『心配するなって。大丈夫だ。なんとかやってる。本当だ。いいから、気にするなよ。お前は仕事あるだろ。
こっちは大丈夫だから自分の仕事やれよ。あんまりさぼってるとクビ――あのな、確かにお前だったら、どこだって雇いたがるだろうけど、そんなにあっさりしたこと言わなくてもいいだろ。それに帰ってきたらいつでも会えるし、ガキみたいなこと言うなって。
そうか、そっちでもやってるのか。――うん、岡にはあまり見るなって言われてる。だいたい自分の顔、テレビで見たってつまんねえし。……大丈夫だって。俺、こういうの結構慣れてるしな。平気、今更、お前に強がり言って、どうするんだよ。
ああ。それは平気だ。岡から聞いてるんだろ? なんだったら、弁護士とかに頼む手だってあるし、それに最悪でも執行猶予くらいだって、三尾が……取り調べ担当してる刑事だよ、そいつが言ってる。証言の裏がとれたら、どうにかなるってさ。昔の……知り合い、そいつが俺は関係ないんだって言ってくれてる。本当に平気だから、なんとかなるから、そんな声出すなよ。それじゃお前の方が捕まったみたいだぜ。
……いや、そんなことされなかった。その場でやった検査じゃ反応が出なかったからさ。結構、丁寧に扱われたかな。ちょっと気持ち悪いけど平気だ。いつまでも怖がってられねえよ。だいたい、ベタベタ触ってくるやつなんていないし。それも犯罪とかになるんじゃねえか。
まあ、同性相手じゃ――ごめん、聞こえなかった、もう一回……何、くさいこと言ってんだよ。周りに誰もいなくても、そんなこと、こんな時に言うか。繰り返さなくてもいい、聞こえてる。
……馬鹿だな。泣いてるわけないだろ。鼻が詰まってるんだよ。取調室、埃臭くてさ。 そっちは何時? そっか。じゃあ、もう切るな。また明日、電話する。
馬鹿だな。迷惑なわけあるか。お前の声、聞くとほっとする。うん、じゃあな。お休み。
……。
もしもし、光子郎?
切ったか?
……ごめんな、光子郎。本当にごめん――』
※
始めに伝えられた覚せい剤取締法違反での逮捕というのは誤報だった。取り押さえられた時点で薬物所持はしてはいない。逮捕ではなく、ただの任意同行で、太一は、その場に居合わせただけ、というのが事務所側の主張だった。
だが、検査結果が陰性と出るまでの日数の中で、過熱していく報道を止めるのは誰にも出来なかった。大物俳優同士の離婚騒ぎが下火になっていた頃だったのも災いした。
まず太一と契約を結んでいたスポーツメーカーが、続いてその他の大手企業全てが契約を打ち切り、出演していたコマーシャルも、誤報が伝えられたその日から見ることが出来なくなった。逮捕ではなく、ただの疑惑でも、それに値するのだと言わんばかりの素早い対応だった。
海外での素行から今までの経歴、交友関係、所属していたクラブの会長やチームメイトとの確執まで、真実か虚偽なのかは確証のないまま、太一についての報道が連日行われ、そうして流される情報は多くの人々の好奇心を満たしていった。
何もかもが、今までのスキャンダルとは比べ物にならない。落ちていく栄光の、これまでの輝きを示すようにメディアはこぞって太一の薬物使用疑惑について取り上げた。
激しい勢いで世界中に広がっていく報道に対して、ヤマトは何もできなかった。他の友人たちも同じだ。過去の思い出も、そこで生まれた絆も、役に立たない。見つめる立場に位置するだけだ。反論しても声は飲み込まれるばかりだった。
八神家の電話回線は、逮捕というニュースが初めに伝えられた日からパンクしてしまったらしく、通じなくなっていた。
家族のコメントが無理ならば友人をと思ったらしく、ヤマトと空の元には何度となく取材の依頼が寄せられた。謝礼を支払うとの話もあったが、そう言った電話は、二度繰り返させず、断りの言葉を口にして切った。
