君を待ってる
32



 何も見えず、聞こえなかった。いつでも胸にあった音の連なりは絶えて久しい。まるで凪いだ海だ。どこまでもだらだらと無音の状態が続いている。外側は荒れ狂って、必死にそこから抜け出るすべを求めているが、方法は見つからない。
 慣れ親しんできた音たちから切り離されて、ヤマトは恐怖した。これまで、こんなにひどい空白が続くことなどなかった。スランプ。友人達の言葉が思い出された。違っている。そんな生やさしいものではなかった。
 行き詰まったときでも、音は波のように寄せては返していた。待っていれば、ふとしたはずみで足下を濡らす波を掴めた。そうして掴んだ新しい世界の音は、今まで以上に素晴らしく見えるのだ。
 これは違う。何もかもが自分から遠ざかっていく。引いていくのだ。どこも乾ききって、心を潤す音など存在していなかった。弦に当てた指も動かない。楽譜の上を目が滑る。どんな歌も曲も浮かんでこなかった。
 レコーディングはたった一曲残しただけで中断された。マイクの前に立つと、声が固まり、出てこないのだ。
 どうやって言葉を曲に乗せるのかが分からない。なぜ他の仲間は簡単にできるのだろうか。あんな難しいことはないというのに、彼らはたやすく、楽しげに歌う。楽器を弾きならす。
 ヤマトには眺めるしか出来なかった。それにも耐えきれなくなると、ヤマトは彼らの元を離れ、街中をうろついた。
 雑踏の賑わいや、飛行機が通り過ぎる音、車のクラクション、街路樹のざわめき。街中にある音が自分を救ってくれるのではないかと期待した。海まで足を運び、波の音を体に刻み込もうとした。夜の繁華街で、生臭い人の営みを見つめ、何か沸き上がるものがないか確かめた。
 何でもよい、とにかく思いつく限りのきっかけを探した。見つければ、ふたたび音がわき出してくるはずだった。だが最後に辿り着いた場所さえ、口に苦かった。自分を忘れさせてくれるはずの酒はたとえようもなくまずかった。彼と彼女のことを忘れたくないのだなと思った。
 終電を待つホーム上で、彼が囁いた言葉を、彼女が告げた言葉を思い出して、ヤマトは息を吐いた。アルコールが混じる呼吸に煙草の臭いはなかった。


 ――胸に残ったのは傷跡だけではない。一瞬の閃光のようにして焼きついた思いと言葉は疼きを呼んでいた。行けと命じた太一を間違いなく憎んだ。また、彼の言葉に従うことこそ、己の喜びだとも思った。
 矛盾の隙間に落ち、ヤマトは喘ぐわけでもなく、疲れ切った体でその思いを受け止めた。
 台場への道は何も教えてくれなかった。
 子供の頃の記憶を辿って、街中を歩いた。海近くに漂う潮の臭いはねっとりしている。ポケットの中のピックとライター、デジヴァイスがたとえようもなく重かった。
 身軽くこの街を駆け回っていた時期を思い出しながら歩くと、いつの間にか中学校に辿り着いていた。校庭は静かで、生徒の姿は見当たらない。端にある白いゴールポストが寂しそうに見えた。
 ヤマトは校門の前に突っ立って、校庭を眺めていた。かなりの時間をそこで過ごし、通りがかった幼い息子を連れた母親に警戒心の入った視線を送られたのをきっかけに歩き出した。
 どこまで歩けば、探しているものが見つかるのだろうか。そして、自分は何を探しているのだろうか。
 我と我が身を包んでくれる音、それを思い出すきっかけ、どちらでもよかった。どちらも同じだった。やって来た片方が必ずもうひとつを連れてくる。
 気まぐれなどではなく、確かな意思を込めて、ライターが手元に戻った日から喉に固まっている歌を心の中でなぞってみた。何も知らない自分が作った曲だった。それが幸福でありえた。旋律の中には心をくすぐるような彼の笑い声があった。
