君を待ってる
30



 太一の代理だと告げる男の声は、あの岡という男とも、初めて彼と顔を合わせたときに側にいた若い男のものとも違っていた。男は事務的にヤマトの使用する銀行名と口座番号を尋ね、ヤマトが答えると礼を言った。五分もしない内に男は代金を振り込んだ旨を伝え――何の代金なのかは言わなかった――最後まで丁寧な口調で通した。
 そうですかという返事だけ繰り返し、太一については訊ねないまま電話を切ると、ヤマトは銀行口座の残金を調べた。
 たった数日の滞在にしては、あまりに多すぎるほどの金額が振り込まれていた。手切れ金かと笑った。今、見ているのが夢なのか、二人で過ごした日々が夢だったのか、定かではなかった。ふたたび始まった日常は忙しく、友人達に頭を下げ回る日々が終われば、何もかもがめまぐるしく過ぎていく。
 不在だった数日間について訊ねられればヤマトは黙り込んだ。声を荒げる友人にも眉をひそめるレコード会社の人間にも、ヤマトは謝罪を繰り返すばかりだった。怒りよりもとまどいが多い友人達は腫れ物を扱うようにヤマトに接し、その一種、孤独な状態をヤマトは自嘲の意味をこめて楽しんだ。
 冷たく固まった日々だった。溜まった仕事は表面上は完璧にこなした。そう見えるだろう。
 レコーディングは順調に再開したが、数人の友人達はヤマトの声と演奏を聴いて首を振った。ヤマトは彼らとは目を合わせず、忠告も受け入れないように務めた。心はすべて演奏に顕れていると信じたくなかった。 
 空との間には沈黙が滑り込んで居座っている。自分よりも数歳年を経たかのような空の横顔は日に日に冷たくなっていた。硬質な空の表情は初めて見るものだった。知らないということは距離が開くという意味なのだろうか。
 時間をずらし、視線を避け、言葉を交わさない。この沈黙もいつかは壊れるはずだ。
 どちらから始めるのだろう。待っている。そして恐れていた。
 願わくば静かに、張り詰めたままでもいい、彼女との生活を続けたいとも思っている。共にいる時間は長く幸せだった。確かに彼女を愛していた。
 今更のように空々しいほどの想いがこみ上げてくる。失いたくなかった。あまりに貴重な過去の時間が眩しい。過去を追い、空の姿を目で追い続けていた。
 そんなときの太一からの連絡すらヤマトの表情を変えさせることができなかった。淡々と携帯電話を取り上げ、ヤマトは十日以上の時間を隔てて太一の声を聞いた。
 前置きも何もなしに太一は不思議な響きを持つクラブ名を口にすると、そこに行くことにしたと言った。聞いたこともないクラブ名だった。
「知らないか?」
「聞いたことない」
 太一は息を押し出すようにして笑い、南米にある小さな国のチームなのだと教えてくれた。
 数年前までその国で内戦が起きていたことも、いまだに銃声が鳴り響く国なのだとも、ヤマトは知らなかった。知っていたら、そんな国のクラブがどんな状態で、どの程度の施設をもっているか、たやすく想像できただろう。そのクラブがまったくのゼロに近い状態から、チームを編成し始めていたことなど知る由もなかった。
「体がなまってるから、鍛え直さなきゃな」
 来月中にはあちらに発つと太一は告げた。相づちもヤマトは打たなかった。
 迷った末に言うことに決めたのか、それともヤマトの返事を待っていたのか、静かな呼吸の後に太一は言った。
「もう日本には戻ってこない」
「……そうか」
 同時にかすめた思いがあった。言えば何が待っていたのだろう。
「じゃあ」
 太一がまた明日とでも続けるように呟いた。
「ああ」
 同じように軽く頷き、ヤマトは電話を切った。いつ頃まで、こんな会話を交わしてきたかどうしても思い出せなかった。
 そのままヤマトは手の中の携帯電話を見つめ、発信ボタンを押した。静かに耳に当てる。発信音がこだまする受話器に向かって声を出さずに囁いた。
 ――一緒に行ってもいいか。
「太一」
 終わらせるつもりで彼の名だけを口に出し、ヤマトは目を閉じた。傷跡の痛みは小さかった。だから、いつまでも棘の痛みを残した。


  二日後、電話の後を追うようにして、小さな包みが届いた。宛名や差出人の住所を記入したのが太一でないことだけは確かだ。彼の書く字はこれほど角張っていなかった。
