君を待ってる
25



 太一の嘘は聞かなかった。
 太一が電話に出る前とかける前に、ヤマトは浴室を借りると言って、部屋を出た。すがるような太一の眼差しには応えられなかった。岡へ、そして光子郎へと向けられる言葉は聞けない。彼らとの距離は、まだ開いている。
 小さな浴室はクリーム色をしており、壁の凝った模様が可愛らしかった。
 コックを捻って、水音で太一の声を消してしまうと、ヤマトは洗いたくもない髪と体を濡らした。  今夜も太一に触れることが出来るのだろうか。自分の体に太一の匂いを纏わせることが。
 沸き上がってきた欲望に、湯の温度冷たくした。この興奮は、まるで初めて性を知った少年のようだ。太一を抱くことだけ考えている。昨日よりも、もっと熱いかもしれない、太一の躯を思っている。太一を抱く、それだけのために居残ったことをヤマトは否定しなかった。
 太一が電話を切った頃を見計らって浴室から出てきたが、太一の表情は、さきほどまでの会話を引きずるような沈んだものだった。
 肩を掴んで、自分以外のことを忘れさせてやりたかった。
「……上がったのか」
 太一が顔を上げた。濡れたヤマトの髪を見て、目を伏せると、足早に横を通り過ぎていく。
 呼び止めず、冷蔵庫からビールを取り出すと、その場で口を付けた。飲みながら、ソファまで歩いた。
 涙が乾いた後の太一は無口になった。視線は感じるが、あまり喋ろうとはしない。夕食の時は不安を消すように、ヤマトの方がどうでもいいようなことを話していた。
 空も、光子郎の名前も、彼らを匂わせるものも出てこない、沈黙を紛らわせるためだけのヤマトの言葉に太一は微笑し、たまにうなずき、相づちを打った。帰れとも、ここにいろとも言わない。ヤマトがいることを淡々と受け入れたようだった。
 苦いビールを飲んでいると、水音が聞こえなくなり、太一が姿を見せた。
 肩から下げたタオルを両手に握った太一はヤマトを認めると、笑いに近い眼差しになった。タオルを床に放り投げ、大股で近づいてくる。
 ヤマトの前に立つと、太一は舌先をちらりと見せながら、軽く唇を濡らした。
「……泡」
 言葉の意味を掴んだ瞬間、太一の指が唇に触れた。ビールの泡を拭った指はヤマトの唇を優しく撫でて、濡れた感触を広げた。
 人差し指だけの愛撫に息を呑むヤマトに、太一は顔を近づけ、軽い、けれど充分に官能を含ませたキスをした。舌がヤマトの唇を舐めて、焦らすように離れていった。
 唇を離した太一はヤマトの目を見つめ、再度唇を重ねた。滑り込んでくる太一の舌に、頭の後ろが痺れてくる。
 抱きしめようとするヤマトの腕をさり気なく払いながら、太一はヤマトの服に手をかけた。太一から借りたシャツのボタンが外されて、躯から取り除かれる。  
 逃れる太一の躯を捕らえたと思ったが、太一は身をかがめ、ヤマトの肌に唇を押し当てた。
 ヤマトと絡んでいた太一の舌が今度は肌に這う。意識もしたことがない快楽を生み出す箇所を太一は探り当て、ゆっくり舐め上げた。
「太一……」
 肩から手を落とし、太一はヤマトのファスナーを下ろした。ズボンを下げ、前をくつろげると、下着を探る。キスの刺激に淡く、形を変えていたそこを引き出して、口に含んだ。
 太一の口内の生温かさを感じた瞬間、違うという思いがこみ上げてきた。躯を引こうとしたが、太一の指先に捕らわれて、それも無理だった。
 次々に襲ってくる快楽が抵抗を奪う。どれだけのことを心得ているのか、昨夜、横たわり、怯えを見せていた太一とはまったく違っていた。舌と指を使い、男の快楽をヤマトに与えていく太一に違和感を感じても躯が許さない。
 ヤマトを焦らすように舌が弱くなり、また強くなった。そのたびに漏れる喘ぎも、太一の前に消えていった。焦らされ続け、目が潤んでくる。
 最後に与えられた刺激に、ヤマトはひときわ低く呻いた。躯から快楽が流れていく。口内を汚したはずの体液を、太一はまったく悟られずに、すべて飲み干してしまったようだった。嫌がる表情も見せない。屈んだ躯から、ヤマトは何かを見た気がした。
 いつの間にか握りしめていた太一の髪を離すと、太一が顔を上げた。
「まだ、平気だろ」
