君を待ってる
26



 不安を殺し、絡まる鎖を引きずりながら、生まれたのは何をしても笑みがこぼれる空々しいほどの明るさだった。虚ろだから、笑いはよく響く。
 ヤマトが車を取りに行き、ふたたび太一の元へ戻ってくると、太一は意外なほどの几帳面さで荷物をまとめていた。
 大した量でもないので、トランクではなく車の後ろに着替え用の衣服を詰めた袋を置いて、一週間分の食料を買いに、ヤマトが昨日見つけたスーパーへ向かった。
 ヤマトは野菜や肉、魚をカートに丁寧に入れて、太一は自分が好んでいるらしい嗜好品を入れていた。
 押しつぶされそうになったトマトや卵を見て、ヤマトはあわててカートの中を整理し、ペリエを二、三本無造作に入れようとした太一に、ここに入れろと注意した。
 太一が笑いながらうなずいて、ヤマトの指示に従う。見事なほど整然としたカートを覗き込んで、太一はぼそりと言った。
「ヤマトって、バアさんみたいだな」
 にやにや笑う太一のキャップのつばをつまんで、思い切り下げてやると、太一だ笑みを消さずに、キャップを直しながら、乾物品が置かれている棚へ行ってしまった。
 後ろ姿を微笑で見送って、ヤマトは生活用品の置かれた一角へカートを押していった。
 レジに近い場所で歯ブラシや歯磨き粉を見ていると、太一が煙草と言って、レジ近くを指差した。
 最後でも構わないのだが、忘れるかもしれないと太一がせかすので、ヤマトはカートを太一に任せて、先に煙草を買いに行った。
 数歩歩いて、ヤマトは振り返った。
「太一」
 ヤマトの代わりに歯ブラシを選んでいた太一は顔を上げた。
「なんだ?」
「お前、吸わないんだよな」
「ああ。でも気にしなくていいぜ」
 太一が笑ったので、ヤマトはそのまま足を進めた。  
 レジで煙草を一カートン買おうとし、ヤマトはレジの中のレジの女性に訊ねた。
「やっぱりスポーツ選手は、吸わないんでしょうね」
 女性はくっきりした眉を寄せ、ヤマトをちらと眺めたが、容姿に心引かれたらしく、そうねとうなずいてくれた。
「肺に悪いものですし……ほら、肺活量とか、あるんでしょう?」
 女性はヤマトの後ろに目をやり、誰も並ばないのを見ると、小さな好奇心に押されたらしく、身をわずかに乗り出した。
「何かスポーツでも?」
「俺じゃなくて知り合いが……サッカーを」
「サッカーですか。あれは走り回りますからねえ」
 ヤマトは女性が取り出していたカートンを断り、謝罪すると、身を翻した。
 冷凍食品の陳列されたクーラーの前へ移動していた太一がヤマトに気づき、何も持っていない手を見た。
「煙草は?」
「いい」
 遠慮するなと太一は言ったが、いいんだとヤマトは押し切った。


必要な物を購入してしまい、目的地へ向かって、車を走らせ始めたが、太一が思い出したように寄りたい場所があると告げた。
「どこだ?」
「そこ、右に曲がって……来るとき、橋渡っただろ。あそこを下ってくれ」
 不思議に思ったが断る理由もない。太一の言うとおりに車を走らせ、やがて川岸に造られたグラウンドに出た。
「ちょっと、待っててくれ」
 開けた窓からグラウンドに少年の姿があるのを確かめて、太一は車から降りた。
 階段を下る太一の姿が見えなくなった後、ヤマトは無意識に胸元を探った。そこには煙草もライターも入っていない。煙草はともかく、ライターまで置いてきてしまったらしい。
 椅子を倒すとヤマトは太一が戻ってくるまで、空を見上げていた。


