君を待ってる
2



 石田家の冷蔵庫のあらかたを食べ尽くしていったわびのつもりか、数日後、太一から珍しい酒と食べ物が届いた。
 どれも南米の太一がしばらく住んでいた国の物らしく、手に入れようと思っても気軽には出来ないものばかりだ。料理方法の書いてある本も一緒だったのは、太一にしてはめずらしい気の使い方だった。
 休みにでも、空と二人で、キッチンに立って、調理することにしよう。ヤマトは長い文字のラベルが貼られた酒瓶を箱に戻した。
「これは料理を作って、太一を呼べってことかもな」
「まさか」
 ふざけたヤマトに答えるようにして、空は笑った。手は止まらず、油の温度を確かめると、衣をつけた鶏肉を沈ませる。衣が上がる香ばしい匂いと音が、大きくなった。
「あいつが来るたびに、うちの冷蔵庫を空にして、その後は必ず材料を送ってきたらどうする?」
「私たちブラジル料理が上手くなるでしょうね」
 空と笑い合い、ヤマトは包丁を出した。シンクのかごに盛ってあった野菜を切り始める。あと十分もしない内に、夕食の支度はできあがるだろう。太一からもらった酒の一本を開けて、飲んでもいいかもしれない。
 いつもは何も思わない日常のひとときが、なぜか貴重に思えて、ヤマトはことさら空に優しく笑いかけた。


 
 ――オートロックをくぐるのは簡単だ。それらしい振りをして、ここの住人の後に続けばいい。だが、そんなことをしなくとも、石田夫妻は自分を迎えてくれるだろう。先日教えてもらったヤマトの携帯電話にかけても、彼らの自宅にかけても、二人は驚きながら、来いよ、いらっしゃいとそれぞれ言ってくれるはずだ。
 ポケットから取り出した携帯電話の電源を入れようとして、太一は首を振った。幸福と苦痛とが混じり合うあの時間を過ごしたいとは思わなかった。
 背をかがめるようにして、歩き出す。途中で振り返って、灯りの洩れる一室を見つめた。
 あの部屋に、ヤマトと空が居る。夕食をともにしているか、それとも早めにすませて、二人で夜をゆっくり過ごしているのか。
 街灯の下をしばらく歩いて、太一は唇を噛んだ。こんな惨めな気分を味わったのは久しぶりだ。
 最初はいつだっただろう。それがどれだけ、自分を痛めつけるかを承知で、太一は追憶にひたった。
 あの二人が寄り添うようになったとき。幼い恋は未来への愛も予感させていた。次は一度、ヤマトと空が別れを迎えかけ、ヤマトが自分の前で涙をこぼしたとき。かすかな希望を抱き、それを押し殺した。空の隣にいるときのヤマトの笑顔を、ヤマトの隣にいるときの空の笑顔を知っていたから、苦しくはあっても難しくはなかった。
 そして結婚するのだと誇らしげに告げられたとき。どのときも、惨めさと共に、よかったなと祝福し、大丈夫だと慰め、おめでとうと笑った。
 そして、俺はばかだと、そのたびに思うのだ。
 胸をつかみ、太一は顔を歪めた。打ち明けることもできない想いなど捨てるべきなのだ。今からでもいい。遅くは無い。何度、こんなことを考えただろう。そのたびに忘れてしまう。
 以前の諦めを忘れ、太一は苦しげに闇に向かって微笑すると、その日初めて、切りっぱなしの携帯電話の電源を入れた。


