昼過ぎ、起きあがって、あくびを繰り返しながら、台所に行くと、テーブルの上にスープ皿とスプーン、ふきんに包まれたパンが置かれていた。横にはメモが残されている。それでシモンがいない理由が分かった。
「病院と、ロシウのとこ、か」
記されていた名前を久しぶりに目にして、何となく面白くない気分になった。
ロシウは、シモンと同い年か、幾つか下の少年だ。頭がいいらしく、街中の学校に通っているとシモンは言っていた。
ロシウもカミナやシモン同様、孤児らしいが、教会の福祉施設で育てられたためか、すれたところもなく、どこか上品なところがある。下町をうろつくような服装でも、性格でもなさそうなのに、一体、どこでシモンと知り合ったのやら。
しかも、シモンはロシウから、文字や算術を教わっているようで、一度、彼が家に来たのを見かけたことがある。今のアパートではなく、さらにその前の廃屋でもない、別のアパートに住んでいた頃の話だ。
それなりに住み心地は良く、盛り場にも近いから気に入っていたのだが、階段の上り下りが面倒なのと、家賃を払えきれず、三月も経たないうちに、滞納したまま夜逃げ同然で、逃げ出した。
ロシウが訊ねてきたのは、アパートに越してきて一月くらいだった気がする。シモンが体調を崩す前だったから、手みやげのつもりだったのだろうか。二人が隣り合って座るテーブルの片隅には、林檎やらオレンジやらを盛った籠が置かれていた。
カミナが家に戻ったとき、その甘酸っぱく、瑞々しい香りが、玄関先にまで漂っていて、少し前まで、賭場の汗と酒と煙草の臭いにまみれていたこちらとしては、その清々しさに、いたたまれなささえ感じたものだ。
それはロシウが持つ、生真面目で、神経質そうな雰囲気も関係していたのかもしれない。丁寧な言葉づかいで、挨拶をされ、頭も下げられたが、その目には、カミナを推し量ろうとするような検分の光が浮かんでいたようにも見えた。
シモンが話しかけてくる間、横でロシウは黙って、カミナとシモン双方に視線を向けていた。
その瞳には、初対面の人間に対する緊張とは別に、異質なものに対する驚きや戸惑い、それに幾らかの侮蔑が混じっていたように見えた。
地下にいた頃から、カミナは自分へ向けられる蔑みや哀れみ、といった視線には敏感だったから、ロシウがどれだけ上手に覆い隠していても、感じ取らずにはいられなかった。
何気なく頬を撫でれば、かなり伸びた無精髭が手のひらを刺した。これも気にくわない要因だろうか。用を足しに行って、戻ってくると、二人は隣り合って座り、額を寄せ合うようにしながら、ノートと何やらごちゃごちゃ文字と絵と数字の書かれた本を広げていた。
ドアをかなり乱暴に開いたのに、シモンは顔を上げなかったから、カミナはわざと足音を立てて、二人に近づき、背後から覆い被さるようにして、手元をのぞき込んだ。
カミナを迎えたのは、どうしたの、と言いたげに見上げてくるシモンと、少し迷惑そうなロシウの顔だった。
疎外感を味わいつつ、カミナは訊いた。
「それ、難しいのか」
「いいえ。初級の算数です」
ロシウが答える。お前には訊いてないと言いかけて、あまりの子供っぽさに止めた。
シモンがこれはね、と説明してくれようとしたが、カミナは手を振った。
「いい。それより、俺の分まで、しっかり、覚えてくれや」
シモンはうんと笑いながら返事してくれたが、ロシウは黙ってうなずいただけで、愛想笑いも浮かべなかった。シモンと居るときもこうなのだろうか。今度は自分がロシウとシモンを見比べたカミナだったが、この場にとどまる居心地の悪さが消えるはずもなかった。
林檎を一つ取り上げて、口でもごもご言いながら、部屋を出た。
シモンが椅子から立ち上がったらしく、がたんと音が後ろから聞こえた。
「兄貴、またどっか行くの? 夕飯は?」
しゃくしゃくとわざと林檎を大きく、乱暴に噛んだ。
