彼を愛おしむのに何が必要だったか、光子郎はたまに考える。
付き合ってきた時間。その中で彼が自分に与えたもの。あけっぴろげに見せてくれる表情。交わす会話。何気ない触れ合いで感じる体温。すべてを合わせて、光子郎は太一を愛おしむ。
だが、それがこれほど激しいものになった直接の原因は、もう少し新しい思い出の中にある。四年前の祝いの席でのことを思い出しかけて、光子郎は顔を上げた。
「――た」
向かいにいた岡がぼそりと呟いたので光子郎は聞き返した。岡は微笑して、もう一度繰り返してくれた。
「今日は真面目にやっているんで、ほっとしたよ」
ガラス越しに、コーチの仁山と何か話している太一が見える。腰に手を当てた太一は仁山と冗談を言い交わしているらしい。
その笑みのまま、太一は見下ろしていた二人に気づいて、こちらに顔を向けてきた。背広姿の男二人に太一は笑って見せ、仁山とのトレーニングに戻ってしまった。
まっすぐな後ろ姿を見つめながら、光子郎は元のチームに太一は戻るのかと訊ねた。
「いや」
岡はきっぱりと言い放つと、それきり口を開かなかった。それは来日していたクラブオーナーの急な帰国と関係あるのだろう。流れてくる噂を信じるならば戻らない方がいい。今度は自分もいる。岡もいる。あの男に二度と太一は触れさせまいと光子郎は固く誓った。
岡の厳しげな横顔にふたたび訊ねた。
「なら、日本に?」
友人同士だからの気安げな質問に岡は曖昧に首を捻った。
「……それもなあ」
この辺りについて、岡はあまり触れたくないらしい。無口になった彼に合わせて、光子郎も黙り込んだ。
※
「お疲れさまです」
「なんだ、まだいたのか」
着替えを済ませた太一の前に光子郎が顔を見せると、太一はからかうように言った。
「太一さんが待ってろって言ったんですよ」
「そうだっけ」
とぼける太一から湯の匂いがした。着替えた衣服は動きやすい形で、その上からは太一の体の線が見ることが出来た。女性とはまた違う曲線が太一の体を作っている。選手としては全盛期に当たる肉体はしなやかで美しい。
目を奪われていると、首にかけていたタオルを取った太一が大きなため息をついた。
「怒るなよ」
決まり悪そうな声は光子郎に向けられていた。
「え?」
「冗談だって」
太一の表情と言葉で、さきほどのことを謝られているのだと光子郎は気づいた。
「いえ、別に」
気にしていないのを、太一と同じように言葉と表情で伝え、光子郎はほほえんだ。
廊下を歩いて、地下の駐車場へ行く。
光子郎の車を見て、感心したらしい太一は幾つか質問をすると、最後に俺も買おうかなと言う言葉で締めくくった。
「太一さんも持っていませんでしたか?」
太一は助手席に乗り込むと言いにくそうに呟いた。
「壊れた」
人づてに聞いた話を思い出して、光子郎は吹き出しかけた。太一の横顔を見て、笑いを堪える。
「壊したんでしょう?」
噂でしか聞いたことがないが、ずいぶんと乱暴な乗り方らしい。
太一がシートベルトを締めたのを確認した光子郎は車を発進させた。
太一はこれだけは譲らないというように、きっぱり言った。
「壊れたんだ」
岡からは、あまり飲ませるなと釘を差されていたので、あっけない食事の席だった。運転があるので飲めない光子郎に太一はつまらなそうな顔をし、自分もたいして飲みはしない。
「男二人で酒もないって、結構つまんねえな」
酒がない、というところにだけ光子郎はひそかに同意した。太一が不満でも他の者が同席するのは、お断りだ。
夕食時間をゆっくり過ごした大衆的な洋風居酒屋を出て、光子郎は太一を彼の住むマンションまで送ろうとした。
「あ、悪いけどさ、台場の方に頼む」
