あのキャンプ場の足場は悪くない。けれど踵の高い靴は選ばなかった。口紅の色もきつくはしなかった。柔らかい印象を与えるように。彼の妻である自分を知らしめるように。闘うために装っているのかもしれない。
嫉妬と疲れで強張る頬に触れる。寝不足のせいで肌が荒れ気味だったのがくやしかった。彼の心を受けた肌はどれほど柔らかくなっているのだろう。その肌で彼を包む込む。世のつらさを二人して忘れているのかもしれなかった。
レンタカーを借りて現地に向かうには充分な時間があることを確かめた。ヤマトに会うのなら、朝の光があるうちがいい。彼が過ごした夜を覆い隠してくれるはずだろう。
何が待っていても驚きはしないと冷たく決意したはずなのに、ドアノブを握る手が震えていた。
彼の前でもこの手は震えるだろうか。そう思いながら、空はドアを開けた。朝の光はまだ寒さを残していた。
※
目を開けるとこちらを覗き込んでいる太一の顔が見えた。前髪の先が濡れているのは、顔を洗ったか、シャワーを浴びたからだろう。太一が笑っているので寝ぼけ眼のまま手を上げ、太一の顔を引き寄せた。
「ヤマト、眠いんだろ」
少しざらついているヤマトの頬に太一が笑みを深くする。
「寝てろよ」
口づけようとしたが、太一がもがいたので、腰を抱いて自分の上に引き寄せた。加わった太一の重みで、瞼がはっきり開けた。太一はヤマトから視線をずらすようにして、前髪に触れている。
ヤマトはすぐ近くにある喉に唇を当てて下へ降ろした。鎖骨を唇でなぞって、舌で舐めると、太一がため息をつくのが分かった。
肌を強く吸い、歯を立てる。そうすれば太一も、あの三つの傷以外に痕跡を残してくれるかもしれない。太一の肌に散る痕は増えるばかりだが、ヤマトの肌には何も残らなかった。
太一の服に手をかけ、脱がせていく。肌が光の中で浮き上がって見えた。
シャツを床に放って、太一を組み敷いた。口づけを交わす間に、太一の手もヤマトに伸びたが、ヤマトは太一の両手を封じ、自分に触れさせなかった。太一の瞳が落ち着きを無くし、焦りから快楽の色へと染まっていった。
これほど触れているのに、まだ太一の肉体には知らない部分が残っている。ゆっくり探り、ヤマトは肌をきつく噛んだ。太一は痛みさえ、愉悦に変えてヤマトの腕を握り返した。
一日は始まったばかりだった。
何年ぶりに訪れるのだろう。キャンプ場が賑わう時期でないため駐車場の車の数も少なかった。ヤマトの車もすぐに見つけられた。中を覗き込む。しんと静まり返った車内だった。少し前まではこの車の助手席や運転席に座っていたのだ。
澄んだ空気に喉が詰まり、空は咳き込むと歩き出した。整えられた遊歩道を通り、さわやかな草の香を吸った。林の中で鳥が鳴いている。広がる草地はテント用の場所のようだ。向かうのは小学五年生の時に訪れた場所ではなく、あの頃は眺めるだけだったロッジが建ち並ぶ区域だった。
盛り上がって見えた丘から目を逸らすようにして空は歩いた。遠ざかった思い出だ。あの場所に行くにはふさわしくない心と体になったという思いがこみ上げた。そんなことはないはずだ。恐怖と不安が大きくなっているせいかもしれない。
人が通らないためか、草が遊歩道にはみ出ている。足首を朝露で濡らし、時折、分かれ道に設置された案内板で行き先を確かめた。あと少し。歩いているだけなのに呼吸が速くなった。心臓も高鳴った。
木立の中に、ロッジの茶色い外観が見え隠れし出す。会いたかったはずのヤマトがいるはずなのに、近づくのが恐ろしい。
ロッジの番号を見上げ、胸に思い描く番号と違うのなら息を吐く。三軒のロッジを通り過ぎて、空は息を止めた。
木壁に描かれた番号を確かめて、空はロッジへと通じる細い道に足を踏み入れた。ここからでもデッキが見える。丸太作りのテーブルと椅子も。窓のカーテンが揺れていた気がしたが、よく分からない。