 包みの中身はライターだった。触れて汚すのがもったいないほど丁寧に磨かれている。使い込まれた銀色の光は柔らかかった。服の裾で手を擦って、ヤマトはライターを取り上げるとポケットに仕舞い、その日も黙って家を出た。
 スタジオでベースを取り出そうとして違和感に気づいた。片方の胸が重い。
 ――返されたライターの重みに気づいたとき、すでにどんな歌も曲も見えなくなっていた。


 
 あの時間がかけがえのないものだったのは確かだった。それがあったから迷いもしなかった。
 反対を押し切り、太一は契約書にサインした。岡が調査してくれた政治事情やそれゆえの治安の悪さも気にならなかった。設備が整っていないことも構わない。ボールと走り回る場所があれば、そこから始められる。
 ――最初から始めるということだろうか? それともやり直しを? 答えを探しに行くわけではない。もう終わった何かがあるのも確かだ。
 今は光子郎の声だけが繋ぎ止めてくれる。時間が許す限り、彼の側にいよう。光子郎ともまた始まるのか、終わるのか、それともやり直すことになるのか。時間が決めてくれるのを待った。
 彼が負った傷に自分は爪をたてている。彼が言葉を待ち望んでいるのも知っていた。何もかも光子郎に渡すことが出来るのに、その一歩が踏み出せない。前へ進むには、どうしたらよかったのか思い出せなかった。彼を抱き締めた瞬間、それが出来ていたはずだ。そして、今がどうなのか考えることも太一はしない。
 様々な出来事や思いが自分を通り抜けていく。光子郎の声を除いて、そのすべてが太一の中にはとどまらない。時間も言葉もすり抜けて、重みを持たないかのようだった。
 ヤマトとのことも遠くにあった。そこには偽りも真実もなかった。ただ心にある。それだけだ。どんな意味を持つのかも考えない。ヤマトの携帯電話の番号を押すときも何も感じなかった。こうなると、逆に痛みを覚えていた時が懐かしくなる。
 ヤマトの声は静かで落ち着いていた。良かったと太一は思った。
 名乗ると、すぐに用件を伝える。このクラブとチームの名は何度口にしても飽きなかった。舌に馴染みやすい響きだ。
 ヤマトが何も言わないので、太一は訊ねた。
「知らないか?」
「聞いたことない」
 電話の向こうで眉を寄せているヤマトの表情が見えた気がした。少し笑って、太一は教えてやった。
 とても小さな国だ。外国人選手を探しているスカウトマンが細い縁を辿るようにして、話を持ってきた。もちろん安い報酬と劣悪な環境でプレーしたい選手など滅多にいるはずもない。スポーツ選手失格の烙印を押された太一だからこそ、彼も話を持ちかけたのだろう。それほどに逼迫した状況なのだった。話を持ってきた、恩師である高校時代の監督は良い環境ではないとはっきり言った。
 そこまで悪く言われると興味も湧いてくる。底はどこにあるのかと。
「――体がなまってるから、鍛え直さなきゃな。来月には出発するよ」
 ヤマトの息づかいだけが聞こえた。とても近い場所で聞こえている。眠るような思いで、その数を数え、太一はヤマトに告げた。
「もう日本には戻ってこない」
「……そうか」
 これが夢であったなら言葉を続けていたかもしれない。言えば何が待っていたのだろう。
「じゃあ」
 こんなやり取りを昔はよくしていた。懐かしさに太一は思わず笑いかけた。
「ああ」
 やはり昔のような返事を返して、ヤマトは電話を切った。
 切断後、一定の調子で繰り返される電話の音は夢遊の淵へと太一を追いやった。耳に当て続けていた受話器はあたたかい。自分の鼓動が聞こえた。
 それをわずかに乱し、太一は呟いた。夢を見たかったのかもしれない。
「一緒に行かないか――」
 ヤマト、と心で囁いたとき、胸の鼓動はいつもの音に戻っていた。



 太一を抱けなかった。拒まれもしなければ、抗いもない体に触れられなかった。
 あの日、出来たのは太一に服を脱ぐように命じ、体の痕跡を確かめただけだ。痣のように見えた部分だけ熱を孕んでいたのは光子郎の思い違いなのだろう。指先でなぞった太一の体はどこまでも冷たかった。
 光子郎にも染みついたその冷たさは今もある。まるで薄い膜のように肌に張り付いて、太一に触れるのを禁じていた。得られたはずなのに、手の内にはなく、かといって遠くにあるわけでもない。
