君を待ってる
31



 どこからが罪で、どこからが許されるところなのか、まったく見えなかった。だが太一を己の側にとどめるためには、そのようなことに構っていられなかった。
 それは先の見えない、ただの思いつきに過ぎないような行動だ。だが、そんな簡単なことに気づける余裕すら、あの瞬間から光子郎は失っていた。
 岡からの胸を押しつぶされるような話を聞き終えて、すぐに光子郎は自宅へ戻った。太一はひどい衝撃を受けた後によく見られる茫然とした様子を見せていた。何があったのか考え、また想像し、光子郎は一番手近な確認の行動を起こした。
 電話の着信と発信の履歴を調べたのだ。光子郎はヤマトの携帯電話の番号を見ても、とくに動揺は見せなかった。
 ある一線を越えようと決めたのは、岡から聞いた話のさわりを太一に聞かせたときだった。
 太一は瞳の焦点を戻し、光子郎の言葉を遮った。ヤマトと別れてから初めて、太一は光子郎の前で意思らしい意思を見せ、すべて本当だと言った。
「来月から、あっちに行く」
 太一がやっと見せてくれた心に、光子郎は頬をわずかに動かした。笑うためではなかった。
「……日本には戻らないつもりだ」
 それが太一なりのけじめの付け方なのだろうか。光子郎は太一の次の言葉を待ったが、太一は唇を閉ざしていた。
 自分から言い出そうとしたが、太一が言葉を呑み込まないように光子郎も黙った。これが最後の沈黙だった。
 彼の迷いが、自分の望む答えの方へ傾むくか見つめた。来ないかと問われたら、何を捨ててもついて行くつもりだった。今更、何を惜しめというのだろう。得たいのは太一だけ、望むのは太一だけだった。太一のいない世界など、呼吸すらままならない。
 太一は光子郎と視線を交わし、光子郎は太一の瞳の中に答えを見つけた。
「危ない国なんだ」
「内戦が終わったばかりですからね」
「俺一人で――」
 光子郎は太一の肩を掴み、首を振った。
「僕も行きます。危ないなら余計に太一さんだけでは……」
 太一は首を振った。太一は肩にある光子郎の手に自分の手を重ね、外そうとした。優しい断固とした手つきは太一の決意の現れだった。
 行ってしまうのだ。彼はまた一人で行くつもりだ。――いや違う。彼がいた。
「ヤマトさんは? あの人はどうだったんですか?」
 今までは太一の無反応を恨んできた。泣きながら、過ちを悔いてくれても良かった。ヤマトの名に打ちひしがれて、震えてくれてもよかった。その瞬間、光子郎は太一を許しただろう。抱きしめ、すべてを包み込んでしまえたはずだった。ヤマトへの想いを明らかにしてくれたのなら受け入れられる。
 そして、それは正しかったのだ。ほんの少し前までなら。
 この時、光子郎が呼んだヤマトの名に太一は重ねていた手を強張らせた。そうして目を伏せた。その名前の重みに耐えきれず、また彼と冒した罪にも耐えきれない、苦しげな、それ以外どうしようも出来ない仕草だった。
「……言ったんですね」
 思いが一つ方向へ流れていく。光子郎の声は抑揚を欠いた。
「あの人に訊いたんでしょう? 一緒に行かないかって言ったんでしょう?」
「言ってない」
 太一は光子郎の手を握り、自分の肩から外させた。
「あいつにはこれからのことを言っただけだ」
「いつもそうなんですね」
 光子郎は首を振った。
 ヤマトよりも先に言って欲しかった。遠い国へ行くことを。ヤマトよりも自分に言って欲しかった。共に行こうと。
 ヤマトではなく自分を選んで欲しかった。それが最後でも良かった。ヤマトを愛した挙げ句の果ての、がむしゃらな選択でも構わなかった。
 それすらも叶わなかったのだ。自分に愛される太一の残酷さに光子郎は笑うしかなかった。
「僕よりもヤマトさんをあなたは見てる。ずっと昔から、そうです」
 逸らすこともできなかった事実のはずだが、それをあえて封じてきた。
 誰が知りたいというのだろう。思い人の心に秘められた人間のことなど知ろうともせず、目を逸らして、黙っているのが一番よい方法なのだ。そうすれば、いつかという幻想を信じていける。しかし、幻も追えなくなった。
「いつまでヤマトさんを見ているんです。……僕はあなたの後輩でしかないんですか。そうやって、いつでも側にいてくれる便利な男ですか」
「違う……」
 弱い太一の声に光子郎は黙った。太一が言葉を持たないのは分かった。問いかけて、答えてくれるのなら、こんなに苦しくはない。
 光子郎は足を動かし、居間にある飾り棚の小さな引き出しを開けた。音を立てないように指先で摘み出す。数個の錠剤を掌に隠し、光子郎はキッチンへ向かった。グラスに水を注いで、手に持つと太一の前へ戻る。
 太一はソファに座り、がっくりとうなだれていたが、光子郎が近づくと顔を上げた。
 彼の見上げる視線に光子郎は目を伏せ、跪いた。
「太一さん」
 光子郎は太一の姿を瞳と心にとどめた。
「でも僕は……僕はそれでもよかったんです」
 グラスを持たない手で太一の頬に触れた。耳から顎にかけての輪郭を包み、挟んだ。
「おかしいでしょう。あなたの側にいられたらそれでよかったんです。ヤマトさんを見ているあなたも欲しかったなんて」
 視線に呪縛されたかのように太一は動かなかった。
 光子郎は太一の唇に触れ、開くように囁いた。それが崇高な儀式でもあるかのように太一は息を止め、ほんの少し唇を開いた。光子郎は指先を使って、優しく錠剤を与えた。薬の苦みにも太一は表情を変えなかった。
 グラスからの水を光子郎に口移しにされたとき、太一は襟に滴った水の冷たさにまばたきした。
「飲み込んで下さい。大丈夫だから」
 太一の喉が動くのを確かめた。無理矢理飲み込ませる羽目にならなくてよかった。太一に無理強いはさせたくなかった。あの恐ろしい記憶を太一になぞらせるのは、自分自身を壊す行為でもある。
「光子郎?」
 睡眠剤を飲んだ太一は、すでに効果が現れ始めたような目で光子郎を見つめた。グラスを置いて、光子郎は太一を抱き寄せた。
「目を閉じて眠って下さい。少しだけです」
 自分が言葉にした時間が、どれほどの長さを持っているかを光子郎は計らなかった。もがきだした太一を離さなかった。



