君を待ってる
9



 部屋には上がらせたくなかったので、太一はロビーまで降りた。オレンジ色の柔らかい照明が照らすソファには座らず、扉をくぐる。彼が告げた時間よりは早いが、綺麗に手入れされた植木の前で待っていた。
 周りには人影もない。最近は自分を追いかけるマスコミ関係者も少なかった。メディアは地方で起きた殺人事件に夢中だ。
 声と足音を待っていたはずなのに、聞こえたのは車の排気音だった。
 立ち上がった太一をライトが照らし、その光に視界を奪われる。
 ちりちりと背筋が奇妙な痒みを覚えた。それは試合中、相手チームが自分に対し、意図的に何か仕掛けてくるときに覚える感覚に似ている。こうした場合、それを上手く交わすか、逆に相手を逆上させるようにプレーするか、どちらかだった。決して逃げはしない。重ねてきた経験から、太一はこのとき、避ける方ではなく立ち向かうことを選んだ。
 太一は車を降りた三つの影が近づいてくるのを、細めた目でじっと見ていた。大柄な影と細身の影、そしてそのどちらでもない、男の影。最後の彼だけを知っている。あとは初めて見る顔だった。
「よお」
 男だけが太一に近づき、笑みを向ける。ヤマトを間近でみた後では、なぜ彼だったのか、分からなくなる。些細な部分が似ているから、余計にヤマトの面影から遠い。
「出かけないか」
 足はあるからと低い車体の車を指差して男は笑った。どこか、おどおどしているようにも見えた。
「いや、止めとく」
 太一が首を振ると、男の笑みが薄くなって、困った風に眉が寄せられた。
 話しかけられる前に太一は言った。
「……話があるけど、いいか」
「話?」
 街灯の下で、男がまばたきする。そんな顔をすると、この男は実際の年よりも幼く見えた。人に寄生して生活しているところが、そうさせているのだろうか。
「もう会わないようにしよう」
「――マジ?」
「連絡はするな。こっちからもしない」
 男は間の抜けた声で、もう一度本気なのかと繰り返した。
 太一ははっきりうなずいた。
「勝手だけど、そうさせてくれ」
「待てって」
 男の声が怒りを混じらせる。
「ふざけてんじゃ――」
「ちょうどいいだろ」
 車の側で煙草を吹かしていた二人の内、片方が言葉を挟んだ。
「なあ」
「ああ」
 低い笑い声が二つ重なって聞こえた。赤い煙草の火が、ひゅっと地面に落ちる。揃った動きで二人の男が近づいてきた。
 太一は我知らず身構えて、嫌な雰囲気を持った二人の男から後ずさろうとしたが、意地のようなものがそれを邪魔した。すぐそこに逃げ込める場所があるということも太一を油断させた。
「あのさ、話、聞いてたら、結構一方的じゃない? 別れるってさ、こっちの気持ちは?」
 細身の男が、顎をしゃくる。
「悪いと思ってる」
 太一は男二人からは目を逸らし、今まで通り、目の前の男だけを相手にした。
「悪いと思ってるなら、それなりの誠意をさあ、見せてくれてもいいんじゃねえの?」
 太一はちらりと細身の男を見て、その隣でにやにや笑っている大柄な男の方を見た。
 伸ばした髪の間からピアスが光り、Tシャツの袖から、タトゥーのようなものも見えた。シールなのか、本物なのかは分からないが、この程度の格好は日本に帰ってからもよく目にする。けれど、もっと前にもこんな男を見たことがあるような気がした。それは、いつだったのだろう。
「金か」
 太一は落ち着いた声で答えた。男が一人でも何か要求はされるだろうと思っていたので金は持ってきていた。彼は情事後でも相手の財布を悪びれない様子で、勝手にあさる男だった。そんな男の手が嬉しいときもあったのだ。
「あんた、金持ちなんだろ」
「幾らだ」
 細身の男ばかりが喋るので、仕方なく彼に目を向けた。
 さきほどのような既視感が男の顔を見た途端に襲ってくる。 確かにこんな男をどこかで見た。
 南米にいた頃、チームメイトに誘われて共に酒場へ行く途中だ。繁華街で肌も露わな街娼と酔った男たちが交わる中、彼のような男や女を見かけた。あの独特の不思議な甘い匂いと視線。思い出せそうで思い出せない。
「幾らってさ、金で済む問題じゃないよ」
 問題は心だよと言って、細身の男が足を踏み出した。
 手を伸ばされて、太一は振り払おうとしたが、大柄な方の男に肩をつかまれた。がっしりとした男の手はじっとりと湿り、汗ばんでいる。それなのに冷たさも伝わってきた。
 肘を打ち込もうとして、太一は動きを止めた。
 首筋に冷たいものが当てられていた。
「顔でもいいけど、足の方がいいか?」
 細身の男が取り出したナイフに体中の血が下がる。光を吸って、刃が銀色の妖しい輝きを見せていた。
「筋とか切ったら、やばいだろ? まだサッカーやりたいだろうし」
 ナイフをちらつかせて、男は笑うでもなく、ただ唇をゆるめた。
 だらしない笑みに太一は男に感じた既視感を、はっきり思い出せた。
 酒場の隅に、路地の端に、そして道端にへたり混んでいる男や女達は、こんな目をしている。わずかな粉末や錠剤、結晶のためなら、体でも心でも捧げる彼ら。もっと浅いドラッグ使用者なら周りにもいた。薦められたこともある。
(一回、決めてみろよ。簡単だから)
 合法でも非合法でも、薬に手を出さなかったのは心の解放を恐れたから。
 飛ばされた理性のあとに何が残るか、簡単に予想できた。
「――ここじゃ、なんだしさ、部屋行こうぜ」
 細身の男が、歪んではいたが今度こそ笑みを浮かべた。



