君を待ってる
22



 これといって特徴のない、ありふれた外観のマンションの前で荒っぽいブレーキをかけ、岡は車を停めた。ヤマトを促しもせずにドアを開け、ポーチに入っていく。
 塗装は新しいが、建物自体は古いマンションでオートロックもない。ガラス戸をくぐると、すぐにエレベータホールだった。
 ゴム臭いエレベータに乗り、岡は十三階のボタンを押すと、やはりヤマトなどいないように振る舞った。
 十三階の廊下に出ると、冷たい風が吹きつけてくる。岡は打ちっ放しのコンクリートの廊下を歩き、一番奥の角部屋の前、表札も何も出ていないドアの前に立った。
「会わせるだけだ」
 吐き捨てるように言い、岡はチャイムに指を伸ばした。彼の指が細かに震えてるのが見えて、ヤマトは唇を噛んだ。
 安っぽいチャイムの音だったが、廊下の残響が消える前に、太一は少しのんびりした声で応対に出た。
「岡か?」
「そうだ」
 たったそれだけの応対で太一はドアへやって来るようだった。とんとんと足音が近づいてきて、チェーンと錠を外す音が響く。
 岡がわずかに身動きして、ヤマトの姿を隠すような位置に立ち直した。
「夕飯なら、もう食ったぜ」
 ドアが開いて、太一が姿を見せた。風呂を使った後なのか、髪が湿っている他は変わった様子はない。声には明るさも感じられて、それがなおのこと無気味だった。
 岡の体格はヤマトを隠し通せるほど大柄ではなく、太一はすぐにヤマトを認めた。
 表情は何も変わらなかった。太一はごく普通に、見つかったと言いたげな淡い笑みを浮かべた。
 否定してくれという願いを込めて、岡が太一に訊ねた。
「知り合いなのか」
「ああ」
 太一が笑みを消し、目を逸らした。
「友達だよ」
 岡の肩が下がった。ヤマトには彼の肩にとてつもない疲れが積もっていくのが、見える気がした。
「そうか……」
「どうしたんだ」
 太一の言葉は、ヤマトと岡の二人に向けられていた。
 岡は太一に応えず、ヤマトは目の前に立つ太一を見つめた。
 どんなに目を凝らしても、太一の瞳に何かを見つけることは出来なかった。それなのに太一の気配が水のように体全体に染みわたっていく。
 ヤマトの視線を感じてか、太一は目を伏せた。
「――上がるか?」
 詳しい話はそれからだと言うように、太一が顎をしゃくった。
 ヤマトはうなずきかけたが、ものすごい力で岡に腕を引かれた。
「岡?」
 太一が不思議そうに、岡とヤマトの顔を見比べる。
「今日はもういいんだ。急に来て悪かった」
 太一は眉を寄せたが、岡はヤマトの腕を掴むと歩きだした。
「おい」
 重なったヤマトと太一の声のどちらに反応したのか、太一から距離を作り、エレベータの前まで行くと岡は立ち止まった。太一はまだドアの前に立って、ヤマトと岡を見つめている。
「写真を寄こせ」
 岡はヤマトの腕を掴む手に力をこめる。布地越しにも爪が食い込んでくるのが分かった。
「……」
「太一に会わせた。これで満足だろう。メモリーカードを寄こせ。写真もだ」
 ヤマトは首を振った。
「ふざけるな。これ以上、太一には何もさせん」
 声を荒げた岡に、ヤマトも同じくらいの声で返した。
「俺だって、そうだ」
 ヤマトの言葉に岡は虚を突かれたのか、とまどうような視線になった。
「……手を離してくれ」
 睨みながら言う。
「カードが先だ」
 岡の鋭い目つきに、唐突に悟った。
 彼に写真を渡せないのも、丈に相談を持ちかけられなかったのも、恐れがあったからだ。彼らも太一に情欲を覚えるのではという嫉妬じみた思いがあった。自分だけでいい。太一に欲望を抱くのは自分一人で充分だ。
 心を塗り替えたのは、太一の肉体に対する凄まじいまでの執着心だった。
「俺が処分する。絶対だ」
 ヤマトの瞳に気圧されたように岡はまばたきし、幾分弱い声でヤマトの言葉を拒否した。
「お前が太一を脅さない保証がどこにある」
「俺はお前よりも、ずっと昔からあいつと一緒にいた。」
 ヤマトは、岡が太一と過ごした時間すべてを否定する思いで言った。
 岡の厳しい顔が、はっきりと強張った。ヤマトの敵意は剥き出しのまま、彼の心に刺さったようだった。
