君を待ってる
23



 以前の太一からのそれよりも、今夜のヤマトの口づけの方が短かった。唇同士が触れたわけでなく、ヤマトの唇は太一の口の端に当たり、すぐに離れた。
 しばらく見つめあい、太一はうつむいた。固められていた拳がだらりと垂れ、体中から力が抜けていく。まだ揺れている受話器が壁に当たっては虚ろな音を立てていた。
 光子郎の声は、もう聞こえない。太一の肩が震え、わななくような吐息が吐き出された。
 ヤマトが太一の肩を掴みなおしたとき、太一は笑うように言った。
「……男とやりたいなら、他に行け」
 ヤマトの手からも力が抜けた。
 太一は壁に沿わせて、ずるずると体を落とし、床に尻を付いた。
「お前だったら相手くらい、すぐに見つかるだろ」
「違う……」
「じゃあ、なんなんだ」
 拒むことに疲れ切った声で太一は言うと、かばうように身を縮めた。
「太一、俺は」
 ヤマトは膝をついた。触れようとした手は、顔も上げない太一の手で払われた。
 奇妙な動きで太一が顔を上げる。もうどんな感情も読めない。それなのに、太一は唇にわずかな笑みを浮かべていた。
「マワされた男なら、簡単にやらせてくれるって思ったのか」
「太一!」
「知ってるくせに今更隠すなよ」
 叫びにも近いヤマトの声とは対照的に、太一の声は抑揚を欠いていた。
「でも残念だったな。当てが外れて」
 太一は顔を背け、嘲けるような笑みへと唇の形を変えた。
「太一……」
「触るな」
 太一の声は細かったが、ヤマトは打たれたように手を止めた。
「もう帰れ。どっか行け、消えろよ」
 太一はふたたびうなだれた。
 静かな息づかいが二人分、たまに乱れながら、電話の側でわだかまっている。きしむような微かな音が聞こえていると思えば、伸びたコードが上げるそれだった。
 自分には太一を追い詰めることだけしかできないのだろうか。
 喉に声が絡みつく。
「なんで、あの時俺を呼ばなかったんだ」
 太一が呼吸を止めた。
 床に手をつくと、ヤマトは何もできなかった己の手を見つめた。何一つ、役に多立たない手だ。拳の震えでさえ憎かった。
「俺がいた……側にいたのに」
「あいつら、ナイフ持って……」
「関係ない!」
 ヤマトの絶叫に太一は天を仰いだ。
 感謝というよりも、さらに激しい悲しみを与えられた者が浮かべる傷ましい横顔で、太一は視線を下げ、面の見えないヤマトを見つめた。
「すぐ近くに、俺が……」
 顔を上げたヤマトの張りつめた瞳と、太一の悲しさに満ちた瞳が出逢った。もう二度とないと思われるほど近い距離だった。
「……俺をかばうつもりだったのか?」
 距離の近さを感じさせる低い声で、ヤマトは訊ねた。
 太一は目を閉じ、すぐに開いた。目の前には狂おしささえ感じるヤマトの顔がある。 
 うなずけば、どうなるだろう。笑ってもいい。彼のプライドを傷つけるのはたやすいことだった。長い付き合いだ。分かってしまうのが哀しかった。きっとうなずかずとも顔を背け、ただ黙るだけで、ヤマトは去っていく。そうすれば怯えることのない日々に戻れるのかもしれない。
 だが、もっとも知られたくなかった彼に知られた今、何を恐れるというのだろう。自らに嘘をつくのにも、虚勢を張るのにも疲れた。自分を包む空気に比べて、まだ震えているヤマトの腕は、あたたかそうで、確かな強さを持っているように思えた。そんな一時の幻を見るのもいい。
 夢を見るような眼差しで、太一はヤマトにささやいた。
「お前が怪我するのが嫌だった」  
 ヤマトの瞳が揺れた。
「それくらい何だって言うんだ!」
 怒りに近い悲しみだった。手さえ伸ばせば、たった一言さえあれば、何もかもが違っていたというのに全てに背を向けていたのだ。