 海岸沿いに出て、ヤマトは耳を澄ました。とてもかすかな波の音が聞こえた。砂浜は花火をするにはいい場所だ。八月の最初の日に集まった誰の足にも細かい砂は張りつき、服の裾やポケットにはいつの間にか砂が入る。こぼれる砂は笑顔を呼んでいた。
 夏は何度めぐってきても慕わしい季節だった。素晴らしいというには照れるほどに濃く、それからの日々にも溶けてきた思い出があるからだ。  
 湿気を含んだ暑く、重たい夏の匂いを嗅いだ気がした。風がはっきりした音を運んでくる。波の音も強くなる。
 細やかなあの音は砂が波にさらわれているからだろうか。波と砂が立てる音は彼との時間に似ていた。
 海から離れて、ヤマトは家への道のりを辿り始めた。途中、いっせいに灯った高層マンションの明かりを見上げて、目を細めた。
 夕空を飛行機が通りすぎていく。波が砂をさらう音は轟音にもかき消されなかった。忘れないように唇で繰り返そうとし、その音は絶えることなく、内から湧き出てくるものだなのだと知った。
 激しく流れ出した音と街の明かりに導かれて、ヤマトは家へ歩いた。


 
 翌日、幾日ぶりかにスタジオに姿を見せたマトは無言でベースを下ろし、マイクに近づこうとした。
「石田」
 とまどう友人やスタッフの声に首を振り、ベースの音慣らしを始めた。鼓膜を震わす音に耳を澄ました。懐から取り出した青いピックを指に摘む。青さに重ねたのは太一の横顔だった。
「大丈夫だ」
 不安そうに、心配そうに顔を覗き込んだ友人に笑いかけた。
「迷惑かけたな」
 視線を上げ、訝しくも呆れ、醒めた雰囲気を漂わせる彼らを見つめ返した。
「あと一曲……やらせてくれ」
 しばしのとまどいの後、大きなため息が何人かの口から漏れた。それでも皆が動き出した。これが最後のチャンスだ。終わらなければ信用の失墜はもはやとどめようがない。
 急に始まる録音に、みなが機材の確認や音慣らしを始めていた。ちらちらとヤマトに注がれる視線は厳しい。重たい空気の中、男が一人、ヤマトに近づいた。
「やれるのか」
 疑いよりも心配が勝る友人が小声で訊ねた。
「やれる」
 友人の手が肩を叩いた。ヤマトがいない間の苦労を滲ませない明るい仕草だった。
「なら、俺たちも助かる。しっかりやれよ」
 離れていく彼を目で追った。自宅の次に馴染んだスタジオの中を、共に過ごした仲間たちの姿を心にとどめた。
 予感であればよいと今も思う。自分なりのやり方で、自分がいた世界を愛してきた。まだ確信とは決めかねていた。
 これから歌う曲が流れ始めてきている。ヤマトは共に演奏してくれる友人達を振り返った。
 それはほんの少し、だが大きな部分でヤマトに違和感を生じさせた。違うと気づいた瞬間、正しい曲筋が浮かんだ。雲の間を一気に突き抜け、晴れ間にでるような眩しい思いだったが、ヤマトは指を震わせただけだった。
「……少し違う。感じが変わったんだ」
 ヤマトは楽譜を示しながら、変更箇所を手早く教えた。その辺は慣れたもので、楽器を持った全員がすぐに新しいメロディーを覚え込んだ。
 準備を終えると、ガラスの向こうでヘッドホンをかけたスタッフがゆっくり顔を上げ、手を挙げた。
 ――目の前に迫った答えをつかむ方法は唇を開くことだった。指は自分でも驚くほどなめらかに動いた。歌うのも簡単だった。浮かぶ面影を声にすればよかったのだ。これは彼の歌だったから。
 時間にして五分弱、音が消えても誰も動かなかった。ヤマトに呑み込まれたスタジオの中で、当人であるヤマトが顔を上げた。