 階段を降りきらない内に少年達に見つけられた。弾んだ声の挨拶に、言葉を返しながら、太一は昨日と同じ地面を踏んだ。
 遅い、遅いと口々に文句を言う少年達に、柔らかい笑みが浮かぶ。
 早速太一を囲んで、サッカーを始めようとする少年達を、太一は止めた。
「ごめん、行くとこが出来てさ。……もう、来れないと思う」
 明るかった空気が静まり、沈んでいく。諦めを含んだ声で、少年が一人、訊ねた。
「明日も?」
 太一はうなずいた。
 ふうんと興味が失せたように少年達は返事し、続いて、しょうがないよなと気にしない振りを務めた。彼らの瞳の色は、みな一様に寂しげだった。
「ごめんな」
 太一の声の調子に、今寂しく思ったことを否定するように少年達は口々に言い出した。
「いいよ、別に」
「普通はオレたちだけなんだからさ」
「おじさんだって、忙しいんだろ」
 太一の顔を見上げては少年達は顔を逸らす。つまらなげにボールを蹴り出した少年の頭ではなく、肩を叩いて、太一はまたごめんと言った。
「いいって。昨日ので、だいぶ上手くなったし」
「ああ、上手くなってる」
 太一は笑うと、口うるさくはならないよう手短かに一人一人に話しかけた。口調と雰囲気のせいか、少年達は太一の長くはない助言に真剣にうなずいた。
 少年達が時折、眩しげに太一を見上げるのは、背の高さもあっただろうが、もっと他のものもあったからだろう。憧れ、とまどうときに浮かべる自身の瞳の輝きが目の前の人を眩しく見せていた。
「……じゃあ」
 少年達の動きが、昨日以上に軽やかなものになるのを確認して、太一は手を上げた。少年達も手を振った。バイバイと階段を上がる太一に大きな声をかける。
 何度も手を振り返し、階段を上がっていくと、路上の車が見え出した。車の中で眠っているヤマトも見える。驚かせるのもいいなと太一は静かに車に近づきかけ、呼び止められた。
「おじさん!」
 階段に小さな頭が幾つも見える。ぴかぴか光る黒い目が何かを言いたがっていた。
 足を止めた太一の元へ、近づいてきたのはその中の一人だった。  彼は昨日のような曖昧な問いかけではなく、はっきりした確信の眼差しで太一に言った。
「おじさん、八神太一だろ」
 肯定も否定もせず、太一は笑った。少年も問いつめず、大人びた様子で笑った。
それから、笑いをおさめると、少年は自分よりも遙かに年上の男に真面目な顔をして言った。
「――しっかり、やれよ」
 緊張していたのか言葉の語尾が少し上がって、不思議な残響を残した。
 そんなことを言うのは自分には早すぎるかもしれないけれど、言わずにはいられないといった風の真剣な視線に、太一はゆっくりうなずいた。
「分かってる」
 太一はキャップを外し、少し乱れた髪を風にさらした。
「ありがとう」
 笑って、太一は背を向けた。
 起き上がって、こちらを見つめているヤマトの元へ向かう。
 助手席に乗り込んで、窓の外を見ると、少年達の姿はもう見られない。かわりにグラウンドから、賑やかな歓声が聞こえ始めていた。
「知り合いなのか?」
 流れが止まって見えるほど静かな川を見ていた太一は、ヤマトの言葉に、小さくうなずいた。
「ああ」
 言葉は短かったが、大切なものを見つけた言い方にヤマトは笑みを浮かべた。
「そうか」
 遠ざかっていく車を見送る者は誰もいない。静かな川には子供たちの声だけが響いていた。



