優しく肩を揺らされた。手の感触はしっかりしている。空だろうか。寝言のようにして返事を返すと、弾けるような笑い声が聞こえた。
「寝ぼけるなよ」
声にひそむあたたかさの方が大きかったので、ヤマトは安心しきって、目を空けなかった。もう少し眠らせて欲しかった。満足するまで思いを果たした後の疲労がもたらす眠りは心地よすぎる。
「ヤマト」
指が髪を梳いていくのが感じられた。何という優しい指だろう。
指は髪をくぐり、頬を滑っていくと、唇で止まった。唇の代わりに当てられたのは、やはり指先だった。ヤマトの唇をくすぐるように指は輪郭を辿り、離れた。
「鍵、新聞受けか、下のポストに入れといてくれな」
声にではなく、眠気に促されてうなずくと、ヤマトは寝返りを打った。
笑いのようなため息が一つ残ったが、それが消える頃にはヤマトはふたたび寝息を立てていた。
※
扉を開けた瞬間に指先を唇に押し当てた。鍵を閉め、無意識にうつむきかける顔を正面へ向ける。キャップは深めにかぶり、この日差しの元ではおかしくない薄い色の入ったサングラスをかけた。
エレベータで階下まで下り、岡に電話をかけてみたが彼は出なかった。あとでかけ直せばいい。疲れているのだろう。太一は携帯電話をしまい、眩いばかりの光が満ちた外へ出ていった。
真っ青な空に太陽が輝いている。キャップの日除けをずらして空を仰ぐと、太一は微笑した。
「さあ、どうするかな」
考えても、考えなくても、今は同じだ。そして、どこへ行っても同じだろうから、風が吹く方へ歩いてみることにした。
時間は山ほどある。焦ることは何もなかった。
――目覚めるのと、すべての記憶が戻ってくるのは、ほとんど同時だった。
傍らのシーツが冷え、皺だけ残っているのを手探りで確かめると、ヤマトは気怠い身体を勢いよく起こした。
「太一」
応える者は誰もいない。
頭を一振りすると、腰にシーツを巻き付けて、ヤマトは寝室を出た。
「太一?」
昨夜、揺れていた受話器は戻されていた。代わりに部屋の窓が大きく開かれ、カーテンが揺れていた。テーブルの上にはライターと煙草に並んで、鍵が置いてあった。
遅い朝の光を受けて光るそれを見つめ、ヤマトは顔を上げると、自分以外の人の気配がない部屋を眺め回した。
「太一」
ヤマトは足を踏み出しかけ、拳を握った。
カーテンが風を含んでは、ふわりと広がり、またしぼむ。シーツと髪を乱す、外からの風はさわやかなものだった。
※
今日が土曜日だと太一が気づいたのは、グラウンドを見下ろしたからだった。歩いている途中、人の声を聞きつけ、太一は足を止めた。
声が聞こえてきたのは川沿いにある、整備もされていないグラウンドだ。端には、ペンキも剥げて錆が目立つゴールポストが一つ、置いてあった。雨風にさらされて、ネットのあちこちにも綻びが見える。
グラウンドには五、六人の少年達の姿があった。土手から降りるために設けられた階段の下には、ランドセルが放り投げられており、その持ち主達はサッカーに興じているようだった。
額に汗を浮かべ、土埃を立ててはボールを蹴ろうとしている少年達の姿を見つめる内に、太一は苦笑にしては優しい笑みを浮かべていた。基礎はある程度、出来上がっているようなので、少年達を下手というには、あまりだが、それにしても、フォームからボールの追い方まで無茶苦茶だ。
俺が、あのくらいの時にはと思いかけ、太一は今度こそ、本当に苦い笑みを浮かべた。
あの少年達の方が近い。どこに近いのか、遠ざかる一方の自分は知っているはずだ。
ざわりと血が騒ぐ。もう数十日触れていないボールを追って、目が自然に動いた。右から左、斜めに。高く蹴り上げられて、芝もないむき出しの地面の上を泥に汚れたボールが転がっていった。
