それを、成長と呼ぶことが、私にはどうしてもできなかった。時をとどめ、時を殺し、その時間に自分を閉じこめてしまったとしか今でも、思えない。
――あの日の夕方から降り出した雨は、次の日になっても止まなかった。あんまりにも激しい勢いの雨で誰も外に出たがらない。黒く濁った色の空は、時計がなければ、昼という事を忘れてしまいそうなほどだ。夜と似ている空のためか、ガンメンたちも来ない。
シモンの埋葬は、雨が止んでから、ということになっていた。それまでは、ダイガンザンの一室にシモンの体は安置されていた。
小さな窓のあるその部屋で、シモンの体は白い布にくるまれて、許可を得たのなら、誰もが別れを告げることが出来た。誰が、どこで、どうやって摘んできたのか、小さな花束も枕元に飾られていた。晴れるときまで枯れなかったら、きっとシモンの胸の上に、この花束は置かれるのだろう。
私は、シモンが葬られるまでの間の数日、何度か、この部屋を訪れた。シモンに別れを告げるために一度。あとは、大抵の時間を、ここで過ごしていたカミナを呼びに行くために。
カミナの錯乱はひどかった。それが、目に見えるような荒々しくて乱暴な形だったら、どれだけ、良かっただろう。取り乱して、泣き叫んでくれていたのなら、まだましだったはずだ。
カミナが叫んだのは、一度だけ。叫びというには、あまりにも震えと絶望と恐怖が色濃かったその一声の後、感情が振り切れたかのように、静かになった。
リーロンとダヤッカにうながされて、歩き出した彼の横顔は、魂でも抜かれたかのように、生気がなかった。それでも足取りはしっかりしていた。シモンを腕に抱えたままだったから。自分がよろけでもしたら、シモンを落としてしまうとそう思っていたに違いない。
もう痛みも感じないはずのシモンの体は、あまりに傷ましかった。どれだけの衝撃が体に加わり、どれだけの痛みを感じたのか、想像するだけで、苦しくなるほどのひどい傷を負っていた。
カミナは何もかもをやりたがった。シモンの体を綺麗にすることも、腹部の処置も、傷口を縫いつけることも、自分の手で行おうとしていた。
荒ぶる様子もなく、淡々とそうしたいのだと自分の希望を述べるカミナは、見ていて怖いくらいに静かだった。結局、知識がない者が手を出すと、余計に遺体を損ねる可能性があるからということで納得してくれたけれど、処置している間、側にいると言い張って、譲らなかった。
医務室として当てられた部屋で、医術の心得がある人間が、シモンの体を整えていくのをカミナは壁際でじっと見守っていたという。泣きもせず、ただ、じっと、どこか遠い目で、ぼんやりと、シモンを見つめていたのだ。
操縦桿を握りしめたままの形で、強張っていたシモンの指は、しばらくしてから、ようやく伸ばせて、胸の上で組ませることが出来た。腹部は詰め物をして、縫い合わせ、体には汚れていない綺麗な新しい服を着せた。
だから、すべての処置が終わった後は、ダリーとギミーが、どうしてシモン起きないの、と訊ねたくらいに、静かで穏やかな顔で、シモンは横たわっていた。でも、その面は真っ白で、体も、とても冷たくて、固くて、どこかぐんにゃりともしていた。
カミナは、シモンの手にコアドリルを握らせていた。おつかれさん、と呟くカミナの目は、やはり、奇妙な光を浮かべていた。
それ以来、カミナは、シモンの眠る部屋にばかりいる。促されれば、食事も取るし、用を足しに部屋を出る。誰かが話しかければ、返事もする。反応はあるけれど、彼の心は、時折、彼の体を抜けて、どこかを彷徨っているようでもあった。彼自身すら意識しないままに、誰かを捜し求めて、ふらついているようだった。
気は確かなのか、大丈夫なのか、シモンの遺体が置かれた部屋に、籠もるカミナを見る誰もが、そういった。
私もダヤッカも、曖昧にうなずき、曖昧にほほえみを返した。今は、そっとしておいて、と付け加えながら。
今日もまた、カミナはシモンのいる部屋から出ようとしない。
シモンの顔の白布を外して、顔をのぞき込むカミナの表情は、不思議なくらいあどけなく、まだ不安が残っていた。
私は、カミナが時々、夢想して、その夢想に理性を踏み外しそうになっていることを知っている。シモンが生き返らないかという夢。そうして、いつかも分からないけれど、生き返ったそのとき、シモンの側にいなければならないという、理由も定かではない義務感。
カミナは、部屋に入ってきた私に、静かな目を向けた。どうした、と視線よりももっと静かで低い声を出して、訊ねてきた。
「今日……ガンメンが来るかも知れないから……だから、シモンは、夕方に、みんなで送ろう、って」
カミナは、とくに表情も変えず、ああ、そうかとうなずいた。言葉の意味を分かっているのだろうかと私は不安になり、カミナ、と彼を呼ぶ。
聞こえなかったのか、カミナはふっとため息をついた。
「本当なら、昼間がいいんだがなあ。空が暗くなるときなんて、地下と何も変わらねえ」