 視線に気づいたスタッフがあわてて録音機器のボタンを押し、マイクを切った。
 同じ人間が歌う同じ歌でも、これほどに違いが出るのだと、そこにいた全員が思い知らされた。
 言葉を失い、目の前にいるのが自分たちが知る男なのかを確かめるようにして、皆がヤマトを見やった。
「お前……」
 騒ぐわけでも、どうしたのだと訊ねるわけでもなく、誰もがヤマトを見つめ、黙り込んでいた。ヤマト一人が出した音と言葉に十人以上の心が呑み込まれていた。
 おそらく、これから先はもっと大勢の人間の心を呑み込むだろう。そんな歌だった。
 人々の静かな興奮に気づかず、自分が成し遂げた奇跡のような歌の前にヤマトはうなだれるばかりだった。期待通り、答えは見つかったのだ。逸らしようがない場所に立ちふさがった。
 見出した答えは、逃げようのない確信と共にヤマトを立ち上がらせる。
「……これでいいか?」
 ヤマトが言い終えてしばらく、やっとのようにスタッフがうなずいた。
 ヤマトはベースを丁寧にケースに仕舞うと、重たい防音扉を開けた。誰も後を追わなかった。音も立てず、彼らはヤマトを見送り、ヤマトも振り向かずに歩いた。
 スタジオを出る前に、ヤマトは途中にあったベンチに腰を下ろした。買っておいた煙草の封を開け、一本だけ取り出す。戻ってきたライターを使い、火を点けると口に銜え、ゆっくり吸った。
 久しぶりに吸ったせいか、煙を吸った瞬間、頭がくらりと白んだ。深く味わい、猶予の時間を過ごした。
 吸い終えた煙草をベンチ脇の灰皿に捨て、開けたばかりの煙草の箱もその上に置いた。わずかばかりの灰が舞い、ヤマトの指先を汚した。服の裾で手を拭くと、ヤマトはポケットに仕舞ったピックを取り出し、見つめた。
それからヤマトはピックを握りしめ、待った。数日分の太一の面影が十数年の太一の記憶に重なり、やがては自分の内側を支配し、空との時間を突き破っていくのを一人待った。


 その日、帰宅したヤマトの瞳に、これ以上、沈黙をとどめることは不可能だと彼女は悟った。どれほど長い時間、話しても、答えはすでに決まっているのだ。彼が出した答えは、空が求めた言葉とは違うのだろう。
「……話がある」
 それでも空はうなずいた。ただ答えを聞くために、その身を差し出した。



 話は、すでに現実的な内容も含んでいた。別れにはこんな手順も必要だったのだ。法によって結ばれていたから、法によって別れねばならない。二つを一つにしてきた。今度は一つを二つにする。
 慰謝料という言葉をヤマトが口にしたとき、なぜ離婚届を用意してなかったのだと冷たく空は思った。けれど、法律上必要な一枚の紙をヤマトが差し出せば、そんな手回しのよい彼を憎むはずだ。今はどちらが楽なわけでもなく、どちらもつらいだけだった。
 マンションの権利についての話になったとき、空は首を振った。
「もうやめて」
 お願いだから。
 空は青ざめた顔で目を伏せ続けた。こんな話を聞かされるくらいなら、今すぐ別れる方がまだましだ。
 心奪われた男の無神経さがヤマトの声には、すでに存在していた。もっとも耐えられないのは、そこにかつて愛した女性に対する優しさが混じっていることだ。己が傷を与えた女として、ヤマトの一生に影を落とすことなど望んではいない。こんな形でヤマトの心に残りたくなかった。穏やかに時を重ね、二人寄り添っていくはずだった。確かに叶えられたと信じていた。
 耳を塞げたらいい。感情よりも先に現実的な問題を片付けるのが良いとヤマトは思ったのだろうか。ならば彼の心はすでに終わっているということだ。彼が意識していなくても、そうなのだ。
