君を待ってる
33



 口づけは眠りのためのそれだった。口に水を含み、太一の唇へと流し込む。頭部を支え、喉が動くのを確かめて、手を離す。
 一日に何度か繰り返される時間だった。
 薬の効果が消え、次の薬を飲ませるまでの間に、太一に食事を取らせ、入浴や排泄をうながした。大きなままごと遊びのような日々だった。いびつな心はこの時間を楽しみ、麻薬のように苦しみと痛みを遅らせてくれた。
 太一は眠り続ける。夢とうつつをさまよって、光子郎の心を映すように、その視線は危うく、ずれていた。
 太一は時々、言葉を発する。眠りの内のくぐもった調子で、光子郎の名を呼び、やめないかと呟く。そしてまた眠るのだった。
 太一に置いて行かれると、光子郎はそのぐったりした体を抱いて、肩に顔を埋めた。涙を流せば楽になれると思うのだが、出てこなかった。
毎夜、あたたかい太一を抱いて眠った。薬の力だけでなく、光子郎の作り出した鎖は確実に太一を縛っている。だが、すがっているのは光子郎だ。乾きに耐えかねて、口づければなおのこと喉が干上がった。抱きしめる先から、太一が崩れていきそうだった。
 濃密な眠りの時間に忍び込んできた岡の声も、光子郎には遠く聞こえた。言葉を選んで話を続けていたはずなのに、気がつけば岡も光子郎も黙っていた。
 何を話していたか思い出せない。光子郎が黙り込んでいると、岡はひび割れた声で言った。
「お前も石田という奴もよく似てる」
 しばらく太一の事は自分にまかせてくれと言った光子郎に、岡は低い声でそう言ったのだ。
「太一もだ。昔からの付き合いっていうのに俺は邪魔なんだな」
 彼の言葉の鋭さは光子郎の否定をはねのけるくらい強かった。
 曖昧な電話での会話を終えると、光子郎は静かに太一の元へ戻った。
 寝室はいつも薄暗い。小さな電灯を点けて、光子郎は太一の横顔を見ていた。
 彼を見つめるたびにこみあげる思いは、いつしか激しさを失い、淡々と流れ行くものになっていた。この黒い流れの中を、たまに光るようにして何かが浮かんでくる。良心かもしれなかった。それとも罪悪感だろうか。名は知らない。この時間を止めるためのひとかけらの心だ。すぐに沈んだそれらは二度と浮上するまいと思われた。
 岡が疑いを持ってやって来るまで続くのか。その前に終わるのか。自分からは終わらせられない。
 床に膝をつき、光子郎は太一の胸に額を押しつけた。太一の胸は上下し、息づかいが光子郎の耳を打つ。鼻先に感じられるのは肌の匂いや衣服の感触だった。
 あたたかさからの寂寥感に襲われて、光子郎は息を震わせた。瞼が痛くなった。出てこない涙を、もっと固まらせたく、光子郎は太一を抱きしめようとした。
「光子郎」
 はっきりした声だった。薬が醒める時間だったかと光子郎は身を起こし、時計を眺めようとした。
 光子郎の動きを止めるように太一は呟いた。
「デジヴァイス、持ってるか」
 光子郎は太一に目を戻した。なぜか全身がすくむ思いだった。
「まだ持ってるか」
 声の調子さえなければ寝言と取っても良かった。太一の様子は目を閉じ、眠っているときと変わりなかった。
「……はい」
 太一の唇が動いた。優しく笑う。それさえあれば大丈夫だというように。
「そうか。よかった」
 薬が見せた幻覚だったのかもしれなかった。光子郎は太一の顔を覗き込み、耳元で名を呼んだ。
「太一さん?」
 寝息が返ってくる。喪失の大きさに気付いて、光子郎は全身を震わせた。
「太一さん」
 孤独を感じ取り、太一の手を掴んだ。あたたかい。そして握り返されることも決してなかった。
 太一の手を握り、光子郎は涙に気づいた。やっと瞳からこぼれた涙は、しかし誰の手も濡らさず、ひそやかに消えていった。



