なぜ、この男だったのか、男の顔を見つめるたびに思い出す。瓜二つの人間を求めたわけではなかった。どれほど顔が似通っていても、その背後にある時間は違う。眩しい一夏の思い出を背負っていない、顔だけがヤマトに似た男など嫌だ。
男はヤマトに似ていない。けれど囁くときの低い声、黙っているときの唇の形、肩に置かれる人差し指、そんな小さなところがヤマトと重なる。
きっとこんな風にヤマトは囁くのだろう。耳元に差し込まれる吐息と舌と甘い声。男の声が消えてしまうと太一は目を開け、唇を見つめる。黙り込んだ彼の唇は少し不満げに見えていた。男の唇もそう見える。
手が伸びてくる。肩が引き寄せられ、赤みの差した男の指先に太一は目を閉じた。こうして彼は空に触れている。
唇から声が漏れていく。それに合わせて心も少しだけ解放した。ただし自分自身でも見つめることが出来ない最奥だけは閉じたままだ。
ここは誰にも見せない。開かない。封じ込めて、いつか消えるのを待っている。
「なあ」
男がささやく。何を望んでいるのか聞こえない。熱を握られ、指で犯され、うわごとのように男に応える。
手ひどい愛撫にも馴れた。初めからいつもこうだったから構わない。男が見せようとした優しさも拒んだ。何も欲しくない。与えられない彼を望むのだから願ってはいけない。
熱にヤマトの面影を振り払い、太一は男の体のわずかな部分で彼を夢見る。幻に浸る。
――狭苦しい部屋は男の部屋ではなかった。彼が入り浸る怪しげな店の一室だ。その手の目的のために作られている部屋だが、寝そべることができるほど余裕はない。
ぬちゃりと淫猥な音を伴って、男が太一の体から消えていく。支えだった手や足も引かれたので太一はその場に崩れた。
男は身支度を済ませてしまうと、じゃあまたと一声かけて、部屋を出ていった。以前は、情事を終えた後も側にいようとしていたが、太一の言葉でそれは無くなった。
太一は膝をつき、目を閉じて、体から体液が流れていくのを感じていた。
むなしさはいつものことだが、涙は久しぶりだった。こぼれていく体液よりも熱い涙は静かにしたたり落ちた。
止められないところまで行き着けば、あとは流されるだけだ。どれだけこんな時間を過ごしただろう。楽だった。一時、ヤマトを忘れられる。
うずくまり、太一は呼吸だけ続けていた。体が冷え、足に白い筋が残る。動かないまま、この世から消えてしまいたかった。
ふと戯れに呼吸を止め、太一は迫ってくる息苦しさを楽しんだ。きつく唇を噛み、本能の求める空気を拒む。
冷え切った部屋に軽やかな音が流れた。太一はびくりと体を震わせ、服の間に隠されていた携帯電話を手にした。
「太一、今……」
岡の声は怒り混じりだ。連絡もしていなかった。
「すぐ帰る」
嗄れた声で言って、太一は電話を切ると服を取り上げた。体は帰って洗えばいい。汚れきって帰るのは自虐心を深めてくれるだろう。
太一は服を身につけると部屋を出ていった。
※
帰国して実家に戻るよりも先に彼の家に向かうとは、自分も相当に情熱家だ。運転手に彼の住所を伝え、光子郎は座席にもたれかかった。
脅すようにして、もぎ取ってきた休暇だ。そのすべてを彼に会うために費やすことに、何の迷いもなかった。これほど長い休暇は母が倒れた二年前以来だ。最近の母の体調は良好で、電話での声も元気だった。療養のために空気の良い高原に行ったのが功を奏したのだろう。
明るい声に安心し、帰国を一日早め、光子郎はこの日を彼の顔を見に行くために使うことにした。
地続きの同じ大陸にいたとはいえ、太一との距離は遠すぎた。テレビ、新聞、雑誌、幾つものメディアが伝える彼のニュースはしょっちゅう見ていたものの、直に会うのは数年ぶりだ。膝上で知らず知らず指先が踊るようにして、動いていた。
太一のエージェントを務める岡にも連絡はしてある。今日は在宅だそうだ。ひところの取材攻勢もだいぶ落ち着いたらしいが、太一自身はまだ落ち着いていないようだと岡は言っていた。トレーニングにも身が入らないようで、困ったものだともこぼしていた。岡がそんな愚痴を漏らすのはめずらしい。彼も太一も疲れているのかもしれなかった。
