ここ数日の気分が落ち着いているのは光子郎と逢っているためか、それともヤマトの唇に触れたからか。
どちらだろうと太一はソファの上で膝を抱えた。
――あいつ、目が丸くなってた。
太一は忍び笑い、顔を伏せた。
一生、忘れられないことをしてしまった。後悔はなく、それよりもヤマトの唇の感触だけを思い出していた。
少し前歯が当たってしまったので、ヤマトの前から立ち去るとき、唇がひりついていた。痛みをなぞるように太一は唇に触れてみる。しばらくそこに触れていて、太一は目を閉じた。
バランスが崩れた瞬間を太一は思う。名前は言わないが、それでも、いつもほど苦しくなかった。まだ少し、ヤマトのぬくもりが唇に残っていたようだったからだ。
太一は淡い笑みをいつの間にか浮かべていた。
怖がっているわけではない。戻しかけた受話器を再度手に握り直す。手を伸ばし、ボタンを押そうとして、ヤマトは太一の持つ携帯の番号を確かめた。
そんなことをしなくても五回も確認したため、覚えているのだが、わずかでも電話をかける手を遅らせたく、ヤマトは小さな画面に映った太一の番号を見つめていた。
彼は酔っていたのかもしれない。あの不可思議な態度は、そう考えれば納得がいく。酒癖が悪いとゴシップ記事にもよく出ていたが、そんな噂を信じる自分が嫌で、ヤマトはボタンを押す手を途中で止めた。
彼に何があったというのだろう。ちらりと頭のどこかで、あの奇妙な匂いのことが思い出されたが、すぐに消えた。
八神太一。不思議な経験を共にした無二の親友。今、彼は著名なサッカー選手。そして所属していたクラブからの急な脱退騒ぎで、少し混乱しているのかもしれない。意思が強いと言い換えられる意地っ張りだから、なかなか表には出せずに、あんな奇妙な形で思わぬ不安を顕わしてしまったのかもしれない。
例えば――ヤマトは電話を持ち上げた。
ゆっくりボタンを押す。
例えば、友人にキスをして、からかうということで、不安を紛らわせているとか。
その時の太一の眼差しを忘れた振りをして、ヤマトは彼が自分をからかおうとしたのだと信じ込もうとした。
正直な腹の音に太一は苦笑して、立ち上がった。少し気が楽になったかと思うと、これだ。部屋の電気をつけて、キッチンへ行く。
冷蔵庫を開け、転がっていたハムを取り出した。食事のメニューが書かれた紙が冷蔵の扉に貼ってあるが、それを指ではじいて、ハムの包みを破ると囓りついた。
行儀は悪いが、これが一番楽だ。戸棚からはワインを取り出して、テーブルへ置く。
グラスも用意しようとすると、静かだった部屋に突然軽快な音が響きわたった。
「誰だ?」
呟きが漏れた。一人暮らしが長いと、独り言も多くなる。太一はテーブルに置いてあった携帯を取り上げた。
「……ああ」
番号を見ると、太一は微笑した。すぐに電話を耳に当てる。
「太一さん?」
「どうしたんだよ、光子郎」
特に用はないんですがと、光子郎が言ったので、太一はおかしくなった。
「別に悪いことはしてないから、安心しろよ」
自分を心配する点にかけては、岡よりも光子郎の方が年季が入っている。
「なら、いいんです」
光子郎の声に笑みが含まれた。二言、三言話して、電話を切る。携帯をテーブルに置くと、ワインの栓を開けるのを止めて、太一はハムだけ、囓った。
光子郎の声には人をなだめるような響きがある。自分をまっすぐ見てくるあの視線を前にすると、からかいたくなる他に自分がしてきたことを見直さなければならないような気分にもなるのだ。
太一は半分も囓っていないハムを持つと冷蔵庫の前に立った。仁山が書いた几帳面な文字のメニューを眺めた。
お前がやる分だけ、選手生命は延びる。ここ最近はよく顔をつきあわせる仁山がぽつりと漏らした言葉だ。
「明日からだからな」
皺の寄った紙を伸ばし、太一はハムを冷蔵庫に放り投げた。
早く行きたい。もっと遅らせたい。アクセルを踏む足は迷いのままに力がこもり、抜け、また強くなる。
空は帰りが遅くなると言っていた。大学時代の友人と仕事帰りに会ったので、食事をしてくるそうだ。ごめんねと電話の向こうで謝る空に、ゆっくりして来いよと言って、ヤマトは家を出た。
本当はどこかで夕食を取るつもりだった。家の近所にある丼屋の駐車場に入るため、ウィンカーを上げかけたが、その手はまったく動かなかった。
速度を落としたために前車との間に距離が開く。後ろからせかされるようにクラクションを鳴らされて、ヤマトはアクセルを強く踏んだ。自分が太一のマンションに向かっていることに気づいたとき、ヤマトは頭を抱え込みたくなった。
彼の家周辺までの道筋がはっきり、浮かんでくる。この角を曲がり、しばらくまっすぐ行く。もし先が混んでいるのなら、抜け道を使う。いや、あの道を行った方が空いているし、近いはずだ。
ヤマトはハンドルを切った。ナビゲーションを使う必要もなかった。導かれるようにして、太一の家へ向かっている。
どうしてだと、また思う。細い道のため、視線が外から離せない。その代わりに、また片手が唇に触れていた。
あの日から、幾度触れたか分からない。残る感触。柔らかさ、熱さ。彼はなぜ、あんなことを?