「あいつのことなら全部知っている。あいつも俺のことなら知っている」
「お前……!」
 岡に胸ぐらを掴まれそうになった。ヤマトは手を払い、今まで以上に強く彼を睨み付けた。嘘を重ねても、この男に太一は守らせない。
「お前ら、何やってるんだよ、喧嘩か?」
 太一が呆れ顔で近づいてくる。
「太一」
 呼びかけたのは岡だったが、言葉を続けたのはヤマトだった。
「話があるんだ」
 彼にとって、自分は何者なのだろうか。この岡という男よりも重い存在なのか。それを確かめなければならない。
「……話?」
 太一は岡が聞くなという風にまばたきするのを見て、唇をつり上げた。
「何の?」
 嘲笑うように唇を歪めた太一が、一瞬だけ唇を震わせるのに気づいた。かいま見えた素顔の震えに、ヤマトは岡の腕を振り払った。
「聞いてくれるか」
 視線が合う。岡が口を開く前に、太一は自身の動きとは思えない、固い動作でうなずいた。糸にでも引かれたように、機械的に太一はヤマトを促し、同じくこちらに足を踏み出した岡を止めた。
「久しぶりに……友達が来たんだから、ゆっくりさせてくれ」
 岡は首を振ったが、やがて疲れたようにうなだれた。低いささやきが唇を割る。どうしてだ、とヤマトには聞こえた。
 太一が決まり悪げな、労りの言葉をかけようとした。
「お前も疲れてるみたいだし、帰って……」
 岡が顔を上げ、哀れむような、羨むような眼差しで、ヤマトを見つめた。
「……三十分したら、電話をかける」
 最後に哀しげな眼差しで、太一を一瞥すると岡は背を向けた。
 彼を呼び止めたそうな太一を、ヤマトはその腕を掴むことで止めさせた。太一は思うよりも怯えはしなかったが、すぐに振り返って、ヤマトから離れた。
「入れよ」
 靴を脱ぎ、太一の後へ続いて、部屋へ上がり込む。古くはあるが、こざっぱりとした部屋だった。必要なものは揃っているようだったが飾り気はない。
 暖かみのある廊下の照明の下を通って居間へ入ると、太一は缶ビールを二本、持ってきた。ヤマトには乾いたグラス、自分には流しにあった濡れたグラスを用意し、ソファの向かい側に太一は腰掛けた。
 腰を下ろしても太一は、ヤマトを見ようとはせず、ひっかき傷の残る小さなテーブルを見ていた。黒っぽい茶のテーブルは明かりをほのかに反射して、上に乗ったグラスや缶を、ぼんやりと映している。  
 いつまで経っても、ヤマトは話を切り出そうとはせず、太一も訊ねる素振りを見せなかった。缶ビールは、どちらも飲もうとしなかった。
 缶が温められ、水滴がこぼれ落ちかけたとき、ヤマトは手を伸ばして、プルトップを開けた。炭酸の音も間が抜けている。温いビールをグラスに注いでいると、太一が顔を上げた。
 静かな顔が、そのままの口調で煙草と言った。
「え?」
「煙草、持ってるか」
「あ、ああ……」
 ポケットを探り、煙草を取り出した。封を切って、表面を軽く叩く。
 数本の煙草が突き出た箱を差し出すと、太一は一本を指先で挟んだ。
「お前も、吸うのか」
 ライターも渡すと、太一は煙草を銜えながら、頬を少しゆるめた。
「初めてみたいなもんだ」
 かちりと太一がフリントをはじく。小さな火が揺らめいたが、煙草に灯ることもなく、消えていった。太一は何度もはじいたが火は点かない。見かねて、ヤマトは太一からライターを返してもらった。
 太一は無言でライターを渡す。オイルが切れでもしたのかとヤマトが試してみると、火はすぐに輝きを見せた。
 太一が何か言う前に、ヤマトは身を乗り出し、煙草に火を点けてやった。
 距離のせいで、大きくなった太一の瞳は表面だけが光っている。魅入られて、ヤマトは太一が視線を嫌がるようにまばたきするまで瞳を見つめていた。
 煙草を銜えた太一は数度、煙を吐き出し、むせた。
「あんまり、うまくねえな」
「初めてなら、きついんじゃないか」
 ヤマトは太一を見ないようにするため、煙草の箱とライターに書かれたアルファベットを目でなぞった。今以上にきつい煙草を望むなら、外国ものにでも手を出すしかない。
「初めてじゃない」
 太一は煙草を唇から離し、漂う煙を息で散らせた。
「中三の時吸った。お前もいなかったか」
「……知らない。他の奴とだろ」