「兄貴ってば」
玄関のドアを勢いよく閉めれば、まるで怒っているように思われるだろう。カミナは、なるべく、力を込めないようにして、ドアを閉めた。追いかけるようにして、シモンがドアを開いて、隙間から顔を覗かせた。
「兄貴」
軽く睨んでから、何も言わず、カミナは背を向けた。
それきり、ロシウの姿をどこに引っ越しても見かけたことはない。きっとシモンがロシウに頼んだか、それともロシウが拒んだのだろう。ロシウの訪れが、シモンとカミナの話題に上ることもなかった。そんな出来事などなかったようだ。
たまに、シモンがロシウの名を口にしても、カミナは聞こえないふりをする。キタンやテツカンが、シモンと親しくしても、何とも思わないのに、ロシウの名が出るのは面白くない。
自分があまり知らない、シモンだけの知り合いだからだろう。そんな相手は、シモンに良くないことを吹き込むに決まっている。たとえば、自分の悪口とか、そんなことを。やはり、あそこで、態度だけでも釘を刺しておいて良かったのだ。
カミナはもう一度、メモに目を落とす。
これからも、また、たびたび、ロシウのところへ行くようなら、言葉でも何かいった方がいいかもしれない。メモをくしゃくしゃにして屑籠へ放り込んだ。
シモンが用意していった食事を、さっさと腹に流し込んで、家を出た。次の角までいかない内に、顔見知り連中に声を掛けられた。
「よお、カミナ」
落書きだらけの壁の前で、煙草をくわえた男が三人。一人の片手には大きな酒瓶が握られている。回しのみしているのだろう。
「昨日は、えらい調子良かったんだってな?」
「お裾分けにしてくれや」
「夜は来るのかよ」
にやにやとした笑顔からすれば、昨日の勝ち分を巻き上げるつもりなのだろう。カミナは懐から銀貨を一枚放り投げた。
「気ぃ、向いたらな」
呼び止めは無視した。小路に入って、建物と建物の間の道というよりも隙間を通る。得体の知れないゴミだらけな上に、小便臭いが、この道が一番、早い。乾きかけた生ゴミの袋をまたいで、カミナはへっと悪態をついた。
銀貨一枚で済んだとはいえ、自分の金を持って行かれるのは腹が立つ。まったく、負けても、たまに勝っても、ろくな連中に出会わない。一人勝ちした者に、何やらとたかるのは、自分も同じようなものだから仕方ないが。
玉突き場で、自分と同じように手持ちぶさたな連中と遊び、日も暮れる頃になってから、カミナは大通りの方へ向かった。人混みに紛れて、商店が建ち並ぶ通りをぶらぶらと歩く。噴水の前で人を待つような振りをしながら、宝石店や質屋を眺めた。角ごとに立つ警官に気を配るのも忘れない。
本当はシモンを連れてきて、石畳や壁の固さや厚みを確かめてもらうのがいいのだが、それは次の機会で良いだろう。店の位置や取り扱う品物の種類の多さを見れば、最初に目を付けた、あの質屋か、その隣にある宝石店が、良さそうだ。
宝石店を狙うなら、ガラス窓の向こうに飾られた、真珠を三連繋げた首飾りがいいだろう。中央の大きな赤い石と周囲にちりばめられた金剛石もかなりの上物だが、真珠の粒がとくによく揃っている。ばらして売ってしまえば、当面は食っていけるはずだ。
一つ先の角にいた警官が交代を機にカミナの居る方角へと歩いてくる。警戒などはされていないが、用心して、カミナはその場から離れた。
ズボンのポケットに指を差し込んで、歩く。鼻歌が漏れた。近々、この首には見事な首飾りがかかり、指には大粒の宝石を填め込んだ指輪が光るだろう。その日が楽しみだ。
前祝いで、女のいる店にでも行くか。ツケを払っても、少しは余るだろう。
繁華街に足を向けようとして、ここまで出てきたのなら、いつでも仕事に取りかかれるように、キタンに話をつけておこうと思い直した。
鼻歌を口笛に変えて、カミナは通りを折れて、キタンの店のある一角を目指した。
