すべてをやり直せる位置まで戻れたとしたら、罪を繰り返すだろうか。ヤマトに思いを抱かずに生きられるだろうか。光子郎を愛するだろうか。空を想うだろうか。
問いかけへの答えは見つからなかった。
一人で生きることも出来たはずだった。それが一番、醜くくも純粋な想いの昇華の仕方だった。
いつから生まれたのか。燻っているのはヤマトへの独占欲だった。我がものに、自分一人だけのものにと願った。征服し、支配し、お前は俺のものだと声高く告げることを欲した。想いを終わらせるには執着が深すぎた。まさしく妄執だ。
野蛮な浅ましさを見せた挙げ句の果てが、すがり、甘え、頼ることだった。一人で落ちていくばかりか、幾人もの人々を道連れにしている。それも守りたい、傷つけたくないとしてきた人間ばかりだ。――今や、そんな考えすら傲慢だった。
深い場所へ落ちていく。どこまでも突き抜けていく。まばたきすると、そのたびに記憶の中の人々が見つめてるのが分かった。忘れかけていたような知人から、とても懐かしい人々まで瞳をかすめていった。憎んだ男、哀れみを抱いた彼、飢えた体を鎮めてくれた女、慰めを見出そうとした彼女。誰も責めず、笑いもしていない。彫刻のように彼らの顔は固まっている。
誰よりもくっきりと浮かんできた二人に太一は呼吸が出来なくなった。空の悲哀をたたえる横顔に、光子郎の峻厳な横顔に息を止めた。覆い被さるようにしてヒカリの瞳が太一を包む。
苦しむことで許されるなら、永遠に身を裂かれ続けても構わない。謝ることで彼らの涙を乾かせるなら、喉が裂けるまで囁き続けるだろう。
だが、何も出来なかった。悔いることですら罪に思えた。
声は出ず、涙も流さず、太一は沈んでいった。罪を罪と思うがゆえの重さがそうさせているのかも分からない。太一は眠りから始まった闇に身を浸していった。安息はすぐそこにあった。
最後に見えたのはヤマトだった。
彼の目は遠くを見ていた。何処をとも、誰をとも思わず、太一は唇だけでなく、全身で彼を呼んだ。
呆れるよりも笑いたく、笑うよりも泣きたかった。自分の仕草一つ、行動すべてに彼が刻まれている。こんな体では死ぬことも出来ない。死してもなお、という業の深さに諦めるよりも、受け止めることしか選べなかった。
やって来た道と過ごしてきた時間の重さに太一は瞳を閉じた。浮かんだ疑問は、一つだけだった。
――どこへ行くのだろう。
※
どこへ行くのだろう。幾度か疑問を浮かべることを繰り返して、太一は目を開いた。
唇から深い息がこぼれる。何という夢だ。一点の曇りない空に太陽が浮かんでいる。頬のくすぐったさを感じると同時に草の匂いを感じた。夏草の青い生命力の匂いだ。
手や体を草が撫でている。柔らかい青草は太一が身動きするたびに彼を優しく受け止め、強く草の香をはなっていた。
風が草をざわめかせ、誘われるように太一は起き上がった。遠い夢の国にやってきている。どこまでも草に覆われたなだらかな丘の斜面に寝ていたのだった。
それしか色がないほどに青い空と、対照的な濃い緑の草が続く丘。辺りを見まわしても見えるのはこの景色ばかりだ。草の匂いと夏の風に、汗が浮かぶような気がした。
草を一本むしり取り、口にくわえると、太一は何も考えずにふたたび寝そべろうとした。ここは休息の場所かもしれない。
「太一 ――!」
さあっと草が風に吹かれていっせいに傾いた。太一は腰を捻り、振り返った。
「太一」
斜面を下ってくるのは不思議な生き物だ。瞳をきらめかせて、自分に対する思いを体中で表現して、転がるように駆け下りてくる。
「もう、探したよ!」
アグモンが散らした草が宙に舞った。
太一は目を見開き、唇を開いた。息苦しくなる。
早く、アグモンと呼ぶのだ。アグモンはあの丸い目で何と見上げてくるだろう。もしかして瞳に沸き上がる涙に驚くかもしれない。そうしたら何と答えようか。会いたかったと、帰りたかったと伝えようか――。
夢の中の草いきれは、息が詰まるほど強かった。
「ごめんごめん。ここ気持ちよくってさ」
どこからか声がした。その声が自分の口から出たものと知り、太一は喉を押さえようとした。
「みんなで探してたんだよ」
「ちょっとだけのつもりだったんだって」