 ここだと思って車を停め、降りたのはいいが、太一のマンションはヤマトがエントランスまで行ったマンションの隣だった。黒い御影石に彫られたマンション名を読んで、間違いに気づくと、ヤマトはあわてて、そこを出た。
 辺りを見まわすと同じ様な外見の建物が横に建っている。前庭があるので離れてはいるが、歩いていける程度の距離だったので、ヤマトは車は置いたまま、正しい方の建物へに向かった。
 太一に会ってどうするかは決めていなかった。父親から頼まれた話をして、その後きっと沈黙が訪れるだろう。それを太一はいつもの軽口で消そうとするだろう。その先はヤマトがそれに応えるか、否かで決まるはずだ。何か言い返せば、これまで通り。黙ったままであれば――ヤマトは体を震わせた。
 太一を前にして、何かを言い出す自信などなかった。きっと彼の些細な素振りや、仕草、眼差しを追ってしまうに違いない。そこに、あのときの想いのかけらが零れていないか探しながら、自分は太一を見つめるだろう。
 それが恐ろしかった。太一から目を離せなくなりそうな気がする。太一を見つめようとしている自分が恐ろしかった。会わない方がいい。何かが違っていく気がする。
 恐れながら、怯えながら、ヤマトは歩いた。恐怖の中に混じる甘美なそれは熱く、ひりひりしていた。
 少し苦い感情に押し流される自分を意識したとき、ヤマトは太一を見つけていた。


