君を待ってる
35



 打ちつける雨が体を冷やしてくれた。
 ここからは一人だった。眠さとだるさに引きずられる体を前へと進めていく。髪から滴る水を何度も飲み込み、たまに壁に手を置いて休んだ。力が少し戻ると、また歩き出した。
 激しい雨の中、傘も差さずにいると、奇異の目を向けてくる者も多い。うつむき、足を地面に擦るようにして、暗い空の下を行った。
 あの声を聞いた日から、幾日経ているのだろう。それどころか、あの声を本当に耳にしたのだろうか。疑いは痺れとなって手足を止めようとしている。うずくまり、地面に倒れたら本当に楽なはずだった。
 一歩毎にだるさが増す足で濡れた路面を踏みしめていく。筋肉がきしむ音が聞こえた気がした。肉体の衰えと薬、いまだに心を巡る迷いのせいだ。
 いいのだろうかと心で訊ねた。許されるのだろうかと思った。このまま進むべきなのかと自問もした。すべての答えは否で、それでも太一は歩いた。
 贖罪も後悔も、何もかもは彼に会ってからだ。ヤマトに会えなくても彼を捜す。必ず、見つけてみせる。その先に待つものも見つめてみせる。恨みでも、憎しみでも、もうどんな心でもいい。たとえヤマトからぶつけられたとしても構わなかった。ヤマトと憎み会う日が来ても、すべてを変えさせた相手を恨んで、傷つけ合うだけの日々で終わっても、それで良かった。
 自分以外の誰をも、ねじ伏せ、薙ぎ倒してきた思いだ。最後は自分にぶつけて終わろう。この心のままに歩いていこう。誰にも邪魔させない。
 冷えた体からは傷の痛みも消えていた。壁や植木、電柱に触れる手は泥や埃で汚れていた。ズボンの裾には派手に泥と水が跳ねている。水を吸った靴が足を動かすたびに、大きな音を立てた。
 濡れた唇で囁いた。
「ヤマト」
 頬の上を水が滑っていった。ブロック塀を掴む手に力をこめ、太一は曲がっていた背中を出来る限り伸ばした。嵐によく似た雨の中を見据えた。
 光が丘はまだ遠かった。だが、辿り着いてみせる。



 勢いを増すばかりの雨が、いつから降り出したのか思い出せない。ただ立っていた。通り過ぎていく人々に目を凝らす。遠い足音も息づかいも聞き逃さないようにして、立ちつくす。眼や耳の中に雫が流れ込んで、ヤマトはほんの少し、首を動かした。体中が強張っていた。足の筋肉が骨にへばりついてしまったようだ。肩の重さは頭痛も生じさせる。右手で左肩を掴み、肩をほぐそうとした。
 体を動かすと雫が垂れる。前髪から落ちた雫が足下に出来た水たまりに吸い込まれていった。
 言葉を紡ごうとした。周りには誰もいない。笑っても、泣いても、誰も目に留めないだろう。濡れた唇が震えると、滴った水が口の中へ入り込んできた。水は生ぬるく、水道水とは違う臭みがあった。乾ききった喉にはそれで充分だった。乾きと共に喉に張りついた声は、今なら出るだろう。
 太一の名を呟こうとしたが、その後の重みに耐えられないと知り、ヤマトは唇を閉じた。たった一言でも響きをよみがえらせば、この場で倒れてしまいそうだった。
 名が持つ呪縛にヤマトは黙り、視線だけを周囲にやった。豪雨の中にいては誰も見えない。視界は塞がれているようなものだった。
 ヤマトはうなだれた。水が顎と鼻先からしたたり落ち、靴の上で弾けた。
 彼女の視線に感じた痛みがどんな種類のものか、判別できなかった。とうにすてた望みを自身で哀れむときに生じる痛みとでも言うのだろうか。
 彼女への思いを何と名付けるのか、彼女をどう呼ぶのか、答えが欲しかった。そうすれば、太一が自分の心のどこに位置しているか分かるような気がした。
 迎えには行けない。手を差し伸べることも許されない。思いは捨てることが出来ず、消しようもなく、ここにある。途方もない場所までやって来ていた。
 世界に存在するのが太一だけという、この事実をどうすればいいのか持てあましていた。押し潰されそうだった。
 太一に壊されているのに、太一を求めている。思いは肉欲に近かった。太一に近づいたのはまだ知らぬ体への憧れだったのかもしれない。
 太一がどれだけ熱く、激しく反応したかをはっきり覚えている。どんな声で呼ばれたか、どんな視線で見つめられたか。――自分を後押したのは欲望なのだった。
 太一が来るのかは分からない。声を聴いてくれたのかも分からない。たとえ、やって来たとしても、太一のことなど何も知らないのだ。許されないと知るから、欲しているばかりだろう。
 きっと、いがみ合う。どろどろした感情の中を這いずり回って、二人して終わっていくだけなのかもしれない。体から生まれた心が育むのは愛などではないはずだ。そのような思いとはこれから一生巡り会えない。それで良かった。
 始まったばかりの時間だ。最初はここで太一を待とう。守りきれなかった約束を果たすのだ。
 友人として笑い合ってきた時間は、とうにねじ曲がっている。戻すことが出来ても、それを望まないだろう。自分一人でも、太一と共にでも、どちらでもよい。滅びていこう。
 爪先から震えが広がってきた。頬を寒さに引きつらせて、ヤマトは足をわずかに動かした。靴が隠していた乾いた地面が濡れていく。雨が激しく叩く橋上には、ヤマト以外の誰の姿もなかった。



