君を待ってる
6



 声は我慢しなくていいとゆっくり囁かれる。君の声が聞きたいとも。革張りのソファはどこか固くて、つかみ所がなく、太一は指先を折ると声を堪えた。
 肌に触れる舌に、嫌悪から快感を引き出していく。最初はいつもそうだ。この後は目もくらむような快感が待っている。
「あ……」
 指が舌を手伝う。太い指が唾液と体液とで濡れきったそこを握り、擦り上げる。ソファからずり落ちそうになった太一を、ジョジオの片手がしっかりと支えた。
 一度焦らされたそこに指が這って、突き入れられた。溜まっていた息を押し出し、太一は目を閉じた。
 ジョジオは何度となく、うわごとのように愛しているとつぶやく。そのたびに指と唇に力がこもって、太一は少しずつ声を大きくした。
 太腿にも舌が這って、太一の足すべてを自分の唾液で汚すように男は愛撫した。指が動き回り、太一が過敏な反応を返す場所を探し出し、触れられる。
 口ひげが初めての感触で肌に触れる。乾いた強い毛が肌をくすぐり、太一は仰け反った。
「くっ」
 ひときわ強い太一の震えに気づいたのか、ふたたび男の唇が太一を包む。膨れ上がった欲望に細かな刺激を与え、空気にも触れさせない。
「……っ」
 指を歯で噛んで、太一は声を殺した。
 すべて飲み干したジョジオが身を起こして、太一をソファに横たえようとする。 そちらの方が楽なのは分かっていたが、太一は体をよじらせて、ジョジオから離れようとした。
「大丈夫だ」
 優しくするという言葉通り、ジョジオの手はどこまでも太一のためのものだった。
 上着にも手が掛かる。乳首を指先で挟まれ、ねじられると、太一は首を振った。耳たぶが熱くなっていく。指だけで触れられていた胸へ唇が落ちる。その生温さが、たった今、吐き出した熱を伝えているようだった。
 爪先が甘く肌に食い込み、伸びてきた片手がまた下を侵す。
 せわしない息ばかりが、部屋にこだまして、耳から離れない。意識が遠のきかけ、太一はいやだと低い声でつぶやいた。それも甘い声にしかならない。
 熱くなっていた指先が抜かれ、今度は冷たいぬめりを伴って、差し込まれた。オイルの滑りで、指先は今まで以上に深く、体の奥へ入ってくる。もう一つの肉にはない爪の堅さが内を擦り、慣らされた。
 呻くようなジョジオの声が聞こえた。日本で生まれ育った自分には、めったに口に出来ないような甘い愛の囁きだ。彼の国にいたときも、よくこんな言葉を聞いた。どうしてこの国の男も女も、情事の際にあんな言葉を口にするのだろう。可笑しくなり、涙がにじんだ。情熱的な言葉は心を冷やし、体を熱くする。
 指よりも太く、熱のこもったものが押し当てられた。次に襲ってくる衝撃と快楽に堪えようと太一は霞む意識の中で手を伸ばし、ソファを掴もうとした。
 木で出来た肘掛けが指に触れた。芯から冷えることなどないぬくもりに、太一は同じようなあたたかさを持った白い機械を思った。
 ジョジオの体に犯される寸前、太一は首を振り、目を開いた。もうすぐ得ようとする快楽への期待で歪んだ男の顔を一瞬だけ見つめ、太一は全身の力を込めて、彼を突き飛ばした。
 喉の奥からつぶれた声を出して、ジョジオが床に転がった。今までの行為でふらついた足と腰を叱咤し、太一は立ち上がった。汚れた体にも構わず、床でくしゃくしゃになった衣服を手にし、身につける。局部をむき出しにしたジョジオの姿は、醜いというよりは滑稽で、そんな男の側でズボンや下着を履く自分自身も道化じみていた。
 吠えるようにして、なぜだ、どうしてだとジョジオが叫ぶ。自分の想いも外に出せば、こんなに哀れなものなのだ。太一はジョジオを見つめていた。
 誰か駆けつけてくるかと思ったが、いつまで経っても部屋のドアが開かれる気配はない。
「タイチ、お願いだ――」