「そうか」
 太一は微笑し、煙草を口に戻した。
 と、ヤマトが目を見張るくらい、無茶苦茶に吸い込み、咳き込んだ。そのまま前へ倒れるようにして、うなだれる。
「……何やってるんだよ」
 ライターを置くと、ヤマトは腰を上げ、灰をこぼさないようにしながら、そっと太一の指から煙草を取り上げた。
 太一の手が細かく震えているのに気づいたのは、その時だった。これでは、どんな炎も生まれるはずがない。
 灰皿が見当たらないので、ビールの入ったグラスに煙草を入れる。ジュッと火が消えていく音が部屋に大きく響いた。
 太一は顔を上げ、咳き込んだせいでかすかに潤んだ目を見せた。
「話って、なんだ」
 ヤマトが唇を噛んだので、太一はざらつく喉から、かすれた声を出した。
「同情しに来たのか」
「違う」
「じゃあ、なんだ」
 太一はソファに深くもたれかかり、ヤマトをねめつけた。眼光の鋭さは衰えたどころか、いっそう激しくなっている。
 太一の視線を真っ向から受け止めることがヤマトには出来なかった。
「来たら、いけなかったか」
 目線をわずかにずらして、太一の頬の辺りを見つめた。少しこけたのかもしれない。巻き込まれた事件の激しさはうかがえなかった。太一の強さが自分の情けなさを示しているようで惨めだった。
「いや……」
 太一はゆっくり身を起こし、張りつめた空気を和ませるためか、薄く笑った。
「ちょっとびっくりしたんだ。――岡が、よく教えてくれたな」
 ヤマトは肩を揺らし、動揺を悟られないようにソファに座り直した。
「ヒカリにも言ってなくてさ。ここに来たのは岡以外じゃ、お前だけだ」
「光子郎は?」
 思いがけない言葉が出てきた。
「まだアメリカにいる」
 太一は窓に目をやり、小さく言った。
「いつ帰ってくるんだ」
「さあ。あいつも忙しいし、俺が行く方が早いかもな」
「行くのか?」
 大声を出しかけ、ヤマトは声を小さくした。
「あいつも来いって言ってるし、そっちの方が安心できるってさ」
 太一は笑ったが、ヤマトの眼差しに気づいて、黙り込んだ。
「――俺、変なこと言ったか」
「太一、お前、……」
 太一の言葉から見えた一つの現実にヤマトは口ごもった。気づくのが遅すぎた。積み重ねてきた太一と光子郎の時が、ある方向へ流れていくのを誰が止められたのだろう。
 太一も光子郎も選んだのだった。ヤマトを置いて、いや、最初から存在しない者として、二人は一つの未来を選んだのだ。
「光子郎は……」
 いっそう低くなったヤマトの声音に、太一は口早に訊ね返した。
「光子郎がどうかしたのか」
「お前、あいつと……」
 ヤマトが言えない言葉を悟って、太一は唇の端で笑って見せた。
「今時、めずらしくもないだろ」
「なんでだよ!」
 どんな事実を受け入れたくなかったのか、ヤマトは声を荒げた。怒りと驚きが混じり合って、目の前が真っ赤になる。太一が男とそのような関係を持っているのが嫌だったのか、それとも、その相手が光子郎だったからか。
 同じ男に、あのような目に合わされたというのに、これからの時間を一緒にする相手に、また男を選んだのが腹立たしかった。
「そんなの人に言うことじゃない」
 太一は淡々と言い、うなだれると、それ以上何も言わなかった。微かなため息だけ、ヤマトの耳には届いた。
 彼の中ではとうに終わっていた話題なのだ。しかし、ヤマトはぞっとする思いに捕らわれた。太一のプライベートにかかわる事だ。自分には関係のない話のはずだった。
 では、なぜここまで苛立たなければならないのだろうか。
 自分の知らない場所にいる太一を貶めてやりたかった。当たり障りのない、冷たい言葉を投げる太一を、こちらに振り向かせたい。  立ち上がり、さきほどよりも荒い足音で太一に近づいた。ソファに片膝を押しつけ、手を伸ばし、太一の体がどこにもいかないように檻を作った。
 ヤマトから落ちた影に太一が顔を上げる。驚きの中には恐怖がかすめていた。それをもっと増やしてやりたい。加虐心が煽られた。
 ソファに投げ出されていた手を掴むと、太一の瞳が揺れた。
「離せ」
 握りしめた手首のあたたかさが、太一の体を生々しく感じさせる。
