉をそっと押した。
澄んだ鈴の音が頭の上から振ってくる。儚いくらいに淡い音だが、よく響いた。職業柄、とでもいおうか。カミナは素早く、視線を部屋の隅々に向ける。
クリーム色の壁紙は古びているが清潔感があった。広くはない待合室には、年代物のソファが置かれて、八割方、席は埋まっていた。ソファの間には、目に染みてくるような深い緑色した観葉植物が置かれている。
粗末な身なりの親子の横に、仕立ての良いスーツに身を包んだ、明らかに堅気ではない目つきの男が座り、その向かいには、今にも吹き飛ばされそうなほど痩せた老女が、孫娘らしき女に付き添われて座る。時計の下には、おそらく煙草を我慢しているのだろう、この界隈の娼婦らしき女が、ミニスカートから伸びる足を、カミナが見た間だけでも、四度ほどせわしなく組み替えて、苛立ったように眉をひそめている。
受付にいた年配の女が顔を上げ、カミナに向けてほほえみかけた。そちらに足を向ける途中で、衝立の向こうからまた別の、こちらももっと年配の女が、静かな声で誰かの名を呼んだ。
つややかな葉の緑色の隣に座っている男が、ふと顔を上げた。髪の長い、整った顔立ちの優男だ。隣でがっくりとうなだれている男の肘をつつき、促す。短髪の男も顔を上げ、少し重たげな足取りで、看護師に続いて、診療室へと入っていく。
声のやりとりは聞こえるが、何を言っているかまでは分からない。カミナは受付簿に名前を書き、怪我をした、と言って、空いたソファに腰を下ろした。
予想以上に待たされたのは、一度、救急だといって、真っ赤な顔をした子供を抱きかかえた女が駆け込んできたからだ。
それが終わってから、ようやくカミナは名を呼ばれた。ちっと訳もなく舌打ちしながら、診療室へ入った。
衝立の向こうの椅子に座る人物と目を合わせて、カミナは、我知らず、たじろいでいた。
「はじめまして」
膝の上で両の指を組み合わせて、彼、あるいは、彼女は、ほほえんでいた。
中性的な、というよりも性別がどこか曖昧な印象を与える顔立ちだ。白いなめらかな肌は化粧をしているようにも見えるし、違うようにも見える。とらえどころがないが、口元に浮かぶな笑みが人当たりを柔らかくしていた。
「私はリーロン。呼び方は、何でも結構よ。先生でも、ドクターでも、名前でも好きなように呼んでちょうだい」
声まで、低い声の女とも、あるいは、やや高い声の男とも取れる。
繁華街の界隈あたりでは、こういう不可思議な手合いはめずらしくないのだが、リーロンは気配が違う。下卑ていない、というのだろうか。確かな知性と品と、それから力強いものが感じられる。もっとも度胸が据わっていなければ、こんな地区で病院など開いていないだろうが。
品定めするようなカミナの目つきをリーロンは、さらりと受け流し、逆にこちらを見透かしてくるような深い眼差しを見せた。
カミナはふいっと目をそらし、顎を指先で掻いてから、リーロンに視線を戻した。
「……カミナだ。シモンが世話になってるそうだな」
「あら」
カミナの名乗りにリーロンは、奇妙な眼差しを浮かべた。
「あなたが、シモンの言ってた……」
「おう。血は繋がってねえが、あいつの兄貴になる」
「ええ」
リーロンはカミナに椅子を勧めた。
「じゃあ、今日はシモンのことを聞きに来たのね」
カミナは黙って、腕を上げた。擦り傷を見て、リーロンは苦笑した。
「自分で手当てした方が早そうな傷ね」
脱脂綿を消毒薬に浸して、傷口を拭い、その後、傷薬らしいやたらに染みる黄色い薬を塗られた。手際よく動く細い指先を見ても、やはり男か女なのか、はっきりしない。
「仕上げに、包帯でも巻きましょうか? お代は高いけど」
カミナは腕を引いた。
「で?」
うながすようにカミナは顎をしゃくった。
「シモンのことだ。いつまで、薬飲んで、病院来ればいいんだ」
リーロンは、少し唇を動かしかけ、目線を机の上のカルテへ落とした。
「シモンから、何か聞いてる?」
「咳止めもらってんだろ。喉でも痛めてんのか?」
リーロンがカルテをめくっていた指を止めた。カミナを見る瞳が、不可思議な光を宿す。
「――カミナ、本当に何も聞いてないの?」
何かがちかりと閃いて、カミナは即答するのを避けた。
