才能は中学三年生の頃に、他人の目からでも見えるようになっていたのだろう。
部活からの引退も近い太一が出場する試合を、とある監督が見ていた。彼の目当ては太一たちの試合相手である相手校のゴールキーパーだったが、始まって十分も経つと、その監督は太一を睨むように見つめていた。
妙に聡いところのある太一は、後日ヤマトに文句のようにして言ったものだ。
――変なじじいが俺のことばっか見てたんだよ、気色悪い。
何も事情を知らなかったヤマトは自意識過剰だと返した。
「ヤマト程じゃないぜ」
太一はいつものからかう目つきで、ヤマトを見て笑った。
その太一が言うところの変なじじいは、監督を務める高校のサッカー部を二年連続で優勝へと導いた男だった。
そして、翌年、彼は三年連続優勝という栄光を形にし、その高校をサッカーの名門校へと引き上げた。監督の築き上げた手堅い守備力に、八神太一という攻撃塔が加わったとき、そのチームは日本一という座をみたび手に入れたのだった。
太一がチームにいる間、それが揺らぐことはなく、高校の名と監督の名、そして太一の名は、当然だったが全国に知られていった。
一度ヤマトは競技場まで、太一が出場した試合を見に行ったことがある。周囲の歓声のほとんどが太一に向けられ、どんなときも太一は実力を持って、その声に応えた。チームメイトが太一を信頼するように笑いかけ、太一はゆっくりうなずく。
フィールドにいる彼は、本当なら小さく見えるのに、今はとても大きな存在だった。均整の取れたしなやかな体をしている太一は、真剣さの中に楽しさを秘めて、ボールを追い、操っていた。
遠いと、初めて思った。同時に、何かかけがえのないものを失っていくような気もした。隣にいた空が笑いかけたことによって、慰められたが、不安は消えなかった。空が驚くくらいに、彼女の手をきつく握り、ヤマトは太一を目で追う前にちらりと太一達のチームベンチ側を見た。
ベンチには腕を組んで、試合の行方を見守っている男がいる。遠目に見ても背は高くない。禿げ上がった額が目立つ彼を、名将だとどこかの新聞が書いていた。
彼が太一の出た試合を見なければ、太一は自分たちと同じ高校へ進学していただろう。部活にかまけていた太一の勉強を空と共に見てやりながら、桜が咲く頃には、三人で今通っている高校の門をくぐっていたはずだ。それが欲しかったのだろうか。
親友と愛する女性。まだ十代の若さで、その二つを得たという幸福に、安堵しきっていた。このまま、いつまでもと、勝手に思い込んでいたのだ。それは今でも変わらない。太一とは友人であり、これからも親しく付き合っていくだろう。
最後まで残ったヤマトの不安は、空が腕を取ったことで消えた。傍らにある柔らかい体が愛おしくなる。
いつの間にか空を見つめていた。
「見た?」
空は頬を赤くして、ヤマトを見上げる。
「え?」
「太一。すごいシュートだった」
声援がひときわ大きくなっている。耳がやられそうだと思いつつ、太一に目を移す。同じユニフォームを来た少年達が太一を囲んでいた。
仲間達にもみくちゃにされていた太一は顔を上げて、誰かを捜すように視線をめぐらせた。
甘いものが心を過ぎていくのをヤマトは感じた。小さく胸を騒がせたそれはホイッスルが鳴ると消えてしまったが、いつまでもあたたかかった。
意識もしない心が囁いていた。太一は自分を探していたのだと。
※
懐かしい夢だった。寝返りを一つして、ヤマトは微笑した。
そっと起き上がり、キッチンで水を飲んで、ベッドに戻ると、空が薄く目を開けていた。
「どうかした?」
「いや……」
空にほほえんで、気にするなというように頬に触れると、空は少し唇をほころばせて、また眠ってしまった。
ベッドに入って目を閉じてみたが、眠気はどこかへ消えてしまったようだ。空を起こさないようにして、寝室を出ると、煙草と灰皿を持って、ベランダへ出た。