 厚くはない衣服の下に隠された肢体をヤマトは知らなかった。形よく伸びた脚は見える。意外に白いはずの胸板へと続く首筋や、思うよりは細目の手首、片方のソファに投げ出されたやり場のない指先はヤマトの目にさらされていた。
 彼の裸体を、この目で見た記憶があるか思い出そうとし、そこにすでに激しい衝動が込められているのに気づいた。心を騒がせるそれが瞼をちりちりと熱く焦がした。
 視線に何を感じ取ったのか、近い距離で見つめた太一から空気を波打たせるようにして、恐怖が伝わってきた。瞳の奥に自分に対しての恐れが透けている。
 それを嫌がってもいるのに、どこかでは確かに満足していた。あの太一が自分を畏怖している。
「なんで男なんだよ」
 太一は答えられないようだった。
 太一の心の針が、恐怖と怒りの間を行き来しているのが分かる。握っている太一の右手が自分を突き飛ばそうとするように、わずかな動きを見せた。
 それだけだ。後は動きも忘れて、太一はヤマトを見ている。魅せられてというわけではなく、あまりに恐怖したときの視線だった。
 震えることもできないほどに怯えているのだと知って、ヤマトは言葉を失った。あの時もこのような表情を見せたのだろうか。自分が見上げていた部屋の中で、男たちは、目の前にある躯を好き勝手に、嬲ったのだ。
 気がつけば、呟いていた。
「――違う」
 自分のそれと、男たちのそれは違うと信じたかった。欲しいのは金でもなければ、太一の恐怖でもない。
「あんな最低の奴らと一緒にするな。俺は違う、お前を襲った――」
 口にした後で体中の血が冷えた。ヤマトは口を閉じたが遅かった。
 言葉が太一に届くのに数秒かかり、その意味が浸透するまで、更に数秒必要だった。
「お前……?」
 ヤマトは手を震わせた。指先が滑り、太一の骨にぶつかり、止まった。
 離すことが出来ないなら、動揺すべきではなかった。氷のように冷たく、太一の恐怖を跳ね返すべきだった。
 太一の瞳に理解が広がっていく。ヤマトを見つめる視線が恐怖とは別の色合いを帯びた。絶望と恐怖が混じり合い、ついに凍りついた。
「知って――?」
 乾いた唇から、やっとそれだけ太一は言った。すでに恐怖さえもなく、太一は抜け殻のようにヤマトを見つめるだけだ。
「太一」
 太一はどうしようもない汚物を突きつけられたように引きつった顔になった。歪んだ頬の線が震え、必死に平静さを取り戻そうと、荒い息が吐き出された。
「訳わかんねえ事、言ってんじゃねえよ」
 太一が笑い、目を逸らした。
 次の一呼吸で、太一は見事なほどの落ち着きを取り戻した。握った手首は震えていなかった。触れ合う肌が、じっとりと湿ってきているのはヤマトの方が動揺しているからに他ならない。
 太一は今、初めて気づいたとでもいうようにヤマトの指が絡まる自分の手を見た。ヤマトの指先は少し節が目立つ。そこを、ただ見るにしては長いくらいに見つめて、太一は手を引いた。
「……岡に電話してくる」
 ふらりと立ち上がった太一は、おぼつかない足取りで壁際へ向かった。そこに取り付けられた電話機は部屋の内装や外観に比べて、ずいぶんと新しい。
 太一は二つほどボタンを押すと、すぐに電話を取ったらしい相手に名乗った。
「俺」
 映像は映さないように操作したらしく、掌ほどの大きさの画面には誰も映っていなかった。
「三十分ちょうどだな」
 背を向けた太一の肩が微かに揺れた。
「大丈夫、もう帰った」
 ヤマトの方を見もしないで、太一はあっさり告げた。
「言っただろ? 昔からの知り合いだって。連絡も無しだったから、心配して――」
 太一の言葉が不自然な途切れ方をした。
「ねえよ。これ以上、どんなネタがあるっていうんだよ」
 やや乱暴な口調で言うと、うって変わって、太一は受け答えの返事ばかりになった。
 話の意味を掴めず、ヤマトはテーブルのライターを太一の手首代わりに握ってみた。冷たい金属の重みだけが伝わり、ヤマトはそれをテーブルに戻した。
 電話を切った太一が戻ってくる。心なしか、青ざめているようにも見えた。
「聞いただろ」
 座ろうとはせずに太一はヤマトを見下ろした。
「帰れよ」