「いいですけど、そっちに泊まるんですか?」
「色々うるさくてさ」
太一は兄と息子らしい顔で言った。きっと家族揃って心配しているのだろう。車を八神家の方へ向けて、光子郎は微笑した。
「皆さん、お元気ですか」
「まあ、普通じゃねえの」
太一は椅子を少し傾けて、窓の外を眺めていたが、不意に身を起こすとラジオのスイッチを付けた。賑やかな音楽を背景に男性の低い声が流れてくる。聞き覚えのないバンド名を幾つも男は紹介していたが、太一は歌が始まる前に消してしまった。
「どうかしたんですか」
無理矢理、割り込んできた軽自動車に軽くクラクションを鳴らして、光子郎は訊いた。
「いや……」
太一は光子郎の方へ顔を向けた。車内の薄い闇と外からの光が交互に太一の顔を隠す。
「お前、結婚しないのか」
急ブレーキをかけそうになってしまい、光子郎はあわててギアを変えた。
「どうしたんですか、いきなり」
「先輩として心配なんだよ。お前、うわさの一つもないみたいだし」
光子郎は一つ咳払いをして、答えた。
「順番から言ったら、太一さんが先でしょう」
「俺より丈だろ」
太一はあいつも浮いたうわさがないと言って、何がおかしいのか、しばらく笑っていた。光子郎は太一に合わせて苦笑し、そっとため息をついた。
「――変なこと、聞いて悪かったな」
降りるときに太一は謝り、窓越しに上がっていくかと訊いた。
「いえ。今日は僕も家に帰りますから」
「そうか。気をつけて行けよ」
「はい。じゃあ、また」
距離は大してないが、光子郎はうなずいた。
「今日、ありがとうな」
手を振る太一が視界から消えてしまうと光子郎はようやく車を出した。
※
「どこか、痛いの?」
カップを差し出してくれた空に言われて、ヤマトは勢いよく顔を上げた。
「痛いって?」
「唇。さっきから、ずっと触ってるし、どうかしたのかと思って」
「いいや」
何気ない風を装って、カップに口を付けた。酸味のある紅茶の香りが湯気と共に頬に昇ってくる。
空は話の続きを始めていた。空の声は耳に心地よい。相づちを打ち、たまに言葉を挟んで、ヤマトは夕食後のひとときを楽しんでいた。
話はきちんと聞いているつもりだったのだが、気が付くと空が呆れたような顔で、こちらを見ている。
「空?」
「なに、ぼーっとしてたの?」
「え?」
空はしかめ面をして見せたが、すぐに笑い出した。
「なんだよ」
「こっちが訊いてるのに、変な顔して、『え?』って――」
カップを置いて、空が笑う。肩を震わせているので、ヤマトは伸ばしかけた手を止めた。
(太一)
――空が笑っている。慣れ親しんだ明るい声に、ヤマトはふと目眩を感じた。唇に焦げ付いたように、太一の唇の感触が残っている。
また自分の唇に触れようとして、ヤマトは上げた手を空の方へやった。
「そんなに笑うなよ」
空を引き寄せて、くすぐってやる。この言葉を太一に言おうとしていたことなど忘れていた。
空が嫌がる前に腕に閉じ込めて口づける。何度も、空の柔らかさを腕に、唇に感じて、やがては自分の体で押しつぶす。
そうして、ヤマトはそれをうち消そうとした。疲れて、眠った空を腕に抱いたとき、ヤマトは初めて、自分が不安を抱いているのだと知った。
どんな不安かは分からない。ただ、全身を支配していくそれは不思議なほど熱かった。甘くもあった。
翌日はヤマトの方が、朝は早かった。朝食を作り、空を起こす。
寝乱れた空の姿は、昨夜の時間の名残をとどめていた。しっとりした妻の肢体の曲線を鑑賞してると彼女から軽くぶたれた。笑いながら、ヤマトは負けを認め、朝食の支度が出来たことを告げる。和食で整えた朝食を取ると、二人で家を出た。