まるで風が体を通り抜けたようだった。ひょいと起き上がったのは太一だ。そして太一の背中を見送っているのも太一だった。
後ろ頭に見え隠れするゴーグルのバンド、青い上着、お気に入りだったスニーカー。それらが包む成長期に近づいた小学五年生の体。
太一は遠い昔の自分の後を追って、立ち上がった。
「あーあ、怒られるな」
「ヒカリちゃんと空が心配してた。ヤマトとね、光子郎は怒ってたよ。太一のやつはって」
アグモンは太一を見上げて、笑うように話す。
草は意外に長かった。太一の膝近くにまで伸び、アグモンに至っては、体が草に半ば隠されている。
アグモンはもっと大きかったような気がしていた。敵に勝利し、抱き合って喜んだときのアグモンの体の大きさが手に思い出された。
「叱られに戻るか」
太一が足を踏み出す。風に揺れてその髪が思うままに揺れるのを太一は見ていた。
まっすぐな背中、何も知らないというには幼すぎた自分がいた。あの頃、世界は太一のものだった。
アグモンと並んで太一は行ってしまう。草の香りを遠くに感じた。太一の背を風が押す。半歩ほど足を踏み込ませた。
風がより強くなる。背後から吹いた風にアグモンと太一が振り向いた。
自分とアグモンの目に驚きが浮かぶのが分かった。そこにいる異質な存在に驚いたのではなく、なぜ動かないのだという単純な驚き方だ。
「あれ、行かないの?」
アグモンが不思議そうに言った。
太一もうながした。
「早く行こう」
太一はまばたきを繰り返した。
丘の上を自分であるはずの『太一』は指差し、もう一度言った。
「行こう。みんな、待ってる」
幼い自分の指先を辿り、太一は視線を上げた。
空は変わらず眩しかった。光の下に小さな人影が見えた。一つ目の影、二つ目の影、三つ、四つ、五つ、見る間に増えていく。影を数えるたびに彼らの名を呟いた。あの夏の服装が見える。髪型も。今では写真か記憶でしか見られない姿だった。
彼らの声を聞く前に、太一は目の前の自分とアグモンを見つめた。早くと言いたげに彼らもこちらを見ている。
自分は誰なのだろうと、太一は両掌へ視線を落とした。間違いなく、自分の手だった。
この手で、この体で、みなが待っている場所へ行ける。
手をアグモンと己へと伸ばそうとした。
その瞬間、胸を射たのは、決して嬉しさなどではなかった。あちらの世界へ行けば、幸せになれるのだろう。約束された幸福を思う前に唇が勝手に動いた。
――待ってる。
彼は呟いたのだった。太一はそう聞いたのだった
太一は手を下ろし、一歩引いた。
「行けない。ごめん」
ここは今ではなく、いつか至る場所だった。
アグモンと幼い過去の自分を見つめるのを止めるため、太一は目を閉じた。その前に空の色を心に刻み、目を閉じた後に響いた笑い声にそっと微笑した。
太一とアグモンは笑っていた。ならば丘の上の子供たちも笑っているのだろう。夏草が薫る丘で風に吹かれながら、いつまでも、ずっと変わらずに。
彼らの笑顔を思い出し、目に焼き付けて、太一は戻った。闇とも光ともつかない不可思議な輝きに満ちた世界へ。これから生きる場所へ。
※
目覚めの涙はあたたかだった。こめかみの潤いを感じながら、太一は数度、深い呼吸をした。
頭の芯はぼやけている。四肢は痺れたようで、心臓の動きだけが怖いくらいにはっきりしていた。鼓動が胸を食い破って、外へ出そうなほどの勢いだ。
短いまばたきを繰り返して、太一は指先を動かした。冷たいシーツが触れた。皺を伸ばすようにして、手も伸ばす。
瞼を開くのは難しかった。ぼやけた四角い電灯と天井が目に入る。まばたきを思い出して、溜まっていた涙を捨てた。夢よりも瞼は重かった。
はっきりと戻ってきた視界は、部屋に一人きりであることを教えてくれる。呼吸を大きくして、太一は勢いを付けると首を横へ傾けた。横たわっているのに、頭部の重みはひどかった。ずきりとこめかみが痛む。
痛さをばねにして、太一は体も動かした。首が向く方へ、体も向ける。とてつもなく重たい人形の中に入っているようだった。手も足も、体中が言うことをきかなかった。
今度は体をうつ伏せにする。体の重さからくる勢いとベッドのスプリングを利用して、太一はシーツに顔をうずめた。体を横向きにし、うつ伏せに変えるだけの動きだったが、汗がびっしりと額に浮かんでいた。