空の激昂した横顔も何度か見た。太一と親しかった女友達という立場を勘ぐられたせいだろう。そんな不躾な質問を投げかける人間も多かった。
どこで情報を得たのか、あの夏の友人達、後輩を含めたほとんどの者に取材の申し込みはあったそうだ。応じた者がいないのは誇っていい。こんなときでなければ、変わらない確かな絆を喜んでいただろう。
仕事仲間も太一を心配している。一度会っただけだが、酒を酌み交わしたことは忘れていないようで、一人として太一を悪く言う者はいなかった。それが何よりありがたかった。
自分が、どれだけ恵まれた環境にいたか、ヤマトはこの時自覚し、それをこんな場合に気づく皮肉さにも感じずにはいられなかった。
雑誌やテレビ番組に出ていたのは、友人と自称する者ばかりだ。見覚えがあるような気もしたが、親しかったとはとても言えない。
今日も訳知り顔で、太一について、ぺらぺらとまくし立てているその男を見かけ、吐き気を催すほどの嫌悪感を覚えたヤマトはテレビの電源を切った。
朝、テレビをつければ、太一に関する話題が必ず出る。太一について書かれた記事の載った雑誌が飛ぶように売れ、街に出れば人々が噂している。
苛立つだけの情報なら幾らでも手に入れられた。今までと同じ話題ではあったが、繰り返し放送されるたびに新事実とやらが発見される。欲する情報が手に入らないことが、どれだけ人に不安を与えるものなのか、太一が完全に解放されるまでの期間にヤマトは学んだ。
今回の大規模な捜査で逮捕された男たち数人の相反する供述のせいで、太一に対する疑いはなかなか晴れず、目を伏せながら、付き添いの男と共に警視庁へ足を運ぶ太一の姿が、何度も見られた。
太一は冷たくも暗くもない、心の読めない表情を常に浮かべ、レポーターやカメラには目を向けようとせず早足で歩き、決して立ち止まらなかった。マスコミから投げかけられる乱暴な口調の質問にも、一言たりとして答えようとはしなかった。
それを開き直りとも取る者もいれば、無言の抵抗なのだと受け取る人々もいた。どちらにしろ、太一が以前のような意味で脚光を浴びることはないだろう。わずかな期間で貶められた名が、ふたたび名誉を得るのに、どれほど時間がいるか、誰にも分からなかった。
関係のあった元モデルという女性を中絶させたという話題が世間を賑わせている頃に、ようやく太一の疑惑は晴れた。尿検査の結果が陰性と出て、太一と共に捕まった男の証言と合わせて、太一を警察から解放する証拠となった。
ヤマトは携帯電話の電源を切って、録画ではなく中継で、太一が警察庁から歩み出てくる映像を観た。
その日は、どんな表情も見られたくなかったので、スタジオを出て、線路近くにある小さな食堂に入った。昼食時間も過ぎていたので食堂は空いていた。洗われる皿の音と、店を揺らして通り過ぎていく電車の騒音を無視すれば、誰にも邪魔されずに壁際に設置されたテレビを見ることが出来る。
適当な定食を頼み、ヤマトはべたついたカウンターの隅から、チャンネルを取り上げた。テレビを点けても、店員に番組を変えられないようにチャンネルを手元に置く。
テレビの中の太一は今まで通りの無表情だったが、その周りだけ、空気は冷え、灰色がかっているようだった。
それは、マイクを突き出すレポーター達や、一瞬でも見逃すまいと太一を撮り続けるカメラマンなどの報道関係者とは対照的なものであり、周りの熱気に飲み込まれてしまいそうなほど静かでもあった。輝きが褪せても、なお人目を引くのは、渦中の人物だからなのか。
車までの道筋の間、太一はほとんど目を伏せて、誰とも視線を会わそうとはしなかったが、たった一度、顔を上げたときがあった。
階段の下りに差し掛かり、太一はほんの少し、瞼を動かした。