ドアは目の前にある。すべてを明らかにするように空は手を伸ばした。どこか操り人形じみた動きの前に、ドアはきしみながら開いた。
「きついか」
「……平気」
汗をこぼしながら、太一はヤマトにささやき返した。ヤマトの肌に浮いた汗は彼の衣服が吸い取っている。
何かに焦ったようにヤマトは太一の衣服だけを剥ぎ取ると、自分はほとんど着衣を乱さずに、太一を求めてきた。強引に太一の膝を割ったヤマトは途中促されてコンドームを付けると、苦しげな顔で太一を抱きしめた。急なヤマトの動きに耐えきれず、太一は痛みのために唇を噛み、目を閉じた。
身を案じる深いささやきをヤマトは繰り返す。太一はそろそろと手を伸ばし、ヤマトの背へまわすと肩を掴んだ。そうして両腕の中にヤマトを抱きしめた。手の中には濡れて、肌に張りついた布の感触があった。
短い時間に燃え上がり、繋がる。今だけがあればいいと思う。刹那的な思いに流され続け、何もかも終わらせてしまいたい。
「ヤマト」
まるで夢だ。確かに感じられるヤマトの肉体、その感触が不意に儚く思えた。
「太一――」
目を開け、ヤマトを見つめた。彼はこんな幼い顔をするのだ。こみ上げてくる愛しさに太一は唇を開いた。
「ヤマト」
それだけで伝わるような気がした。確かにこの一瞬だけがあればよかった。
じりりっと扉近くの茂みから虫の鳴き声が聞こえた。鳴き声は途中で途切れ、空はドアを後ろ手に閉めていた。
視線が足下に落ちる。靴が二足。一足は間違いなくヤマトのものだ。ではもう一足は?
目線を上げ、空は空気を震わせる物音に耳を澄ませた。甘く湿る濡れた音。ささやかな衣擦れの響き。空気だけでなく体も震わせる熱っぽい囁き。二つの声が絡まり、離れて、再度寄り添った。二つの声の響きは悪夢よりもたちが悪い。これは現実なのだった。
吸い寄せられるようにして空は室内に上がった。流れるような仕草で靴を脱ぎ、丁寧にそろえた。体の動きだけが、いつもの習慣に従っている。
滑るように廊下を歩いた。ロッジは広いわけではなく、歩むにつれ声は大きくなってきた。
ずきりと腰から下腹部にかけてきつい痛みが走った。何かが蠢いているようだ。不意に不思議な理解が拡がった。そうなのだろうか。
喜びからは遠い思いで、誰かの意志に従うようにして、空はぬめるような銀の光を持つドアノブを握った。力を込める。
頑是無い幼女のように、空は無心に瞳をまたたかせた。静かに開いたドアの向こうに見えた光景に、どうしてと呟いていた。
開いていた目にヤマトの額から落ちた汗がこぼれる。絡め合った指先は離れることがない。唇は離れては、また重なり、そのたびに舌の熱さが伝わった。
下肢が甘く痺れる。そこを貫くようにして鋭い快楽がヤマトから与えられる。早く頂点に辿り着きたくもあるのに、ヤマトが身の内で猛っているのをまだ感じていたい。
彼の性の残滓は自分と同じく、すぐに冷え、むなしく流れていくだけだが、熱さだけは本物だ。
「つっ――」
ヤマトが突き上げてくる。爪を立ててしまいそうになり、太一は手を落とした。
すくい上げるようにしてヤマトがその手を握ってくれた。ヤマトの爪が手に食い込み、瞳がまばたきを繰り返す。同じようにと太一を見下ろしていた。
視線をくるみ、太一はヤマトに唇を重ねた。舌を絡め合い、熱に浮かされる振りをして顔を傾けた。
ヤマトの吐息が乱れた。いっそう深く押し入り、ヤマトは太一を責め立てる。
「……なんでだよ」
ヤマトの泣き出しそうな声に、太一は目を開いた。言葉の代わりに優しく髪に触れ、口づけよう。未練は見せない。
指先を伸ばす前に、太一はもう一度まばたきした。