 テーブルの上を太一が片づけ始める。中身が残っている缶と手もつけなかった缶。乾いてしまったグラスと煙草が浮かぶグラス。器用にも両手にそれぞれ持ち、キッチンへ持っていく。水の音が響いた。
「――なあ」
 グラスの中身を空けた太一がキッチンから、わずかに固い声で訊ねた。
「写真がどうとか岡が言ってたんだけど、どういう意味だ?」
 誤魔化せるだろうか。ヤマトは何気ない仕草で煙草の箱を取り上げた。
「……俺のこと、カメラマンだと思ってるんじゃないか」
「くだらない」
 笑いもせず、太一は言うと、もう一度、帰れと告げた。
「遅いしな」
 ここで、おとなしく帰ってしまえば、二度と太一に会うことはなくなるだろう。彼を見るのはテレビや雑誌の中でだけになり、会話することも、触れることも、叶わなくなるに違いない。
 手を濡らした太一が戻る。三度目の帰宅を促される前に立ち上がった。
 太一は奇妙な光が浮かぶヤマトの目に気がつかなかった。
 通り過ぎて行くであろうヤマトを避けようと身を引いた太一の腕を、ヤマトは乱暴に掴んだ。
「帰れるか」
 太一はヤマトの厳しい怒りが浮かぶ表情に気づいて、喉を鳴らした。
「また一人になるんだろう」
「……一人じゃない」
「じゃあ、誰が来るんだ。さっきの岡って奴か? 光子郎か?」
 太一はうっとうしげに首を振った。
「誰でもいいだろう」
 太一は急に疲れたような顔を見せると、ため息をついた。
「どうしたんだ。お前、おかしいぞ」
 太一が腕を引こうとした。それを許さず、ヤマトは太一を引き寄せた。勢いによろけた太一を腕で支え、ヤマトは顔を近づけた。太一が息を呑むのが分かった。
 太一が腕を振り払おうとする。皮膚にむず痒いくらいの痛みを覚えた。太一の爪はヤマトの皮膚に、薄いひっかき傷を付ける。掴み返され、体から遠ざけられようとした。
 壁に足や手をぶつけながら揉み合い、太一はヤマトの手から逃れた。そのまま太一はもつれる足並みで、ヤマトから遠ざかろうとした。
「太一!」
 太一の足が止まったのはヤマトに呼ばれたからでなく、電話の音を聞きつけたせいだった。
 太一が電話の方に目を向けた。視線がすがるような色を帯び、それに気づいたヤマトは壁へ視線を投げる。番号が見えた。国内からの電話ではない。かけてくる相手は一人しか考えられなかった。
 太一が電話へ駆け寄ったと同時にヤマトも電話に近づいた。ぶつかり合った手と手に怯えたのは太一の方だった。
「なんで光子郎なんだよ」
「どけ!」
 ふたたび揉み合う。電話の音が部屋中にこだまし、苛立ちを高めていく。
「側にいたからか?」
 太一は答えなかった。
「言えよ! 光子郎に助けられたからか?」
 ヤマトは次々に生まれてくる感情のために、太一は拭えない恐怖のために、顔を歪めた。
 振り払おうとする太一の手も、決して離すまいとするヤマトの手も互いを傷つけない。幾つかの爪痕、それだけを自身の肌とヤマトの肌に刻んで、太一はヤマトを振り払った。
「太一!」
 太一はヤマトの手だけでなく、声も振り払った。電話を持ち上げ、慈しむように光子郎の名を口にする。
「――ああ。ごめん、寝てた」
 太一の穏やかな声を聞きながら壁に拳を押しつけ、ヤマトはうなだれた。髪が頬を刺した。誰に感じている敗北感なのだろう。光子郎に、太一に、打ちのめされ続けている。
 伸ばしたヤマトの手は震えていた。そのまま太一の肩に触れる。触れ方が柔らかかったためか、太一は振り返りもしなかった。
 自分でもどのくらいの力をこめたか定かではない。肩を掴んで、太一を振り向かせた。荒々しい仕草で太一を壁に押しつけ、ヤマトは顔を近づけた。
 掠れた太一の声が止めろと囁いた。太一の手も震えている。
 声も、抗いも、両手さえも封じて、ヤマトは太一に唇を押し当てた。
 耳元で光子郎の声が響く。囁くような問いかけが、不審そうな呼びかけになり、それも、やがて聞こえなくなっていった。太一の手から滑り落ちた受話器が壁に当たり、伸びたコードと共に揺れる。
 夜の中の長い時間が始まろうとしていた。


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