動きもせずに自分たちを見下ろしている男に少年達が目を向け、気にもしないようにボールを蹴り続ける。楽しそうだった。
太一はサングラスを外すと、眩しさに目を細めた。この道を下っていけば、駅前当たりに出るはずだ。そこで軽食でも取り、時間つぶしにパチンコでもやろうかと考えていた。
立ち去ろうと動かした足は自然に階段を降りていた。コンクリートの感触が柔らかい土の感触に変わるのと同時に太一はキャップをずらし、思わず声をかけた。
「それじゃ、駄目だ」
突然、響いた声に少年達の動きが止まり、きょとんとした眼差しが浮かんだ。六対の目が、いっせいに太一に向けられ、すぐに胡散臭い男への警戒に変わる。
「もっと、こう……」
太一は言いかけたが、少年達の眼差しに口をつぐんだ。気圧されたわけではない。この話し方では当然だと思ったのだった。
「おじさん、何か用?」
生意気そうな口調に笑みが出そうになるのを堪えた。子供の頃は大人がこんな笑みを浮かべる理由にも思い当たらず苛立っていたが、今ではよく分かる。
自分が辿ってきた道だから、生意気な口調でも、ほほえましいのだろう。
「見てられねえんだよ」
わざと乱暴な言い方にした。
「何がだよ」
少年たちは今にも背を向けてしまいそうだ。
「ボールを蹴るときには、もう少し、足を……」
太一は足を動かしてみたが少年達の視線は変わらず、代わりに呆れたような色が浮かんだ。
似たような経験は自分にもあったので、太一はまた目を細めた。昔、公園のグラウンドで練習中に声をかけてきた男性がいた。小太りで口やかましい彼は高校生の頃にサッカーをやっていたらしく、グラウンドでサッカーを練習する少年たちを見つけては色々とアドバイスとやらをしていたものだ。
この男性の言うことは、いつも口ばかりで役には立たず、練習帰りに思い切り、彼を笑いの種にするのが太一達の間ではいつものことだった。
太一は少年達に数歩近づいた。
「……なあ、ボール貸してくれないか」
少年達は、渋々うなずいた。口でやかましく言われるよりも好きなようにさせて、さっさと追い払った方がいいと自分たちで納得したようだった。
「あっちから来るから、俺からボールとって見ろよ」
言うと、太一は挑戦的に笑った。
少年達の間をむっとしたものが走っていく。
ボールを軽く蹴りながら、太一は土の上を歩いて、少年達から離れていった。身体をゆっくりほぐす。下肢に残る痺れたような感覚には目をつぶった。
肩を回すと、太一はボールを足の先で、何度か弾ませた。靴越しのボールの固さに懐かしいざわめきがよみがえってくる。
顔を上げると少年達がこちらを睨んでいた。もう一度、挑発するように笑って、太一は足を踏み出した。こんな一瞬を自分は何度迎えてきたのだろうか。そして、これからは。
思いを笑うような正面からの風を受け、キャップが後ろへ飛んでいった。
※
夕べ脱ぎ捨てた服を身につけ、洗顔やひげ剃りを終えると、この部屋でやることは何もなくなってしまった。後は鍵とわずかな荷物を仕舞い、部屋を出て行くだけだ。
ソファに腰かけ、ヤマトは唇に触れた。最後に太一が触れていったところだ。口づけたなら息苦しさで、自分が目覚めると思ったのだろうか。
ヤマトは拳を作った。これから為すべきことは分かっている。まずは空に連絡を。それから仕事場へも電話して、無断でスタジオを抜けたことを謝る。一日分の穴なら今からでも十分に間に合うはずだった。
ごまかすことも出来る。友人たちにも、空にも、そして自分自身にも、嘘は簡単につけるだろう。太一もそれを望んでいるはずだった。
今なら何もかも間に合う。幻のようにして夜の記憶は霞み、いつか沈めてしまえるはずだった。
すでに溜め込んできた欲望は晴れている。心の望むままに太一を抱けた。別のものを欲しても、それはお互いにもっと傷つくだけだ。