 目をしばたくたびに、雨粒が散った。少しずつ、薬の効果が薄れてきているようだった。戻ってきた手足の感覚はやがて寒さに麻痺し始め、かじかんだ指先が赤くなっている。
 導くものは何もない。ヤマトの名だけが頼りだった。声とともに口に流れてきた水を飲み込み、太一は彼の名がもたらす響きに目を閉じた。封じていたヤマトの名を何年分、呼んだのだろう。呼吸のように自然に呼べた。
 彼は知っているのだろうか。その名だけで、自分は生きもすれば死にもする。
 たった四文字で表せる言葉が今のすべてだと知った。
 あいたい。あいたかった。それだけなのだ。体の芯を貫いていく思いに息苦しくなった。目を閉じ、涙の気配が遠ざかるのを待った。
 頬を滑る雨粒が消え、体中のどこにも涙がなくなると、瞼を開く。額からこぼれた、汗か雨か分からない水滴が足下の水たまりに落ちていった。
 自分がいる世界の確かさに目がくらみそうになる。時間が感じられなかった。見えるすべてが灰色がかり、ぼやけていた。視界を邪魔する前髪を払い、雫を飛ばす。唇を開く時間も惜しかった。
 ライトを点けた車が水を跳ねながら、通り過ぎた。泥水が宙に舞い、地面に沈んだ後、太一は深呼吸して歩き出した。
 歩くことだけに意識を向け、丸くなりそうな背を伸ばし、手を汚しながら道を進んだ。目と額を擦ったとき、敷石の並びに気づいた。滴る雨から目をかばうため、繰り返していたまばたきを止めた。
 いつ着いたのだろう。
 二十年以上も昔、この敷石の敷かれた路面を走っていった。夜の闇に建物はそびえ立ち、電灯が空を切り裂くように並んでいた。妹を捜していたのだ。この世界で最初に見つけた守るべき存在の妹を。
 思い出に囚われないようにして、太一は途切れる記憶の糸をたぐり寄せた。行かなければならないのは一つの橋だった。彼も知っている。自分も知っている。ならば大丈夫だ。
 植え込みの緑が目に染みた。時間が流れた分、建物は古びていた。
まっすぐに伸びた道を見つめる。視界が開けていた。雨の勢いは弱まっていた。
 見渡せなかった先が見える。向こう岸ではなく、その狭間に彼はいた。――守りきれるかも分からない。彼を道連れにどこまで行くのだろう。
 近づいた堅牢な陸橋を見上げた。今からは二度とはない時間だ。
 柔らかくなった雨の音を耳の底で聞きながら、太一は階段を上がった。段を上がるたびに、陸橋を見つけたときに湧き出てきた何か言わなければという思いが消えていった。口にしなくてはならないはずの言葉は幾つもあったはずだった。
 滑り止めのわずかな段差に靴底が滑り、音が鳴る。階段を登り終わると、言葉はどこにも見当たらなかった。
 ヤマトを見つめながら、太一は長い一歩を踏み出した。