カミナとシモンが住んでいる下町の表通りは、まあまあ治安の良い方で、そこでキタンはジャンク屋を営んでいる。小さい店だが、扱う品の質がいいのと、取り扱いが割に幅広いのとで、そこそこ繁盛していた。同時に、盗みに直接、関わりはせずとも、道具を調達したり、金庫開け、それに盗品の売買もある程度までなら引き受けてくれることでも知られている。
腕もいいので、引き合いも多いが、顔なじみの仲間からの依頼でなければ承知せず、それも最近は、断るようになっているらしい。それでも、古いなじみの自分の依頼は断らないだろうと楽観的にカミナは考えた。
それに、もう一つ、キタンの店に行く目的がある。
キタンには下に三人、妹がいて、それぞれ漂わせる雰囲気は違うものの、みな美人だ。まだ学生の次女と末っ子は、たまにキタンの店を手伝いに来ているが、カミナの目当ては長女のキヨウだった。
ゆるく波打つ淡い色の髪、幾分、厚めの唇には、いつも甘い笑みが浮かぶ。弾けそうなほどの豊かな胸に、きゅっとくびれた腰、丸く張り出した尻。スタイルの良さでは三姉妹随一の彼女は、キタンの営むジャンク屋の近くの飲食店で働いている。
店主は、そこらのちんぴらなら避けて通るような、ごつくて、筋骨たくましい体格だが、地味な顔立ちの、いかにもな実直そうな男で、無口とまではいかないが、饒舌というほどでもない。
小さな店だが、キヨウの他にも、昼間と夜、交代で二人ずつ、別の女たちが働いているが、彼女たちは、若い二人にそれぞれ旦那と恋人が、年長の二人には子どもがおり、口説くにも、前者はそれぞれの配偶者が、後者は年齢が邪魔をしている。
やはり、独身で若いキヨウだろう。客の男どもは大抵、彼女にそれなりの下心を持ちながら店に来るが、そんな男客だけではなく、女の客も、テツカンの店には多い。
店主の料理の腕もいいし、店の一角では総菜と食料品も売っており、安い旨い、と揃っていれば、はしっこいこのあたりの女たちが見逃すはずもなく、早々に売り切れてしまうほどの繁盛ぶりを、店は見せていた。
カミナも料理の味と安さももちろんだが、キヨウ目当てに通っている。ただ、愛想のよさと、まんざらでもなさそうな口振りの割りに、なかなか口説き落とせない。一度、外で食事でも出来れば、自信はあるが、そこまでが難しかった。なにしろ、距離の近さを利用して、キヨウの兄のキタンも店に来ては、秋波を送る男たちに睨みをきかせているのだから。
確認の意味も含めて、キタンのジャンク屋に顔を出してみると、ちょうど食事に出たところだという。時間も遅いが、この男が食事に行くといえば、ダヤッカの店に決まっている。今回もキヨウを口説くのは、難しそうだ。以前、さりげなく手を握った事があったが、それほど嫌がる素振りがないキヨウに、満足しながら、店を出た途端、後を付けてきたキタンに胸ぐらを掴まれた。
てめえみたいな奴にだけは、妹はやれねえ。本気だと分かる言葉と目つきに呆れた。
この界隈では、自分など、かなり上品な部類に入る。女は殴らないし、酒癖も悪い訳ではない。カタギの仕事ではないが、それなりに金も稼ぐ。
てめえこそ人を見る目がねえよ、とカミナは言い返し、殴り合いになる前にキタンの体を突き放し、さっさとその場から離れた。
あの兄バカがすでに店にいるなら、今日もキヨウは口説けまい。舌打ちしながら、ダヤッカの店へ向かう。
夜も開いているとはいえ、居酒屋ではない食堂だ。キヨウもダヤッカも店仕舞いの支度をしているところだった。店の前の明かりも看板の照明も消されていたが、ここは常連客の特典で、手をあげて、笑顔を浮かべ、愛想良く、世辞を飛ばしながら、カウンターの端で、遅い食事をしているキタンの横に腰を下ろした。
よう、と挨拶すると、キタンは、おう、と短く、うなずいた。