 終わりを告げる音は現実的な電話のベルだった。鳴り響くベルの音に、光子郎は太一の隣に横たえていた体を起こした。
 リビングで電話を取ろうとしたのだが、ベッドサイドにある電話の液晶画面に表示された番号に目を留めた。
 確かめると逡巡を見せず、光子郎は手を伸ばし、受話器を持ち上げた。
「もしもし」
 電話から響いた声に、光子郎の唇が歪んだ笑みを浮かべた。これこそ待ち望んでいた時間だったかもしれない。よみがえった憎しみは行き着く先を見つけ、喜びに震えた。
 太一は愛せばよかった。恋い慕うことがすべてだった。そしてその裏に在るヤマトには太一に向けられない思いを与えればよかった。
「光子郎?」
「ええ。ヤマトさん。お元気ですか?」
 親しみ深い声を光子郎は出した。
 愛想の良い口調に込められた憎悪にヤマトは静かな声で対した。
「元気だ。――それで悪いけど、太一を出してくれないか」
「……太一さんを?」
 光子郎は意外な言葉を聞いた驚きを含ませて、優しく呟いた。
「どうしてでしょう」
「話したいことがあるんだ。あいつ、光子郎の家にいるんだろう?」
「いますよ。ですが――」
 光子郎は言葉を切った。
「いるんだろう?」
 ヤマトは念を押すようにして訊ねた。
 光子郎の声にいっそうの優しさが加わった。
「太一さんは眠ってるんです。僕は起こしたくないのですが」
「寝てる?」
 ヤマトの声に彼を包む外の空気を思った。明るい陽の光だ。影は小さく、緑は眩しく、実に穏やかな午後だろう。
「こんな昼間……」
 ヤマトは一瞬だけ息を止めた。これだけで気付くとはずいぶんと察しがいい。痛め甲斐がないと光子郎はため息をついたが、言葉は続けた。
「太一さんは疲れてるんですよ。――昨日の夜も遅かったものですから」
 どんな感情のこもった声が返ってくるか期待したが、ヤマトの言葉は腹立たしいほど冷静なものだった。
「……忙しいみたいだな。すぐにすませるから替わってくれ」
「起きませんよ。さっきから試してるんですけど、だめみたいです」
「大事な話なんだ。替わってくれ」
 断固としたヤマトの口調に、光子郎は時刻を確かめた。少し、早いだろうか。
「それとも、そっちに行った方がいいか」
 ヤマトの声に苛立ちが混じり出した。
 光子郎は笑った。微笑の気配はヤマトに伝わったらしく、ヤマトは黙った。
 彼が言葉を探し出す前に、光子郎は太一に手をのばした。前髪を梳き、送話の音量を大きくした。
 軽く息を吸って、太一に唇を重ねる。濡れた音がよく響くように深く口づけた。怒気を含んだヤマトの声が聞こえたのを機に電話を太一のすぐ横に置いた。彼の寝息が聞こえるだろう。それから声ももうすぐ聞こえる。
 ヤマトの声を無視して、太一に口づけ続けた。唇が赤く染まる。頬も紅潮して、光子郎が唇を離すと、太一は息を荒げていた。何度も舌で口内を侵しながら手を下ろし、裾を上げて肌をむき出しにした。
 臍から上へ、少しずつ指先を動かしていく。指先で唇よりも薄い赤みを帯びた部分を摘み、ねじ上げる。
 太一の体がかすかに強張った。投げ出されていた手が震えたのが分かる。唇を下へと動かし、乳首を口に含んだ。舌と唇を使って、愛おしむ。
 静かになりかけていた太一の呼吸が弾み出した。肌が汗ばみ、熱くなる。その鼓動が唇に感じられた。脈を早めようと、光子郎は太一の腰を探り、服の中へ指を忍び込ませた。楽なように空気にさらしてやる。
 最初だけ力を込める。太一は息に押されて、小さな声を上げた。太一に触れたことがある者なら、どんな場合にこの切なさが生まれるか知っているはずだ。
「光子郎、止めろ!」
