赤い血、赤い目、赤い空
3



 あの日、青いはずの空に、お前が現れた。
 俺はそのときを待ちわび、望んでいた。そのはずだった。七年間、片時も忘れたことのない、俺の望み、俺の願い。
 それが、ようやく、かなったのだ。
 その髪の色、その瞳の色。その声音、その姿形。細っこい、だが、筋肉がちゃんとついたその体。光る模様が浮き出た黒い体にぴったりと張り付いた服だけが、見覚えがないが、間違いない。一目見るだけで、分かる。お前だ。
 ざわざわと、全身が騒ぎ、鳥肌が立つ。
 お前だ。お前でしかない。やっぱり、そうだったんだな、シモン。死んでなんかいなかったんだな。七年間、俺をだましやがって、見事な冗談だぜ。まんまと、欺された。見事な冗談だったぜ、兄弟。
 ――笑おうとした唇が歪んだ。
 空に現れた、こいつは、何を言ったのだろう。
 ただいま、でもない。カミナ、でもない。ましてや、兄貴、と呼んだわけでもない。
 すべての人々を滅ぼす、と。感情のひとかけらもない、淡々とした声で、そう言った。
 人間を滅ぼす、と。俺たちを、抹殺すると。
 反論もせず、問いただしもせず、俺は、ただ、手を伸ばした。目の前にいる、シモンに触れるために。幻ではないかと、確かめるために。
 伸ばした指に、シモンは目を細めた。笑うのでもなく、哀れむのでもない。感情はなく、ただ自分に触れてきた指の感触に反応したのだろう。
 この指は自分に危害を加えるために、伸ばされてきたのか、それとも違うのか。警告と託宣を授ける男の心を推し量るように、ただ眇められた。
「シモン」
 そのまばたきは、お前の名前を呼んだ俺の声が聞こえたあかしなのか。
 笑いもせず、怒りも見せず、何の感情もないその瞳が、俺の姿を映す。お前の目の中に、俺の顔が見える。
 なんて顔をしていやがる、カミナ。
 お前は救世の英雄で、人類の総大将で、誰よりも強い男だ。そのはずだろう。
 それなのに、俺は消えていくシモンを前に、言葉を失い、追いかけることもできず、呆然と、膝の、いや、全身の震えを感じながら、立ちつくす。
 空の彼方に、シモンが見えなくなってしまっても、俺は動けなかった。
 本当にお前か。シモン、お前なのか。何度も何度も繰り返す、問いかけに、俺の中にある、ほんの少しの冷たい、理性のような部分が、答えを返す。
 その答えの正しさを理解しながら、俺は、それが間違いだと信じようともする。突き上げてくるこの思いは、どうしようもないほど、俺を弱く、臆病にする。
 あのとき、何かが違っていたら、俺がお前を喪わなければ、お前は二十一歳になっている。
 お前はどんな風に成長していたのだろう。何かあるたび、年が変わるたび、ふとしたとき、そう思う。お前がここにいたら、俺と共に時間を重ねていたのなら。
 背は伸びていただろうか。あの内気なところは、ちょっとは変わっていたか。そう思うたびに、シモンの不在に、俺の胸はずきずきと鈍く痛む。
 俺の中にいるシモンは、俺の知るシモンは、十四歳のままだ。それきり、変わらない。これから先も永久に。
 だから、あいつは、十四歳の姿で、現れたのか。俺が願ってやまない、あのときへと時間を巻き戻すために、お前は、その姿で俺の前にやってきたのか。
 ――そして、俺は、お前が現れた場所に、今日も向かう。 ここにいれば、ふたたび、シモンに会えるのではないかというかすかな期待を抱いて。
 遠いとおい、昔、眠るお前の側で、俺は同じように待っていた。いつ、お前の目が覚めてもいいように、敵どもはお前の活躍で、悲鳴を上げながら逃げていったと教えるために、さすが俺の見込んだ男だとお前に、告げるために。
 なのに、シモンの目は開かなかった。目を閉じて、眠ったままだった。お前の固く、冷たい黒ずんだ指の間から、コアドリルを、お前の宝物を持ち上げたときの、あの瞬間を、思い出すたび、息が詰まる。
 いま、俺の胸にかかるこのコアドリルは、もう一度、お前の胸の間で光るべきなのだ。
 シモンの名を呼べ。現れたあいつに、返すのだ。お前の大事な宝物は、俺が預かっていたからと言って。
 コアドリルを握りしめて、紐を引き千切ろうとして、俺は手の力を緩める。
 響いた足音には振り向かなかった。
 ロシウは俺の横に立ち、総司令、と呼び、カミナさん、と言い直した。
「あなたは……」
 次の言葉までは、間があった。
「あなたは――嬉しいんでしょう」
 ロシウの言葉が、胸に、染みこんでくる。うれしい。その響きが、実感を伴って、俺自身、気づかなかったひび割れを潤していく。
「――ああ」
「その喜びは、反逆に近いものです」
 俺が笑えば、ロシウは目をそらした。