キタンの右側は壁で、そのわずかな空間に古びたラジオが置いてある。わりに大きくて、凝った造りなので、店の飾り代わりに使っているのだとばかり思っていたが、今日はスイッチが入って、本来の使い方をされている。音量が絞られていたから、キタンの横に座り、初めて、歌声が聞こえた。
――いつ、愛してくれるの。いつも聞いてるのに、君の答えはいつだって、いつか、そのうち、たぶんね。そうして時間は過ぎて、絶望した僕はそれでもまた聞いてみるんだ。なのに君の答えはいつだって、いつか、そのうち、たぶんね……。
雑音の混じる歌声には、どことなく郷愁すら覚えるが、途中だというのに、キタンは手を伸ばして、ラジオのスイッチを切った。その動きのまま、酒瓶を持ち上げ、自分のグラスに注いだ。
キヨウが料理を皿に盛って、カミナの前に出してくれた。肉団子の煮込みに茹でた芋が添えられている。横のキタンの皿も同じものだ。売れ残りで悪いけれど、という言葉と共に、鳥の照り焼きがグラスと共に出された。
ありがてえ、と礼を言いながら受け取る。これでキヨウに酌をしてもらえれば言うことはないのだが、残念、横にはキタンがいる。腹立ち紛れに、カミナはキタンの酒瓶から勝手に自分の分を注いだ。
「割り勘だぞ」
「渋い野郎だ」
見咎めてきたキタンに言い返して、カミナは酒を口に運んだ。テツカンの店は、酒にも妙な混ぜものをしていないから、なおさら旨い。この場所に、この料理のレベル、それに値段の安さで、やっていけるものかと思うが、続いているから採算は取れているのだろう。
照り焼きを指でつまんで、口に放り込む。うめえ、と呟くと、テツカンが軽く、頭を下げた。指に付いたソースもしゃぶり、キタンの方へ笑みを向ける。
「その内、仕事を頼みてえんだがな」
こっちの方だ、とカミナは人差し指を軽く折り曲げて、くるりと捻った。キタンが呆れたように首を振った。
「おまえ……また、やんのかよ。いい加減、足、洗え」
「取り分は弾むぜ」
「いらねえよ」
言葉には、意外なまでに真剣な声音があり、一瞬、カミナは臆した。それを振り払うようにわざとふざけた調子で言った。
「――へっ。今更、カタギになろうってか?」
「いつまでもバカやってらんねえだろうが」
キタンが、そちらの商売から足を洗おうとしているのは小耳に挟んでいた。手伝いを頼みに来た者全員、断られていて、何をどうしても首を縦に振らない。仲間内では、何があったと噂になっていたのだが、カミナは彼の三人の妹という情報源を持っているから、その理由を知っている。
何ともありきたりだが、女に惚れたらしい。すこぶるつきのいい女らしいが、賞金稼ぎとか何とかで、警察からの依頼を受けて、獣人、人間、構わず、賞金首を追いかけているそうだ。賞金がかかるくらいだから、小悪党とは訳が違う、正真正銘の荒くれ相手に、女が渡り合っているのだ。一体、どんな、いい女なのやら。
おまけに、モノにもしてないという。つまり、惚れて口説いているのはキタンで、女に気があるのか、ないのか、それもさっぱり分かっていないらしい。そんな面倒はカミナにはごめんだ。こちらに気がない女を口説くよりは、秋波を向けてくる女の方が手っ取り早い。
カミナはにやにやと笑いながら、この辺りをつついてみることにした。
「知ってるぜ。女だろ」
キタンは、眉を跳ね上げ、カミナを睨むようにしたが、とくに否定はしなかった。からかおうと口を開きかけたカミナだったが、キタンは眼差しと表情を、思いがけないほど真剣なものに変えて、こちらを見てきた。
「――お前も、シモンがいるなら、そろそろ考え時じゃねえか」
声音の厳しさと、底にあるいたわりに、カミナはふざけるタイミングを逃した。
「あいつは、お前より、頭いいぜ。学校行かせて、カタギの仕事に就けてやれよ」