 すがるような光子郎の腕に太一の体はいつもあった。まるで光子郎から突き飛ばされるのを待つように、常に力の抜けたそれだ。太一のずるさに歯がみし、そう仕向けた自分を嫌悪しつつ、光子郎は必死でこれからの在り方を手探りで求めた。
 太一が弁解すれば彼を罵れただろう。太一が悔いれば彼を許しただろう。
 太一は沈黙を守り、光子郎の手と言葉に従うばかりだった。光子郎の言うとおり、傍らで眠り、共に暮らした。光子郎は幼い頃からのように太一を見つめ続け、以前のようにどんな小さな異変も見逃さないつもりで、太一を視線で囲んだ。
 太一は見事なほど心を隠した。ヤマトを想う素振りなど見せず、光子郎がわざと口にするヤマトの名にも反応を示さなかった。
 太一の心の深さを知れたらよかったのだ。ヤマトを想い続ける太一の心に出来た空白の淵に、身を沈めるという幻想に浸りたかった。
 ある夜、太一の体を腕におさめ、光子郎は訊ねた。
「どうしたいんですか」
 太一を抱いていると、二人して鋭い刃先を口に含み、支え合っているような気がした。
「何を?」
 はぐらかすのでなく、太一は本当に分からないのだろう。問いを優しいものに変えた。
「これからどうするんですか」
 太一の頭が動くのが感じられた。肌が汗ばんでも離すつもりはまったくなかった。そして、いつまで経っても、太一の答えは得られなかった。迷いも感じられず、太一は沈黙を守り続けている。
 ――己の問いかけが、太一に何がなしかの波紋を呼んだと知ったのは四日後のことだ。
 ここ数日、岡と太一の動きが慌ただしいのには気づいていたが、岡に呼び出され、告げられた話に、光子郎はカップを乱暴にソーサーに戻した。
「……やっぱり言ってなかったのか」
 岡が目を落とした。
 彼を責める口調にはならないよう注意して言った。
「止められなかったんですか」
 岡が見せてくれた資料を再度読んだ。
 遠い国だった。そして危険すぎる。こんな契約を承諾するほど太一の居場所がないとは思えなかった。降りかかってきた醜聞を太一は自身の手と実力で拭えるはずだ。そのための助力は惜しまない。
「止めた。でも、太一が言うんだ」
 岡の力無い声に光子郎はうなだれた。資料に寄った皺と汚れが岡の努力の証なのだろう。
 古びた競技場の写真を見つめていた光子郎は、岡が声を震わせるのに気づいた。
「――なあ、あいつは太一の何なんだ?」
 ごまかすのも答えるのも無理だった。沈黙した光子郎は、しかし太一のように長くは続けなかった。
「昔からの……友達なんでしょう」
「友達なら太一と――」
 光子郎は広げていた資料をまとめることで岡を黙らせた。書類をまとめ、岡に手渡すと光子郎は彼に気づかれないように目を光らせた。
「説得してみます」
「違約金の問題がある」
「関係ありません」
 一笑に付した。この程度の金額なら自分の資産でどうにでもなる。上着を取り上げ、光子郎は立ち上がった。
「光子郎」
「大丈夫ですよ」
 光子郎は奥歯を噛みしめた。まるで砂を噛んだようなぎりりとした嫌な感触を感じた。苦みを味わいながら、誰にも振り向かずに光子郎は立ち去った。


 
 彼の苛立ちの気配が空気に混じっている。彼との間に沈黙が割り込むようになってから、急に五感が冴え出した。いや、もっと前からなのかもしれない。体中の血がざわめいて、命を喰うように日毎それは大きくなっていく。
 昨夜、帰宅した直後の嘔吐を思い出し、空は唇を噛んだ。ヤマトが酒を飲んで帰ってきたので、家中にアルコールの匂いが籠もっていた。そのせいであろうか、喉の渇きもひどい。
 身支度をすませ、すぐにでも家を出ようとしたがあまりの乾きに耐えかねて、空はキッチンへ向かった。着替えても、化粧をすませても、身は引き締まらず、どこまでも体は気怠かった。
 ヤマトの姿はリビングにはなかった。では部屋にいるか、眠っている内に出ていったかしたのだろう。空が物音を立てている間は出てこないはずだった。
 仕事半ばだというのにヤマトは今、スタジオに行っていない。出かけては目を赤くし、時には酒の匂いを連れて帰ってくる。わざと音を外すようにしてベースの音を響かせ、ぱたりと静かになる。張り詰めた空気はドア越しにも伝わってくるが、それはいつもヤマト自身の声で破られた。