知らないままの方がいいだろうか。いや、シモンが具合が悪いままでは、いつまで経っても仕事が出来ない。ひいては、こちらが干上がってしまう。手を焼かせる弟分だ。面倒くさいが、聞いておかなければならないだろう。
真面目くさった深刻そうな表情を作ってみせる。
「あんまりよくねえのは、分かっている。どうなんだ、そのあたりは。俺ぁ、今日、それを確認に来たんだ。なにしろ、俺はあいつの兄貴分で、家族みたいなもんだからな」
話している内に、確かに、そうだった気がしてきた。いや、そのために来たのだ。あまり調子の良くないシモンのかかりつけの医者に、わざわざ具合を訊ねにきた優しい兄貴分だ。
ただ、もし大金が必要な事態になっていたら、どうするか。そこで、カミナは伺うようにリーロンを見た。得体は知れないが、キタンやシモンの言葉からすれば、貧乏人も分け隔てなく見てくれる良い医者らしい。なんだかんだで、面倒見は良さそうだから、入院やら手術やらが必要なら、取りはからってくれるだろう。
ここは様子を見て、リーロンがそこまでやってくれるようなら任せればいい。後は、シモンが元気になったのを見計らって、一緒にずらかる。
よし、とばかりにカミナはうなずき、表情をいっそう引き締めた。
「俺なりに、心配してんだよ」
リーロンはカルテを置いて、椅子を回し、カミナと向かい合った。思いがけず、瞳にちらつく真剣な眼差しにカミナは気圧された。
舌先で唇を湿し、カミナはリーロンの言葉を待つ。
リーロンは一呼吸置いて、ゆっくりと、もの柔らかな声音で告げた。
「落ち着いて聞いてね。良くないの。いいえ、悪い、と言う方が正しいわ」
そんなことは分かってる。カミナは眉を寄せたが、言葉は控えた。
「回りくどいのは、性に合わねえんだ。はっきり言ってくれや」
リーロンの目にわずかな逡巡が過ぎった。かすかにひそめられた眉間に、カミナも、またためらいを覚えた。聞かない方がいいのではないか。そんな思いがちらりと胸を横切り、
リーロンの言葉を遮ろうとでもするかのように、腕が上がりかけた。
かすかに指先を上げたままで、カミナは動きを止めた。
「良好で三ヶ月から四ヶ月、持って半年という状態よ」
言葉をカミナは頭の中で繰り返し、文字の意味をなぞり、すぐに打ち消そうとした。そんな莫迦なことがあるわけがないのだから。笑い飛ばして、ここを出て行くに限る。
だが、リーロンは貫くがごとき鋭い視線で、カミナを見ている。嘘はどこにもなかった。洒落も冗談もなく、ぞっとするほどの重たい真実が、リーロンの瞳の向こうに横たわっている。
体中の血が一気に頭に昇った。感情に任せ、カミナはリーロンに両腕を伸ばし、乱暴に、絞め殺してもいいほどの力を込め、リーロンの胸倉を掴んだ。
「ふざけんじゃねえぞ!」
息がつまったらしく、ぐっとリーロンは呻いたが、落ち着いた眼差しを、カミナに向けている。リーロンの目の中に、悪鬼のように、目をぎらぎらと光らせる自分の顔が見える。
「――いいわよ、殴って。結果を家族に伝えなかったのは確かだから。でも、どれだけ殴っても、シモンの病気が良くなる訳じゃない」
今度は、頭を沸騰させていた血がいっきに冷えていく。眩暈がした。
リーロンを突き飛ばすようにして、離す。両手で顔を覆った。瞳をきつく閉じる。こんな風にして、今聞いたすべての言葉を闇の中に消せればいい。
咳き込んでいたリーロンは、ふうっと長いため息をついた。
「シモンの方がよっぽど、落ち着いて聞いてたわね」
指の隙間と前髪の間の細い視界から、リーロンを見る。襟元を整える横顔は、どこか沈んで、影がある。カミナの胸にも、同じような影が横切った。
うわごとのように、呟く。
「なんか、あるだろ。手術するとか、薬とか、あるだろ。それをやれ。何でもいいから、やれよ!」
リーロンの指が伸びて、カルテを取り上げる。確かめるためというよりも、言葉を口にする間の視線の置き場所を探すような仕草だった。
「すでに肝臓、脾臓、骨髄にも転移が認められたの。今の全身と血液の状態、それにシモンの体力から考えれば、化学療法と放射線治療は……正直、あまり勧められないわ。今より悪くならないためには、中央の病院へ入院してもらうことがいいと思うの。抵抗力も落ちてるし、抗生物質だけじゃ、限界がどうしてもあるから」