 この雨の勢いでは立ち始めた日から、ちょくちょくやって来る巡査も姿を見せないだろう。ポケットに入っている身分証明書は今日は使わずにいられそうだった。
 時間は確かめなかった。夜の暗さと昼の明るさが必要な時間を教えてくれる。次の夜明けが来ればここを離れよう。太一を追うために。彼を待つために。
 必要最低限の用を済ます時以外、ここを離れられなかった。一瞬でも逃してしまえば、ふたたび時が交わる可能性は皆無になる。だが、今日が終われば橋を降りて、歩き出そう。過ごせなかった日数分の三日間は、もうすぐ終わる。
 彼が光子郎と向かうと思われる南の国へ、どんな手段を講じても向かうつもりだった。
 太一は七日間だけで終わらせようとしていた。太一の手が握ったのは光子郎のそれだったのかもしれない。
 それでも待つ。永遠だとしても構わなかった。それしか方法を見出せないのなら、選ぶまでだ。
 ここまで来てしまった。願ったのは自分だ。これからの選択すべてには太一の影が落ちてくる。どんな自分にも太一が混じり、消えることがない。彼が自分に何を刻み、与えていったか、いつか知る日は来るのだろうか。
 掴めない時間は見えない姿に重なり、意識が徐々にとぎすまされていく。今なら、太一がまばたきする音ですら聞こえそうだった。
 雨が体に降りかかる。道路を行く車が水を跳ね、路面をタイヤが擦って、音は消える。風が揺らす枝葉の擦れ合い。雨と風が生み出す音に耳を澄ませ、ヤマトは目を閉じた。
 瞼に溜まっていた疲れが眼球に流れてくるようだった。閉じた瞳の向こうで、赤や緑の光がちらつく。このまま目を閉じ続けていれば、間違いなく眠りを求めて体はその場に沈むだろう。
 目を開くと、周囲の景色が回転しているようだった。強張った手で手すりを掴み、傾いだ体を支える。
 体の上を流れる雨の量がいつの間にか少なくなっていた。優しくなった雨の音に紛れた響きを、ヤマトは耳だけでなく、全身で受け止めた。
 音が聞こえたのではなく、見えた。足を引きずり、息を荒げ、徐々に音は大きくなる。水を跳ね、地を蹴って、近づいてくる。降りかかる雨は体の上で更に細かく砕けて、太一を霞ませていた。
 こんな思いは二度と抱けない。ヤマトは太一を見つめていた。瞳一杯に彼の姿を映すと、まばたきした。そして、この時を永久に心に残すように自らに命じた。



 ――重なった一瞬だった。
 ヤマトはまばたきして、固まっていた瞳を動かした。太一は足を動かし、水たまりを跳ねながら、右手を手すりに伸ばした。
 雨はまだ止んでいなかった。濡れた手が、濡れた鉄の手すりを掴み、滑った。
 風の強さによって変わる小雨に太一はまばたきした。銀の雨の向こうにヤマトがいる。靄のようにかすんで、ぼやけていても、ヤマトはいた。
 ヤマトも手を伸ばして、手すりに掴まった。体を支えると、首をかしげるようにして太一を見つめた。頬は青ざめ、傷を負い、薄暗い空の下で幽鬼のような姿をしている。消えそうに微かな気配は、しかし間違いなく太一のそれだった。 
 視線は動かさず、唇だけを太一は動かし、ヤマトはその声を聴いた。
「待ったか」
「少し」
 過ぎた時間を思わせるかすれた声に、どちらも瞳を交わした。
 ヤマトは太一の額と頬に張り付いた髪とそこから垂れる雫を見つめ、太一はヤマトの青白く、同時に冷えたためか赤さも見せる頬を見つめた。
「濡れたな」
 太一は笑いに似た形で唇を震わせた。
 ヤマトも唇を引きつらせた。
「ああ、本当だ」
 太一は左手でも手すりを掴み、水を払うように顔を上げた。太一が飛ばした水滴を目に受け、まばたきするとヤマトは手すりに寄りかかった。
 ビルの間に霞む遠い空が見える。そこでは、とうに雨は上がっているのか、雲の間から差し込んだ光で地上と天が繋がれていた。
 陽光が投げかけられる彼方だった。そして、鉄橋は絹糸のように細い雨に包まれている。
 戻ってくる街の気配にも動かなかった。ここが生ある内の最後の休息場所だと、すでに知っている。戻れない橋を渡るまで、あとわずか。雨はもうすぐ止むだろう。
 ヤマトも太一も呼吸だけ続け、ふたたび時間が動き出すその瞬間だけを待っていた。


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