「名義の変更を――」
「やめて!」
 ヤマトの手が震えた。声は消え、空の叫びだけが殷々と部屋に残った。
「……空」
 男を抱いた彼に、親友を思う彼に、仲間を見つめる彼に、どんな思いを抱けばいいのか。
 目の前のヤマトをただ見つめた。
 すべてが暴かれた今も、憎むには多すぎた。嫉妬というには激しすぎた。では呪いのように愛し続けるしかない。もだえ、苦しみながらヤマトを見つめ、愛せよと決められていた。
 なおも話を続けようとしたヤマトを遮り、空はその名を恐れるように訊ねた。
「……太一のところに行くの?」
 心を窺えない深遠な瞳で、ヤマトは空を見つめただけだった。
 彼は行かないだろう。太一も行かないだろう。こんな形で愛されているのを自覚するのは残酷すぎだ。
 ヤマトが口にする終わりと、終わったあとの過程を空は静かに記憶した。離婚届はヤマトが先に判を押し、後日この家まで送る。提出するかしないかは空にまかせる。離婚した場合の慰謝料や、銀行預金、マンションの名義まですべてにおいて生活の保障が約束された。一人きりの生活のそれが。
 ヤマト自身にそんなことが出来るほど余裕があるのかと嗤えたらよかった。そうすれば安心して、自分を惨めに思える。
 すべての問題に対して今出来る限りの話を終えると、ヤマトは黙った。空の言葉を待っているようだった。どんな言葉でも欲しかったのだろう。
 それを与えないのは空が自分の心を守るためだった。
 長い空白のあと、ヤマトはうなだれる空に手をのばしかけ、力を込めて引き戻した。
「……こんなことになって、本当に――」
「悪いと思うなら黙って」
 すまないと言うヤマトの声を空は震える呼吸で殺した。
 今度はどれくらいの沈黙だったか数えないまま、彼は立ち上がった。ヤマトは何の荷物も持っていかないようだった。今までのすべてを、自分を置いていくのだから、他にどんな荷物もいらないはずだ。では新しくできたもう一つさえも、荷物と思うのだろうか。
「ヤマト」
 言葉が声にならなかった。数度、呼吸を落ち着かせ、空は下腹部をそっと押さえた。残る片手でテーブルの端を握りしめ、やっとのように呟けた。時が違えば大いなる慶びになっていた言葉と瞬間だった。
「――子供が出来たの」
 ヤマトの目を見た。彼も空の目を見た。真実なのか虚実なのか、それは二人には必要ではなかった。
 その子供がいずれ味わう思いを父として苦しみ、同じような経験をした子供としての哀しみをよみがえらせ、ヤマトはそれでも言った。
「生んでくれ」
 打ちのめされ、空は前髪を掴み、首を振った。瞳のまばたきが早くなった。
「出来る限りのことはする」
 最低な言葉だった。空は唇を歪めた。笑うのにも泣くのにも失敗した唇の形だ。
 その苦悶を顕わした唇の美しさを見つめ、目を逸らすと、ヤマトは歩き出した。
「――私、待ってるから」
 ぎちりと床のきしみがとまった。彼はわずかな間、立ち止まり、また歩き出した。
「ずっと待ってるから……ヤマト」
 声とドアの金属的な残響が消えると空は唇を覆った。それだけでは耐えきれなかった。唇を噛み、肌を噛む。最後に顔のすべてを手と腕で覆った。
 短い、断続的な嗚咽が漏れ出した。立ち止まった彼を忘れないだろう。その瞬間だけは太一でなく、自分が彼の中にいたはずだ。
 それでも涙は長かった。途切れることなく続いた。これも終わりであり、始まりだ。長い苦しみの最初の時だった。
 

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