太一をこれ以上、傷つけたくないのなら出ていくのが一番いいことだった。理解していたのに抱いてしまったから、今の煩悶がある。この迷いに従うのは正しいことではない。手を伸ばし、鍵を取るのだ。ライターと煙草を持ち、この部屋を後にする。持っていくのはそれだけだ。
自分に言い聞かせ、ヤマトはライターをポケットに落とした。煙草を一服して出ようか。ほんの一瞬、そんな思いが生まれたが煙草を直した。
鍵は静かに光っている。これを使えばそれで終わりだ。ヤマトはわずかな音すら恐れるように鍵を静かに取り上げたが、握ることも出来ず、鍵はテーブルの上に落ちていった。
拾い上げず、鍵を掴みかけた指先のまま、ヤマトは顔を伏せた。
次に顔を上げた時、ヤマトは鍵ではなくライターを取り出していた。
「――も、もう一回!」
諦めきれない声に、ゴール近くまでやって来た太一はうなずいた。頬は紅潮しているが、呼吸は少年達のように荒くない。楽しそうに瞳をきらめかせて、ボールを蹴り上げる。
リフティングを数回やって、少年達の呼吸が少しは落ち着いたのを見ると、太一はまた駆け出した。
少年達の動きは簡単に読めた。見え見えの挑発に乗ってくるのが太一から見れば可愛らしい。
だいぶ息が合うようになってきた少年二人がタイミングを合わせて、足を出してくる。それを、あっさりかわし、太一は表情を引き締めた。
体は温まった。それでも自分がどれくらい衰えているか分かる。思う力の半分も出せていなかった。以前の動きと比べるまでもない。うまく操ることが出来ない力が身体中で淀んでいた。これほど持て余したことは一度もない。どのくらい自分が衰えていたか理解し、太一は唇を噛んだ。
足首をいたわるという自制を忘れ、太一はすさまじい勢いで、ボールを蹴った。
今までのうっぷんを晴らすように渾身の力をこめて蹴られたボールは、風の唸りを上げ、ゴールにぶつかった。
ボールに押されたネットが鈍い音を立てて、裂ける。
古かったからだろうと太一は呆気にとられた少年達の視線にも構わず、激しく揺れるネットを眺めていた。そこには喜びも興奮もなく、若さに似つかわしくないほど、老いた横顔があった。
※
――この写真のように焼き尽くされ、灰になってしまいたい。炎を見下ろすヤマトの視線の下で、何ともいえないきな臭い匂いを漂わせながら、写真がよじれていく。力をこめてメモリーカードを折ると火の中に放り込んだ。異臭が激しくなったがヤマトはその空気を吸い続けた。
焦げていくプラスチックは熔けるだろうか。汚いゴミになればいい。捨てた後は誰も目をやらない廃棄物になり、土か海に沈む。それとも再生されて、思いも寄らない製品に生まれ変わっているかもしれなかった。どちらにしろヤマトの元には永遠に戻ってこないだろう。
縁に火が付き、写真はくねくねと踊るようにしながら焦げつき、灰になっていった。一枚残らず火にくべ、写真とカードを包んでいた紙袋も燃やした。それでも灰は大した量にはならなかった。カードも焦げただけで形を残している。
小さな風に灰が浚われていった。灰が目に入ったらしく、ヤマトはまばたきした。ひりひりした痛みと共に目が潤んでくる。まばたきで痛みと潤みを消すと、ヤマトは突っかけと親指が汚れるのも構わず、ベランダのコンクリートを汚した煤を擦った。
擦りつけられては広がっていく染み、その黒さは自分の汚れの一部にもならない。
燃やす際に見えた写真は昨夜の記憶を炎と共にヤマトの身体に呼び覚ましていた。
太一の肌にも奥深い場所まで、己の身体で触れた。声を耳に焼き付け、唇にすべての感触を刻んだ。太一の身体を今まで、通ってきた男たちと同じように。違うのは自分が長い時間を盾にしたことだ。
