君を待ってる
3



 当事者以外で、最初にそのことを知ったのは太一だった。
 高校を卒業後、すぐにリーグ入りを果たし、プロになった太一だったが、友人からの電話に割く時間くらいはあった。多忙な毎日の中で、久しぶりに聞くヤマトの声はどれだけ嬉しかっただろう。
 思えば、あの頃にはまだ希望があった。空のことを話すヤマトにうち砕かれるばかりの微かな希望だったが、それでも皆無ではなかったはずだ。
 音楽で食べていきたいという夢をゆっくり実現させていったヤマトは少し気恥ずかしげに、最近やっと生活にゆとりが出てきたと言った。空の講師代と合わせれば、二人でやっていくには充分なくらいになりそうだとも。
 意味が掴めず、その時太一は(はあ?)と間抜けな声を出したのだ。
「……そろそろいいかと思ってさ」
 空について話すとき、ヤマトの声はいつも弾む。太一の胸を騒がせ、傷つける甘い響きの声だが、その日は押さえきれない歓喜も込められていた。
「昨日、空に話して……その、結婚しないかって」
「ああ――」
 電話の向こうで太一はゆっくり目を閉じた。成長するにつれて見え始めていた結末が今つきつけられた。決して鋭くはないが、その刃は胸を裂いていく。
 少し笑って、太一は言葉を喉から押し出した。
「それで? 断られたのか?」
「馬鹿にするな。ちゃんと指輪も受け取ってもらえた」
 ヤマトはどんな指輪を買ったのかと太一は想像して、もっと笑いたくなった。どうせすぐに見ることが出来る。二人の絆の証として空の薬指に光るそれはきっと美しいはずだ。
「……親父さん達には話したのか」
「まだだ」
「何でだよ。そういうことは先に親に言うもんだろう。挨拶とかは行ったのか?」
 ヤマトは照れたように続けた。
「いや、それも。……先にお前に知らせたかったんだよ」
 自覚されない残酷さに血を流す前に、太一は早口に言った。
「そうだな。おまえらの仲を取り持ったのは俺だもんな」
「ああ」
 からかい混じりの声に、真剣にうなずいて、ヤマトは続けた。
「感謝してる。お前がいなかったら、あのとき駄目になってた」
「そうか……」
「ありがとう」
 一度の深呼吸ではとても足りそうになかった。二回、深く息を吸い、太一は滲み出した涙が声に出ない内に一気に言った。
「おめでとう――」
 良かったな、ヤマト。それは言えなかった。
 式には顔を見せることを約束して電話を切ると、太一は一人きりのロッカールームで笑った。虚ろに声を響かせると、手にした携帯電話をロッカーに叩きつけ、太一はチームメイトが待つグラウンドへ走った。
 フィールドを駆ける間、漏れてくる叫びを必死でこらえた。
 ヤマト。ヤマト。涙を汗に変えて、声にならない声で叫んだ。
 ――ヤマト。まるでそれ以外、言葉など存在しないようだった。
 一日の練習予定を終えて仲間が引き上げていく。練習を見学していた人々の声が大きくなり、お目当ての選手の名を呼び始めた。
 仲間の後には続かず、太一は一人、ゴールポストの側で立ちつくしていた。汗を袖で拭うキーパーに声をかけられたが、首を振って、その場から動かなかった。呼吸が落ち着くと汗も冷えた。体も冷えた。
 もう許されなくなる。許すわけにはいかない。想いを込めて、口に出すのはこれが最後だ。
 太一は一人、ささやいた。ありったけの愛しさを込めて、今まですべての想いを込めて、短いその言葉を慈しんだ。
「ヤマト」
 最後にした。想いを響かせ彼の名を呼ぶのは、それで最後にした。



