朝、起きてすぐ、シモンは海に向かう。時には夜明け前に起き出して、砂浜を歩く。カミナは寝ぼけ眼を擦りながら、付いていく。一人では行かせられないと思いつつの行動だが、木陰でついつい、うたたねをしてしまうから意味がない。
潮騒を数えている内に、眠くなる。うとうとしながら迎える朝は、現実離れした時間だ。
青みがかった灰色の雲が広がる空と、夜の暗さを滲ませた海とが、少しずつ息づいていく。東の空が淡い紅色に染まり、ゆっくりと広がると見えたそれは、その実、まばたきする間に空一面を薄紅に染め上げる。地表が目覚めていく気配が立ちこめる。波の音だけが伝える濃密なその時に息が詰まりそうになりながらも、我が身の血潮も目覚めていく。
朝は昼へ時を移しつつ、その空の色を、澄ませ、濃くしていく。青い色など眺め飽きたと思いながら、仰ぎ見れば、初めて見る色の青がそこにある。空は、風に、雲に、霞に、時間に、淡く、濃く、色を変えて、やがて、何もかもが溶けゆく。
夕刻の海面には、その日、最後の光を流し込まれて、太陽の元へ辿り着けるのではとさえ思わせるとろりとした金色の道が出来る。背後に広がる夜も唯一、太陽と混じり合えるその時を喜ぶかのように、二人の足元の影を黒から藍色へと変える。
いつの間にか、空には星が広がり、その淡い光を自らの光で打ち消すように月は満ちていく。夜の砂には昼の熱が残る。砂粒が肌に付くことを気にせず、シモンは体を横たえ、カミナは隣に腰を下ろす。ブータが間に入り、たまにシモンの胸の上で鳴く。
朝も昼も夜も、時間を計ることもなく、言葉を交わすこともなく、二人と一匹で潮風に吹かれて眠る。どちらからともなく、囁き合い、身体が許すのなら睦みあって、また目を閉じた。
小屋までは砂浜を歩いて、帰る。さくり、さくりと砂の小山を踏み崩し、歩く。シモンが先に、カミナが後に。シモンが立ち止まり、追いついたカミナと二人、並んで歩く。ある日は、カミナが先に、シモンが後に。サンダルが砂に取られて、よろけるシモンをカミナは腕を掴んで支え、二人で歩く。ブータも二人を追い抜き、追い抜かされ、とことこと歩く。
夕陽の中を帰るときも、月に照らされながら帰るときも二人と一匹だった。取り残されたように、二人と一匹しか、いなかった。何も持っていなかったから、すべてを手に入れていた。世界の隅々まで、自分たちのものだった。
※
ここ数日、眠たくないのに眠い、といって、シモンは一日の大半、うつらうつらするようになったが、時々、痛い、といって起きる。首筋を押さえて、少し涙を浮かべているのは、見ているこちらもつらい。
とりあえず、首筋をさすってやると、痛みが少し和らぐのか、呼吸が落ち着いて、目を閉じる。首筋のしこりは左右どちらにもあって撫でていると、皮膚下でごりごりと動くのが分かった。丸っこく、固い、だが、明らかに肉の塊と分かるそれを、カミナは引きちぎりたくなる。どす黒い血をまき散らしながら、千切りとった肉塊を、打ち寄せる波も戻せないほどに遠くへ放り投げるのだ。
その空想が、空想でなくなるのを、何度願ったことか。むなしいと知りながら、思わずにはいられないこともある。
指の腹でカミナがしこりの大きさを確かめていると、シモンが目を開いた。
痛むかと聞く前に、シモンが細い声で、頼んできた。
「兄貴、お水、くれる?」
「ほらよ」
ストローを差したボトルの底を支えながら、差し出すと、シモンはストローを銜え、水を吸った。ほんの一口か、二口、せいぜい舌を湿す位の量だろう。もっと飲めばいいのに、いや、飲まなければならないのに、水をせがむ回数が増えるだけで、量は増えない。
「兄貴、ごめんね」
「ばーか、水くらいで、なに遠慮してんだ」
シモンの額をこづくと、へへっとシモンが照れたように笑った。
熟れた果実のような柔らかなものでも食べられないと受け付けなくなり、ヨーグルトや砂糖を加えた果汁を口にしていたが、一昨日から水ばかり欲しがるようになった。そのせいもあるだろうが、一度、服とシーツを汚してしまった。
粗相したシモンは無理にも起きあがって、自分で始末しようとしたが、めずらしくもないことだと、カミナは嘯いて、シモンに着替えを渡した。シーツと服は、裏の水場へ持って行った。
本当は、シモンよりもカミナの方が動揺していた。シモンが弱っていく様を、ありありと突きつけられて、シーツと下着を洗う手が震えた。