 握りしめたチケットには皺が寄っていた。迷いの証だ。太一を信じるか、それとも疑うか。
 ――何でもないと太一は言ってくれた。少し、気分が悪くなって戻しそだったので、電話を放り投げてしまったと光子郎に謝った。
 その太一の言葉に光子郎はうなずいた。
(そうだったんですか)
 光子郎の返事は落ち着いていた。心の冷えた部分からは病院には行きましたかという問いも出てきた。
 太一の返答は覚えていなかった。そんなことも自分には出来るのだ。太一の声を聞き流してしまうほど太一自身に囚われることが。
 起こして悪いと太一が言ったときだけ、笑った。太一が聞いた自分の声は寝起きでかすれた声でなく、一日半起きていたために低くなった声だ。
 電話を取ったのは早朝の空港だった。自宅の電話から転送されてきたコールだった。
 太一は、いつも光子郎と同じ様な電話のかけ方をしてきた。時差を考え、相手の邪魔にならないようにして電話をかけてくるのだ。
 その太一が、初めてこんなに早く電話をかけてきた。待つ暇もないくらいに、あわてて、 自分に謝罪するために。疑いを持たれないために。
 訊ねたいという気持ちを、どうやって押さえつけたのか、よく分からなかった。誰のためになのだろう。誰と過ごすために、こんな電話をかけてきたのだろう。  太一には一言も言っていない。あの日、電話の向こうから聞こえた声に、会社へ向かうかわりに空港へ向かったことも、一昼夜、席の空きを待ちながら、港の固いソファで過ごしたことも、それから彼の元に一人の男が訪れたのを知ったことも――岡から聞いた話などは一言も口にしなかった。
 久しぶりに訪れた『友人』は、すぐに帰ったはずだった。太一を一人きりにしておくのは避けたいことだったので、友人と話して気を紛らわせるのもいいと思った。太一に近づく誰もに嫉妬してもしょうがない。それくらい平気なはずだった。
 だが、訪れたのが彼以外なら、どんなに良かったか。
 おぞましい秘密を持ってきた彼は一体、太一と何を話し、どんな時間を過ごしたのだろう。必死に連絡を取ろうとする自分と岡のことすら、忘れさせてしまう時間だったのか。
 電話越しに事情を話す太一の声には滲み出るような切なさがあった。光子郎の身を切り、心を引き裂く声だった。  
 太一を信じたい。待ち続けて、ついに手にしたチケットを捨てたかった。
 心配のしすぎだと、いつも思っている。太一は目を離せないような子供ではない。一方的に守っていたような、そんな時期はとうに過ぎていた。それとも自分の腕の中で苦しんでいた太一が恋しかったのだろうか。
 光子郎は息を吐きながら、目を閉じた。
 簡単だ。何を言っているのか定かではない、太一のささやきのような言葉一つでも、自分はすべてを捨てられる。過去も未来も、現在でさえも惜しくなかった。自分の全てと引き替えに、太一の眼差し一つが与えられるのなら悔いはなかった。
 アナウンスが始まる。手の中のチケットをもう一度見つめた。
 太一は拒んでいた。止めろというささやきを確かに耳にした。その前の揉み合うような音も。
 ――では、それを信じよう。太一がヤマトを拒んだという偽りを信じよう。
 光子郎は立ち上がった。荷物は持っていない。クレジットカードと現金、小切手帳の入った財布が上着に入ったきりだ。
 搭乗手続きのためにカウンターまで向かう。握りしめたチケットには深い皺が寄っていた。