 久しぶりだなと告げる男の声は、何も変わっておらず、言葉もなしに体に触れてくるのも、変わっていなかった。四年分の会話は、すべて愛撫の合間に交わし、最初に体を繋げた後、ようやく男は太一に笑いかけた。
「変わってないな」
「お前も」
 体を重ねる前とは違って、一度欲望を満たしてしまうと、男は少し優しくなる。愛撫も言葉遣いも、繊細になって、太一はふたたび煽られるのを体でだけ、楽しんだ。
 男の体とその指先がもたらす快楽は、誰にも負けない。えぐられるように再度貫かれて、太一はやっと甘い声を漏らした。
「気分、出てきた?」
 耳元を舌先でなぶられながら、太一はうなずいた。
「ああ……」
 喘ぎで返事を返すと、男に体を揺さぶられる。下半身が熱くなり、体中に熱が広がっていく。自分から腰を浮かせ、男の動きに合わせて、体を揺らした。しがみつくと、男の髪が頬をくすぐった。
 ああ、髪型も変わっていないと思う。彼と同じほどの髪の長さに、余計に高ぶり、太一は声を上げて、解放をねだった。その通りにされないと、自らの動きを激しくする。いつの間にか目を閉じて、ただ体の中にある熱だけを感じていた。
 汗の匂い、男の体臭、吐息。肌を探る手、舌、唇。誰に置き換えているのだろう。
 二度目の頂点が終わると、太一は少し手荒い仕草で男を押しやった。
 汚れた体をベッドサイドに置いたティッシュで拭う。男の体臭だけでなく体液の匂いまでもが体にこびりついた気がした。
 男はコンドームを包みもせず屑籠に放ると、ふたたび太一を引き寄せようとした。
「今日はもういい」
 太一が手を払うと、男は少し下卑た笑いを浮かべた。彼に似た顔が醜く歪んで、心を映し出した。
「まだ、溜まってるくせに」
「うるさい」
 昔の従順だった太一を知っているせいか、男の手は大胆だった。暴れる太一に興奮でもしたのだろう、男の手は容赦ない。舌先がまだ敏感な部分に触れてきて、太一はのけぞった。
 思わず息がこぼれる。
「な、まだやれるだろ」
 二回も続けざまに満たしてやったというのに、すぐに反応した太一のそこを口に含んで、男は舐め上げた。指が滑り込んで、まだ熱い奥を探る。同時に刺激されて、太一は体を震わせた。
 男が息を荒げて、のしかかってくる。熱すぎる肉を押し当てられる前、流されそうな意識の片隅で、太一はつぶやいた。
「あれ付けろ」
「分かってる」
 口だけでつぶやいて、男は太一に押し入ってきた。今までとは違う感触に、太一は拒否する余裕もなく、低く呻いた。男の方も掠れた声で、すごいなと囁き、深く犯してくる。
 乱れきったシーツがずれても男は太一を離さず、太一の声が出なくなるまで体を繋げ続けた。