キタンの物言いに、一瞬、彼が自分とシモンの関係を知っているかと焦ったが、そういう意味合いではなかったようだ。うろたえた自分を隠そうと、カミナはことさらに大きな声を出す。
「学校なんざ、行かなくても、あいつは立派にお勉強してんだよ」
「盗みとお前の世話か? たいした、お勉強だな」
女のことを口にしたからか、どうも今日のキタンは、容赦ない。たじろいだカミナに、さらにキタンは言葉を続けるかと思いきや、今、口にしたシモンの名に、何か思い出したらしい。自分から話題を変えてきた。
「そういや、最近、シモンを見なかったが、具合はどうなんだ? 前、見たときは、かなり窶れてたじゃねえか」
カミナは話が逸れたことにほっとし、肉の照り焼きを口に放り込んだ。口を動かしながら、キタンの肩を気安げに叩く。
「それなら医者にちゃーんと診てもらったぜ」
カミナの言葉が意外だったらしく、キタンはひょいと眉毛を跳ね上げた。
「へえ。どうだったんだ?」
「異常なし、ってよ。旨いもん喰ってゆっくりしときゃ治るだとさ」
酒を啜りながら、ひゃっひゃっと笑うカミナとは反対に、キタンは口元を歪めた。
「なんだ、そりゃ。ひでえ診断だな。どこの藪医者だよ」
「藪じゃねえよ。評判いいってんで、シモンが行ったんだからな」
反論しておいて、カミナは医者の名を思い出そうとした。キタンも商売柄、情報通だから、シモンが掛かっている医者を知っているかもしれない。
「なんつったかなあ……。ロンだか、リンだか、そんな名前だ」
キタンは二、三秒ほど考えるように目線を上にやったが、思い当たったらしい。
「もしかして――リーロンか?」
「ああ! それだ」
キタンはううんと唸りながら、腕を組んだ。その隙にカミナは、キタンの前に置いてあった酒瓶を取り、自分のグラスに注ぐ。
「リーロンはな、獣人の金持ちんとこにも出入りしてるくらいだから、相当の腕だ。で、貧乏人からは、お代もあんまり頂かねえ。そんな奴が、そんな適当な診断するか?」
「知らねえよ。名医だから、大丈夫って太鼓判押したんだろうが」
面倒くさいのと、もしかしたらというかすかな不安が兆したので、カミナはそれらを振り払おうと、手を振った。
「前から思ってたんだがな」
キタンはカミナを指で撃つような仕草で指差した。
「おめえは、もうちっと物事を深く、考えたがいいぜ」
「はっ。そんなご大層なことお前に言われると、ありがたくて、涙が出てくるぜ」
グラスの中を一気に干すと、カミナはまたも酒瓶を傾けた。
「物事ってのはな、頭でこねくり回してる間に、終わるもんだ。とっとと動いとくのが正しいやり方ってやつだ」
カミナが酒瓶の中身をすべてグラスに注ぐ前に、キタンが瓶を奪い返す。
自分のグラスに酒をつぎ、口元へ運ぶ。飲もうとする前に、彼はどこか鋭さを含んだ口調で告げた。
「終わらねえことがあったら、どうする。動いても終わらねえようなことがあるかもしれねえじゃねえか」
「ああ、めんどくせえ」
カミナは声を張り上げた。
「女に惚れた男は、哲学的になんのか。てめえ、理屈っぽくなったぜ」
「なんだと?」
「口達者になって、女口説こうっていうんだろ。で、てめえの下手な口説きに、例の賞金稼ぎのマッチョな姉ちゃんは落ちたのかよ」
「あいつを馬鹿にすんじゃねえ!」
その後、キタンと胸倉つかみ合っての睨みあいになったが、喧嘩になって店の備品を壊す前にと、キヨウに二人一緒に店から追い出された。
冷たい夜の空気に包まれれば、喧嘩をする気も失せて、かといって飲み直すには白けて、どちらからともなく、じゃあな糞野郎、と挨拶交わして、お互い帰路に着いた。
道々、あいつ、今日は妙に絡んできたなと首をひねったが、どうせ女について言われたのが気に障ったのだろう。
ガキめ、と同い年相手に呟いて、アパートの階段を、踏み外さないようにして上がる。
シモンはもう寝ていると思っていたが、台所からは明かりが差していた。のぞいてみれば、シモンが椅子に腰を下ろして、お茶を啜っていた。