ライターから薫ったオイルの匂いが、夜風に流れ、煙も同じくさらわれていく。明るい街並みを見下ろしながら、煙草を薫らせた。少し冷えるが、寒くはない。
同じ男として、太一をライバル視しなかったと言えば、嘘になる。太一の方が、自分よりははるかに上だ。人間的にも、そして社会的にも。
スタジオミュージシャンといえば、なにか華やかな職業だと思われるが、そんなことはない。運と人脈、そして確かな実力が大切な世界の仕事だ。成功しているとは思わないが、それで食べていけることの幸運は噛みしめている。
ワールドカップへの出場経験も持つ太一と張り合うつもりなら、世界的な舞台で活動し、それを認められなければならないだろう。例えばアメリカにでも渡り、グラミー賞の一つでも取ってみる。安っぽすぎるたとえとその途方もなさに、ヤマトは肩を揺らして一人、笑った。
勝ち負けで考えるのもおかしな話だが、要するに、勝負にもならないということだ。自分の才能の限界はとっくに見つけ、受け入れていた。
こうして生活の糧としては、やっていける。けれど、上を見上げればきりはなく、見下ろすことが出来ていても、それに意味はない。
自分は太一に嫉妬しているのだろうか。よい形で表に現れるそれではなく、心で渦巻く、ただのどす黒い嫉妬なのだろうか。出逢った頃も、共に時を過ごしていた頃も、そう考えたことがある。
今は違うが、空が頼っていたのは、太一だった。その彼女が自分を選んだとき、太一に対してかすかな優越感を覚えたことは否定しない。すぐ側で輝いていた太一だったから、ヤマトの影の部分は、そんな歪んだ反応をみせた。
余程物思いに耽っていたのか、火が指先を焦がした。あちっと声を上げて、ヤマトは煙草をベランダに落とした。
「何やってんだか」
一人ごちて、ヤマトは短くなった煙草を拾った。ベランダを汚したのがばれたら、空に怒られる。しゃがみ込んで、煙草を拾う自分がおかしくなって、ヤマトは微笑した。
灰皿をリビングのテーブルに置くと、ヤマトは寝室に戻った。ヤマトの側だけ、シーツは冷たかったが気にはならない。
天井を見上げて、ぼんやりしている内に、あることを思い出した。
(友情……)
それが自分の紋章だった。空は愛情。太一は勇気だった。
二人にはこれほどふさわしい言葉もあるまい。自分はどうだったのだろうと今更ながらに思いつつ、ヤマトも眠った。
「い、石田さん!」
裏返った声に、ヤマトはピックを落としかけた。ドラムの音が止み、部屋にいた全員が駆け込んできた渋谷に視線を浴びせかける。
興奮しやすい渋谷だが、今日はとくに騒がしい。買い出しに行っていたため、手に持った袋を揺らし、渋谷はドアの向こうを指さした。
「お客さんです」
「客?」
「八神選手ですよ!」
渋谷からヤマトに視線が移る。ヤマトはとまどいながらも静かにベースを置き、席を立った。
入り口近くのホールのような場所に、太一はいた。ヤマトには背を向けて、外を眺めている。
眩しい日の光に、ヤマトは今日はいい天気なのだと人ごとのように感じた。朝からスタジオに籠もりきりだったので、天気のことなど分からなかった。
ヤマトが声をかける前に、太一はくるりと振り返った。そんな小さな動き一つも軽やかだ。小さなサングラスをずらして、太一は目を細めて見せた。それは、服装に合っているが、顔を隠すためにも使っているのだろう。
「どうしたんだ」
「近くまで来たから、寄ってみたんだよ」
ふっと太一は、ヤマトにはあまり馴染みのない笑みを浮かべた。愛想笑いのようにも見えるが、親しみもある。不思議に思ったが、足音がしたので、ヤマトは太一の笑みの意味を悟った。
何てことはない。スタジオから顔を出したヤマトの知り合い達に太一が笑いかけただけだったのだ。目の前では、初めて見たが、テレビやインタビュー記事に添えられた写真でも、こんな笑みを浮かべていた。営業用の顔なのだろうか。表情を使い分けられるほど、器用な性格になったということかもしれない。
