君を待ってる
28



 ――うたた寝を覚ましてくれたのは何の物音だったのだろうか。眠る前まで、痛いほど握りしめていた携帯電話はテーブルの上に哀しく、転がっていた。少し休むつもりで顔を伏せた頃は、まだ明るかったというのに窓の外は暗い。
 重い体を椅子から離して、冷蔵庫からミネラルウォーターの入ったペットボトルを出した。
 暗い部屋で飲んだ水の冷たさが胃に溜まる。頭にも冷たさが這い上がってきて、空はゆっくり息を吐きながら、シンクの縁に手をかけた。体中がだるかった。
 きっとひどい顔をしている。寝不足でむくんだ顔と真っ赤になった瞳。今、ヤマトがドアを開けたら、顔を隠してベッドに入らなければいけない。背を向けたら、ヤマトは自分が怒っていると思うはずだ。首どころか、肩もすくめているようなヤマトの声で名を呼ばれたなら、ちょっとしわがれた今の声で言おう。 話は起きた後にしてと冷たくもない声で。それから眠るのだ。ヤマトが消えていた時間だけ、彼を不安にさせよう。
 とりとめのない想像をしている内にため息が出た。
 唇を引き結んで、警察にも行った。話を聞いてくれた初老の刑事は終始難しい顔で、空が口を閉じた後、小さく首を振った。
 心からの同情を示してくれたのは空の腫れた瞼を見たせいだろう。だが、実際的なことは何もできないのだと彼は言った。彼の言うとおりだった。それこそ、まだ保護を必要とする未成年ならばともかく、とっくに成人し、自ら出ていった男性の家出に対しては、せいぜい届けを出すくらいしか、やることはなかった。
 刑事はいたわるのと同時に気が咎めるような口調で、ご主人がいなくなったことに関して、思い当たることはないかと訊ねてきた。
 彼が想像しているらしい、思い当たることに空は強く首を振り、黙って家に戻った。
 他の女など。浮気など。否定する自分が恐ろしかった。否定したい心は肯定の裏返しのようだ。  
 事情を知るヤマトの友人達は心当たりを探してくれている。何も知らない、知らせたくない友人達には、それとなくヤマトの所在を知らないか訊ねてみた。すべての答えは共通していた。誰もヤマトの行方を知らなかったのだった。誰も知らない。誰一人として。
 がらんとした部屋を眺め回し、今の自分のようだと感じた。空っぽなのにヤマトの気配だけが残っている。虚ろなのに、ヤマトだけを追い求めている。
テーブルに顔を伏せ、空は肩を静かに震わせた。どうしたらいいか、わからない。何がいけなかったというのだろう。何を知らなかったというのだろう。
 低い空気の唸りが部屋に響いた。赤い目をまたたかせ、空は携帯電話を取り上げた。メールが来るたび、電話がかかるたび、飽きもせず希望がよみがえる。疲れ切っていても、もしかしてという思いは捨てきれない。
 電話ではなく、メールが届いていた。誰から来たものか確認しようとして、空は眉をしかめ、すぐにひくりと唇の片端を震わせた。
 差出人の名はAになっている。件名は石田ヤマトの行方、だった。
 空は目を大きく見開き、メールを読んだ。
 六回、読み終えると電話を横に置いた。疑いよりも、虚実の可能性を思うよりも、鋭く早く、その棘は心に突き立てられた。空は顔を覆った。夜も遅く、その場所は遠かった。今の自分とヤマトのように。
 そこへヤマトは――彼はどんな思いを抱いて向かったというのだろう。
 メールが伝えたヤマトの居場所は、あの夏のキャンプ場だった。眩しい輝きの一つの舞台であった、あのキャンプ場だった。