いつもなら、玄関で物音が聞こえれば、すぐに鍵を開いてくれるはずが、それもなく、廊下に立っている自分にも気づかないとは、よほどぼんやりしているか、眠たいのだろうか。
シモンはマグカップをテーブルに置くと、それきり手を伸ばそうとしなかった。膝の上のブータを撫でているようで、右腕が動く。ごくたまに咳をしていた。
伏し目がちな表情が常にもなく、寂しいような、切なげな、しかし諦念の漂うそれで、見ているこちらまで不安になってきた。
「――シモン」
呼びかけると、はっとシモンが顔を上げる。
「兄貴」
「……どうした、ぼーっとして」
「え、おれ?」
「眠てえのか」
「ううん」
シモンが首を振って、立ち上がった。ブータは眠っていたらしいが、シモンが椅子の上に置いた動きで目が覚めたようで、床に飛び降りると、シモンの足元にまとわりついている。
「眠そうだったぜ」
「そうかな」
へへ、とシモンが照れたように笑って、椅子を引いて、腰を下ろすカミナに訊ねた。
「お茶、淹れようか?」
「そうだな。酒をちょっと垂らしてくれ」
「もう、飲み過ぎだよ」
言いながらも、シモンが淹れて、手渡してくれた紅茶には、香りづけにしては、濃い酒の匂いが上がっていた。
熱いからこればかりは、カミナも呷ったりはせず、ゆっくり啜る。シモンも半分ほどに減ったカップの中身を啜っていた。
冷めているのではないか、と湯気の立たないカップを見て、カミナはシモン、と名を呼んだ。
「シモン――」
「兄貴もさあ」
同時に口を開いたシモンの声にひそむ厳かなまでの響きに、カミナは口をつぐんだ。
「そろそろ落ち着かなくちゃだめだよ」
「なんだ、いきなり」
面食らって、カミナはまばたきした。
シモンはカップにひたと視線を注いでいる。
「お嫁さんもらってさ」
「はああ?」
口に含んでいた紅茶を噴き出しそうになった。慌てて、呑み込んで、咽せてしまったカミナの背中を撫でに、シモンは立ち上がる。
「キヨウとか……あの人、俺、好きだよ」
口を拭ってカミナはシモンを見た。
ふにゃりとシモンの眉毛が下がっている。シモンが女について話したのは初めてだ。昔から色恋沙汰は苦手らしく、地下でも、女たちに対しては引っ込み思案だったが、ここは地上だ。こんな下町に住んでいれば、上は盛りも過ぎた女から、下は毛も生え揃っていない幼女まで、相手さえ選ばなければ、何やかんやとあるはずなのだが。
「お前、キヨウみたいなのが好みなのか?」
弟分に譲るには、キヨウは少々、惜しい。下のキノンかキヤルはどうだろうか。どちらもシモンには年上にあたるだろうが、シモンのような性格には、かえってそちらの方がいいかもしれない。
「下の二人はどうだ? 結構、しっかりしてると思うぜ」
いつもなら、自分が話している途中でも、カミナが口を挟んで質問したことに、いちいち律儀に答えてくれるシモンなのだが、今日は、聞いていないようだ。いや、気づいていないとでもいおうか。苛々がつのって、顔をしかめてしまうのに、それにも気づかないのか、さらに、シモンは続ける。
「ダヤッカのお店、兄貴も手伝ってさ、それか、どっか田舎行って、牛や豚を育てて、野菜作って……」
カミナは手を伸ばし、シモンの鼻をぎゅっとひねった。
「ふぁ、ふぁにき」
「お前は、なに言ってんだ」
ぎらぎら光るカミナの目に、シモンは怯え竦んだように、肩を震わせた。
「田舎? 薄暗い穴ぐらからやっとお天道様のある地上に出て、酒も食い物も女も、何でも手に入る、でっけえ街に来たってのに、田舎だあ? ふざけんな。そんなとこは、穴ぐらと何も変わらねえ」
吐き捨てるように言ったカミナは、それでも視線を和らげ、シモンの顔を改めて、のぞきこんだ。
「お前、盗みが嫌なのか?」