 始まりの日も太一は眠っていた。そして終わった日も眠っている。眠りの中で太一は夢を見ているのだろうか。夢からは、いつか醒めるものだ。それが悪夢にしろ、良夢にしろ、目を開ける時期はいずれ来るのだった。
 太一の瞳もいつか開くのだろう。そして、その目に自分が映ることはあるまい。ならば、今は気づかない振りをしていたかった。
 人工的な眠りでも太一の目を閉じた顔は安らかに見えた。ベッドサイドの明かりに照らされて、絵画のような陰影がついている。
 眠りに落ちるまでにもっと抵抗されるかと思ったが、そんなこともなかった。ベッドに横たえられて、眠りに落ちていく太一は最後まで光子郎を見つめていた。ほとんど優しいとさえ言える悲しみの目で光子郎を見据え、やがて眠った。
 光子郎はサイドボードに投げ出した錠剤の包み紙を取り上げ、また放った。薬名を思い出しかけて止める。太一の心を落ち着かせるために処方してもらった薬剤が、太一の心を閉じ込める役目を果たすとは想像もしなかった。あの頃の眠りは太一を癒すためだった。今の眠りは光子郎を壊すためにある。
 光子郎は太一に顔を近づけ、少しの逡巡の後、唇を重ねた。四年前のような罪悪感はなかった。苦しいだけの口づけだった。
 想いが動き出し、結果を求めることを欲し始めたあの日。それは何と甘い思い出なのだろう。祝いのさなか、太一は酔って机に臥していた。光子郎の声に、ずいぶんと間延びした声で答えを返し、無防備な横顔を見せていた。酔っている今ならばと、冗談の中に本気を混じらせて逢いたかったと告げた。
 それに、まるでオウムのような同じ答えを返して、太一はゆっくりほほえんだ。幸福な、芯から幸福なほほえみだったが、光子郎は胸を突かれた。本当に幸せならば、こんな風に笑うのだろうか。腕に崩れてくる太一の重みを受け止め、手に力をこめた。
 ヤマトと空に挨拶をすませ、酔った太一を連れて帰るのを口実にして、ヒカリの目を盗んで、店を出た。
 家へ帰宅する際も太一は起きずに、光子郎に自分の体を預け続けた。重みに対する苦しさは感じない。太一の体温が体中の血を騒がせるほどに心地よかった。
 太一の部屋に着き、広いベッドに太一を寝かせたときは、さすがに汗だくになっていたが、気にならなかった。自分の疲れに気づかず、深く眠る太一に苦笑しながら、襟元を弛め、ネクタイを外す。ベルトも取ってやった自分に恥ずかしさを覚えた。そんな甲斐甲斐しい手つきは友人にするようなものではなかったから。
 体が楽になったのを無意識にでも感じたのか、太一は寝返りを打ち、光子郎に顔を向けると、ため息のような寝息を吐いた。
 誘われるように身を屈めたのは酔いのせいにした。自分自身に対して言い訳を用意しなければならないくらいには、照れも理性も残っていたのだ。
 太一の唇は光子郎の唇を受け止め、吐息の下で笑うように弾んでいた。太一への想いは、憧れが少し進んだ程度だと自覚していたはずだ。
 だが、唇を離し、太一を見つめた瞬間、もはやそれだけではすまないことに光子郎は気付いた。いつの日か、太一を求めて激しく苦しむ日がやってくるだろう。そして自分はそれを望んでさえいるのだ。
 恋慕への恐れと甘さにもだしながらも、光子郎は太一の手を取った。太一に触れたい、抱きしめたいと激しく感じた初めての日だった。太一のためなら、何をしても後悔しないと思った初めての日だった。
 そうやって自分の心を縛りつけた彼への恨みと愛おしさを込めて、いつの日かという誓いを込めて、光子郎はその夜、太一の手に口づけた。
 ――そして今もまた、四年前のように太一の傍らに座して、光子郎は太一の手を取った。この日もまた、指先に唇を押し当て、光子郎は誓った。
 行かせもしなければ離しもしない。ましてや、ヤマトになど。
「……僕がいますから」
 太一の手に唇を当てたまま、光子郎は動かなかった。目だけを閉じた。


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