洗い終えても震えは止まらず、拳を強く握った。違う。これは、水が冷たいから震えているのだ。岩の隙間から浸みてくる水は朝昼、関わらず、いつも冷たく、指を浸していると痺れてくる。
赤くなった指先を乱暴にシャツの裾でぬぐい、裏につるしてある洗濯ロープに洗った衣服と下着、シーツを干して、シモンの元へ戻る。
シモンは、まだ身を起こしたまま、うなだれている。
寝てろ、と言いかけて、カミナはシモンの頭をこづいた。
「なーに、へこんでんだ」
「だって」
打ちひしがれたようなシモンの声だった。カミナはその頭から毛布を被せてやった。
「シモン。いいことを教えてやる」
カミナはシモンの隣に腰を下ろした。
「むかーし、むかし、ジーハにいたときの話だ」
毛布がかすかに動く。カミナは手を伸ばし、片腕で抱き寄せる。
「歩いてた俺の前に、ちびっこい赤ん坊が、ハイハイして穴ぐらから出てきやがった。で、おふくろらしい女に、その子を掴まえろって、と言われたんで、抱っこしてやった……」
瞬間、鮮明に思い出された熱さと重さが、言葉を途切れさせた。息を吸って、吐く。大丈夫だ。
「――俺がせっかく、抱いてやったのに、赤ん坊はぎゃあぎゃあ泣き出しやがる。しかも、だ」
幾分、声を低くして、続ける。
「その赤ん坊は、そのまんま俺の腕やら体にしょんべん垂れやがった。――よし、ここで、問題だ。その赤ん坊は誰だと思う」
シモンが震えるように大きく息をつく。
「――おれ?」
「ああ、お前だ、シモン」
ぽんと頭を叩く。それからわざと乱暴に撫でる。
「こちとら、お前にしょんべん漏らされんのは慣れてんだ。いまさら、気にするんな。いつでも漏らせ、いいな」
待っていた。今なら、自分の顔は見えないから、シモンはどんな顔だって出来る。
待っていたのに、シモンはすぐ毛布から顔を出した。やだよ、とも、うん、とも言わなかった。
唇を震わせながら、ぎゅっと上へつり上げている。笑っていたのだろう。笑っているような泣き顔だった。泣くような笑顔だった。
――それ以後、カミナはシモンが水を多く飲んでしばらくすると、眠っているのを起こし、手洗いにうながすようにした。カミナが眠ってしまうときは、ブータが起こしに来る。
体に力が入らないらしいシモンの排泄をカミナはその内、手伝うようになった。いやだ、というには、気力が追いついていないシモンは、ごめんねと言うばかりだ。
こみ上げてくる無力感と情けなさを握りつぶして、カミナは笑う。笑うしかない。
明け方、ブータに鼻を軽く、噛まれて、カミナはごそごそと起き出した。ちょっとぼんやりする頭を振って、時計に目をやり、はっと気がついた。最後に手洗いに連れて行ってから、時間がかなり経っている。これほど続けて眠ったの初めてだ。ブータが起こさなかったのなら、大丈夫なのかもしれないが、今現在、初めて経験することは、不安ばかり呼ぶ。
「おい、シモン」
肩をそっと揺らす。
「ん……」
シモンがかすかに頭を動かし、寝息とも返事とも取れる声を出す。
うながして手洗いに連れて行く。色の濃い、血の混じった尿を目にして、どこか、近くの町に行こうとカミナは思った。病院があるだろうから診てもらった方がいい。少しでも、楽になる方法があるのなら、それにすがろう。
毛布で体を包んで、抱き上げて、車へ運ぶ。東の空はもう白んでいるが、照り映える雲の色は、曙色というには、あまりに赤い。薄い紫がかった暗い道を、街に向かって走る。
シモンはまどろんでいるが、やはり痛みで起きる。カミナが気づかないときは、ブータが鋭い声で鳴いて、気を引きつける。
そのたび、カミナは車を止めて、シモンの首筋や足の付け根を撫でてやる。水を少し飲ませ、眠りに戻ったら、車をまた動かす。
面倒だとか、きつい、というよりも、与えられた作業をこなすように、淡々と時間を過ごす。車を走らせながら、時計に目をやって、まだ十分しか経っていないのかと驚く。停めて、シモンに水をやり、痛みを和らげるマッサージをして寝かしつけ、時計を見て、もう十分も過ぎていると驚く。時間は歪んでいる。濃くなり、薄くなり、淀んで、流れる。