シモンは首を振った。摘まれていた赤い鼻を、くすんと鳴らす。
「そういうんじゃないよ……そんなんじゃないんだ」
シモンがうつむいた。唇を噛む白い小さな前歯が見えた。
「じゃあ、何なんだ?」
カミナは重ねて問うた。
シモンが顔を上げる。憂いすら感じられる哀しい真剣な目に、カミナは気を呑まれた。
「俺、兄貴が心配なんだよ。だから」
「心配ってお前」
シモンは小さな拳を作り、膝の上できつく握りしめた。震えている。
「お金もちゃんと貯めて、ギャンブルに全部使わないで、ご飯もインスタントじゃないちゃんとしたの食べて、お酒も飲み過ぎないで、きちんとした堅気の仕事探して、色んな女の人じゃなくて、一人の人と真面目に付き合って……」
シモンの迫力に押されて、カミナはいちいち律儀にうなずいていたが、段々、面倒くさくなってきた。
シモンの言葉は、ごくごくまっとうな意見である。だが、そんなことは百も承知の上で、やっていないのだから、今更言われても困る。
しかし、一体、シモンはどうしたというのだろう。この弟分から、これほどに長々と意見されたのは初めてだ。いつだってシモンは、カミナの言う通りだった。兄貴がいいなら俺もいい、と、時々、こいつはおつむが足りない、と思うほどに素直に、カミナに従ってきたのだ。
それがどうだ。今までにない強い表情で、迫ってくる。年上風を吹かせ、兄貴ぶってきた自分を馬鹿にされたような苛立ちと置いて行かれたような悲しみで、カミナは唇を歪めた。
こんなシモンはシモンではない。兄貴兄貴と自分を慕い、自分が言うことやることをいちいち感心して、側にいてにこにこ笑っていなければいけないのだ。
カミナはシモンの額をぴんと弾いた。
「やい、シモン」
耳の穴かっぽじって、よーく聞きやがれ、とぐいっと顔を近づける。
「そんなことはな、もうちょっと、肉つけて太ってから言うもんだ」
がりがりの手首を掴んで、シモンに突きつける。
「てめえの体がぐだぐだのときに他の奴の心配なんざ、するな。それが、俺でも、だ。俺一人どうにでもなる」
シモンがまばたきした。ぽろんと目の端から涙が落ちた。
泣いていると驚いたカミナはシモンの肩をつかんだ。それほど厳しい口調で言った覚えはないが、我知らず、言葉に刺でもこもっていたのかも知れない。
「おい、シモン、どうした?」
「うん……。ごめん、兄貴」
シモンは慌てて、涙を拭いた。乱暴に頬を何度も擦るから、白い肌が赤くなり、それでもまだごしごしと擦っている。
「そうだね、兄貴は立派だもん。一人でも、ちゃんとやっていけるよね」
へへ、とごまかすような、気の抜けたような笑い声をシモンは漏らした。
「偉ぶって、ごめん。なんか、ちょっと不安になってたんだ」
「あ、ああ……」
不安って何だ。聞こうとして聞けなかった。どうも、調子が狂う。シモンがいつもどおりであるから、こちらもいつもの自分でいられるものを。
頬杖ついて、シモンをじっと見つめる。
「――もしかして、お前」
シモンが、小さく息を呑んで、カミナを見返した。
「自分のお茶にも、酒、入れてたな?」
まばたきしたシモンが、眼を細めた。
「……ちょっとだけ」
「弱いのに飲むから、そんな訳わかんねえこと喋っちまうんだよ」
腕を伸ばして、ちょいとこづくと、ふふとシモンは笑った。
「ほら、さっさと寝ろ。お子さまは寝る時間だ」
「そうだね」
立ち上がったシモンは、とっくに膝の上で寝息を立てるブータを抱き直し、台所をゆっくり出て行く。身体を重たそうに扱うのは、眠たいからだろうか。
見送るともなしに、その背中を眺めていたカミナは、ふとシモンを呼び止めたい衝動にかられた。それに気づいたかのように、シモンが左手を壁に添えて、振り返った。
「兄貴」
振り返って、カミナがそこにいるのを確かめ、安堵した、とでもいうようにシモンが笑った。
「おやすみ」
<<<
>>>