太一の足が止まり、それにとまどったようにマスコミをかき分けていた太一側の関係者が、カメラを遮る腕に力をこめる。
わずかな間、不思議ほど幼い太一の眼差しが、辺りを彷徨った。探せば誰かが居るのではと思うような、憧れと期待を込めたその視線は、一瞬で消えて、太一は横に立っていた男に促されて、再び歩き出した。
最後に見えた太一の横顔は、ひどく疲れたようにも見え、引き結ばれた唇は決して開かれなかった。
カメラがスタジオを映し出す前に再放送のドラマにチャンネルを変えた。通り過ぎた電車に合わせて、カウンターに置かれたコップと皿が揺れる。揺れが収まると、テレビは女優の顔をアップで映し出しているシーンに差し掛かっていた。
手持ちぶさたの店員が、ぼんやりそれを見上げている。厨房からは何の音もしない。油の匂いが急に鼻を突いてきた。割り箸を取り上げることもせず、ヤマトは目の前に置かれた品が冷めていくのを見ていた。
太一との距離は遠かった。それは自分が競技場にいたときのように傍観者ではなくなっているからだろうか。あの時の甘さはどこにもなかった。
味付けの濃い豚肉と白飯を適当につついて、ヤマトは店を出た。
手応えのない引き戸を開けて外へ出れば、そこに広がっていたのは穏やかな昼下がりの街並みだった。
※
『もしもし、岡か? ごめんな、疲れてるときに。いや、部屋の文句じゃねえよ。ここ静かだし、けっこう綺麗だし、出かけられないのが きついだけ――分かってる。出るわけないだろ。おとなしくしてる。ベランダにも出ないでさ。
何だって? うん……そうか。やっぱり無理だろうな。平気だって。お前が気にすることじゃない。俺のせいだ。あんな騒ぎ起こして、 あのクラブに行けるなんて思わねえよ。
それで来年からのことだけど。あのな、お前、親父さんの事務所に戻れ。……違う、そうじゃない。給料だよ。全員分、払えなくなる だけだ。今年は大丈夫でも、来年からは分かんないだろ。仁山にはもう話した。新しい仕事場を俺の名前は出さないで探しといたか ら、そっちに行くと思う。あいつなら上手くやれるだろうし。お前だって同じだろ。もっと早く言えばよかったな。詳しいことは、また話す から、他の奴にも言ってといてくれ。退職金は心配するなっていうのもな。
なに怒ってるんだ。――馬鹿だな。そんな意味で言ってるんじゃねえよ。落ち着け。考えたんだよ。もうどうしようもないだろ。俺一人 だけなら何とかなるけど、他の奴はどうする?
……それ、仁山にも言われたよ。おまえら、本当に人がいいよな。ここまで叩かれてる奴のどこがいいんだ? 俺と一緒にいたって いいことなんかないってのに。
とにかく、この話はまた今度しよう。今日はゆっくり休んでくれ。悪かったな、こんな遅くにかけて。
いや――辞めるか、どうかは決めてない。分からないんだ。全部。こんなんじゃ、プロ続けていけねえよな。本当に俺、何やってんだか。
ごめん、岡。こんなことになって本当にごめん。ややこしいことばっかり……迷惑ばっかりかけて、ごめんな』
※
心を決めたわけではなかった。今でも時折、さざ波のように迷いが浮かんでは消えていく。決して平らかではない。
そんなことをしようと思った自分の心を説明できるわけもなかった。今までの心がすべて言葉で説明できるのななら、どれだけ楽なことだろう。
彼に再会し、懐かしみ、とまどい、嫉妬した。苛立ち、怒りを覚え、そして今は――。
「あれ、石田さん、もう帰るんですか?」
機材を運んでいた男に声をかけられた。防音壁でも塞ぎようのない賑やかなドラムの音が、どこからか聞こえていて、たった今、出てきた部屋の盛り上がりを微かに伝えてくる。
煙草を買ってくるからと行って、出てきたのだ。本当なら、まだここに居なくてはならない。しかし、ヤマトはうなずいただけだった。