 ヤマトの胸に太一が手を置く。誘うように動く掌は、どこか苦しげでもあった。
「太一」
 熱っぽい声に、自分がもっと深い快楽を望んでいるのだと思ったらしい。
「……ごめん、ゴムがないんだ」
 太一はソファに片膝を置いて、ヤマトに笑いかけた。仮面が笑ったような不自然で虚ろな笑みだった。太一は今までもこんな笑みを浮かべてきたのだろうか。
「だから今日入れるのは勘弁してくれ。他のことなら、俺やれるから」
「太一」
 太一の言葉以上に、笑顔が怖ろしく見えて、ヤマトは声を大きくした。自分は知らない。こんな妖しげで、人を惑わせるような眼差しや雰囲気を持つ太一など。
 太一の後ろに彼が過ごしてきた夜の時間が、かいま見えた。それらに嫉妬し、心惹かれながらも、ヤマトは太一の下がってこようとする指先を止めた。
「お前、どうしたんだよ」
 太一の腕をヤマトはきつく掴んだ。
「どうしたって……」
 太一は言葉を探し、すぐにごまかそうと決めたようだった。
「そりゃ入れる方が、気持ちいいけど危ないだろ」
 せわしないまばたきが太一の心を隠そうとし、余計に露わにする。混乱の中に様々な色合いの感情が浮かんだ。すべての心に恐怖が混じっていた。
 ヤマトは目の前の太一を見続けた。
「別に、お前のことを疑ってる訳じゃない。俺の方が……色々あったから、コンドームがないと病気とか……」
 語尾が小さくなっていく太一の声にヤマトの顔色が変わった。
「感染したのか」
 太一の目が歪み、すぐに逸らされた。
 ヤマトが今何を考えているかを知って、太一は彼を突き飛ばしたくなった。想像しているのだ。男たちに犯されていた浅ましい姿を。それから病気の可能性を持つ自分の汚らわしさを厭っている。
 ヤマトが自分との快楽を願っているのなら、それでもいい。未知の快楽は誰にとっても魅力だろうから、ヤマトが飽きるまで適当に付き合ってやろう。だが、釘を差しておかなければならない。遊びと割り切るなら後に尾を引くものは残してはいけないと。
「今のところは別に。でも俺が平気でも、お前は気をつけ――」
 言葉が言い終わる前にヤマトの手が離れ、太一はやりきれなさで胸が痛む前に、息を止めようとした。
 分かっている。理解もしている。それなのにヤマトの仕草一つ、言葉一つで、築いた壁は崩れていく。
 遊びでもいい、ヤマトの側にいたいと思うなど信じられなかった。自分の中には、こんなうぶな卑怯さがまだ残っていたのだ。
 離れた腕の温もりが消える前に、ヤマトの言葉が太一の息を止めさせた。
「なら、いい。よかった」
 離れたヤマトの腕は、震えながら太一に巻きついてきた。
「お前は大丈夫なんだな。ならいい。よかった……」
 ヤマトはよかったと繰り返して、太一を抱きしめた。強く、容易にはほどけない強さで、太一を腕に閉じこめた。
 ヤマトの肩越しに、太一は壁を見つめていた。どうしようかと思った。ヤマトの言葉に心底、途方に暮れた。
「俺はよくても、お前の……昨日は何も」
 言葉が上手く繋がらない。
「ああ」
 ヤマトはそれだけ言って、太一の背筋を撫でた。夕刻の時と同じように嗚咽を堪える太一の背中をヤマトはそっといたわった。
「だって、お前、病気に、」
「その時考える」
「もし死んだら」
「その時考え……」
 言い間違いに気づいたヤマトより先に太一が言った。
「ばかだな」
「ああ」
 その夜は、それで終わりだった。
 自分になおも奉仕しようと手を伸ばしてくる太一に、ヤマトはまだ怖いんだろうと訊ねた。太一は答えなかった。目線を下げ、自分の手を見つめただけだった。
 黙り込んだ彼の自分の体液の匂いがする唇にキスして、ヤマトはそのことに対する軽い冗談を叩いた。
 太一の目だけが笑みの形になる。そこに涙が盛り上がる前に顔を洗わせると、ベッドまで連れていった。
 太一が眠るまで、自分の名を呼ぶのに応え、手を握った。一度、寝付いても、太一は目を覚ます。昨日もこうだったのかと、早々に眠りに就いた自分を恥ずかしく思った。
 ヤマトと呼び続ける太一にうなずき、ささやき返し、太一が目を覚まさなくなるまで、ヤマトは目を開けていた。