太一は自分を拒めないだろうという確信を、どこかで抱いていた。自分の腕の中で涙を見せながら、愉悦を見せていた太一を見て、優越感を持ったのも確かだ。それは笑いたくなるほど心地よく、またそんな思いに己を許せないほどの厭わしさも感じている。
太一の体に未練が残るのなら、これらの品を使って、無理矢理太一と関係を続けるという手もあった。そんな手を使いたいと思うほど、新しい快楽を与えてくれる太一の肉体に執着しているのだろうか。
メモリの残骸を拾い上げる。じっとりした熱が拡がって、指を焦がした。鈍い痛みだった。
用意していた水で灰と煤を流してしまい、ヤマトは部屋へ戻った。
足は止めず、テーブルの上の鍵を取り上げる。残ったゴミは途中で捨てるつもりだった。
満足しきった夜を過ごせた。そうなのだ。たった一夜。誰にでも有り得る時間だっただろう。自分は口づけただけだ。手を握ってきたのは――誘ってきたのは太一の方からだと心を卑怯な方へ動かし、麻痺させればよかった。
一歩、足を出すごとにヤマトの顔は歪んでいった。たった一夜。これは浮気にもならない。自分一人の呵責に耐えていけば、これからもやっていける。
ドアの前で立ち止まり、振り返ると、部屋を一瞥して、ヤマトはドアを開けた。
その通りだった。これは浮気にはならないのだ。
日光の下に出ると、自分が灼かれるような気がした。それを望んでいたはずなのに、わずかな日陰を選び、ヤマトは廊下を歩いていった。
※
「おじさん、サッカー上手いよな」
「お前、さっきも同じ事言ってた」
「うるせえな」
出会った頃と違い、少年達の声には親しみが溢れている。ジュースを奢ったのが、とどめとなったらしい。
ネットの揺れが収まる頃、太一は少年達に囲まれ、賛嘆の眼差しを受けた。口々にすごい、すごいを連発する少年達を前に太一はほろ苦い笑みを浮かべると、そのまま彼らの練習を見てやった。
教え始めれば、まだ生意気な口を叩きながらではあったが、少年達は太一の言うことを良く聞いた。ほんの少し助言を与え、手を貸してやると、少年達の動きは格段によくなった。子供とはこういうものなのだろうかと、奇妙な感慨が湧く。彼らが必要としているのは、わずかな手助けに過ぎないのかもしれない。
滑らかになったプレーを見ていると、少年達がこの辺の少年チームに弾かれたとは冗談ではないかと思われた。正確には三軍らしいが、見る目がなかったとしか思えない。
太一が疑問を口にすると、少年達はいっせいに沈んだ顔になった。
「俺たちより上手い奴、いっぱいいるし」
それが悔しくてたまらないというように、一人の少年がジュースの缶を乱暴に転がした。
「そうか」
斜面を落ちていきそうな缶を持ち上げ、太一はすぐ近くのゴールを見下ろした。
「――無茶苦茶、強いんだぜ」
太一の隣にいた少年は念を押すように言った。そんなチームに自分たちは末端ながらも所属しているのだということを誇りにも思っているようだ。
「すごいな」
あしらうのではなく、太一は感心して、うなずいた。
「この間、優勝もしたんだ。全国一」
ジュースの缶を振り、少年は太一を見上げた。他の少年が振り返り、顔をこちらに向けて、話し始める。
「あの後、加納の奴、ずっと威張ってたよな。俺が一点入れたからとか言って」
「そうそう。なんだよ、一点くらいで」
「ハットトリックくらい、やってみせろって」
太一は吹き出さないように堪えて、冷たいジュースの缶を首筋に押し当てた。風も汗ばんだ肌をくすぐっていく。
座り込んで喋っているのに飽きたのか、少年が一人、立ち上がって転がっていたゴールの方へ歩いていった。太一が破ったゴールネットは結び直したので、少年達のボールの勢いならば、まだ持つだろう。
シュートを繰り返す少年に太一も近づいた。
「なんか、いっつも右に寄るんだけど」