 玄関で待つ。廊下を歩いて待つ。キッチンの冷たい床の上で待つ。ソファに腰掛け、手の中の携帯電話をもてあそぶ。
 家電の稼働音が部屋に響いていた。時計の秒針を、いつの間にか数えていた。
 ヤマトについて、これほどまでに考えたことがあっただろうか。結婚する前でも、なかったかもしれない。
 たそがれてくる空をカーテン越しに見上げて、空は手を組んだ。三日も前のヤマトが遠く思えた。
 自分は幻想を持っていたのだろう。ヤマトのことなら、誰よりもよく分かっていると信じ込んでいた。幸せだったから、そんな甘い考えを抱いて、ここまで来られた。そして今、現実を突きつけられてしまって、それに衝撃を受けている。
 ――訊ねてみたかった。そんなに煙草を吸ってばかりいるのは、ため息を隠すためなのかと。
 紫煙はヤマトの横顔をいつも曇らせていた。風や吐息で吹き散らせたはずの煙草の煙は、いつしかヤマトにまとわりついて離れなくなっていた。
 ため息を隠し、煙を吐くヤマトの顔を見つめていた。いつ、気がつかれてもいいように笑顔を用意してヤマトを見ていた。だが彼は自分に気づかないまま日々を過ごし、ついに姿を消してしまったのだ。
 レコーディングのために詰めているスタジオから電話が入ってきたのは三日前だった。
 ヤマトがふらりと出ていったきり、帰ってこない。携帯電話でも連絡が取れないので、自宅に帰っていないだろうかと。空も顔を知るヤマトの仕事仲間は訊ねてきた。
「今回、メインがあいつなんで、いないと困るんですよ」
 その通りだった。レコード会社からの誘いについて語るヤマトは嬉しげで――同時にもっと別のことを気にかけていた。二人だけのささやかな祝いの席でも、ヤマトは始終上の空で、空の話を聞いていない自分にも気づいていなかった。どうしたのと訊ねなかったのはヤマトを信じていたからだろうか。
 空はこめかみを押さえうなだれた。座っていても頭から血の気が下がっていくのがわかる。まともに眠っていないせいだ。下腹部にどんよりした重みが溜まっているようだった。
 寝不足で気が立っているからなのか、肌を粟立てるぞっとするような予感を感じて止まない。
 ちらつく影の顔はわからなかった。本当はいないのかもしれないし、自分が思う以上にヤマトの心に食い込んでいるのかもしれない。まさか、とうの昔に気づいていたのに直視するのが怖いだけなのだろうか。あんな分かりやすい――分かりやすすぎるヤマトの態度の変化に、気づきたくないのかもしれなかった。
 唇が震えた。不安が心を侵す。涙が落ちる前に、笑いを含んだ優しい声が耳元でよみがえった。
 ――そんな奴じゃねえよ。お前が一番よく知ってるだろ。
 緑のグラウンドを見下ろしていた太一は空に目を向け、ほほえむと優しく言った。何でもないすれ違いを積み重ねて、別れの決意をしようとしていた時だった。
 その時に初めて気づいたのだ。太一が自分に向ける声に深い慈しみが込められていることに。
 兄でもなく、弟でもなく、友達でも恋人でもない、優しさといたわりに満ちた太一の声音と笑みに気づいたとき、太一を、そしてヤマトを信じられると素直に思えた。 
   その夜、ヤマトの家へ行こうと支度をしているところへ、とうのヤマトが訊ねてきたのだ。父と母の視線を避けるため、外に出て、海岸沿いを二人で歩いた。
 ヤマトは街灯の下を通り過ぎる前に、太一に怒られて目が覚めたと、今までのことを謝り、もう一度やり直したいと切り出してきた。
 返事はしなかった。あのときは涙が返事代わりだったのだ。冷たい潮風とヤマトの頬の赤さをはっきり覚えている。それから唇の熱さも。どちらの唇も涙と潮風のせいで塩辛かった。
 いつもそうだった。小さなケンカならともかく、大きな諍いになると、太一はしょうがねえなとからかい混じりのため息をついて、空とヤマトの間を行き来し、切れかけたヤマトとの糸を上手に結んでくれた。
 長く、苦しい息を身体から押し出すと、額に当てた手で顔を支えながら、空は低くささやいた。
 ねえ、太一。今度も、あなたを信じていい――?



 彼方でささやきがこぼれた頃、ドアを後ろ手に閉めて、ヤマトは太一を見つめた。太一もヤマトを見つめた。
 ついに来てしまった。 
 七日間の果てに、戻る道を残してきたとは、どちらにも信じられなかった。木の匂いに包まれて、ヤマトと太一は見つめあっていた。
 

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