 昨夜のように太一の躯の熱さやもっと熱っぽい囁き、絡みつく腕や足を得ることはなかった。そのかわり、この年齢の太一がどんな寝顔を見せるか知った。
 太一はまだ怖がっている。悪夢を見て、目覚めたばかりの少年のように心細い顔で目を閉じていた。そしてその中に、もう一度見る夢がきっといいものだと信じている安らぎも確かに見えた。
 太一の寝息が穏やかになっていく。深い眠りについたのを確認すると、ヤマトは太一の身体を引き寄せた。
   抱き締めた太一の身体が、これ以上ないほどぴったり自分の腕に心地よく収まるのを感じ、何も――太一以外のことは何も――考えないようにして、ヤマトは目を閉じた。


 
 朝になっても太一の姿は消えていなかった。初めて言い合う気がするおはようの挨拶をすると、ヤマトは遅い朝食を作ろうと、身支度を済ませて、キッチンに立った。手伝おうとする太一にいいからと首を振る。
 キッチンを出ていった太一は、食事の用意が終えたヤマトが呼んでも、姿を見せなかった。胸をざわつかせたヤマトが太一を探しに行くと、太一はキッチンの斜め向かいにある小さな部屋にいた。
 クローゼットのドアに背中を預け、ぼんやりと窓を見上げている。
何か音が聞こえると気がつけば、太一の横に小さなラジオが置かれていた。窓から差し込む光が、太一の大きな影とラジオの小さな影を作っている。
 ヤマトが部屋へ入る前から始まっていた曲は、ヤマトが足を動かしたときに終わり、賑やかな女性の話し声に変わった。あまり馴染みのない言語だった。英語ではないことが分かるくらいだ。
 流れていた曲を、どこかで聴いたようだと感じながら、ヤマトは太一の側へ膝をついた。
「太一、飯」
「ああ」
 ヤマトには気づいていたのか、太一は驚きもせず、うなずいた。そのラジオを止めるか、持ち上げるために伸ばされた手が、途中で止まった。
 新しい歌が始まっている。無意識のうちに、曲のコードを頭の中でさらっていたヤマトは、太一に呼ばれて、すぐ近くの顔に視線を戻した。
 太一は曲に耳を澄ましているようだった。情感の籠もった哀切な歌だったが、太一は憐れむような不可思議な微笑を浮かべた。
「この歌、知ってるか」
「いや……」
 女性の使用している言葉も分からない。そう言うと、太一はポルトガル語とつぶやき、すぐにブラジル語とも付け加えた。何年かを過ごした国の言葉だから、太一も幾らか意味が分かるのだろう。
「太一は知ってるのか」
「歌の出だしだけな」
 題名を訊ねようとしたヤマトの頬を太一の手が優しく挟んだ。頬を包む手は奇妙なぎこちなさを見せていた。まるで震えを必死に堪えようとしているような力の入れ方だ。
 ヤマトの頬に触れたまま、太一は歌う女性よりもかすれた声を出した。
「……ヤマト」
 太一が一度、まばたきした。重たい言葉を口にしようとしても、太一の瞼は軽やかに自分の瞳を隠し、ヤマトの視線を吸い寄せた。
「―― 一週間で、いいんだ」
 ほんのわずかな時間だった。かけ離れすぎた一瞬、それが永遠の沈黙だ。ただ、お互いの瞳だけを見ていた。
 そうしたら、と続けようとした太一を遮り、ヤマトは太一に口づけた。その先を聴きたくはなかった。どこまでも逃げたかった。
 さして長くもない歌が終わっても口づけを止めなかった。太一は唇を開かず、ヤマトは固く結ばれたその唇に許しを請うように口づけ続けた。
 ――この時間から、数年が過ぎたある日、ヤマトは太一に訊ねられた歌の題名を知ることになった。
 題は願いとでも訳すのだろうか。去っていく男へと向けられた歌だった。歌詞も同時に知った。太一がこの歌の最初だけを知っているという意味も同じく。
 七日間が太一の望んだ時間だった。終わりは確かに存在していた。けれど、あの時、女性は歌い出していたのだ。
 ――行かないで、愛する人よ、と。
 そんな歌に事寄せて、期限のある願いを告げた自分自身を太一は憐れんでいたのだった。
 なぜ、あの時、もっと太一を強く抱きしめなかったのだろう。ヤマトは歌を聴き、その詞をなぞりながら、失われた時間を思い後悔した。


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