――視界をかすめていくのは彼女の姿だった。弱々しい諦めと哀しみの眼差し。それだけは見たくなかったというのに。
なぜここにという疑問の前に、ひたひたと遠い思いが体を突き抜けていった。終わりだ。壊してしまった。
太一の異変に気づき、ヤマトは太一を見つめた。今の時にはふさわしくない静かな横顔がそこにはあった。
「太一?」
彼はまばたきをしない。息もしていない。そしてその動かない瞳はある一点だけを見つめていた。誘われるようにヤマトは太一の視線を辿った。
時間がきしむ音がした。
「空――」
太一の視線でなく、ヤマトの視線と言葉に空は駆け出した。
響く足音が消えない内に、太一はヤマトの胸を強く押し、突き飛ばした。
「行けよ」
信じられないものを見るように、ヤマトは目を見張った。
「行けって!」
太一の言葉には打つような響きと共に、ヤマトに嘆願するような調子も込められていた。
ヤマトの手が動いた。立ち上がり、ぎくしゃくとズボンの前を締める。彼が走り出すまでの間、太一は目を逸らし続けた。
すぐにドアがロッジ全体を揺るがすような音を立てて、閉まった。
太一は横たわり、息を整えた。ヤマトが体に残していった気配が消えるのを待った。すべての熱が引くと、太一はずるずると体を起こし、片膝を抱えた。額を膝に押し当てる。
うずくまり、太一は動かなかった。息だけ続けた。それくらいの時間は必要だった。
※
首筋から背中へ汗が流れていった。彼女へ追いつくために走ったせいでこぼれた汗なのか、太一に触れていたために生まれた汗なのか、区別できなかった。
「空」
早足で歩く空はもちろん振り返らない。靴の踵がかつんとかつんと石に当たって固い音を立てていた。髪が揺れている。柔らかな色合いのスカートの裾が膝にまとわりついて、空は少し歩調を乱した。
ひたすら空の後を追い続け、ヤマトは彼女の肩を掴んだ。何の抵抗もなく、細い肩はヤマトの手の中におさまり、くたりと糸の切れた動きで、空はヤマトに向き直った。
ヤマトを見上げる彼女の顔は美しいほどに無表情だった。彫像のように動かない空の瞳がまたたき、ボタンが二つだけ留められた、くしゃくしゃのシャツを見た。
いまだ汗の浮く肌が覗く。赤黒いかさぶたが張りつつある三つの傷。傷の一つは嫉妬、傷の一つは憎しみ、それから――空はあまりの思いに目を閉じた。自分も付けただろう。せめてもの想いの証に。
彼は傷つけずにはいられなかったのだろうか。それとも目の前の彼が傷をつけるほどに彼を追い込んだのだろうか。
空は瞳を開けた。ヤマトがいる。瞳の中に変わりなく、たとえようもなく苦しげな顔をして、空を見つめていた。
きっと自分も同じ瞳をしているに違いない。喉に迫り上がってくる塊を空は飲み込んだ。そのために呼吸を乱し、その震え声のまま訊ねた。
「どうして?」
言葉に応えるのは不可能だった。
「どうして太一なの?」
ヤマトほど、その答えを求めていた者はいなかったし、空ほどその答えを聞きたいと思った者もいなかった。
空はヤマトの手を振り払い、走るに近い早さで歩き出した。ヤマトには追えなかった。
答えを見つけられない限り、永遠に空には近づけない気がした。
※
ロッジまで迎えに行くと念押ししたはずなのに太一は駐車場で待っていた。太一が立つ場所まで車を回し、岡は窓を開けた。数日ぶりの連絡があったのを喜ぶような心境にはなれなかった。
「……」
太一は何か言おうとし口をつぐむと、今度は微笑しようとした。首を振り、岡は運転席から降りると後部座席のドアを開けてやった。
太一は屋根に手をかけ、車内に乗り込む前、岡の方を振り返ると小声で幾つかの頼み事を口にした。岡は唇を歪め、黙ってうなずいた。
帰路で口は聞かなかった。岡は咎め立てをせず、太一も弁解しなかった。月単位で借りていた仮住まいのマンションではなく、光子郎のマンションの前で車を停めると岡はハンドルを指先で叩いた。