 請うようなジョジオの口調に、太一は首を振った。ジョジオよりももっとがむしゃらな首の振り方だった。喉元まで出かかった言葉を必死に飲み込んだ。今更、こんなことを言えるわけがない。
「あんたのとこには戻らない」
 それだけ言って、部屋を出た。絶望的なジョジオのうめき声に押されて、走り出す。
 最上階はそこにある一室のためのフロアになっている。音も吸い込む分厚い絨毯の上を走って、エレベータのボタンを押した。
 上がってきたエレベータの白い扉が開くと同時に飛び乗った。ボーイが、少しだけ好奇心をのぞかせた顔を見せる。
 ジョジオの顔も、そこにやって来た客の顔も知っているのだろう。ちらちらと注がれる視線を無視して、ロビーで下ろしてくれと頼むと、太一は壁にもたれかかり、目を閉じた。
 体に残った火照りが出口を求めて、体中を熱くしている。 哀しみで体を冷やそうと太一は吐息に混じらせて、お前じゃ駄目なんだと言ってみた。彼では駄目だ。誰でも駄目だ。分かっていて、理解できない。
「何かおっしゃいましたか?」
「いや」
 背後の客に興味をつのらせるボーイに微笑して、太一は目を閉じた。エレベータは揺れず、静かにロビーへと降りていく。


 
 すっかり遅くなってしまってと頭を下げられて、ヤマトはあわてて首を振った。
「こっちこそ、長話して」
「いえ、こちらこそ」
 機材を持った若い男女が苦笑している。エレベータが来ましたよという声に促されて、ヤマトは横に並んだ男と共に乗り込んだ。
「今から、帰られますか?」
 親しみのこもった声で、話しかけられる。一時間の予定が長引いて、二時間を越えたからだろう。予定のずれも笑顔ですまされるほど、この取材は楽しいものだった。
「スタジオに寄ってからですけどね」
「今度は、そちらにお邪魔したいですよ」
「あんなとこでよかったら、いつでもどうぞ」
 ロビーには人の姿が多かった。窓から見える空は暗く、シャンデリアの光が眩しい。
 ずいぶんと立派なホテルの一室で取材を受けたが、それだけ注目されていると考えてもいいのだろうか。感慨に浸りかけて、ヤマトは苦笑した。取材者側が自分のファンだということで、気を使ってくれたのだろう。そちらを喜ぶべきだ。
「――泊まっていかれても結構だったんですよ」
「いえ、みんな待ってますし」
 話を聞きたがっているだろう。好奇心の強い友人達の姿を思い出して、ヤマトは微笑し、それに応えるように他の三人も笑った。
「じゃあ、スタジオまで送っていきますから」
 その好意には甘えようと、ヤマトがうなずきかけたとき、鋭い声がロビーに響いた。
 ロビー中の注目を浴びたのは、二人の男で、内一人は背広姿の外国人だった。もう一人の男につかみかかろうとしている。
 剣呑な雰囲気から、殴り合いになるかと思われたが、ホテルの従業員達が駆け寄る前に、背広姿の男の方がうずくまった。そのまま、もう一人の男は乱れた服装で逃げ出した。
 扉近くにいたヤマトは横を通り抜けた男に目を見張った。
「ケンカですかね」
 幾分、興味を引かれた様子の男が話しかけたとき、ヤマトは駆け出していた。
「石田さん!」
 驚き、呼び止める男の横で、助手を務めた男女が二人して、不思議そうに顔を合わせた。
「今の逃げたやつ、八神に似てなかったか?」
「あ、私も思った。あれって、八神選手だよね――」



 背後から名を呼ばれても足を止めなかった。
 ヤマトの声だけが聞こえる。振り切りたいという思いとともに、このままずっと追ってきて欲しいという思いもあった。自分は追いかけるばかりだったのだから、たまには彼にも苦しい思いをして欲しい。
 呼びかけられる声は、咳き込んだり、呼吸の途切れた声になる。白い頬が真っ赤になっているかもしれない。振り返り、立ち止まって、彼を休ませてやりたかった。でも、今日は友人の顔は出来ない。