それを寂しく思う前に、太一は目を逸らした。
「忙しいんだな」
太一はサングラスを上げ直すと、微笑した。
「そうでもない」
「邪魔して、悪かったな。帰るよ」
何が目的だったのか言わないまま、太一は身を翻した。
「あ、八神さん!」
若々しい声に呼び止められた太一は振り返った。
「すいません、サインもらえますか」
「渋谷」
たしなめるような声のヤマトの肩を叩いて、太一はうなずいた。
意外なほど気軽にサインに応じてくれた太一に、渋谷は親しみのこもった声をかける。嫌味な馴れ馴れしさがないのは、くったくない性格ゆえなのか。若い渋谷が話しているのを見て、他の男たちも側にやってくる。
誰とでも気さくに人懐こく話す太一は、ヤマトと仲間達とも気があったようだ。しばらくして、帰らなければという太一をほとんどの仲間達が引き留めた。
「のぞいていって下さいよ」
太一は遠慮しようとしたが、ヤマトも笑って、太一を引き留めた。
「何か用があるのか」
「いや……」
「じゃあ、見て行けよ」
少し迷い、太一はそうさせてもらうとうなずいた。
「お前の歌、聴くの久しぶりだ」
太一が懐かしげにつぶやいたのが、印象に残った。
太一も参加させての収録が終わった後は、必然的に飲みに行こうという話になった。太一を誘ったのは、ヤマトではなく別の友人だったが、午後の数時間で、すっかり彼らに溶け込んだ太一も断りはしなかった。
スタジオを出る際、持ってきていた予備のピックが一つ消えていたが気にしないで、ヤマトは皆の後を追った。誰かが間違えてしまったのだろう。よくあることだ。
馴染みの飲み屋で騒いで、楽器を持ち込んだ友人達の演奏に店中の客達が盛り上がった頃、ヤマトはそっと席を立った。
空に遅くなると電話をかけ、席に戻ると、太一と目があった。
「トイレか?」
「いや。家に電話してた」
ああ、と太一は目を逸らし、演歌をロック調にして歌い出した渋谷達を、楽しげな視線で見つめた。
「面白い奴らだな」
「今日は静かな方だ」
一仕事終えた後の打ち上げはとんでもないと太一に言うと、太一は声を上げて笑った。
「見てみたいな」
「じゃあ、来いよ」
後一週間もすれば、今やっている仕事は終わるはずだ。ヤマトの誘いに曖昧にうなずくと、太一はグラスを手に取った。
ヤマトが横顔を見やると、太一の頬は赤い。酔うほどは飲んでいなかったはずだがと、ヤマトは眉を寄せ、まばたきした。
「それ、酒じゃないな」
「お茶」
烏龍茶の入ったグラスを揺すって、太一はつまらなそうに小さく肩をすくめて見せた。
「うるさい奴がいてさ」
結局、店を出るまで、太一は最初に飲んだビール以外はアルコールを取らなかった。料理は口にしていたが、油脂の多い食べ物は口にしていない。
男ばかり、それも若いものが多くなると、自然に油を使う料理の注文が多くなるので、太一はどれも食べなかったことになる。
「腹、減らないのか」
「別に」
馴れきった口調で言うと、太一はまた烏龍茶を飲んだ。
もう一軒行こうという誘いをすまなそうに太一は断った。ヤマトは迷ったが、太一と共に帰ることにした。太一はいいのかというように視線を当てたが、ヤマトは気にしなかった。
二人で歩きながら、ヤマトは酔いの力も借りて、疑問に思っていたことを訊ねてみた。
「そうやって一人で出歩いて、いいのか?」
「いけないのか?」
問い返されて、ヤマトは言葉に詰まった。
「車使えとは言われるけど、俺、歩く方が好きなんだよ」
太一は暑いのか、シャツの袖で頬を拭った。
「へえ」
すれ違う人々の中には、おやというように太一の方を振り返る者もいる。そんな視線を意にも介さず、キャップを被り直しただけで、太一は駅に向かって歩く。
やはり人目を引くのだなと、今日過ごした時間で、すっかり太一を昔のように思っていたヤマトは改めて気が付かされた。何でもない仕草でも、不思議な威厳と魅力が漂っている。それに目を惹かれるのは仕方ない。