「ああ、分かる」
少年の癖なのだろう。太一はしゃがんで、少年の右足の位置をずらした。
「足首はこうやって……あんまり捻るなよ」
背中をぽんと叩き、まだ大人へとなりきれない少年の細い肩へ手を添えたとき、太一はどうしようもないほどの苦みをともなった切なさが、こみ上げてくるのに気づいた。情けなくも、泣き出すのではないかと思ったくらいだ。
自分もそうだった。彼もそうだった。あの頃は、もう充分に大人になったと思っていたのに、これほど頼りない体つきだったのだ。
「……これでいい。蹴ってみろ」
太一の声と手に押されて、少年が蹴ったボールは外れることもなく、綺麗にゴールの真ん中に決まった。
「ほらな。簡単だろ」
太一が見せた笑みが得意そうに見えたのか、少年は反抗した。
「分かってる、けど、試合してると忘れるんだよ」
「じゃあ毎日やれ。そうしたら体で覚える」
少年は何か言いかけ、太一の顔をじっと見つめた。自分の顔がどの程度知られているかは把握していたので、次の発言に太一は驚く素振りを見せなかった。
「おじさん、八神太一に似てない?」
「よく言われる」
にやりと笑って、太一はそのまま草の上に戻った。よく晴れている空だ。これで、おじさん、おじさんと呼ばれなければ、もっと気持ちいい。
六人で試合を始めるという少年達に付き合い、審判をやった後も、太一は日が暮れるまでグラウンドで過ごした。
「なあ、明日も来る?」
「来れたらな」
道路までの階段を上がりながら、太一は泥で汚れたキャップを、指先でくるくる回した。
「日曜だし、大丈夫だよな」
ランドセルの蓋が開いたままの少年が太一を見上げる。
「たぶん」
あの部屋を引き払うのは、もう少し先にしようと太一は少年達の顔を見て、決めた。噂が広がるまでは彼らに付き合うのも楽しいだろう。
夕方の空の下で、太一は少年達を見送った。道路を駆けていく影が小さくなると、背を向けて、太一は歩き出した。
とくに何かを考えることはしないようにした。それが一番いい方法だ。
塀にかかった表札の名を読み、家の前を通り過ぎる。匂ってくる料理の匂いを嗅ぎ、植え込みの葉を指先でむしる。千切れた葉が青臭い匂いをまき散らし、その強い薫りに太一は息を止めた。
無理をしない方がいいのかもしれない。通り過ぎていく街並みだけを見ているのに、心に浮かぶのは彼のことだった。
ヤマトのすべてが自分に触れてきた。その事実を打ち消し、殺そうとしては、太一は記憶をよみがえらせた。自分にとっては一生の記憶になるあの一夜を、これからどうやって心に秘めていこうか。
行き着く場所まで行ってしまった事の後悔は、まだない。きっと後から悲しみも怒りも、憎しみも、何もかもが追いついてくるだろうから、太一はマンションまでの道のりを喜びとも言えないそれで紛らわせた。
ずらりと並んだポストの前に立つと手に握りしめていた葉を捨てた。掌と指先に青い汁が付いていたが構わずに、鍵の暗唱番号を合わせ、銀色に光るポストを開いた。
そこには、もっと鈍く光る鍵があるはずだった。
広告用紙が入っただけのポストを閉め、太一は震える指でエレベータのボタンを押した。エレベータは三階に止まっていたので、すぐに降りてくる。自分が降りる階に止まっていなかったのに安心しながら、太一は戸を閉めると、自分の仮住まいがある階のボタンを押した。
浮遊感を感じながら、太一は自身を励ますために笑おうとした。
部屋のドアに付いている新聞受けの中に入っている可能性もある。それに、ただ入れ忘れただけかもしれない。もし、そうならばヤマトはなんてことをしてくれたのだろう。
まったくしょうがないと太一は唇を噛んだ。管理会社から借りた合い鍵を無くすと、その分の代金と罰金を払わなければいけないのだった。