「……謝ってこい。心配してたぞ」
太一はドアを開けた。後ろ姿に岡は声をかけた。
「あいつはお前の――」
太一が振り返る。
「岡はあいつの名前を知らないのか?」
「聞かなかった」
嘘を罪の意識も持たず言った岡だったが、太一の口調には目を伏せた。
「石田ヤマトっていうんだ」
そのような響きで名を呼ばれれば、彼以外は目を伏せずにはいられまい。
「……覚えておいた方がいいか」
「いや、いい」
太一は首を振ると歩き出す。見送るのがつらく岡は車を出した。今、出来るのなら大声で泣き出したかった。
光子郎に比べれば大したことはないと必死に言い聞かせ、車の速度を上げ、太一から遠ざかった。
チャイムを鳴らして開いた扉の向こうには光子郎の静かな顔があった。
「お帰りなさい」
光子郎は太一と目を合わせなかった。
「びっくりさせましたか? 帰ってきてたんです」
玄関から動かない太一を光子郎は促した。
「部屋に行きましょう」
「ああ……」
言われて気づいたように太一が靴を脱いだ。ゆっくりした動きに光子郎は目を細める。それだけで何も訊ねなかった。
太一は居間に入ると、ようやくとまどったように足を止めた。
「――驚きました」
それを見て光子郎は穏やかな口調で呟き、強張った太一の肩に触れた。今は指を置くだけだ。羽のように軽く静かに。首に見え隠れする傷跡になど触れはしない。
「……太一さん、煙草を吸うようになってたんですね」
太一が振り向く。動きに合わせて視線を逸らした。
「あまり体にいいものじゃありませんが、こういう嗜好品は人の好み……」
「光子郎」
決意した太一の声は恐怖を呼び、それを自覚するのが嫌でわざと光子郎は太一の唇を塞いだ。太一の唇が柔らかく溶けていくのがむなしかった。
「返しておきます。忘れ物のようでしたから」
太一の手にライターを滑り込ませた。光子郎の体温で温められ、太一が握りしめたライターは生ぬるい。指紋がべたついて、銀の光が鈍かった。
「光子郎、これは」
「専門外なので分からないんです。こんなライターって高価な物なんでしょう?」
「そうなのか……だったら」
返さないと、と太一はうなだれた。
光子郎が抱き寄せた太一の体はぐったりしていた。太一の手を無理矢理こじ開けて、握りしめられたライターを投げ捨てたかった。だが、言わねばなるまい。
「太一さんのものでしょう」
「俺のじゃない」
「あなたのです」
自分にも言い聞かせた。それでいいのだった。日本を離れればすべてが終わる。何も残していかないつもりだった。抱きしめた腕にただ力をこめた。
「俺のライターじゃない」
腕の中の太一の肩がくつくつと揺れた。漏れた声は笑いのように聞こえた。
誰を笑っていたのだろう。今のやり取りは喜劇のようにも思えた。
「ヤマトのだよ」
太一の肩の震えは光子郎の手の震えと同じだった。失う恐怖に揺れていた。
「このライターはヤマトのだ」
太一は繰り返した。
さまよう光子郎の目を射るようにして、太一の肌に刻まれたヤマトの痕跡が目立つ。ヤマトを含む他の男たちに嘲笑われているようだ。彼らは自分の目の前から太一を奪っていくのだ。
太一が顔を上げた。自分を恐れているのなら目を伏せて欲しかった。
「……もう知っているんだろう?」
答える代わりに他の行動をとりたかった。太一の頬を打つか、殴るか、それともその体が自分のものだと手荒く最低な方法で教え込ませるか。
何もできないまま光子郎は太一と目を合わせた。太一を憎むなど出来るはずもなかった。
こんな時間でさえも喜んでいる自分だけを憎んだ。
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