 エレベータの扉が開いたとき、ジョジオの運転手がいたことには驚かなかった。そうなるかもと予想はしていたので、まず拳で彼を突き飛ばし、逃げ出そうとした。それがいけなかった。拳には拳で。ボクサー上がりなのかと思うほど、彼は打たれ強かったようで、すぐに体勢を立て直すと追いかけてきた。拳だけでなく、足も使うことに、ためらいはあった。相手の骨くらいは折れそうだが、自分自身も足を痛めるかもしれない。
 迷いは伸びてきた男の手で消えた。今、捕まれば逃げるのを止めて、ジョジオの手の中で、一時の安らぎに浸りたくなる。ボールを扱うときはよりは優しく、男のすねを蹴り飛ばし、ドアに向かおうとした。
 瞬間の驚きやとまどい、そして喜びが、どんな風に自分を追い込んでいくか、太一は知らなかった。
 ――走る先にヤマトがいた。 その痛みに耐えかねて、太一は走り出した。ヤマトに気づき、見つめた時間は一瞬にもならない。気づかれないはずだった。
「太一!」
 名を呼ばれる。聞こえない振りなど通用しないほど、大きくはっきりした声だった。 よく通る、低くて、少しぶっきらぼうな響きを帯びた声。
「太一、待てよ!」
 きっと肩をつかまれる。細長い指が意外なほどの力を込めて、自分を立ち止まらせる。そうなったら駄目だ。もっと今以上に早く走らなければ。
「太一」
 純粋に彼を友人と信じていたかった。つらいときに何も言わずとも、互いの側にいられるような、そんな友人同士でいたかった。それが無理なら友人という演技を続けたい。
「――太一」
 思いとは正反対の強さで、ヤマトの声に逆らえない自分がいる。ほんの一時、走る足が遅くなった。それで十分だった。 耳に荒い息が迫る。指が肩に強く食い込んだ。
 だが、そんなことをしなくても、ヤマトは太一を縛りつけていた。 ヤマト自身は知らない鎖だ。そこから逃れたいと思ってはいない。冷たい諦めの中で、太一はヤマトの荒い呼吸を聞いていた。
 

 
 まさか現役のサッカー選手に追いつけるとは思わなかった。ただし、正常な呼吸と言葉、明日からの筋肉痛を引き替えにしてのことだったが。
 落ち着かない心臓に乱れきった呼吸。ついでに膝も笑っている。しかし、ヤマトは太一の腕から手を離さなかった。
 太一は多少頬を赤くしただけで平然とした様子だ。体力の違いを見せつけられて、ヤマトは体を鍛え直さなければと思った。
 どうにか言葉が話せる程度にヤマトの呼吸が戻ると、太一はヤマトの手を振り払って、歩き出そうとした。
「待てよ」
 今度、走り出されたら、絶対に追いつけない。ヤマトは太一の肩を掴んで引き留めた。
「何か、あったのか?」
 手から力を抜いたのは、太一がひどくつらそうな顔をしていたからだった。
 カップルも寄りつかない暗い、物騒な雰囲気の公園だが、小さな街灯くらいはある。ぼやけた明かりでも分かるくらい、太一は苦しそうな顔をしていた。
 先日のホームでのことを思い出し、ヤマトは決まり悪げに視線をやわらげた。
 太一は肩に置かれたヤマトの手をじっと見ていたが、顔を上げた。
「お前こそ、あんなとこで何やってたんだ」
「俺は、取材で……」
 太一は心底驚いた風な声を上げた。
「取材? そんな、有名になったのか」
「――お前な」
 放っておくと、太一のペースに巻き込まれそうだったので、ヤマトはことさら低い声を出した。
「どうしてケンカなんかしたんだ」
「ケンカじゃねえよ」
 太一はふてくされたように、横を向いた。
「ケンカだろう。相手の男、蹴ってたくせに何言ってるんだ」
「見えてたのか?」
「何回、お前とケンカしたと思ってんだよ」
 太一はさあなと笑った。あっけらかんとした笑いにヤマトは眉を寄せた。
「太一、自分の立場を考えろよ」
 怒りを抑えて、ヤマトはいらいらとつぶやいた。
「お前は顔を知られているんだから、そういうことを考えて行動しろ」