そういうカミナの目は、私の居る方向に向けられていたけれど、焦点は合っていなかった。どこともしれない場所を見ているようだった。さまようようなカミナの視線は、やがてシモンに戻った。まばたきした瞳が、光を――それを光というなら、確かにそうだった――取り戻し、優しい笑みを浮かべる。
「わりいなあ、シモン」
カミナの手のひらがシモンの額を撫で、髪を優しくかき上げる。
「怒らねえでくれな。いや、怒ってもいいが、そんときゃ、俺に言え。いつでも、来てやるからな」
ゆっくり、ゆっくりカミナはシモンに言い聞かせている。シモンの手の上に自分の手を重ね、囁くカミナの横顔を見ていられず、私は目をそらす。
傷ましくて、同時に、何か、おぞましいものを見てしまっているような、そんな感覚に襲われて、背筋が泡立つ。カミナは本当に分かってるんだろうか。
「カミナ。シモンは……」
恐る恐る私は、言葉を口にする。誰かが彼を引き戻さなければいけないなら、それは、私がしなければいけない。
「シモンは、もう……」
カミナは手を上げて、私の言葉を遮った。
「わかってるさ。死んでんだろ。それくらい、分かるさ」
カミナは小さく苦笑した。
「動かねえ、喋らねえ、何より、息をしてねえと、きたもんだ」
おまけに、冷てえし、妙な臭いもするし。
カミナは笑みを消し、一瞬、目を閉じた。その一瞬に、彼が何を思い、何を考えていたのか、私には窺い知れない。訊ねても、きっと教えてくれない。
次に瞳を開いたときのカミナは、恐ろしいほどに静かだった。ゆっくりと立ち上がり、私に目を向け、口の端をわずかに緩ませた。
「ガンメン来るかもしれねえんだろ。なら、行かねえとな」
指を伸ばしたカミナは、サングラスを取り上げる。背もたれにかけていたマントを羽織はせず、肩に無造作にかけ、部屋を出ようと、扉近くにいる私の元へ近づいてきた。
肩が触れ合うほど側ですれ違った時、私は彼を呼んだ。
「カミナ」
そのとき、私は何を言うつもりだったのだろう。
私の声に、彼は何を感じたのだろう。
立ち止まったカミナは私を見つめた。
「――全部、俺のせいだ」
そう言ったカミナの目に、私は射すくめられたかのように、固まった。
怒り、軽蔑、憎悪、すべてを自分自身に向け、それでもなお憎み足りないとでもいうように、ぎらつくその瞳。
「俺が殺した」
それだけ言って、カミナは私の横を通り過ぎていった。
撃たれたようにその場に立ちつくしかけて、私は振り返った。
「違う! 違うわ、カミナ!」
立ち止まったカミナは、顔を少しだけこちらに向けた。
伏せたような目が、引き結ばれた口元が、わずかに笑った、ように見えた。それはわたしの願望かもしれない。
私は叫ぶ。自分にも言い聞かせるように、シモンにも告げるように、何よりも、カミナに伝わるように。
「カミナのせいじゃない、違うから! 絶対に違うから!」
「――ありがとうな」
カミナは額のサングラスを下ろした。歩きながら、左手を挙げて、ひらひらと動かした。
追いかけようとして、カミナの背中がすべてを拒んでいるのに気がついた。
シモンを失った瞬間から、彼の世界の中心はシモンへと変わった。思うこと、行うこと、考えること、そのすべてがシモンのために、為される。すべては、シモンのために。もう、彼は誰も欲していない。
私は立ち止まる。動けなかった。カミナ、あなたのせいじゃない。けれど、カミナだけがそう思わない。世界中の誰もが、彼を赦しても、シモン自身が赦したとしても、カミナだけは、自分を赦さない。
彼の背中が遠ざかる。心も遠ざかる。そうして、私は追いかけられないまま、ただ、彼を見送った。それだけしか出来なかった。
あれから、戦うとき、カミナの目は前よりも、赤く染まっているように見える。瞳は激しく渦巻いて、まるで、螺旋のようだ。
カミナは変わったと、誰もがそういう。始めは心配していたが、なんとか立ち直って、前より、一回りも二回りもでっかくなった、そう言う人もいる。
そう。確かにカミナは前みたいな、無茶な戦い方はしない。冷静な指示を出し、指揮だけを取ることもあれば、以前のように自ら先に立ち、戦う時もある。どんな時でも、落ち着いて、たじろがない。頬は引き締まり、幾分口元は険しくなり、日に日にカミナは大人びていく。背が伸びた分、少し、口数が減って、穏やかな雰囲気を漂わせるようにもなった。前のように、ふてぶてしく、人なつこく、大声で笑いもする。
それでも、どこかが違う。明るさも、人なつこさも残っているけれど、どこか、違う。 誰もがカミナを頼り、誰もがカミナを慕うけれど、何かが違う。
私の知っているカミナは、もういない。私の想ったカミナは、カミナ自身がどこかへ置いてきてしまった。まるで、自分の幼いときは、シモンと居たときまでだったとでもいうように。
―― 彼の赤は、シモンを喪ったそのときから、いっそうその色を深くした。血塗られたようなその瞳は、時折、濡れているようにも見える。
赤い目の奥に流れているのが、涙なのか、それとも血なのか、誰にもきっと分からない。
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