太一は心の底から、ヤマトが鍵を入れ忘れていることを願った。
がくんとエレベータが止まる。足音を忍ばせて、太一は端まで歩いた。途中まで歩数を数えていたが、マンションの下を通った車のクラクションのせいで忘れてしまった。
冷たいドアノブを回してみたが固いだけだ。鍵はかかっている。
自分の分の鍵を取り出したとき、このまま岡の元へ行こうかと考えた。そうして日本を出ていく。ヤマトと空の笑顔に耐えられなかったときと同じようにだ。今度は一人ではない。光子郎がいる。
――なぜ、そうしなかったのだろう。光子郎の腕を恐れる理由など、どこにもなかった。それとも無意識にでもヤマトを追い求めていたのか。それほどに心に刻まれた相手だった。
きびすを返すことはせず、太一は鍵を回した。
なめらかな錠の回転、錠の開く小さな音。指先から鍵が滑り落ち、コンクリートの床に当たって、甲高い音を立てた。
何度行ったか分からない選択の果てには、いつもヤマトの影がある。
ドアを開けた太一を包んだのは夕餉のあたたかさを含む湿った匂いだった。
自分の姿を見下ろした。ところどころに泥が付き、草の汁も付いた服装が、少年の頃のユニフォームと重なった。
汚れた荷物を構いもせず、玄関口に置いて、まっすぐ冷蔵庫へと向かったあの頃の格好だ。つまみぐいを母にたしなめられ、ヒカリに笑われながら、しょうがなく手を洗いに行った。母が作る夕食の匂いは部屋中に満ちていたので、太一は大抵の場合、夕飯の献立を当てることが出来た。
今、漂うのはパスタを茹でる匂いだ。ニンニクの香ばしい匂いと唐辛子の刺激的な匂い。それだけではなく、味噌汁の匂いもする。整合性がない、ずれた料理の匂いに、太一は走った。
ドアを開けた瞬間、声は今よりも幾分高くなり、ただいまと言えるかもしれない。そうすれば母とヒカリがほほえむ、あのキッチンに戻れるかもしれなかった。
太一はキッチンの扉を開け、ゆっくり動きを止めた。
菜箸を持っていたヤマトが振り返る。彼が幻であれば、どれだけ幸せだったか。
そこに立つヤマトを、太一は全身全霊で憎み、それを包むほどの想いに体をふらつかせた。
「……遅かったな」
火にかけていたフライパンを降ろし、ヤマトは火を止めた。
「買い物してきたから適当に入れた。冷蔵庫とか勝手に空けて……悪い」
ヤマトの視線は整えていた食卓に移り、冷蔵庫に移り、またすぐに食卓に戻った。
「コンビニしかなくてさ……スーパー探して――」
壁により掛かったまま、太一はヤマトから目を逸らしていた。
パスタを盛れば、いつでも食事は始められる。そこまできっちりと用意されたテーブルだった。
「電話は出なかった。結構、鳴ってたから、後で履歴……」
太一が首を振った。
数度のかぶりが終わると、太一はまっすぐにヤマトを見据えた。
「ヤマト」
ヤマトを見つめられず、太一は片手で顔を覆った。決めたはずだった。それなのに、なぜ、彼は自分の心をあっさりと壊してしまうのだろう。
太一が半分だけ瞳を隠した理由をヤマトはすぐに悟った。残る瞳からも涙は流れてきたのだ。
ヤマトが腕を差し伸べようとしたのを拒み、太一は首を振った。
「――お前はばかだ」
太一の言うとおりだった。
壁を支えとする太一にヤマトは手を伸ばした。
これも愚かな動作だ。太一を抱き寄せ、ヤマトは唇を震わせた。出ていくことが出来なかった以上、太一を抱きしめるしか出来なかった。
太一の肩が激しく震える。嗚咽を堪える泣き方に、ヤマトは太一を抱く腕に力をこめた。
もはや、この両腕で太一を苛み続けるしか方法はないのだった。ヤマトも愚かさに唇を震わせた。ばかだ。本当にばかだった。
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