微かな恐れにヤマトは唇を噛んだ。彼が触れた部分を噛みしめた。
自分次第だと高校時代の監督は言った。そう、自分次第だ。まだ十分に選手として、やっていける。遅れはまだ取り戻せる範囲にとどまっているし、これから最低でも五年はやっていける。あの広い緑の世界で、長く短い興奮の時を味わうことがまだ出来るのだ。節制と我慢を続け、あの栄光の時を再び過ごす。今度こそ、あの世界にだけ居続ける。きっと、できる。
ジョジオからの圧力は早速のようにかかってきた。だが彼の力にも限りはある。世界には一体幾つのクラブがあるか、太一とても把握しきれない。自分自身の力を信じていれば、どこにいっても何とかなるだろう。
こんな風に前を見つめたのは、数年ぶり、いや初めてかも知れない。ずっと走り続けた闇の先に初めて光が見えた。まだ、このまま闇に浸っていたいという心はある。ヤマトを想い続ける自分のままでいたいとどこかで願っていた。けれど、と太一は唇に触れた。
けれど、今までよりはつらくない。それはたった一度でもヤマトに触れたからだ。一瞬の記憶を抱いて、これから先も生きていける。想いがようやく出口を見つけた気がした。
夜風が肌に心地よかった。太一は髪を乱しながら、テラスに立っていた。
踏切にひっかかったので、ヤマトは携帯電話を取り上げてみた。
連絡を入れた方がよくないだろうか。もしも来客中、それもずいぶんと親しい来客中だったら、今以上にお互い、気まずい思いをすることになる。
これから、いつになるか分からないが太一に会うのだろう。まるで人ごとのように冷静に考え、ヤマトは携帯電話を握りしめた。
会って、まず父親からの頼まれ事を済まそう。嫌なことは、早めに済ませて――お楽しみは取っておく。
馬鹿馬鹿しいとヤマトは首を振った。不安を紛らわそうとしても駄目だ。考えないようにすると、あのことばかり思い出す。
ヤマトはあえて、なぜだろうと考えることにしてみた。開かずの踏切らしく、目の前のバーは上がらない。時間はあった。
酔っていたからだろうか。触れた唇から、そんな気配はなかった。日光の匂いがしただけだ。
唇が重なる前の眼差しは自分を見失った瞳ではなかった。もっと苦しく、今からやることが、どんなことかを承知して、それでもやらずにはいられない哀しさがあった。
太一の真剣な目は、いつも見てきた。けれど哀しさは初めて見たような気がする。
そう、哀しいほどに太一は真剣だった。
指先が、ふたたび唇に触れる。どうして太一は、こんなことを? 彼は真剣で、哀しい目をして、口づけてきた。
どうして――ヤマトは携帯電話を指から落とした。
(空)
不安が体中を襲う前に、ヤマトは彼女の名を呼んだ。空の名は優しい響きを持って、ヤマトの心を落ち着かせようとしたが、怯えの方がいまだに強かった。
恐れが混じった未知の感情の先には、熱く甘やかなものが秘められている。だが、ヤマトにはまだ、気づくことが出来なかった。
今日は早く眠ろうと太一はテラスから部屋に戻り、携帯電話が鳴っているのに気づいた。心を決めた安堵が呼んだ眠気は、表示された相手の番号を見た瞬間、吹き飛んだ。
電話は無視しかけ、思い直す。ちょうどよい機会だ。会って、一度話した方がいいかも知れない。これからは二度と会わないと告げよう。自分勝手のようだが、それが一番いい。
太一は電話を取った。
――踏切がやっと上がった。ヤマトは車を発進させた。太一のマンションには後十分ほどで到着するはずだった。
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