「分かってるよ、下らない説教するな」
 太一は乱暴にヤマトの手を振り払い、顔を背けた。
「分かってねえだろ……」
 ふっと鼻をくすぐった匂いにヤマトは顔をしかめた。油と煙草が混じったような、奇妙な匂いだ。太一の髪にそんな薫りがついている。
 かすかな薫りだったが、いつもの太一らしくないようで、ヤマトはますます苛立った。
「あんな目立つ場所で、騒動起こして何が、分かってる、だ」
「うるせえな」
 太一の反論の声は短く、小さかった。それに違和感を覚えることなく、ヤマトは声を大きくした。
「何かあったら、どうするんだよ」
「何もない。あんなの記事にもならねえよ」
 太一は嘲るように言って、唇を歪ませた。
「あのじじいがそんなことさせるか」
「じじい?」
 太一の目が細くなった。怒りよりも哀しみに近いものが浮かんで、すぐに消える。
「誰だ?」
「お前には関係ない」
 ヤマトを打つような冷たい声だった。そのまま太一は背を向ける。
「太一!」
 立ち止まらず、去っていく太一はヤマトを鼻で嗤った。
「――今度から気をつけるよ。ケンカは人目のないとこで、ってことだろ」
「太一!」
 かっとなって、殴るような勢いで太一を振り向かせた。ヤマトの勢いに押されて、太一はよろけると、側にあった街灯に掴まった。
「どっちが荒っぽいんだよ」
 太一は冷たい鉄を握りしめ、文句を言うでもなく、くっくっと低く笑った。
 思いがけない反応に怒りをそがれ、ヤマトは太一を見つめていた。
 太一は鉄柱に顔を寄せ、肩を震わせている。ヤマトに新しい怒りがこみ上げてくるまで、太一は笑っていた。
 そんなに笑うな。言いかけて、ヤマトは太一の方に一歩近づいた。もう笑い声は聞こえないのに、太一の肩だけがいつまでも震えている。その細かい震えは全身に広がっているようだった。
「太一?」
 太一は顔を伏せ、ヤマトの方を見ない。髪の間から見えるわずかな唇は笑いのためではない震えを帯びていた。
「太一?」
 太一が片手をのばし、ヤマトの肩に乗せた。顔を見せないまま、太一はその手の上に面を伏せた。
 太一の手と額、その二重のぬくもりの中、ふたたび匂う煙草と整髪剤の臭い。まるで太一の肌にも染みついていそうだ。臭いの不快感はあるが、太一の奇妙な仕草にヤマトはとまどっただけだった。
 太一は小さくささやいた。
「どうして、俺の近くにいるんだよ」
 奇妙な問いだったが、ヤマトは真面目に受け応えようとした。
「どうしてって――」
 友達だからと言おうとして、ヤマトは口ごもった。友達なのは確かだ。けれど、嫉妬を含んでいても、そうだと言えるだろうか。
 わずかな逡巡の後、ヤマトは古い付き合いだろうと言った。
「ガキの頃から、お前のこと知ってるし」
 太一の手が痛いくらいに食い込んで、ヤマトは太一を見下ろした。
「……えよ」
 くぐもって聞こえなかった。涙のせいかと一瞬どきりとしたヤマトは、顔を上げた太一の目に見据えられ、息を止めた。
 涙はなかった。だが何という眼差しだっただろう。
 間近で、思わぬほどの哀しさを秘めた目で見つめられ、ヤマトは太一を見返すしかできなかった。
 意識の片隅で、太一でもこんな切なげな顔を見せるのだなとぼんやり思う。
「お前は俺のことなんか知らねえよ」
 苦い薫りのずっと奥に太一自身の匂いがした。晴れた日によく嗅ぐような明るい匂い。太陽と乾いた風と。
 ――押し当てられた唇からも、そんな匂いがした。
 わずかな口づけの後、太一は顔を背け、行ってしまった。
 唇を重ねたときの太一の動きで耳元近くの髪が乱れた。少し頬にかかり肌をくすぐる。それが風に吹かれて他の髪に混じってしまうまで、ヤマトは立ちつくしていた。

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