まだ不思議そうな顔をしている彼に言葉をかけず、ヤマトは足早にスタジオを出ていった。一言でも話してしまえば心が揺らいでしまう。
少し先にある駐車場まで歩いて、途中、口実でもあった煙草を買うと車に乗り込んだ。キーを差し込み、エンジンを暖める少しの間に携帯電話の電源を切った。
――最初は自宅へ戻る。空の帰宅時間よりも早めに戻れば会うこともない。会ってはいけない。友人を心配しているという大義名分は彼女の前で砕かれるだろう。今や、友人という言葉は欺瞞に満ちた一言になっていた。それを自分自身知って、なおも認めたがっていない。卑怯さを抱いたまま、行くのだ。
あの日の中継を境にして、太一の姿はどんなメディアでも見ることが出来なくなった。
その後、太一からは各報道関係に、今回の事件へのお詫びと反省が記されたFAX文が届き、それきり何の音沙汰もない。太一の家族や彼のエージェントも沈黙を守り、メディアの激しい取材に対して、口を開くことはなかった。
波が引くように、この騒ぎが静まっていれば、自分は太一の元へ向かっただろうか。
家の鍵を開け、現実感のない足取りで、ヤマトは自室へ向かった。
写真を閉まった日から手放さなかった机の鍵を取り出して、引き出しを開ける。何を求めているのか、それを示しているような包みを手にして、ヤマトは引き出しを閉めた。
持っている物の重みに耐えかねたとき、ピックを握りしめた。おそらく、太一の手も握った青い色のそれを拳に握り、ヤマトは家を出た。
次の行き先は八神家だ。
ヤマトの足取りはふらついているというよりも、自分の行き先をいまだに信じられない男のものだった。
夜にしてはマンション周りは人が多いような気がした。ひょっとしたら雑誌記者のたぐいかもしれない。奇妙な緊張を見せつつ、ヤマトはもはや何年ぶりか分からない八神家のチャイムを押した。彼女の声が固かったのは最近訪れていたマスコミのせいだろう。
ヤマトが名乗ると、ヒカリは黙り込んだ。
帰って下さい。いや、帰らない。
そんなやり取りを何度か繰り返した挙げ句、ヒカリがついに顔を見せた。厳しい、張りつめた表情は太一の幼い頃を彷彿とさせて、ヤマトは軽いめまいを感じた。
背中に流れたヒカリの髪が揺れ、わずかなドアの隙間がヤマトを誘うように広げられる。
「ヒカリ、どなた?」
部屋の奥から、疲労の目立つ女性の声が届く。
「知り合い」
ヤマトをどきりとさせるような言葉を母親に告げて、ヒカリはドアを閉めるとヤマトに向き直った。
「お兄ちゃんなら……」
ヒカリを遮って、ヤマトは訊ねた。
「太一は、今どこにいる?」
ヒカリは口を閉じて、首を振った。
「教えて欲しい」
「どうしてですか」
鋭い視線に以前ならたじろいだ。今はなぜ、見返すことが出来るのだろうか。
ヒカリが唇を噛んだ。逸らされた瞳が震えて、堪えるように何度もまばたきされる。
「――太一は、どこにいるんだ?」
「……」
ヒカリの白い頬に薄く血が昇っていく。
怯えさせるつもりもなく、ヤマトは静かにヒカリに手を伸ばした。ヒカリがびくりと身をすくませたが、構わず腕を掴み、こちらに目を向けさせる。
想像以上にヒカリの視線は心細かった。
「教えてくれ」
ヤマトに見据えられ、ヒカリは瞳だけでなく、唇も震わせた。視線が絡み、鋭く互いを刺して、消えていく。
目を逸らせたなら、ヒカリは決して言わなかっただろう。こんな目をしたヤマトを兄の元へ行かせるなど絶対にさせなかった。
ヤマトの視線に唇が動く。舌が言葉を紡いで、ヒカリは言った。
「……私も知らないんです。一回、電話があって、ごめんって……それだけで」
一人きりで、どこかにいる太一を想うだけで、そう仕向けた全てを憎みたくなる。血が繋がっているなら、せめて兄の心に沿いたい。
そんな願いを抱き続けてきた。それが自分をこんなに弱くしてしまったのかもしれない。ヤマトの昏い目を見つめ、ヒカリは思わずにはいられなかった。