空が講師を務めているフラワーアレンジメントの教室が開かれているビルまで、彼女を送り、それからテレビ局へ向かう。
歌番組の収録のためだが、控え室には見慣れた顔ばかりだ。適当に騒いで、音合わせなどもしている内に、今日の仕事が始まった。
番組に出演する歌手のために、後ろで演奏するだけなのだが、これが簡単にはいかない。初出演で緊張しているらしい二人組の少年達は、何度か歌詞を間違え、ようやくOKのサインが出たときは、ヤマトだけでなく、スタジオにいた全員が安堵するようなため息をついた。
「どうもすみませんでした」
頭を下げる少年二人に、これもまた全員が苦笑いを浮かべた。
スタッフに挨拶をして、これからどうするか再び戻った控え室で話していると、珍しい顔がのぞいた。
「親父」
「よお」
背広姿には似合わない挨拶で、父親は手を挙げた。
「来てるって聞いたからな。昼飯は済んだか?」
「食ったけど、付き合ってやるよ」
挨拶代わりに憎まれ口を叩いて、ヤマトは友人達に断ると部屋を出た。
「空さん、元気か」
「ああ。そっちは?」
「まあまあだな」
息子二人が独立して、ようやく元の妻と再婚した父は頬をゆるめた。
「やっぱり一人の方が気楽ではあるな」
「お袋には内緒にしといてやるよ」
男同士だからこそ通ずる気安げな笑みを父と息子は浮かべあった。
廊下を歩いて、食堂まで行く。父親は昼食を注文し、ヤマトはコーヒーだけ頼んだ。
狐うどんを啜りながら、父はためらいがちに切り出した。
「八神君、帰ってきてるんだよな」
「ああ」
紙コップをテーブルに置いて、ミルクを手に取った。入れはしない。ただ見ているだけだ。
「会ったか」
「一回な」
考える間もなく、嘘が付けた。隠したのではない。知られたくなかった。
太一の言うとおり、幾日経ってもホテルでの話題は出てこなかった。唇の感触と眼差しだけがあの日を思い出させる。
「――ヤマト」
困り切った父の声に、ヤマトは眉を寄せた。
父も似たような顔をしていた。こんなところで血が繋がっているのだと気がついてしまう。最近の自分の些細な仕草が父親に似てきたのには、不思議なとまどいがあった。
「断るからな」
「俺だって、気は進まん」
唐辛子を振りかけ、父はイライラとうどんを混ぜた。
「だけどな」
「俺に頼まなくても、親父から言えばいいだろう」
「一応、話してはみた。八神君本人じゃなくて代理人の方にだったが、見事に断られたよ」
そう言って、父は頭をかいた。
「うちは前にあっちを叩いてるからなあ……」
「ああ」
ヤマトは同意ともうなずきとも言えない言葉を発して、黙った。素行や態度に問題の多い友人ではあったが、テレビや週刊誌もそれを煽るような激しいニュースや記事を伝えている。需要があるのだから仕方ないといえば仕方ない。
「頼まれた相手が大学の時の後輩でな。そいつが持ってる番組自体も色々厳しいんだ。駄目でもいいから、一度八神君に話してみて くれないか」
息子が話題の人物と友人だったということを知られて、父も突き上げられているのだろう。
「……話してみるだけだからな」
むげに突っぱねることも出来ず、ヤマトは渋々うなずいた。
「ああ、すまん」
ほっとしたように礼を言うと、父は冷めたうどんをまた食べ始めた。
「親父」
「うん?」
「――いや、いい」
太一との間を噂されている相手が今いるのか、訊ねようとして、ヤマトは止めた。
知りたくなかったのか、口にしたくなかったのか。口を閉じたヤマトの脳裏を、太一の眼差しがかすめて、消える。
また不安が広がって、いっそうの熱を帯びた。
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