 内輪で挙げた式と披露宴は、同窓会の様も呈していた。式だけは親族中心で行われたので、新郎新婦の友人達が顔を合わせたのは披露宴代わりでもある二次会の行われた店でだ。
 ヤマトが友人とよくライブを行っていた店を借り切っての祝いで、太一が訪れた頃には、酔った男たちがステージでめちゃくちゃなアレンジのウェディングソングを演奏していた。
 誰よりも先に自分を見つけてきたヒカリと少し話すと、手に持ったシャンパンの冷たさを感じながら、太一は人だらけの店の奥に行った。
 途中途中で声をかけられる。そのたびに緩みかける心を何度も結び直し、太一は微笑を浮かべ続けた。
「太一さん、お久しぶりです」
「よお、タケル。あいつらは?」
「今、丈さんと話してますよ」
「そうか」
 クラッカーが鳴らされた。騒いでいる大輔とたしなめている京、それに賢。伊織は酒が飲める年だったかなと、太一はふと思った。
「太一さん」
 カウンターにいたミミに弾んだ声で呼び止められた。
「帰ってたのか」
「昨日からです。太一さんは、今?」
「ああ。式も覗きたかったんだけど」
 心にもないことを言って太一は笑った。まだ笑っていられた。
「空さん、綺麗でしたよ。こっちでもドレス、着てくれれば良かったのに」
「……そうか」
 ミミにグラスを進められたが、先に挨拶をしてくると断った。
 奥のテーブルに並んで座っていたヤマトと空は太一の姿を認めて、同時に立ち上がった。
「太一」
「太一」
 声も見事に揃っている。
「なに、ハモってんだよ」
 顔を見合わせたヤマトと空を笑ってから、太一は手にしたシャンパンを押しつけた。それぞれの瓶には、一輪ずつ花が添えてある。シャンパンを買った店の気遣いだった。
「これ、祝い代わり。また改めてなんか贈るから」
「そんな、いいのに」
 空が面映ゆげにほほえんだ。
 それでも一本ずつ受け取り、空とヤマトは嬉しそうに視線を交わし合った。
 瓶を飾る花に添えられた空の指をちらりと見て、太一はテーブルの上のブーケに視線を移した。指輪はつつましいが、どんな宝石にも負けない光があった。花婿の愛と花嫁の幸福が指輪を輝かせている。彼らは結ばれたのだ。
「もう乾杯したんだろ? 後で開けろよ」
 シャンパンの栓をその場で開けようとしているヤマトに太一は言ったが、ヤマトは首を振った。空が用意してくれたグラスにヤマトが瓶を傾ける。注がれたバラ色の液体から、よい薫りが上がった。
 テーブルの上には大きなケーキが乗っていた。ウェディングケーキは空の友人達がプレゼントとして贈ったものと聞いた。色鮮やかなフルーツで飾られたケーキは素人が作ったとは思えないほど美しいデコレーションがなされている。
 すでに半分ほど切られていたが、ケーキの中央にチョコクリームで何が書かれていたか読めた。
 ――結婚、おめでとう。
 ヤマトと空がグラスを持ち、太一に笑いかけた。その場の空気に流され、太一はグラスを手に取ると、ケーキに書かれた文字を目でなぞった。
 その通りにおめでとうと太一は呟いて、空とヤマトのグラスに軽くぶつけた。ガラスが触れ合う音が耳に突き刺さり、いつまでも消えなかった。


 不自然でない程度にヤマトと空の側で飲み、彼らを祝うと、太一はグラスを持って騒がしい店の中を歩いた。
「太一さん」
 ぽんと肩を叩かれて、太一は振り返った。
「大輔」
「こんばんは。元気でした?」
「ああ」
 太一の微笑に大輔は目を細め、手に持っていた皿を差し出した。
「つまみにでもどうぞ」
 手の付けられていない料理が盛られている。
「お前、気が利くな」
 さきほど京や賢にたしなめられながら、悪ふざけしていたとは思えない。
「そうですか?」
 きょとんとした顔だけは昔の面影がのぞく。カウンターに隣り合わせに座って、太一は新しい酒を頼んだ。料理には愛想程度に手を伸ばしただけで酒を胃に流し込む。早く酔ってしまいたかった。
「太一さん、なんか食わないと」
「分かってる」
 そう言われたときだけクラッカーやサンドイッチをつまみ、ビールでもワインでも、とにかく飲んだ。
「――太一さん、俺、ヒカリちゃんに呼ばれたから、ちょっと行ってきます。あんまり飲み過ぎないで下さいよ」
「ああ」
 案じる声に一応うなずいて、太一は疲れたようなため息を吐いた。
 一人きりになったのは五分だけだったが、その間カクテルを二杯飲んだ。まだ酔うにはほど遠い量だ。三杯目を頼んだ直後に声をかけられた。
「横、いいかい?」
 パーティも半ばを過ぎて、さすがに襟元を崩した丈は太一の横に腰掛けた。
「丈」
「ちょっと一休みさせてくれ」
 人柄を慕われて、あちこちで酒を勧められていた丈は赤い頬で笑った。
「明日は二日酔いだ」
 太一は俺もと笑うと、丈の前に皿を押しやった。
「先、越されたな」
「え……ああ、そうだね」
 丈はチーズの載ったクラッカーをつまみ、テーブルで仲睦まじく話す空とヤマトに目をやった。ようやくか、という思いも強かった。仲間内では、いつ二人が正式に夫婦となるかが、話題になっていたときもあったのだ。
 目があったヤマトに笑みかけ、空から眩しげに目を逸らすと丈は太一に視線を戻した。
「太一は? ずいぶんと騒がしかったけど」
 からかうつもりで、先月話題になっていたアナウンサーとのことをほのめかすと太一は眉を上げて見せた。
「あれは嘘だよ。あっちの本命は俺じゃなくて葉島の方」
 太一はあっさりと一大ニュースにもなるような事実を口にすると丈の驚いた顔に満足げにうなずいた。この手の話題には興味のなさそうな丈だったが、ずれた眼鏡を上げるとふうとため息をついた。
「やられたよ」
 太一は楽しげに笑おうとしたが不意に手を震わせた。丈は気づかず、太一が視線を変えたので同じ方向を見た。
 わっと歓声が上がっている。見ればステージにヤマトが引っ張られていた。
 祝福の悪戯をされたのか、クラッカーの紙テープが髪や肩に絡まっている。それを空が払ってやると途端に口笛やからかいの声が飛んだ。
 ステージにいた髪を後ろでくくった男がベースを手渡し、マイクスタンドを譲ってやる。
「やれよ、石田」
 熱気のこもった呼びかけに答えるようにヤマトは微笑して、手早く曲を弾き出した。心得たとばかりにドラムやキーボードが後を追い始める。有名な洋楽を自己流にアレンジしたものらしい。
 賑やかな曲だなと太一に言おうとした丈は辺りを見まわした。
「太一?」
 横にいたはずの太一はグラスだけを置いて、いなくなっていた。