運転手に料金を払い、光子郎はマンションの前に立った。ここは不動産会社と警備会社が提携して運営しているマンションで、来客は部屋の主の許可を得るか、入り口の暗証番号を知るのを前提にして、指紋と掌紋を登録しなければホールにも入れない。太一の以前の住まいとは格段にセキュリティのレベルが違っていた。
自分の身辺にはあまり注意を向けない太一だったが、熱狂的なファンが押し掛けてくるようになったのには閉口したらしい。岡の意見をようやく受け入れ、新しい住まいに引っ越す頃の太一から、手続きが面倒だと書かれたメールを受け取ったことがある。思い出すと、かすかな緊張が和らぐのを感じた。
押したベルの音もどこか涼しい。少し掠れた太一の声に誰何された。
「泉です」
「……光子郎か?」
「はい」
驚く気配が伝わってくる。岡に口止めしていてもらった甲斐があった。
「びっくりした。何だよ、帰ってたのか」
カチリと入り口の扉の錠が開く。再会の最初の音だった。
「上がっていいぞ」
開いていくドアの向こうには落ち着いた雰囲気のロビーが広がっている。敷き詰められた絨毯の上を歩き、光子郎は太一の部屋へ向かった。
「驚かせるなよ」
重たいドアを開けた太一の一声はこれだった。低い声が光子郎の心を騒がせる。
「連絡くらいすればいいのに」
「すみません」
ドアから太一はゆっくり全身を現した。髪が乱れて、目が赤い。寝起きだったのかもしれない。光子郎の声を聞いて、あわてて身支度を整えたのだろう。
「帰ってきてたのか」
「はい」
太一はそれ以上何も聞かず、光子郎を招き入れた。
あちこちにある窓から陽光が差し込んで、広い廊下を照らしている。室内には装飾がほどこされているが、それ以外はどことなく無機質な感じがした。住み始めて、二、三年ほどは経つらしいが、めったに部屋に戻ることがないせいかもしれない。生活臭というものがそれほど感じられない室内だった。
太一は居間のソファに光子郎を座らせると、キッチンにコーヒーを沸かしに行った。
窓からは風も吹き込んでくる。まだ朝の涼しさが残る風だった。
「掃除がさ」
太一は襟に手をやりながら決まり悪そうに言いながら、寒そうに首をすくめ、襟を閉じた。
「面倒でほとんどやってねえんだ。散らかってて悪いな」
「広いですからね。気にしないで下さい」
「寝る部屋とここくらいしか使わねえのに、岡のやつが――」
太一がはっと言葉を切った。携帯電話が鳴っている。
「ちょっと、ごめん」
光子郎に言って、太一は薄く開いていたドアを開けた。カーテンが閉じられいるので、薄暗かったが、大きな寝台がみえた。
シーツの乱れに見てはいけないものを見たような気がして、光子郎は目を逸らしてしまった。
太一は電話を取ると途端に無表情になり、次に光子郎の視界を遮るためか、ドアを閉めた。
話し声も聞こえず、光子郎は広い居間に一人きりになった。太一の電話が終わる前に、コーヒーが出来てしまい、それでも太一は部屋から出てこない。
カップを用意するべきか、それともただ太一を待つか、光子郎は迷ったが、立ち上がるとキッチンに入った。
すでに太一はカップも用意していたらしく、飾り気のないマグカップが二つ、コーヒーメーカーの側に置かれていた。
コーヒーを注いでいると、ばたんと勢いよく、ドアが開く音が聞こえる。光子郎が声をかけようとする前に太一の声を耳にした。
「光子郎?」
光子郎は開きかけた唇を閉じ、ゆっくりキッチンから出て、太一の後ろに立った。
太一が振り向くまでのわずかな間だけ、声の名残らしい心細げな影を背中に見た。
「どこ行ってたんだよ。トイレか?」
太一の目は光子郎を認めて、一瞬の不安を消していた。
「キッチンです。コーヒーが出来上がったので入れようかと思って」
「ああ。そうか」
太一は怯えた自分を恥じるように微笑した。
「最初に驚かされたから、またやられたかと思ったんだ」
「そんなしつこい男じゃありませんよ」
苦笑した光子郎の横を太一がすり抜けていく。
後を追った光子郎は太一に止められた。
「座ってろよ。砂糖とミルク、使うか?」
「いいえ」
首を振って、光子郎は太一の背中に手をのばしかけた。引き寄せて、腕に閉じ込めようと力を込めた手は、だが、壁に触れただけだった。
用意を終えた太一が振り向くまで、光子郎はキッチンの入り口で待った。そうして太一の背中に孤独の影を探していた。