太一の方はヤマトの驚きには気づいていないようだった。
「いつも、あんな風に仕事してるのか」
「そうだな。今回は気の合った奴ばかりでやったけど」
よかったなと笑って、太一はキャップを脱ぐと、それを団扇代わりにして、首筋に風を送り込んだ。
何気なく太一を見ていたヤマトだが、太一がくつろげた首筋を見て、一瞬息を呑んだ。あらぬ方向へ目をやって、動揺を隠す。冷やかす気にもなれない。太一の体に刻み込まれた情事の形跡は言葉を失うぐらい鮮やかで生々しかった。
「そういや、この間送ったやつ、届いたか?」
「あ、ああ。ありがとうな。空がすっかりはまったみたいでさ」
太一は軽くうなずいて、黙り込んだ。
「……幸せそうだな」
ややあって、太一は噛みしめるようにつぶやき、小さく息を吐いた。
「太一?」
太一は気にするなとだけ言って、疲れたような横顔を見せた。
太一が今、どんな状態に置かれているか思い出して、ヤマトは小声で聞いた。
「お前は、どうするんだ」
「何が?」
「これからどうする……元のチームに戻るのか」
太一はいきなり笑い出し、髪を掻き上げた。指先からこぼれた髪は思った以上に柔らかそうだ。
「岡と同じこと言うな、お前」
「え?」
「いや、何でもない」
太一は首を振った。店からの明かりと街灯が太一を照らしている。
「太一、聞いていいか?」
続けて発せられたヤマトの問いに、太一は淡い微笑を浮かべた。
「お前、週刊誌とかに垂れ込むなよ」
太一はヤマトに顔を近づけると、ひどく真面目な口調で言った。
「ジョジオ・グランデゴって知ってるか?」
ヤマトが眉を寄せたので、太一は説明してやった。
「クラブのオーナーだよ」
ヤマトはうなずいた。確か、南米どころか世界でも有数の大富豪で、幾つもの事業を展開させている男だ。太一の移籍時に来日したことがあったから覚えている。
「そいつな」
太一は思わせぶりに声をひそめた。
「ああ」
会長の顔を思い浮かべる。南国出身らしく浅黒い肌と白い歯を持つ年輩の男だった。たくわえた口ひげが印象強い。
「俺に惚れてるんだよ」
「おい」
「もう、迫られて迫られて、それで逃げてきたって訳」
「太一」
ヤマトがむっとした声を出すと、太一は堪えきれないように笑い出した。
「くだらない冗談言うな」
「悪い」
真剣に聞いた自分が馬鹿らしい。早足になったヤマトを追いかけて、太一も足を早めた。
「おい」
「なんだよ」
呼ばれたので、少しだけ振り返り、ヤマトは太一に横顔をみせた。
「すぐかっとなるとこ、変わってねえな」
太一が笑う。こいつも変わっていないと、ヤマトは嬉しくなった。
「お前だって、下らないことを言うとこ、変わってないな」
太一に肩をつかまれて、ヤマトも笑いながら、彼を許した。
途中まで道のりは一緒で、電車にも共に乗ったが、太一はヤマトよりも先に電車を降りた。聞いていた太一のマンションの住所からは離れた駅だった。
「じゃあな」
太一はすぐに背を向けて、歩き出した。どこに行くのかと思い、訊きかけたヤマトだったが、太一の肌にあった痕跡を思い出して、口をつぐんだ。
電車が動き出す。
お盛んなことで――親しみのこもった皮肉に唇を歪めようとしたヤマトは、乗り込んできた女性客の香水の強さに体の向きを変えた。駅のホームが遠ざかっている。とっくに階段を降りたはずの太一が足を止め、こちらを振り返っていた。
キャップを外した太一の顔が距離も視界の暗さも越えて、ヤマトの目に映った。
どんな哀しみもかなわない、苦しげな顔だ。太一はヤマトの乗った電車を遠い目で見送っていた。
電車に揺られるヤマトの胸に、太一の言葉が刺さった。
――幸せそうだな。
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