 防音仕様になっている扉を閉めてしまうと、ヤマトの歌声はだいぶ小さくなった。薄暗い廊下に置かれた古いソファに座り、太一は目を覆い、指の間から息を吐いた。
 あと何時間、演じればいいのだろう。いっそ何もかも壊してしまいたいと思うときがある。まっすぐヤマトの側へ行き、愛していると告げるのだ。その瞬間、時が止まってしまえばいい。
 答えが欲しいわけではなかった。求めても得られないと悟ったとき、想いは行き場を失い、身の内で猛り狂うだけになったのだ。それは、すさまじい勢いで暴れ狂う日もある。かと思えば、忘れられるのではと期待が持てるほど静かな日もある。ただ、どんなときもヤマトの名を呼んだ。その名を呼べば、心は静まり、ときにはもっと激しくなるが、それで良かった。本心からヤマトを忘れたいと願った日などないのだろうから。
 もっともヤマトを呼ぶことは、それも特別な想いを込めて呼ぶことは、あの日で終わりにした。これからは一人の時も彼の名を口にすることはない。
「お兄ちゃん……」
 目の前が暗くなった。光を遮った妹に太一は微笑する。
「ヒカリ」
 髪を伸ばし始めてどれくらいなのか。明かりの少ない廊下に立つヒカリは太一よりもずっと歳を取っていたように見えた。
「大丈夫?」
「ああ」
 ヒカリの目は心からの心配と親愛の情で満たされている。応えるようにうなずきかけ、太一は立ち上がった。
 たまにこの妹だけは何もかも知っているのだろうと考えることがある。自分よりは数段鋭い勘と、もっと神秘的な力を持っていたから、成長した今でも分かるのだろう。あとは肉親の絆だ。彼女はこの世にたった一人の大切な妹だった。
「お前も、変なやつに絡まれないようにしとけよ」
「平気。――ねえ、お兄ちゃん」
 ヒカリの目が廊下の薄青い照明を受けて、不可思議な光を浮かべた。
 生まれたときからただの一度も彼女に見下ろされたことはないが、今この時、太一は自分がヒカリよりももっと子供になった気がした。きっとヒカリは彼女が知る以上の何かを無意識のうちに悟っている。
「私、ずっと――」
 ヤマトの名が出る気配を感じた。太一は目を閉じ、心を決めるとヒカリの肩に手を置いた。瞳と瞳を合わせる。
「ずっと俺の味方だよな」
 はっと唇を震わせ、ヒカリは太一を見上げた。二十歳を過ぎても兄の心には逆らえなかった。彼が決めたのならそれに従うしかない。
「うん」
 太一を包もうとしていたヒカリの影はすでになく、ヒカリこそが太一の前で子供のようにうなずいていた。


 話しかけてくる人々には愛想良く受け答えをしていたので、その夜太一がどれほど飲んだのか誰も知らなかった。写真も撮られたようだったが構いはしなかった。写真はいい。心が出るわけではないのだ。
 いつの間にか、周りの話し声やざわめき、音楽が遠くなり、近くなり、また遠くなった。 おかしいなと思ったが、酩酊した頭では自分が酔ったせいだとも分からない。
 途中で、誰かがよく知っている男の名を呼んだ気がした。
 彼を知っている。一つ年下の後輩で、律儀な男だった。誰だったかと記憶を探りながら、太一はゆっくりとカウンターに顔を伏せた。
 眠りの淵に足をかけていると、優しく揺すられ、名をささやかれた。
 久しぶりという挨拶を聞くのは今日何度目だったのだろう。思いがけず、熱っぽい言い方で逢いたかったと言われ、太一は揺らめく意識の中で、俺も逢いたかったと答えた。
 ――逢いたい。いつもそうだ。誰かに逢いたいと願っている。それは色素の薄い髪を持った人だ。歳のくせに感情的になりやすい彼だ。目の色も声も表情も何もかもが好きな男だ。
 酒が胸の痛みを和らげていたので太一は幸福な思いに満たされ、笑みを浮かべた。
「太一さん?」
「ああ」
 夢だけが苦しくない世界だ。太一はほほえみながら、光子郎の腕の中へ崩れていった。


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