「お前が、あんな目にあうくらいなら怪我ぐらい――死んだ方がまだ……」
 ならばいっそ、太一を庇い、命を失った方がよかった。痛烈に、それこそ胸を貫かんばかりにそんな思いがこみ上げてきた。太一を守り、血を流せば良かったのだ。死んでも良かった。太一をこの手で守りたかった。
 真実の激しさに、ヤマトはしきりにまばたきを繰り返した。
 彼が何を耐えているか気づいたとき、太一は唇を開いた。目の前のヤマトから視線を逸らすこともできず、手を触れることもできないなら、せめて想いの切れ端を告げるのを許して欲しい。
「……ヤマトの血だけは見たくなかった」
 それから涙もだ。
 ヤマトの目尻からこぼれていくものがある。自分のために泣いてくれたと思おう。そうすれば一生忘れない。
「そんなこと……俺だって同じに決まってる」
 きつく、もう開かずともよいと思いながら、太一は目を閉じた。泣きはしない。誰に対しても涙など見せたくなかった。
「太一が傷つくのなんか、俺は絶対に嫌だ……」
 熱いヤマトの吐息と、眠るように目を閉じている太一の息が絡んだ。
 太一が瞼を震わせている。そこに滲むはずの涙を拭いたかった。それが今口にした言葉とは裏腹に、太一を傷つけるだけだとは知っていても、ヤマトには止められなかった。
 近づけたのは指先ではない。顔を寄せ、唇で湿りかけた睫毛に触れた。
 涙の気配はヤマトの息で乾いてしまい、太一は顔を傾けながらヤマトの唇を避けた。それを止めさせるようにして、ヤマトは壊れ物を扱うがごとく、そっと太一の手を取ろうとした。
 太一の指はヤマトの指には応えない。
「……が」
 太一がつぶやいたのはどちらの名だったのだろう。拒むことが既に心の奥底を顕わす場所にまで、やって来ていた。
 何もかもにひびが入っていく。今までの過去に、思い出に、これからの時間に。ひびはすべてに影を落とし、触れれば鋭い破片が傷を創るはずだった。
 積み重ねてきた時の違いが、怯えと情熱を生んだ。太一はまだヤマトを見つめるだけで動かなかった。
 顔を傾けたのはヤマトからで、それが時間と想いの違いだったのだろう。
 ただ重ねるだけの口づけは、もうずれてはいなかった。震えながら、ヤマトが唇を離すと指先があたたかくなった。太一の指は感触を確かめるようにして、ヤマトの指をかすめると、ゆっくり絡みついてきた。
 掌を重ね、ヤマトはもう一度顔を近づけた。太一が目を閉じる。
 触れるだけ、熱を与え合うだけの口づけが、夜にふさわしい深い口づけへ変わったとき、瞳の向こう側で、彼と彼女の名が細かく砕けていった。



 性急なヤマトの手は、太一をそのまま床に横たえようとしたが、太一と揺れる受話器がそれを邪魔した。
 絡ませる以外に役に立たない足を使って立ち上がると、もつれ合うようにして歩を進めた。板張りの廊下は足の裏に冷たい感触を残したが、そんなことで生まれようとしている体の熱は冷めるわけがない。
 寝室に入るまでの間、太一はおずおずと、ヤマトは堪えきれない激しさを見せながら、互いの服に手をかけた。肌を覆う異物が先に取り去られたのは太一の方だった。
 明かりの下で暴かれていく太一の裸身にヤマトの胸は激しく騒ぐ。太一の柔らかさは今まで知ってきた肉体のそれとは、まったく違っていた。
 まだ躯を覆う布があるのがもどかしい。自分の衣服を脱ぎ去るわずかな時間さえ惜しく、初めて触れる肌に唇を押し当てた。脱ぎ捨てた衣服がベッドに引っかかり、揺れに合わせて、床に落ちていった。
 贅肉の欠片もない引き締まった太一の躯が強張りながらも、ヤマトを受け止めようとする。太一のおののきや怯えですら唇で味わって、ヤマトは太一を抱きしめた。