 今の笑いは、こいつにどう映ったのだろう。肯定に見えたか、それとも純粋な歓喜に見えたのか。どこか、自分をあざ笑いたくなるような、そんな心を、歓喜と呼んでいいのなら、俺は間違いなく、喜んでいるのだろう。
 浮かび上がるシモンの面影が、七年前のそれなのか、それとも、つい最近見たそれなのか。ただ、白い頬で、夜の色の目で、俺を見つめるシモンの表情ばかりが浮かぶ。
 シモン。お前が、もう一度、俺の前に現れるなんて。お前にもう一度、会えるなんて。
「彼は、シモンさんでは……ありません」
「ああ」
「総司令や、僕といった政府中枢の人間の記憶を元にして作られた幻影に過ぎません」
「ああ」
「心理的揺さぶりをかけてくる、精神攻撃にも似たものだと思われます」
「ああ」
 ロシウ、お前の言葉は、自分にも言い聞かせているんだな。言いかけた言葉を俺は飲み込む。誰にとっても、むごい言い方だ。
「……カミナさん」
「全部、分かってるぜ、全部な」
 ロシウに告げる言葉が、嘘なのか、本当なのか、俺にも分からない。
 俺は、何を分かっているのだろう。
 あのとき、シモンが死んだことか。そして、また同じ姿形で現れたことか。
 いや、違う。今、俺たちの前に現れるシモンはシモンでなく、けれど、シモンであるということ、それを、俺は知っている。
 時も事実も、すべてが、捻れて、変わる。世界に色が戻る。身内に溢れてくるこの喜びと滾りを押さえられない。
 お前がいる。ただ、それだけで。
 近づく不吉な月は笑いながら、地上の人々を殺していくだろう。大地ばかりか、空までも血に染まり、嘆きと怨嗟の声はこの世界に充ち満ちていくのだろう。
 それでも、お前がいるのなら。この滅びを前にした世界に、生きて、動いて、そこに居てくれるのなら。それだけで、俺は。
 ――お前ではなく、俺が滅ぼすのか。俺は、お前を喪ったときから、滅びを願っていたのか。
 見上げた空は、どろりと赤く濁っていた。指を伸ばせば、粘りを帯びた血にでも触れそうなほどだ。
 シモン。お前に見せたかった青い空はない。そんな資格は俺にはないから、見えるのは、赤い空だ。お前が流した血のような空しか俺には見えない。見えないんだ。
 お前と見たかった青い空。お前と行きたかった地上。でっかいお日様の下で、気の合う奴らと、はしゃいで、飲んで、食って、また騒いで、眠って。ちっこいガキどもが周りをちょろちょろするのに、ちょっかい出して、一緒に遊んで、また飲んで食べて、眠って。
 そのうち、あのでっかいお月様にお前や他の連中と遊びに行って、それが終わったら、また次にやらかすことを探して、そんな風に毎日、毎日、過ごして、それが、夢だった。
 黒い雨と赤い血が流れたあの日、何もかもがすべて終わった。あの日から、俺は何を追いかけているのかも分からない。あれ以来、お前といたときに感じていた鮮やかで激しいものが、俺の胸には湧き上がらない。
 代わりに、胸には、黒く、どろどろとしたものが巣くい、どんな感情も飲み込むでっかい穴が広がる。どれも、消えてくれない、埋まらない。増えて、深く広がり、俺を食い尽くそうとするばかりだ。
 虚無が、絶望が、執着が、そればかりが、俺を動かす。
 いつの間にか、伏せていた顔を上げる。ロシウは、もういなかった。俺の横には、誰もいなかった。指先をさまよわせて、隣に立つはずのシモンを探した。いないことに気づき、手を引く。癖は、いまだ直らない。これからも直らない。俺は永遠に、隣にいるはずのシモンを探し続ける。
 ああ、そうだ。探して、求めて、そうして、お前を取り戻せるのなら俺はすべてを捧げるだろう。惜しむものなど、今の俺は何一つとして持っていないのだから。
 ふたたび、お前が、いなくなるというのなら、俺の目の前から消えてしまうというのなら、今度は、手を離さない。何があっても一緒だ。もう、お前を独りにはさせねえよ。シモン。
 近づいてくる月に、手をかざす。昔のような、指の輪郭にまとわりつくような、かすかな光じゃねえ。ぎらぎらと眩しいほどの、光が感じられる距離に、月はある。時間はなかった。最後の、そして一世一代の大きな喧嘩になるだろう。
 勝っても、負けても、今度こそ、一緒だぜ、シモン。地獄だろうが、真っ暗闇だろうが、何もねえところだろうが、お前と俺、魂の兄弟同士で、どこへでも、どこまででも行こう。その果てに、この世界が滅びようが、俺には構わない。お前といるか。終わるか。それだけだ。
 赤い空が、赤い月が、俺を見下ろし、笑う。祝福にはとても思えない、その赤さを見返しながら、俺も笑った。


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