 空腹になったら食事を作った。眠たくなれば目を閉じた。抱き合いたくなれば手をのばしたし、口づけたければ目を閉じるか、顔を近づけた。それで望むものは手に入った。体が欲するままに食べ、眠り、抱き合ったが、いつもそのリズムが二人一緒だとは限らない。
 太一が傷口に口づけて目を閉じた後、ヤマトは空腹を覚え、ロッジのキッチンに立った。小さなキッチンだが設備は整っている。太一が起きたときに備えて、二人分食事を作った。残った冷や飯を炒めて、吸い物と一、二品のおかずを添える。
 時間を見れば夕飯にふさわしい時間帯だった。太一の疲れ切った様子を思い出し、さらに品数を加える。甘い物を欲しがった時も考えて、買い出しの際に購入したチョコレートを出しかけ、ヤマトは苦笑した。太一は起きてもいないし、また目が覚めたからと言って、すぐに食事を欲しがるとも思えない。
 先に食べようとしたが、やはり一度は寝室を覗いてみる。ベッドの上に太一はいなかった。
 焦らないで、開きっぱなしの窓に近づいてみる。ここから直接、木造りのデッキに出られるのだ。
 予想通り、太一が椅子にも座らず、ロッジの壁に背を預け、床板に腰を下ろしていた。軽くシャツを羽織り、下も薄手の楽なパンツを履いているだけだ。そんな気楽な格好で、太一は風に吹かれていたらしかった。
「風邪、引くぞ」
 日も沈めば、緑が多いキャンプ場には冷たい風が吹く。暗い隅に座る太一の姿は、寒く寂しげに見えたが、返ってきた返事は散文的なものだった。
「さっきから腹が鳴ってるんだ。腹減ったなあ」
「準備出来てるから、来いよ」
 太一は気が抜けたように笑った。
「立てない」
「ここまで来たんだろ?」
 ヤマトは笑った。
 太一も首を傾けたまま笑って、言った。
「ここまでは来れたんだ」
 太一の言葉を受け入れて、デッキで夕食を取ることにした。夏にここでバーベキューを出来るようにもしてあるので、食事を取るのはおかしいことではない。テーブルも椅子も最初から置かれているし、照明も用意されている。
 寝室の明かりも付けると、デッキは明るくなった。明かり目当てに寄ってくる虫を気にしなければ、外の風に吹かれて取る食事も悪くない。オレンジ色のライトに照らされた食卓は、食欲をそそる色合いになっていた。
 太一は美味そうにヤマトの作った料理を食べ、ヤマトは目を細めながら、太一が旺盛な食欲を見せるのを眺めていた。
 余程、外にいるのが気に入ったらしく、太一は夕食を取った後もデッキに居続けた。上着と毛布を掛けてやり、温度の下がってくる空気に太一の体が冷えないようにしてやる。
 夕食の後片づけが終わっても太一が戻ってくる気配はない。ヤマトはため息をついて、マグカップ片手にデッキを覗いた。
「ここで寝るのか?」
 太一の返事はなかった。
 ヤマトは太一の隣りに腰を下ろし、湯気の立つミルクの入ったマグを手渡す。一口飲んだ太一からコーヒーがいいと言われたので、ヤマトはぼそぼそと呟いた。
「刺激物だと悪いだろう」
 太一はすぐにヤマトの言いたいことを悟り、苦笑した。夕食を取っても疲れが残る横顔に、恐る恐るヤマトは訊ねた。
「痛むか?」
「今日の夜は無理だな」
 太一は両手を組み合わせて前へ突き出し伸びをすると、首を傾けた。すぐ横にあるヤマトの唇に小さく囁く。
「ごめん」
「……謝る事じゃない」
 唇は重ねないまま、太一は頭を戻した。もぞもぞと体を動かし、ヤマトにも毛布を掛けてやる。風の向きが変わると、また一段と寒くなった。
 黙っているのが恐ろしく、ヤマトは辺りを眺め、自分でも呆れるほどありきたりな言葉を口にした。
「星が綺麗だな」
 太一の肩が揺れる。笑っているのだと知るとほっとした。何よりも恐ろしいのは自分が笑われることではなく、太一との間に沈黙が訪れることだった。
「そうだな。本当によく見える」
 目を細める太一を見つめている内に、ヤマトはふと思い立って、寝室とデッキの明かりを消し、非常用の懐中電灯を手にして戻ってきた。
「観察でもするのか?」
「こっちの方がよく見える」
 並びなど関係ないようにばらまかれた星を見上げて、ヤマトは肩の力が抜けていくのを感じた。星はこれほどたくさんあるのだと、なぜか安堵した。
「やっぱり違うな」
 太一が呟き、ヤマトはどういう意味だと問いかけた。太一は何でもないように、日本とブラジルでは星の位置も数も違うと答えた。
「田舎で見たせいかな。あっちの方がいっぱい見えた」
「空気が綺麗だからだろう」
「星座が逆さまになるって教えてもらった」
 太一の言葉にうなずきかけて、ヤマトは顔を強張らせた。暗くて自分の表情が見えないのが救いだ。
 太一は誰に教えてもらい、誰と星を見たのだろう? 今やっているように、こうして肩を並べ、星明かりの下、太一とその誰かは視線を交わしたのだろうか。
 太一の声があたたかく、ヤマトの冷たい耳を通る。
「――同じチームのキーパーが言ってたんだよな。あいつ日本に居たときもあったからさ」
 毛布の中のぬくもりが体中に染みわたっていった。
「でも俺一人じゃ、星の名前も分からねえし。ずっと見てたら首が痛くなった」
 太一が忍び笑う。太一の笑いに合わせて動くであろう髪に、ヤマトは顔を寄せた。
 耳元にかかる吐息に太一が横を向く。
「ヤマト?」
 怯えるようにヤマトは太一に口づけてもいいかと訊ねた。低い声音に太一は黙って頷き、目を閉じた。
 顔を傾け、太一に唇を重ねる。唇が濡れる頃、太一の手に頬を挟まれ、笑われた。
「顔が冷たい」
「お前も」
 これほど暗いのに、どこに何があるのか、はっきりわかる。太一の唇に当てた親指と人差し指に吐息がかかった。くすぐったいと太一の唇は笑っていた。
 ヤマトは太一の頬を包み、手を滑らせるようにして耳に触れ、髪を撫でた。しばらくヤマトの愛撫に体を委ねて、太一は目を閉じた。何もかもがヤマトだけに満たされていく。
 太一が目を閉じたのを指先で知ったのか、ヤマトの唇は瞼にも重なった。飽きもしないで、口づけや指先が肌に落とされた。
 息づかいと鼓動が重なり、同じリズムで早まり、静まった。それが沈黙の中で一番大きな音だった。
 その音が遠くに消えたとき、朧気な意識で、衣服に隠されたヤマトの胸の傷に唇を寄せ、太一はヤマトの腕の中で眠りについた。


 ぐらりと傾ぎそうになった太一の体を支え、自分の体にもたれかけさせる。肩に太一の頬を乗せ、寝息が乱れていないのを確かめた。太一に起きる気配はない。体と腕で支える太一の重みが増し、ヤマトは唇を噛んだ。これが太一の重みなのだった。
 太一はこの重みの記憶と傷を残しただけで行ってしまうのだろう。彼は振り返らない。自分も振り返らない。それが約束だった。違えることが決してない約束だ。
 風に冷えた太一の髪に唇を寄せ、ヤマトは目を閉じた。もう少ししたら、寝室に戻ろう。――だから、もう少し太一を支えていよう。
 もう少し。それが今のすべてを表す思いだった。
 四日目の夜だった。すべてが夜に沈み込んでいた。 


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