 ヤマトの叫びが受話器を震わせる。声をきっかけのようにして、太一がうっすらと目を開けた。半分閉じた瞳に睫毛が長く見えた。
 瞼に口づけ、指先に強弱を付けながら触れていく。
「あっ……」
 眠りから目を覚ましたように熱くなり出した。太一の眠気を感じさせていた瞳が潤む。言葉を発するように開かれた唇を光子郎は覆った。奥に引き込まれた舌をもてあそび、指で刺激を与え続けていく。太一の体が反るようにして、震えた。
 舌と唇を解放すると、太一はせわしない息を漏らし、光子郎の愛撫に喘いだ。
「太一!」
 太一が瞳をまたたかせた。光子郎の姿に視線がさまよい、ヤマトの声に目が閉じられる。霞がかった瞳は、今の状態を判断出来ないようだった。
「太一、起きてるのか?」
「誰……だ?」
 答えずに、光子郎は太一の耳を唇で挟んだ。耳朶は冷たい。
「太一、俺だ」
 頬を唇で辿る。指先が強弱をつけた淫靡なリズムで太一を煽った。
「いっ、ああっ」
 唇を舌先でなぞり、空気を求めて開かれた太一の唇の中を侵した。絡めた舌は光子郎を溶かしそうになるくらい熱かった。太一の柔らかさに溺れないよう、それでもきりきりと胸を刺してくる恐怖は忘れるくらいに、光子郎は太一に触れ続けた。
 指で湿りを広げると、押すようにして掴み、またそっと握る。愛撫の形が変わるたびに、太一は声と息を漏らした。
「太一、分かるか。俺だ!」
 太一が首を振る。喘ぎの合間に言葉がこぼれた。
「こうし――ヤマト?」
「いいえ」
 太一の声を吸い取るつもりで喉に唇を寄せた。太一の体がかすかではあったが動いた。逃れようとする体の丸め方だった。
 力の籠もらない手が上がり、光子郎の胸を弱々しく押す。
「やめ――」
 太一を抱きしめ、唇を吸った。太一の唇からは、もう言葉が出てこなくなった。
 鈍い音が受話器から聞こえる。彼は駆け出すことも、電話を切ることも出来ないに違いない。
 抱いた思いは哀れみよりも共感に近かった。彼も太一に囚われた。呪縛され、心の飢えに呑み込まれたのだ。
 光子郎の腕の中で、太一は息を弾ませる。濡れた唇と火照った肌が押さえきれない情欲を滲ませていた。
 自身の体に抗い、太一はまた首を振った。その唇から今まで以上にかすれた声が生まれた。
 手の内だけでなら支配出来る。太一を高みへ追いやろうとして、光子郎は顔を強張らせた。
「――太一!」
 ヤマトの声は絶叫に近かった。
「聞こえるか、太一。光が丘……」
 光子郎は太一の唇を塞いだ。片手を伸ばして、受話器を投げようとした。続けられたヤマトの言葉には迷いはなかった。太一にだけ向けられた、がむしゃらな言葉だった。
「光が丘の陸橋にいる、待ってる――」
 受話器が壁に当たり、幾つかのプラスチックの破片が床に落ちた。音が太一に覚醒を与えないよう溜まった熱を解放させた。
 太一が唇を開く。優しく、熱く、唇が動いた。
 掌が太一の欲望で熱く濡れた。反った体が弛緩し、満たされた悦びの息を太一は吐いていた。
 太一の荒い呼吸を聞いても、一時、体を征服した喜びすら光子郎にはなかった。
 シーツをきつく、汗ばんだ手でも、濡れた手でも握りしめた。甲高い、布地の裂ける音が響いた。頭の中に染み込むような高い音だった。
 太一の一言が自分を狂わせていく。
 うわごとのように、達する瞬間、太一は小さく叫んだ。
 ――ヤマト。
 それは絶対的な一言だった。太一にとっても、そして光子郎にとっても。
 涙は苦く、わずかな量だった。これが一生分だろう。
 敗北ではなかった。悲しみでもない。怒りも恐怖もなかった。それは孤独への予感だった。始まる長い寂寥の時間に、失われた太一に、光子郎は唇を閉ざし、涙を封じた。
 

<<<<
>>>>

<<<