カミナさんは泣かなかった。いま、思えば、みんなで詰め寄って、無理矢理にもで泣かせていればよかったのかもしれない。
――扉が開く前から、ブータの鳴き声は途絶えなかった。早く、早くと、急かすような、そんな鳴き声ではなく、まるで諦めきれないかのような、苦しい鳴き声だった。
シモンさんの名前を連呼しながら、扉を開いて、カミナさんは立ちすくんだ。
同じように続いた僕もヨーコさんもリーロンさんもダヤッカさんもキタンさんも、後から来たみんなも同じように立ちすくんだ。
開いた扉向こうから、流れてきたのは、息が詰まるほど血腥い臭いだった。ぬるくて、しめっていて、血だけではない、もっともっと生臭いにおい。
ガンメンのコックピットの中は赤かった。誰かが、塗料を間違ってこぼしてしまったかのように、無造作で無秩序な色の散らばり方だった。
シモンさんは座席から崩れ落ちて、左側の操縦桿に寄りかかって――違う、引っかかっていた。操縦桿さえなければ、きっと、横たわっていたに違いない。だらんとした腕や首には、力もなく、動きもしない。開いた扉から吹き込む風に、髪の毛だけがそよいでいた。
早く、シモンさんを運び出さなければ、と誰かが叫んだけれど、それが、気安めに過ぎないことは誰の目にも明らかだった。
ブータだけが鳴いている。ブータだけが、助けを求めて、大声で鳴いている。人の手による助けではなくて、奇跡による救いを探すように、求めるように。
「あれじゃあ……」
このつぶやきはキタンさんのものだったのだろうか。 それならば、僕の後ろに立っていたのは、キタンさんだっただろうか。誰がどこにいるのかも分からなくなる。
僕が、聞き、見つめ、感じる世界はぐらつき出していた。誰かの声が聞こえたかと思えば、遠くなり、近づいたと思われる人もぼやけてしまう。まるで、自分以外のすべてがせわしなく動き回って、僕だけが取り残されたような感覚があった。
はっきりしているのは、シモンさんが動かないということ。その周りが真っ赤だということ。
シモンさんの着ている衣服は黒ずんでいた。陽が落ちていく中で、シモンさんの周りだけ、一足先に夜が訪れたかのように見えるそれは、血だった。シモンさんの体から溢れた血。
その場にいた誰もが、思い出していたはずだ。
あのすさまじい衝撃音とシモンさんの上げた声を。その一撃後、一瞬、皆は沈黙した。それだけの強い攻撃が、シモンさんの乗った機体を襲い、瞬間、響いたシモンさんの苦しげな叫び声は、皆にそうさせるだけの響きを持っていた。
コックピットを直撃した敵の攻撃は、グレンラガンほどの耐久力を持っていない、けれど、グレンラガンを模したそのガンメンに、ひどい損傷を与えた。
何度もみなが呼びかけて、ようやく答えたシモンさんの声は、声というよりもかすれた息のような音だった。退け、という声に、だめだ兄貴がまだ戦っている、とそれだけは、はっきりと言葉にして、もう一度、シモンさんは戻っていた。
陽動だったはずなのに。
シモンさんが乗っていたのが、グレンラガンだったら。あのとき、シモンさんが退いてたら。もっと早くに、僕たちが合流していたら。
もしかしたら、もしかしたら。そんなあり得たかもしれない可能性ばかりが、頭に浮かぶ。すべては遅かった。何もかも終わっていた。
ここにあるのは、もっとも、残酷な事実と現実だ。
「シモン」
カミナさんの声は、まるで憤っているかのような低い、荒々しい口調だった。
なのに、踏み出された足は、どこか頼りなげで、よろけるかのようだ。伸ばされた腕も、まるで誰かに縋りつきでもするかのように、大きくぶれていた。
僕たちは、カミナさんの背中に守られていて、あの人の、不思議なほどの荒々しさと笑顔と自信に包まれて、惹かれるように、引っ張られるままにここまで来たけれど、それでいいのだとばかり思っていたけれど、あの人はどうだったのだろう。
あんなにも幼い横顔を見せて、表情はまるで、親と引き離された子どものそれだ。
カミナさんは腰をかがめ、ガンメンの中に半身を入れた。
どこに居たのか、リーロンさんとテツカンさんが、担架を持ち上げて、カミナさんの後に続いたけれど、ブータが鳴くのを止めると同時に、二人も立ち止まった。
カミナさんが両腕にシモンさんを抱えて、出てきた。腕にも肩にも背中にも、血が擦れた跡が、たくさん付いている。
シモンさんの両腕はだらんとたれたままだ。膝から下も同じで、カミナさんが動くと、ぶらぶら揺れる。青い袖だったのに、黒い袖になって、それが小さく、ぶらんぶらんと揺れる。指の先が、曲がったままだ。操縦桿を握りしめていた形のままだ。
シモンさんは目を閉じて、少し口を開いていた。唇の脇に血泡が残って、顎にまで流れていた跡が付いている。顔には傷がなく、真っ白だったから、余計に赤く見えた。
「……腹が」
カミナさんが、ぼんやりと呟いた。
「なんだろな、これ」
カミナさんと同じように、シモンさんのお腹のあたりを見て、僕は唇を強く噛んだ。