※
――会った先のことを想像できない訳ではなかった。すでに一度、似たようなことは経験している。光子郎を帰るように仕向けてまで、あの男に会おうと思った自分の心が太一には分からなかった。
時刻は夕方になりかけた頃。射し込む日もそれほど赤くない。持ち込んだ荷物を仕舞ったクローゼットの引き出しの前に太一は立った。
横の段ボール箱には何十もの数のトロフィーや盾が整理されることもなく、詰め込まれている。開いた箱から見える金の光には目をやらず、引き出しを開けた。からりと乾いた音を立てて中身が転がってくる。
一つは白くて小さな機械。もうひとつは濃いブルーのピック。薄い線のような傷跡が幾つも残っている。スタジオへ行ったとき、それを途中で手の平に忍び込ませた。
彼が気づいたら、すぐに返すつもりだったのだが、ヤマトは楽器を仕舞う際に辺りを見まわしただけで、特に言葉にも態度にも現さなかった。きっと幾つもあるうちの一つなのだろう。これを無くしたからといって困るわけではないのだ。
触れることはせず、太一はデジヴァイスとピックを見つめていた。これらをどんな風に握っていただろうか。
太一は指を折り曲げてみた。ヤマトも持つデジヴァイスを握るように、ヤマトがピックを持つ手と同じように。
空を掴む手はありえぬ夢を求め続けている。もう名前を呼ぶことは止めていたから、太一は手を拳に変えて、下ろしただけだった。
指定された時間に間に合うよう車が回されていた。目立たないものをという配慮がないのか、それとも万事派手にやりたがる性質ゆえか、黒塗りの外車という、あまりに彼のやり方らしい迎えに太一は笑ってしまった。
ドアを開けてくれた男はジョジオの運転手だ。こんな極東にまで付いてくる。護衛も兼ねているため体格もよい。例の件を知っているのか鋭い視線を向けられたが、素知らぬ顔で乗り込んで、太一は窓の外を眺めた。揺れも音もほとんどなく、車の乗り心地は素晴らしかった。
どうやって携帯電話の番号や住所を知ったかは気にならない。あの男ならやるだろうという確信があった。金も人脈も彼は持っている。限られたそれではなく世界中に通じるものだ。
案内されたホテルの最上階、ジョジオはタバコを銜えていた。葉巻は心にゆとりがあるときしか吸わないというから、少し緊張しているのだろう。髪を撫でつけている整髪剤の臭いがきつかった。
頬の辺りを見たが、太一の拳の痕は見つからなかった。確かに前歯も折ったはずなのに、こちらに笑いかけた時に見えた歯は、綺麗に揃っている。ジョジオの怪我と欠けた歯を治療した医師に太一は称賛のため息を漏らした。
「やあ、タイチ」
この響きを持つ言葉を聞くのは帰国以来だ。正しい挨拶ではなく、フィーリョ・ダ・ブッタと悪態をつきかけるのを太一は堪えた。
あの国で試合をした当初、観客や敵味方関係ない様々な選手たちから、こんな言葉をよくかけられたものだ。挨拶の次に太一はこの言葉を覚え、覚えた瞬間から使い始めた。
この、くそったれ。――ジョジオを怒らせるのはまだいいが、背後に立つ男二人を相手にするのは今日の体ではきつい。
「大変そうだな」
ジョジオはテーブルの上に広げられていた雑誌を見下ろした。
「訳してもらったが、ずいぶんと品のない記事ばかりだ。君と私の関係はこんなものではなかったはずだったが」
太一はジョジオを見つめ、雑誌を手に取った。派手なあおりの文字、誰だと推測する気にもならない関係者の裏話。ざっと流し読みして雑誌を放り投げた。
「こんなのを本気にしてるのか」
早口でいうほど言葉には達者ではない。ゆっくりと太一は話した。
「いいや」
ジョジオは煙草を灰皿に落とすと、小さく顎をしゃくった。男二人が部屋を出ていく。
太一はさりげなく部屋を見回して、カメラを探した。二人きりになりたかったのは本当のようで、どこも監視されている気配はない。一度、裏目に出たというのに懲りていないようだ。
「太一」
たぎるような情熱をこめて、ジョジオは太一に近づいた。情欲が混じるときだけ、この男は美しい日本語の発音で、太一の名を呼ぶのだった。
「戻ってきてくれ」
太一は顔を背け、唇を歪めた。