 何度、口づけても足りない。頬にも目にも唇を這わせて、髪の毛に隠されていた耳朶を歯で挟んだ。
 太一の肌にもっと強く触れる前にヤマトは手を伸ばし、ベッドサイドの明かりを消そうとした。
「いい」
 太一がヤマトの手に気づき、声を上げ、首を振った。
「消さないでくれ」
 まだ堅さを残す太一の手が伸び、ヤマトの頬を探った。
「ヤマト……」
 何かを確認するようなつぶやきを聞いて、ヤマトは太一が暗闇を恐れる理由に気づいた。 
 男たちへの怒りが生まれ、それを割るようにして愛おしさが溢れそうになった。今は、それを欲望に変えるすべしか持たない。
 ヤマトの優しさの中に潜む荒々しい心を太一は何も言わず、解放させた。激しい口づけも、それが残した痕も、肌を傷つける爪や歯も、何もかもを受け入れた。
 ヤマトのぎこちなさは、時に乱暴なまでの愛撫にもなり、恐れがひどくなったとき、太一はヤマトの顔を見つめた。
 浮かんだ汗で髪が額に張り付いている。苦しげな顔には余裕もなく、初めて自分以外の誰かに触れる少年のようなひたむきさがあった。
 愛おしさに混在する恐怖を押しとどめるにはヤマトの名を呼ぶことだ。目は閉じない。ヤマトの顔がぼやけてしまうから。
「ヤマト」
 そこにいるのがヤマトと信じていいのだろうか。どこか溺れきれない意識とは裏腹に視界が霞んでいく。ヤマトの躯は熱かった。
 胸の先をヤマトの唇が包んでいる。舌が柔らかく舐め上げた場所を痛いくらいに歯で噛まれ、喉の奥から声の混じったため息がこぼれた。
 反った躯の下に手が伸びて、腰の線をなぞっていった。触れられた部分から広がった熱が、躯の中心へ集まっていく。ふたたび唇を覆われ、潤んだ瞳から熱のかけらがこぼれた。ヤマトは唇でそれを追い、その辛さを太一にも唇越しに伝えた。  
 しっかりした曲線を見せる太一の躯の輪郭を手で辿り、ヤマトは足の付け根に触れた。
日光に当てられない肌のなめらかさを指先で楽しみ、すぐ側にあるもう一つの太一に指を絡めた。びくりと太一の躯が震えて、ヤマトの手から逃れるように後ずさろうとする。
「太一」
「あっ……」
 吐息以外に漏れた声が引こうとしたヤマトの手を大胆にさせた。茂みをかき分けて、自分と同じくらい激しい昂ぶりを見せるそこを撫で上げる。波打つように太一の腹部が揺れて、指がシーツをねじり上げた。
 ささやかな愛撫でも太一が見せた反応は大きかった。目元の潤みが増し、何度もまばたきが繰り返される太一の瞳をヤマトはのぞき込む。
 怯えの中には太一も気づかない小さな期待があった。誘われるように口づけ、柔らかい舌を心ゆくまで味わった。
 指先の湿りにも構わずに触れ続ける。柔らかく、淫靡に、ただ太一を追い上げるためだけの愛撫だ。
 少し、おかしかった。自分が同じ男に触れているなどとは。涙が出そうなほどおかしく、愛おしい。
 とまどいを感じつつも、心から溢れる欲望は、それを続けろとヤマトに命じていた。心の声に従うことが今の全てだ。もっと太一に触れなければいけない。指でも、唇でも、身体中のどの部分でも太一を知らなくてはいけない。
 太一は従順だった。ヤマトの囁きにうなずき、指先に翻弄されながら、震える躯を開いた。
 太一の恐怖、哀しみや諦めに気づきながらも自分自身を止められなかった。わずかな間に燃え上がった情欲は今ここに来て、ようやく思う様、形を顕わすことを許されていた。
 深い場所にまで落ちてきたヤマトの指に太一は首を振った。厭だとも、止めろとも取れない無意識の惑わせは、ヤマトの口づけを呼ぶ。
 濡れた太一の唇に自分の唇を押しつけ、ヤマトは指を擦るような形で折り曲げた。