赤くて、どろどろして、それだけじゃない。もっともっとぐしゃぐしゃだ。内側から溢れたようにも見える、それをカミナさんは不思議そうに見ていた。
リーロンさんが唇を歪めて、一瞬だけ、顔を逸らした。ヨーコさんが口元を手で覆った。誰かが泣き始めている。足に、ダリーがしがみついてきて、僕はその肩に手を置きながら、目の痛みを堪えている。とても痛い。熱くて、つきん、つきんと、痛い。
シモンさん、苦しかったはずだ。とてもとても、痛くて、苦しかったはずだ。なのに、なのに。
カミナさんは、まばたきして、シモンさんを軽く揺すった。
「起きねえな、こいつ」
「カミナ……」
リーロンさんがカミナさんの前に立つ。担架は、テツカンさんが持ったままだ。シモンさんの体を置くには、担架はあまりにも冷たくて、ざらついているから、そのままの方がいい。
「ああ、そっか。昨日、あんま寝てなかったからか。それにしたって、あんなでっかい喧嘩終わった後にぐっすりたあ、大したやつだ」
カミナさんは言って、笑い、シモンさんを見下ろした。笑いがすぐに消えた。
「シモン」
呼ばずにはいられないのか、カミナさんは、シモンさんの名前を繰り返す。
「シモン、シモン、おい、シモン」
カミナさんの声に合わせでもしたかのように、僕の手をギミーが揺らす。
ねえ、ねえ、と呼びかけるギミーを見下ろすだけで、僕には答えることが出来ない。一言でも口をきいてしまえば、僕は崩れ落ちて、ギミーとダリーを抱きしめてしまいそうになる。それは、していけないことだ。僕だけが、誰かにすがるだなんて、出来ない。
本当は、今すぐにでも、ギミーとダリーを両腕に抱き寄せて、強く、抱きしめたい。誰かの暖かい体に触れて、このぐらつく足元を、もう一度、確かなものだと信じたい。
だけど、できない。どうしても、できない。
「シモン。シモン、シモン」
何度も何度も何度も何度も、カミナさんはシモンさんを呼ぶ。
カミナさんが立ち止まったそのとき、背中を押したのはシモンさんだった。僕らを振り返る前に、カミナさんは傍らを見下ろし、そこにいるシモンさんを見ていた。
シモンさんはカミナさんを知っていたから。誰よりもよく知って、誰よりもカミナさんを見ていたから。カミナさんの視線も、心も、受け止められた。
だったら、これから誰がカミナさんの背中を押すのだろう。誰が、カミナさんを見ていてあげるのだろう。
こんなに、周りに人がいるのに、誰もカミナさんを支えられない。あの人の両腕はシモンさんを抱き、そうしてなお、シモンさんを求めている。
「カミナ。シモンを運びましょう。このままじゃ、あんまりだから」
リーロンさんの声は、低く沈んでいたが、震えてはいなかった。どこか、張り詰めたものはあったけれど。
カミナさんははっとしたように顔を上げ、周りのみんなを眺めた。
「なあ、どうも、俺にはわからねえんだが、こいつは……シモンは、どうしたんだ? こんだけ呼んでも起きねえなんてな」
変な奴だ、とカミナさんはうつろな声で笑い、皆を見回した。
カミナさんの視線が通るたび、誰かは顔を逸らし、うつむき、あるいは首を振り、何か言いたげに唇を開き、顔を歪める。
ヨーコさんがカミナさんに近づいた。腕を伸ばし、震えている指でカミナさんの腕に触れる。きっと、あの指先は冷たかったはずだ。そんなヨーコさんの指が触れたカミナさんの肌も冷たかったはずだ。
だけど、あのとき、誰よりも冷たかったのは、シモンさんだった。流れる血もなく、脈打つ心臓も止まり、目を閉じていたシモンさんは、誰よりも冷たく、静かだった。
「カミナ」
ヨーコさんの声も、低く、かすれて、震えていた。
雨が先だったのか。雷が轟いたのが先だったのか。
降り出した雨に、カミナさんの体に付いたシモンさんの血は色を鮮やかにしながら流れ、地面に吸い込まれていく。空に光る雷が、赤い地面を照らして、瞳にその色を焼きつけた後、また暗くなる。
その場にいた誰もの時間が止まったかのように、皆は動かない。
ヨーコさんの唇だけが動き、それに呼び戻されたかのように、カミナさんが首を振る。
「聞こえねえよ……!」
カミナさんの荒々しく、同時に弱々しい声に、ヨーコさんが髪を揺らしながら顔を上げた。その頬から雫が落ちていく。あれは雨だろうか。僕の頬を流れるこの濡れたものも、皆の頬を濡らし、顎から落ちるこの雫も、みんな全部、雨なのだろうか。
拳を握ったヨーコさんは、カミナさんの目を見つめながら、もう一度、言った。
「シモンは、もう……」
――カミナさんの叫びを、あの声を、どう言い表せただろう。
血を吐くような、と、あるけれど、血だけではなく、魂すべてを震わせ、吐き出し、身の内には、ありったけの苦しさと悲しさと絶望と後悔とを渦巻かせ、激しく、狂おしく、かすれた、声にもならない、泣き声でもない、それは――。
血が流れていく。赤い血が。それが、シモンさんが遺した、唯一の色だった。
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