 時折、彼の部屋からは激しい調子の罵声や怒鳴り声が漏れる。切れ切れに聞こえる言葉からして、レコーディングのことで激しい言い争いをしているようだった。
 何が駄目なんだとヤマトは言う。間を置かずにどうしてだと問いかける。ヤマトが黙っているのは友人の言葉を聞いている時で、それも長くはない。すぐにまたヤマトの荒い声が沈黙に取って代わった。
 ヤマトの怒り方はどこか一方的で、子供が癇癪を起こしている風にも取れた。電話の時間はばらつき、その後、ヤマトは家を出ていく。乱暴な足音も立てず、鍵を取り上げる音以外を除いては、ひっそりと気配を感じさせず出ていくのだった。いつ帰宅するのかは彼の気まぐれだ。
 静まり返ったリビングを一瞬だけ見つめて、空は冷蔵庫を開けた。
 買い物を何日もしていないので、バター類を始めとした日持ちする食材、それと賞味期限が切れたチーズや、食べきれなかった料理が入っているだけだ。野菜室を開けるとひからびたレタスやナスが転がってきた。
 野菜室の底にこびりついている萎びたレタスの葉を見ながら、自分は冷蔵庫をいつ整理するのだろうかと考え、かすかに異臭のする冷蔵庫のドアを閉めた。ドアを開け閉めするときの手応えも軽い。
 製氷皿から氷を取り出して、コップに入れると蛇口を捻った。水はカルキ臭かったが喉だけは潤った。
 朝食は駅の地下にある喫茶店で取る。夕食も手近な店ですませていた。家には眠りに帰ってくる。ヤマトも同じだ。お揃いの夫婦だった。
 氷を捨てる。がらがらと濁った音が響いたが、氷が砕ける音は聞こえなかった。
 かすなドアのきしみにも空は目を向けなかった。漂ってきた酒の匂いは強くなかったが、空は舌を噛んで吐き気を堪えた。胃の底から酸っぱい臭いが沸き上がってきたが、どうにか押さえた。
 床板を鳴らしながら、ヤマトはリビングにあるテーブルの上に手を伸ばした。置いてある新聞は昨日のものだ。気づいているのか、いないのか、ヤマトは日付を眺めただけで、すぐに新聞をテーブルに戻した。ソファに座り、額を押さえる。
 歪んだ唇から、二日酔いがひどいのだろうと推測して空はキッチンを出ようとした。夫の面やつれした顔もこれ以上見たくなかった。
「空」
 玄関へと踏み出した空の足が滑った。
 ヤマトはソファに腰掛け、うなだれていたが、こちらに顔を向けた。窓からの光は朝のものだ。空とヤマトの時間が重なる時だった。
「俺達、ずっとこのままなのか」
 空は赤い目をしたヤマトをじっと見た。まばたきごとに幾多の思いがよぎった。軽蔑から憎しみ、嫉妬から慕情、最後に悲しみだけが残った。  
 愛憎の絡まった視線を空はまっすぐにヤマトに向けた。
 この目が赤いのは、誰かを思って酒に酔い、眠らなかったせいなのだろうか。その誰かが自分でありたいと思った。そしてそれが正しければ、彼を許せるかもしれなかった。
 ヤマトが立ち上がった。彼が指を伸ばしてくる。なぜか吐き気はなかった。
 空は顔をずらさず、目だけ伏せた。ヤマトは肌に触れないようにして耳元の髪をほどいてくれた。震えるほど優しい手だった。
 頬にヤマトが触れた髪が一筋落ちる。それをきっかけにして、空は視線を上げ、ヤマトの唇を見つめた。次に自分の髪を梳いた指先を見た。
 熱い血が流れる皮膚と細長い骨が形作るヤマトの手。彼だけの響きを持つ言葉が紡がれるあたたかい唇。彼を形作る一部、彼を彼たらしめるすべてを好きだと今、激しく思った。
 たったひとつ、何かが欠けただけでそう思えるのだ。人差し指と中指で煙草を挟む仕草がなくなっただけで、そこに存在していた匂いが消えただけで、失ったと知れるのだった。
 空は小さく唇を動かした。ヤマトが耳を傾ける。あまりにささやかな妻の声を聞こうとして。
「……煙草、いつ止めたの?」
 ヤマトがまばたきした。
「あんなに吸ってたのに」
 誰のおかげ?――それは言えなかった。あまり自分に残酷な言葉だった。そしてヤマトの瞳の揺れを見ない内に空は身を翻した。今度見る彼の瞳がどう変化しているか見つめられる勇気はなかった。


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