「ああっ……」
 狭い内が、もっときつくなり、抑えきれない太一の快楽の呻きが、わずかに大きくなった。指を動かし、数を増やすたびに太一の躯が引きつる。
 太一の反応が激しい部分で、ヤマトはしつこいほど甘い愛撫を見せた。
「ここか?」
「ちが……」
 言葉を言わせず、口を塞いで、太一を追い詰める。躯の下で太一が解放を願って、ひくついているのが、はっきり分かった。
 自分も同じだ。もっと強く太一の中に包み込まれたい。快楽の頂点は目の前にまでやって来ていたが、あと少し、太一の肌の熱や匂い、吐息や囁きを刻み込みたかった。
 思う存分、太一の肌の感触を確かめると、ヤマトは太一の膝を広げさせた。荒い息をする太一は目を潤ませ、ヤマトの方をぼんやりと見つめている。ちらちらと覗く舌が、明かりのせいで、赤とも黒ともつかない艶めかしい色に染まっていた。
 ヤマトに従ってきた太一が悲鳴のような声で彼を止めようとしたのは、ヤマトが自身の快楽を得ようと躯を進めたときだった。
 堪えきれない程にまで張り詰めたそれは、確かに太一が待ち望んでいた感触だったが、その一瞬に太一は叫んだ。
「待ってくれ――」
 太一の声が届いたのか、ヤマトが歪んだ顔で首を振った。
「無理だ……」
 ヤマトのかすれた声が耳だけでなく、躯中に響いた。
 太一がヤマトを押しやろうと腕を上げたとき、もっとも深い場所で、すでに溶け合っていた。その瞬間だけが、誰のことも思い出さない二人だけの時間だった。
 ヤマトを拒む太一の腕はシーツの上に落ちていった。
「つっ……」
 躯の中でヤマトを感じ、そこから灼けるほど熱い快感が広がっていく。どうしたらよいか考えられなかった。告げなければならないことがあったはずだ。
 押し流されていくのが心細く、ヤマトの名を呼んだ。
「ヤマト」
 太一の声は切なさを響かせ、ヤマトを求めていた。こんな声で呼んだことも、呼ばれたこともない。
 ヤマトは投げ出された太一の手を取り、しっかり握りしめた。これが声に応える唯一の方法だとすでに知っていた。遅すぎた理解だった。
「ヤマト――」
「ああ」
 迷うような太一の瞳のきらめきも、誰かを探しあぐねたような光も、すべて包み込もうと、ヤマトは口づけた。
「ここにいる」
 握った手に太一からの力がこもる。
 すべてが燃え上がり、躯を包みながら消えていく。太一に包まれた。自ら、抱きしめた。世界が崩れ、残ったのは快楽だけに繋がれたヤマトと太一だけだった。



 終わりがないとまで思えた快楽の後にやって来たのは甘い死だった。
 身体中が重い。とくに瞼にかかった眠気の重みは、すべての思考を曖昧にさせるくらいだ。
 太一を腕に抱き、眠りと現実の間を行き来する。汗が冷えた太一の肌は、心地よく湿って、指先に優しい感触を残す。鼻先をくすぐるのは太一の匂いだ。太一の息づかいから生まれる動きは、子守歌のようにヤマトを眠りに引き込んでいった。
 夢うつつの中、太一が幾度となく、自分の名を呼んでいるのに気づいていた。そのたびに何と言っているか定かではない返事を返し、太一を抱く腕に力を込めた。
 ヤマト。声が砂のようにさらさらと耳に積もっていく。ヤマト。怯えの混じった声を、夢が包んでいく。
 最後の返事が消えてしまい、安らかな寝息が広がっても、太一はヤマトの名を囁き、身を寄せた。
 ヤマトの胸に耳を当て、鼓動を確かめる。呼吸を合わせ、目を閉じた。返事はなかったが慰めのように心臓が脈打っている。ヤマトの音だった。
 ヤマト。呟いて、太一は唇を噛み、自らも眠りに落ちていった。ほんの少しの、淡い安らぎがそこにはあるだろうから、太一は目を閉じた。
 

<<<<
>>>>

<<<