ジョジオはぎりぎりまで太一に近づいた。距離は太一の手が届かない程度、以前の失敗を重ねないつもりだろうか。
熱っぽく、英語も交えながら、ジョジオは太一にすべては君のよいようにと言い続ける。目の前に並べられる条件に太一は黙っていた。
交渉? いや、違う。どんな交渉も自分の有利に進めるジョジオがこんな真似をするわけがなかった。提示される幾つもの誘惑に対して太一が与えられるのはささやかなもの、厭わしさすら感じる己の肉体だけだ。
ジョジオの視線に太一は嘲るような笑みを浮かべた。
この体が女性のものであれば苦しまずに済むのではないのだろうか。あるいはヤマトが女性であったならば。あの幼い日を共にした少女の笑顔が浮かばなければ、どんな手を使ってもヤマトを自分のものにしたに違いない。目の前にいる男と同じことをしてでもヤマトを手に入れようとしたはずだ。
「太一」
ジョジオはついに跪き、太一の顔を見上げる。皺深いその顔に闇組織との繋がりも囁かれる男の面影はなかった。
太一は立ちつくし、嫌悪とも哀れみともつかない顔で男を見下ろしていた。
「あのときのことなら許してくれ。もう二度としない。母の名にかけて誓う」
分厚い手が足に触れ、這い上がっていく。ズボンの布地の上から唇を押し当て、ジョジオは苦しげな息を漏らした。
「太一」
太一は黙っていた。かなわない想いを抱いているという点では、この男と自分は同じだ。だが太一には出来ないことがこの男には出来る。様々に根回しして、太一を自ら、自分の寝室に出向かせることも男には出来た。
(オカの身の安全について、君はどう考えている?)
電話でつぶやかれたジョジオのその言葉が、とにかく気にくわなかった。
岡の携帯電話にかけて、彼がクラブの会員とのディナーを楽しんでいることと、その相手の名を確かめると、ジョジオの邸宅に車を走らせた。ディナー自体が仕組まれていたのは岡を招待した会員の名を聞けば理解できた。招待とは優雅だが要するに人質だろう。
すべてを了解しているらしい執事に丁重に迎えられ、まっすぐに案内されたのはジョジオのベッドルームだ。目もくらむような富が約束されるはずの富豪の寝室で、服を脱ぐ代わりに拳を固めた。
ガウンを纏い、葉巻を銜えたジョジオに笑いかけ、笑顔のまま、自分のために用意されていたベッドに男の体を沈ませた。ついでに前歯を数本折り、しばらくは人前に出ることの出来ない顔にもしてやると、その足で岡を迎えに行き、事情も説明せず空港に向かった。
空席があったロサンゼルス行きの飛行機に乗り、数日過ごした後、乾いているくせに肌にまとわりつくあの国の空気から、逃れたかったのだと気づいた。陽射しは明るいが影も濃い国だった。
ではどこに行きたいと自問したとき、日本行きの航空チケットを予約していた。少しの間、帰るだけだ。そう考えていたはずだが、空港でnaritaと表示されていた文字を読んだ瞬間、ヤマトを想っていた。そのときだけ、しつこい自分を忘れ、ヤマトのもとへ向かうのを太一は許してやった。
嗤わせる話だ。来日して、すぐに電話をかけてきたジョジオとどこが違うというのだろう。
「―― 一度でもいいんだ」
狂ったように太一の足に口づけ、ジョジオは呻く。薄くなりかけている頭頂部を眺め、太一は足を引こうとした。
ジョジオは太一の足首を掴み、引き留めようとする。哀れみを請うように太一の名をつぶやき、言葉を連ねた。口付けも止まない。
その執着ぶりに太一は動けなくなった。視線の先にあったジョジオの体が大きくなる。ベルトに手が掛かった。突き飛ばそうとして、太一は自分の手が強張っているのに気づく。
同じではないか。そう心の隅が囁いている。幾度となく肉欲は味わった。今更、拒んでも嫌がっても同じなのだ。未知のことに怯えるうぶな少年でもあるまいし、馴れきったことだ。
ジョジオの唇が触れてくる。ざらついた舌に含まれて太一は体を震わせた。歯が皮膚を擦り、舌が舐め上げる。腰を突き抜ける危うい感触に、太一は口を覆った。大胆になった手が下肢を覆う衣服を取り去った。指が後ろから忍ばされ、愛おしむように動かされる。
太一は微かではあったが間違いなく、悦びの声を上げた。
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