「ごたごた言ってんじゃねえよ、何か、やれっていってんだろ!」
声を荒げたカミナは拳を壁に叩きつけた。
「医者は病気を治すもんだろうが!」
リーロンが苦い、悲しい笑みを浮かべた。
「ええ、そうよ。……そして、医者は万能じゃないの。どれだけ手を尽くしても限界がある。人の命は人の及ばないところに存在しているのだから」
耐えきれず、目を逸らした。逃げ出してしまいたい。早く酒を呑んで、悪い夢を見たと思いたい。
「意味が、わかんねえよ」
「カミナ、落ち着いて」
「俺ぁ、落ち着いてんだろうが!」
「カミナ」
リーロンが首を振る。
「きちんと受け止めてシモンを支えてやって。今日まで、シモンはずっと一人で堪えてきたのよ」
うるさい。言おうとして、別の音が聞こえた。
がちがちがちがち、喧しくて仕方がない。何の音なのだろう。とても耳障りだ。それに寒い。カミナは両腕で自分の体を抱いた。手のひらも腕も、冷たい。その上、大きく震えている。
「とにかく、そこに座って。ほら、大きく深呼吸して」
「るせっ」
叫んだ声が、声にならない。唇が震えている。
がちがち、かちかち、すぐ側で聞こえる乾いた大きな音は、歯が鳴っているのだ。恐怖に、血の気が引いて、体中が冷えている。寒くて仕方ない。
半年あるか、ないか。違う、数ヶ月あるか、ないかなのだ。どういう意味なのだ、それは。数ヶ月したら、一年が過ぎたらどうなっているのか。
眩暈と共に答えが浮かぶ。
―― 一人だ。一人きりになるのだ。この広い地上に、たった一人に。
狭苦しい地下の村でも二人だったのに、だから安心していられたというのに。こんな広い、ひろい、太陽が照りつけるこの地上に、たった一人で。
息が詰まった。こんなに広いところにいるのに、息が出来ない。胸が苦しい。涙が浮かぶ。
シモン、シモン。名前を呼ぶ。俺の子分で弟分のお前が、俺の側にいないなんて、おかしな話じゃねえか。
俺が忍び込む店に目星を付ける。どれだけ稼いでいるか、どんな警備設備があるか。どこに金目のものがあって、どんな風にそれを隠しているか。俺の情報収集力は、ちょっとしたもんだ。頭は使うが、なに、難しいことはねえ。下準備は任せとけ。
そして決行当日。シモン、お前の出番だ。お前が穴を掘る。向こうは、まさか、こんな形で忍び込まれるなんて思ってねえから、安心しきって、油断している。その裏をかき、儲けているとこから、足りないところへの物の移動をする。あらいざらいかっさらう情のないやり方ではなく、いいものだけを選んで、頂いていくスマートなやり方だ。
あとは、それを上手に売りさばく。ピンハネされないように、足元を見られないようにするのは、俺の仕事。もちろん、俺の方が働くから、取り分は俺が多くて当然。だからといってお前にやらねえ訳じゃない。その辺り、俺は気前がいいからな。
懐が暖かくなったら、旨いものを喰って、酒を呑んで、陽気に騒ぐ。そうして、俺たちは暮らしてきたんじゃねえか。これからも、そうして、暮らしていくんじゃないのか。ずとずっとそうして暮らして、生きていくんじゃねえのか。
世界がぐるぐる回る。頭の芯が痺れたようになって、目の前がぎらぎら光る。視線が定まらない。肩を抱いた手が震え、身体も震え、全身が、がくがくと揺れていた。
リーロンが受話器を持ち上げ、唇を動かしている。やってきた看護士が何かを手渡す。
リーロンが何か言ったようだ。それとも、かたわらで、カミナの身体を支えるように手を当てた看護士の声だったのか。
首筋に、ひやりとした感触、それからちくりとした痛みが走った。何をしたと聞けば、答えてくれたようだが、よく聞き取れない。
少し眠くなる。思考が緩慢な流れになり、椅子に腰を下ろそうとして、尻餅をつく。リーロンに腕を取られ、診療台に横たえられる。こんなところに寝ている暇はない。早く、行かなければ。
どこへ? 誰の元へ?
――シモン、お前はどこに行くんだ。
目の前が爆ぜたように白くなり、カミナの意識は沈んだ。
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