港町にたどり着いて、地図を片手に、病院を探す。個人病院から、大きな総合病院まで、手当たり次第に回ったが、どこの病院でも入院を断られた。ベッドが空いていない、診断できる医師がいない、こういった緊急の患者は扱っていない、と慇懃に言われ続けたが、金もなさそうな人間、それも死にかけの子どもなど診てはいられないのだと言外に臭わされた。
どうしようもない。行き場がないから、カミナはまた車に戻る。シモンを抱きかかえたまま、頭を下げ続けたから、首と腰と腕と背中が痛い。
座席にシモンを寝かせていると、シモンが起きて、何か言う。かすれた声は、ほとんど言葉になっていない。眼差しと仕草で、水が欲しいのだと悟って、カミナはストローを差したボトルをシモンの口に近づけた。シモンはストローを銜えたが、力無く唇から離した。
カミナはストローを抜いて、直接、ボトルの飲み口をシモンの口に近づけた。シモンは水を飲んだが、咽せて、ほとんどを服に零してしまった。
タオルでシモンの頬や服を拭い、思いついて、カミナはタオルの先に水を含ませて、シモンの唇にあてた。音もなく、シモンは湿ったタオルを吸う。動く唇を見ていると、鼻の奥が痛くなる。さっきは自分で飲めていたのに。
頭の後ろが、がんがんと痛い。どこかが痺れたようだ。
シモンはかすかに顔を傾けた。もう水はいいという意思表示だろうか。タオルを遠ざけると、シモンは短い息を何度かして、途切れ途切れに呟いた。
「海、におい、しないね……」
ああ、そうだなとうなずく。
「車の中だから、かもな」
シモンの返事はなく、またまどろみの中に沈んでいく寝息だけが返ってくる。カミナはもう一度、車を走らせる。こんなことなら、最初から海に居続ければ良かった。ガソリンと、何よりも貴重な時間を喰ってしまった。
「……クソが!」
舌打ちして、アクセルを踏み込む。エンジン音が大きくなり、軽く体を押さえつけられるような重力がかかる。景色が、だんだんと絵の具を水に溶かしたように淡くなり、横に流れていく。旧道を通る車はなく、カミナは心が焦るまま、車の速度を上げた。
緑の平原の向こうに、青い海が見えてきた。道はカーブにさしかかる。ここからは、ゆるい下りの坂道だ。海岸までは、この道を下っていけばいい。
アクセルから足を離しかけて、この速度のまま海に突っ込んで、二人もろとも海へ沈もうかとちらりと考える。甘い毒に酔ったようになりながら、カミナは片手でシモンの体を押さえ、そっとブレーキをかけた。手にかかるシモンの重いともいえない重さとぬくみが、苦い味となって舌を刺す。
殺せない。自分もシモンも。
喉元から迫り上がってくる叫びを必死で堪えた。吐き出してしまえば、終わってしまう。何も出来なくなってしまう。
唇を噛んで、何度も唾を飲み込んで、からからに乾いても空気の塊を呑み込んだ。
車を路肩によせ、ハンドルを左に回した。アスファルトの上から、草の生えた幾分湿りのある砂地へと入っていくと、車体が軽く沈む。しゃか、しゃかと泥よけに砂や小石があたる。アクセルを踏み続けていると、音はやがて、一繋ぎになり、エンジン音に混じった。
路面のように早さは出ない。枝が車体にぱしんとぶつかる音が途切れると、カミナは車を停めた。
勢いよく扉を開けて、急いで助手席側に回る。バンパーに腰をぶつけるが、痛みは余り感じなかった。
後ろへと倒した席に横たわるシモンの身体を毛布でそっとくるみ直す。だるさが残る手足で、シモンを抱き上げ、緩慢な足取りで海まで歩く。
足が砂に取られそうになる。ゆっくり、ゆっくり、転ばないように歩いて、砂浜から一歩一歩、海へ近づく。
カミナの先をブータが招くように、歩いていく。追いかけるように小さな丸い後ろ姿を追う。
日焼けした肌が、潮風に嬲られて、ひりひり痛い。眼球が灼けるように熱い。
海の気配がいっそう濃くなる。眠りの中で匂いを感じたのか、シモンの唇が少し、動く。笑ったのか。
潮は引きつつあった。打ち上げられた寄り物の数が増えている。海草や貝がびっしりと張りついた岩の欠片、小枝、大きな木の実。魚や貝の死骸の回りには蟹が集っている。蹴り飛ばしたいのに、これ以上、膝を持ち上げられない。
風が吹くから、寄り物から立ち上る、むわりとした生臭い臭いは、すぐに払われる。できるだけ海に近づいて、波打ち際にまでいった。
まだ濡れて黒い砂の上に腰を下ろす。ブータは、シモンの体に駆け上がってこない。カミナの肩にも乗らない。待ってろ、と声をかけて、カミナは手首にかけていた水や財布の入った布袋を置くと、あぐらをかいた。シモンを支え直し、ずれて顔の半ばまで覆うように下がっていた毛布を、そうっと上げる。