シーツに染み込んでいく汗が冷たくなる頃、太一はまた体を横にした。今度は休まずに弾むようにして、仰向けになった。ずるりと背中半分が滑る。残りの背中は頼りない空中にあった。シーツを巻き込んで、太一は背中から床に落ちていた。
床は固く冷たかったが、太一はベッドから垂れ下がり、自分の体の下にもあるシーツの一部を見ていた。シーツの汚れとひどい裂け目に、太一は彼を思い、唇を噛んだ。
ドアに目を向けた。きっとドアの向こうにいるだろう。太一がベッドから落ちた音は聞こえていたはずだ。
太一は床を這い、一歩にも満たない距離ごとに息を吐いた。目は閉じなかった。今、閉じれば、また眠ってしまう。眠れば、二度と目覚められないだろう。今は死が安らぎとは思えなかった。
汗が床にこぼれた。それを自分の体で拭き取りながら太一はドアへ向かった。掌に湧いた汗が乾くのを待ち、床を押さえる。膝と足を使い、体を縮め、虫のような動きで這い進んだ。
頭に壁が当たる。頭部をぶつけた痛みは喜びも連れてきた。ドアノブは上だ。
太一は顔を壁に当て、こすりつけながら、体を引き上げようとした。ずるりずるりと衣服のせいで体が滑り落ちる。何度も繰り返し、頬に擦り傷を作りながら、太一は壁で身を支えた。
こしらえた傷口に汗が染みる。痛みが思い出させる記憶に、太一はヤマトの名を囁いた。何度でも言いたい。一生、彼だけに向けて囁きたい。
足を踏ん張り、立ち上がる。膝をつき、体を崩すのを繰り返した。打ち身が青くなる前には立ち上がれた。
荒い息を吐きながら壁に片手を当て、体をもたれかけさせた。鉛に変わった重い手を持ち上げ、ドアノブを握る。
ドアは外に向かって開き、太一は廊下へと倒れ込んだ。
床のきしみが近づいてくる前に手をつき、立ち上がろうとした。大きく、あたたかい掌が肩に触れる。膝をついた光子郎からは、あのベッドと同じ匂いがした。今まで包まれてきた匂いだった。
「立て……る、一人で」
舌が口の中ではりついていた。
千切れた言葉だったが、肩からは光子郎の手が消えた。ベッドから起き上がったときと同じように時間をかけ、汗を流して、太一は壁を支えにして必死に立った。
廊下は薄暗く、底冷えのしていた。不思議な音が響いている。
光子郎は青ざめていた。太一からは少し離れた場所にたたずみ、太一を見つめていた。
太一は視線を返し、口を動かそうとした。囁きは誰にも聞き取れなかった。乾いた唇からは空気を震わせる息だけが漏れた。
名を呼ばれていたのかもしれない。別れを告げられたのかもしれない。そのどちらでもないのかもしれなかった。
光子郎は全身に満ちている哀しみを、眼差しと言葉に宿らせた。それは己のためではなかった。去りゆく太一のためだった。
「――ヤマトさんには帰る場所があります」
太一はかすかに首を動かした。
「知ってる」
血が滲むような声だった。
太一は光子郎の視線を受け止め、手を動かした。壁を頼り、一歩ずつ歩き出す。
足下を探って歩く太一の姿を、光子郎は見ていた。
太一は倒れ込むようにして扉へ向かう。伸びない膝と頼りない足取りが、光子郎にも苦しかった。薬の効果が抜け切るにはまだ早い。手ずから与えた薬とそれを受けた太一の唇を思い出し、光子郎は目を閉じかけたが、太一を見続けた。最後まで見届けるつもりだった。己が為した罪も抱いた思いも、すべて抱えなければならない。
果てしない思いから覚めたとき、太一の背中は揺れて、小さくなっていた。
鍵を開く音がした。檻が解かれていくのだ。そして、自分は閉じこめられる。
「――僕も待ってます」
太一が扉を開けた。暗かった廊下はわずかに明度を増したが、明るさにはほど遠いものだった。
水の匂いを含んだ風が入り込み、太一の髪を乱して、光子郎に絡んできた。
扉を出る瞬間、彼は背を伸ばした。太一の背中は降りかかる雨で霞んで見えた。
外から入っていた光が細くなっていく。扉の閉まる音が消える前、雨の音が遠くなる前に、光子郎はささやいた。
「ずっと……ずっと、あなたを待ってます」
続けようとした太一の名は言葉にならなかった。唇だけがその響きの形を作り、光子郎の体中に刻まれていった。
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