 部屋へと言われても太一は動かなかった。外からの侵入に対しては万全の構えをしてある部屋へ戻れば、今よりも更に危険だろう。ここにいれば誰かが通りがかる可能性が高い。
「部屋、行こうって言ってるだろ」
 正面にいる細身の男がナイフを持っている。肩と腕を掴んだ男が斜め後ろに。三人目の男は自分の懐をあさりながら、イライラと辺りを見まわしていた。
 腕を振り払うと同時に身を沈め、背後の大柄な男に蹴りを一発。そのまま勢いで、ナイフか、それを持つ手を狙う。植え込みへ飛んでいくようにすれば、この暗さなので探すのにも時間がかかるはずだ。武器を持つ相手とやり合うのは危険だが、素手でなら何とかなる。
 そうすれば素手で三対一、いや、あの男は数に入れなくてもよいかもしれない。喧嘩は不得手なはずだ。ならば二対一になる。充分だった。
 太一が唇を引き締め、奥歯を噛んだとき、背中にすっとした痛みが走った。
「早く、連れてけよ」
 聞き馴染んでいた声だが、別人のような響きを帯びていた。首筋にぴったりと冷たい刃が当てられる。
 彼がナイフを持ち歩くところなど見たことがない。武器を振り回すより、逃げ出す方が利口だと言っていたのに。
「なんだよ、お前。こんなとこでやったのか」
 細身の男が呆れたように言った。
「いいだろ、別に」
 首をぴたぴたと叩かれる。
「背中、痛いか?」
「服が切れてる」
 大柄な男が、笑った。
「背中ってやばいんだぜ」
 太一はナイフの刃で肌を切らない程度に首を動かした。誰か、いないだろうか。
「大声、上げるなよ。早く行け」
 苛立ったように男は言うと、太一にぐっと身を寄せた。首から腹の辺りにナイフが移動し、押しつけられる。
 うなじにあったもう一つのナイフも真似をしたように腰に当てられた。これで酒に酔った友人を支えながら、仲良く話してでもいるように見えるだろう。
 太一は足を踏み出しかけ、もう少し先の街灯の下に目を止めた。
 唇が震える。希望なのか絶望なのか、分からなかった。ナイフの感触を思い出して、必死に言葉を堪えた。
(ヤマト――)
 いつも、そうだ。心から願ったとき、ヤマトは現れる。最後の最後で自分を支える手を持つ彼が現れてくれることを太一は信じていた。少年の頃のように、純粋にはいかなかったが信じていた。だから今日も彼はここにいる。来てくれた。
 腹にナイフの先が食い込んでくる。彼を見てはいけない。気づかれてもいけない。自分が声を出せば、すぐに駆けてこられる距離にヤマトがいる。助けてくれと叫べば、いや、ヤマトと呼ぶだけでも、彼はこちらに来るだろう。何も知らずに、無防備な立ち姿で。
 ヤマトに気づいた男たちは彼を傷つける。いきなり襲いかかられて、不意をつかれたヤマトは殴られるか、斬りつけられるか、するだろう。血を流すヤマトの姿を想像して太一は胃だけでなく、体中が締めつけられる思いを味わった。
 男たちが狙うのは目だろうか。手だろうか。それとも心臓かもしれない。どれを取ってもヤマトの未来を変えるには充分な一撃だ。
 自分ならば怪我をしても構わなかった。これから加えられる屈辱を思えば、たとえ怪我をしようが、命を失おうが、血を流す方を選ぶ。自分の命を懸ける。
 だがヤマトは駄目だ。自分一人の身のために、ヤマトの命を賭けるような真似は出来なかった。いや、ヤマトの髪一筋、血一滴を賭けることも出来ないだろう。彼だけは絶対に傷つけさせない。我が身に替えてもヤマトだけは傷つけさせない。
 太一は顔を背けた。こちらを見ているヤマトに気づき、その上で無視したように見えるはずだ。ヤマトが怒りのまま、立ち去り、自分の方など振り向きもしてくれないのを祈った。
 二つのナイフと手に苛立ったように力がこもる。今度こそ、太一は歩き出した。


 
 太一の顔は街灯の明かりのせいか、強張って見えた。彼がこちらに気づいたように思えたとき、ヤマトは明かりの下から体を引いて、暗がりに身を隠した。
 男三人に囲まれている太一は、それでもヤマトを見つけだしたらしい。そのままじっとこちらを見つめているようだった。
 鋭い、刺すような視線に痛みを覚え、ヤマトはそれに負けないように歩き出そうとした。
 ところが太一は不意に目を逸らし、あらぬ方を見つめ始めた。男たちが親しげに話しかけている。
 太一から彼らに視線を移したヤマトは途端に不快感を覚えた。進んで近づきたいと思うような男たちではなかった。
 風変わりな格好や流行の服装は友人達の間でもよく見かけるが、それとは明らかに違う雰囲気がある。もっと荒んだ、危険な空気が男たちを包み、彼らはそれを笑顔で消そうとしていた。
 嘘臭い笑みは太一には通用しているのかもしれないが、ヤマトはいっそうの疑惑を強めただけだった。男たちが太一の友人とは思えない。
 今までの不安は忘れて、ヤマトは太一に声をかけようと足を踏み出そうとした。今日は付き合いの長い自分の方を優先してもらおう。そこにどんな結末が待っているか分からないが、あの男たちと太一を一緒にはいさせたくない。
 明かりの下に出ようとしたとき、太一がまたこちらを向いた。ほんの少し、口づけの際に浮かんだ眼差しになり、それがすっと細くなった。ヤマトを見たことを後悔するように、太一はうっとうしげに、顔を背け、歩き出した。
 太一は人を打ちのめす、あのような残酷な冷たい目つきも出来るのだ。
 男たちを連れて、太一が去っていく。追おうとして、足が動かないことに気づいたヤマトは拳で側にあった街灯を殴りつけた。
 骨に響いた痛みを無視して、ヤマトは唇を噛んだ。太一はわざと自分から顔を背け、背を向けた。自分に気づいていたのに、あの男たちを選んだ。
 口づけられたときも同じように置いてけぼりにされたが、今度はあのときのようなとまどうばかりの悩ましい空気はない。
 怒りに疑惑、不審や嫉妬、黒い感情がねじれていく。もう甘いものはそこに感じられなかった。恐れは消えて、ただどろどろしたものが心に渦巻いている。だからヤマトは彼女の名を呼ばなかった。
 ヤマトは太一達の後は追わず、ただマンションを見上げていた。今まで暗かった部屋に明かりが灯るのを、じっと睨み付けていた。
 ――太一の祈りは半分だけ、聞き届けられたのだった。


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