突然の日差しにシモンの目がくらまないよう、片手で日光を遮り、耳元で告げる。
「ほら、海だぜ、シモン」
聞こえているのか、いないのか、シモンの瞼の膨らみはかすかに動いたが、眼は開かれない。
シモンの肌は日焼けしたように黒ずんで、むくんでいる。あれだけ、そうっと丁寧に動かし、扱っていたはずなのに、あちこちに内出血の痕がある。
ぎりぎりの、その一線を越えてしまえば早かった。一分一秒ごとに近づいてくる。
その時が来たら、てっきり、泣き叫ぶのだとばかり思っていた。それをシモンは困った目で見上げながら、ごめんねと謝るのだと思っていた。そうしたら、こう言おう、ああも言おう、と考えていたはずだった。相手がいてこその見栄と強がりなのに、そんなことをしなくても、良くなってしまった。
もうすでに、一人きりだ。二人、語り合って時を迎えるなんてことはなかった。
意識がはっきりしているシモンと交わした言葉はなんだっただろう。食事をしろとうながすカミナに首を振って、いらない、と言ったときだろうか。シモンを風呂に入れたときに、明日はどうしようかと話したことか。寝床に横になったのに、ぐずぐずと埒もない会話をしたときか。この数日の記憶の時間が入り交じって、どれとも思い出せない。きっと、いつまでも思い出せないままだろう。
名を呼ばれた気がして、シモンの顔へ目を落とす。潮騒を声と聞き違えたようで、シモンは目を閉じていた。耳を近づけて、寝息を確かめる。かすかな、ゆっくりしたそれだが、途切れたりはしていない。吐息は、生ぬるく、甘ったるいような、鼻の奥に残る饐えた臭いがする。
ああと呻いて、目を閉じかけたカミナは、唇を噛んで堪えた。
シモンの瞼にかかる髪をすくってやる。あやすように揺さぶってやると、シモンが目を開いて、こちらを見上げた。ほっとした。
瞳の焦点がなかなか合わない。ぼんやりしたまま、また目を閉じそうになったので、カミナは顔を近づけた。シモンがまばたきした。やはり、かすんでよく見えなかったようだ。
「シモン」
名を呼ぶと、シモンはふっと笑んだ。
「兄貴」
「ん?」
シモンが視線をさらに上に上げる。
「おんなじ」
カミナも空を見上げた。
細長い綿を一つ一つ千切って、風が吹く方向へ並べたような雲が、無数に浮かんでいる。
雲の白さが、空の青をいっそう澄ませている。それとも、空の色が雲を眩く見せているのか。太陽に近いところに、小さな雲が、遠ざかるにつれて大きな雲があり、見つめていると、目がくらむ。まるで、空の底にいるようだ。
吹いた風が前髪を揺らす。首元に冷たい感触を感じた。指輪が風に揺らされて、冷えた部分が肌に触れたらしかった。
カミナの腕の中でシモンがかすかに体を動かす。唇がかすかに開く。言葉はないが、水を求めているのだろう。
水を含ませたタオルを唇にあて、少し絞る。指先が濡れて、シモンの唇に水滴が落ちる。
喉が動くのを確かめて、タオルを離す。
シモンが長い息を吐いた。唇から、さきほどよりももっと強い臭いが漂う。あの言葉が、たぶん、最後なのだろうなと悟った。
空と海がよく見えるように、抱き直してやる。左手だけでシモンを支え、カミナは右手を砂の上に置いた。下ろした先にいるブータが小指を舐めてきた。掴んで、シモンの胸の上に載せてやった。
ブータがシモンの頬を舐め、寄り添うように丸まったのを確かめて、空を仰いだ。
海も青だ。空も青だ。自分の髪の色も青みがかっているから、今のシモンの目には青色しか映っていないだろう。
「おんなじ、か」
右手で砂を握りしめた。拳の震えがよく分かる。カミナは砂を握ったまま手を上げた。
さらさら、さらさら、砂が指の隙間からこぼれ落ちていく。与えられたもの、掬いあげたもの、奪ったもの、得たもの、それらが元の場所へ戻っていく。
見上げる空が濡れる。見つめる海が霞む。
空が青い間に、逝けばいい。海が青い間に、還ればいい。どんな青も、優しく迎えてくれる。だから、誰の泣き声にも、呼び声にも、後ろなど振り向かず、前だけを見て、天に駆け上っていけ。
(終)
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