 チャイムの連打に太一が目を覚ますと、男はもういなかった。入るのは難しい部屋だが、出るのはそうでもない。
 薄暗い部屋に汗と、もっと淫らな匂いがこもっている。丸めたティッシュが散乱した屑籠を睨み、太一は脱ぎっぱなしの衣服を取ろうとして、眉を思い切りしかめた。
 体中が痛いが、それ以上に汚れすぎている。体液と汗が混じって、べたついているし、性の匂いも強かった。
 寝室を出て、受話器の側にあるモニターを付けた。チャイムの押し方で相手は分かっているが、一応確認する。
 難しい、しかめ面をした男の顔が目に入り、太一は体のことも忘れて吹き出した。笑えるうちは、大丈夫だと信じている。
「早いな、岡」
 なるべく普通の声で、エージェントに話しかける。
「もう昼過ぎだ。早く開けろ」
「シャワー、浴びてからな。俺、今汚いから」
 何を悟ったのか、岡の顔が厳しいものになった。
「太一、またか」
「二十分くらい、時間つぶししてろ」
 答えないで、インターホンを切ると、太一は浴室に向かった。熱い湯で体中を洗う。腰の気怠さも流すことが出来たらいいのだが、無理だった。今日の筋力トレーニングは休むことになるだろう。
 帰国してから真面目にトレーニングを行っていないので、コーチを務める仁山も怒っている。メディアがうるさいからといっても、専用のジムを借り切っているので邪魔は入らない。適当な言い訳をしてさぼることが、どの程度まで通じるかは考えていなかった。一応、謝りの電話を入れておこうと決め、太一は頭を振った。
 足下を湯が流れていく。あの中に二人分の体液と唾液と汗が混じっているのだ。それが妙におかしく、少し笑った後で、太一はすさまじい嫌悪感に襲われた。
 スポンジに泡を含ませ、全身を、局部もその奥も乱暴に洗った。流しても、流しても、取れない気がする。それは自分に染みついた汚れそのものなのだろうか。
 肌が赤くなるまで、そして泡で滑った自分の指先で、肌を傷つけるまで、太一は体を洗った。体中が石鹸と湯の匂いに包まれ、それでも汚れているという思いに悩まされる。
 バスローブを羽織って、頭を拭きながら、ペットボトルを取り上げた。最近は少し暴飲暴食が過ぎた。ジムに行かない罪悪感もあったので、口にしたのはただの水だ。これから岡と会うのに、酒の匂いを漂わせるのもまずい。
 二十分を十秒ほど過ぎると、ふたたびチャイムが鳴った。今度は一階にあるロビーの扉を開けてやり、部屋の扉も開けておいた。
 ソファに座って、入ってきた岡におはようと挨拶すると、返事よりも先に鋭い視線が飛んできた。
「……怒るなって」
 視線はゆるめず、岡は手に提げていた袋を差し出した。
「なんだ?」
「新しい携帯だ。よっぽどの奴以外、番号は教えるなよ」
「分かってる」
 今、使用している携帯電話の番号を、時折、会っていた女に教えて欲しいとせがまれ、応えてやったのが、裏目に出た。どうやら、お喋り好き、噂好きの彼女の新しい男はどこかの雑誌記者だったらしく、そこを皮切りに、番号が一般にも知られてしまい、電話は一日中鳴りっぱなしだ。
 うるさいので、電源は切ってあるが、それではあまりにも不便だと岡は数日の内に新しい携帯電話を手に入れてきていた。
 番号漏れの件は自分に責任があるので、文句も言わず、太一は新しい電話を受け取った。
 岡は太一の格好を観察すると、ため息をついた。
「ここにも、出来たら俺や仁山さん達以外は入れないでくれ」
「そうだな」
 適当にうなずいて、太一はキッチンに立とうとした。
「朝飯、まだなのか、太一」
「ああ」
「買ってきたから、食べろ」
 出来合いではない総菜をテーブルに置くと、岡は自分でお茶を入れに立った。どこかで調理させてきたらしい。この万事に手回しの良い彼は、父親の知り合いの息子だった。紹介してもらって数年になる。その間の金絡みのことは、すべて任せてあるが、信頼を裏切られたことはなかった。
「――なあ、どうするんだ」
 行儀悪く椅子の上で胡座かいて、食事する太一に、岡は困ったように訊ねた。
「あちらからも帰ってきてくれって、連絡が入っている」
「ジョジオのじじいからか」
 世界でも名門として知られるクラブを持つ男の名を、うっとうしそうに口にすると、太一は野菜炒めを食べるのを止めた。
「いや、監督からだ。……会長からも電話はあった」
「へえ、なんて」
 箸をテーブルに投げ出し、太一は唇を歪めた。
「帰ってきて欲しいそうだ。ギャラも、契約金も、こちらのいいように計らうと言っていた」
「締まり屋の社長が怒るぜ。いつまでジャッパの尻を追っかけてるって」
 岡ははっきりと不機嫌そうな顔を作って見せた。
「会長の指向は考えるな」
「分かってるよ」
 岡に面と向かっては逆らわず、太一は少し考えさせてくれと呟いた。
 岡はヨーロッパを始めとする幾つかのサッカークラブの名も出して、そこからの誘いもあると言った。
「こんな選択肢もある。焦らせたくないが、答えが出たら早い内に教えてくれ」
「そうだな」
 気のない返事を返すと、太一はグラスに手をのばした。このミネラルウォーターは硬い味がする。
「あまりふらふら出歩くなよ」
「ああ」
 ぼんやりしている太一に、岡はため息混じりの言葉をかける。
「昼からでもいいからジムに行け。仁山さんには連絡してある」
「岡」
 太一は肘をつくと、ゆっくり目を逸らした。
「日本に戻りたい、って言ったらどうする」
 岡は目を細めただけで、四年前のことは何も言わなかった。
「どこに行きたいんだ」
 冷静な問いに太一の方が口ごもる。
「まあ、決まったら教えてくれ」
 岡は立ち上がり、もう一度細々した注意を与えると、最後に、やっと笑みを浮かべ、出ていった。
 心配してくれているのは分かっている。文句も言わず、わがままな希望を叶えるべき、日夜働いてくれる彼の苦労を思い、太一は罪悪感を感じた。
 もう日本にいたくないと、襟首をつかんで、叫んだ言葉に、岡はすぐに応えてくれた。日本にいたいといえば、それに応えるべく、手を尽くしてくれるだろう。
 甘えでなく、それが太一の能力を一番引き出すすべだからだ。それに海外に渡った方が、確実に醜聞は減る。さすがにあの国まで、追いかけてくるほどの熱烈な相手もいなかった。かわりに思い切り羽目を外したが、成績に影響しなければ注意はすべて受け流しても構わない。素行の悪さは試合の結果で消してきた。
 素肌にバスローブを着たきりだったので、寒くなってきた。太一は日の当たるリビングの方へと移動し、ソファに腰掛け、手で顔を覆った。
 嘘ばかりついている。日本にいたくないなどと思ったことは一度もない。いつ、どんなときも、ここにいたいと思い続けた。ここに、ヤマトの側に。
 同じくらいの激しさで同時に思う。空の隣にいるヤマトを見つめることなど耐えられない。
 なぜ、こんなに執着してしまったのか。同性の友人に、他人の夫に対しての想いなど、消す方がよいはずだった。
 身の内にくすぶる想いへの疑問と煩悶は、何千回目だったのだろう。捨てるべきだと悟りつつ、彼を求めてやまない。
 太一は左胸を掴み、力をこめた。バスローブがよれて、肌に爪が喰い込む。その痛みで、心が静まるのだと信じ込んだように、太一の爪は肌を滑り、五本の赤い筋を作った。


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