「逢いたいのに、岡さんも教えてくれないから……」
ヒカリの震える声に、そうかとヤマトはうなずいた。
「ごめんな。ありがとう」
ヤマトの靴音が遠ざかっていく。
ヒカリは自分の言葉に疲れと目眩を覚え、壁に手をついた。
太一が望むものに気づいてしまったのが誤りだったのだ。周りを見れば、太一を求めている者など山ほど居るというのに、太一はなぜ、これほど長い時間、ヤマトを求め続けられていられるのだろう。太一に気づきもしなければ、想いもしない、伴侶を持つヤマトのことを。
太一に残る幼い想いは、その密かさゆえに消えていない。秘め続けた想いは、あまりに残酷な結末を迎えるのかもしれなかった。
どこともしれない場所から沸き上がる恐怖に背中を震わせ、罪の意識に囚われながら、ヒカリは顔を上げた。
照明が照らす廊下から、兄が求めてやまない彼の姿はとうに消えていた。
※
事務所のある階の窓からは明かりが洩れていたが、電話をかけると、以前と同じ様な留守番電話になっている。裏口の警備員に、残っているはずの岡という男に連絡してもらったが、とりつく島もなかった。
「帰って下さいって、言ってますが」
白髪混じりの警備員が、胡散臭げな目つきを崩さずにヤマトに言う。
すでに電話は切られていたようだ。受話器を戻し、警備員は立ちつくすヤマトを見上げる。
「あんた、どっかの取材?」
横柄な口調になったのは、ここ最近の騒ぎで、ずいぶんと面倒な目に合ったからかもしれない。一向に世間に姿をあらわさない太一が事務所にいるのではと考えついたらしいゴシップ雑誌の記者が、事務所に入り込もうとした事件もあった。
それを裏打ちするように、警備員はぎゅっと顔をしかめた。
「迷惑してるんだけどね。取材とか言って、勝手に入ろうとするし、こっちに顔も見せないで、すーっと行っちゃう。本当、どうしようもないよ。事務所の方もそうだけど、ここのビルの人、みんな迷惑がってるんだけど」
くどくどと嫌味な口調で告げる警備員は、人の悪そうな顔には見えない。普段なら、気のいい、しっかりした人柄なのだろう。寄せた眉が平らになれば、ずいぶんと優しげな顔に見えるようだ。そんな人間を不満がらせるほど、無茶苦茶な取材が行われたらしい。そんな報道関係者の一人に間違えられたが怒りは感じなかった。
警備員は今までの疲れと不満をヤマトにぶつけることで、晴らそうとし始めたようだ。おとなしく愚痴を聞くヤマトに、いつの間にか、男性の口が緩んでいく。岡を待つつもりで、ヤマトはその場を動かなかった。警備員の話が長引いても、それはよい言い訳になる。
「――でもな。八神もいけないよな。さっさと出てきて、なんか言えば、少しは落ち着くのに、こっそり隠れたりしてるのが悪いよ。これは、やっぱり後ろめたいってことかね」
これが、今の太一の評価だ。浮かんだ怒りが、形にもならないで弾けた。一体、今、世界中のどれだけの人々が太一の名を口にしているのだろうか。そこに込められた心は様々だ。
「捕まった友達の方も、ろくな男じゃなさそうだったしねえ。そんな男と友達って言うのも、あれだね。ほら、なんだっけ。類は友を呼ぶとか……」
男性の言葉は、今まで耳にしてきた世間話と何一つ変わらなかった。これくらいなら、どこでだって聞く。彼らが仕入れた情報の中の太一が、本来の太一と、どれだけかけ離れているか話すのに疲れていたのかもしれなかった。
自分だけが本当の太一を知っていればいい、信じていればいいと思えばよいのだろうか。それとも、自分の知る太一は、本来の太一ではないのだろうか。
俺は何も知らないからとヤマトが自嘲めいた笑みで唇を歪めたとき、警備員が常在している夜間受付口の角から、男が二人姿を見せた。
数日分の疲れが残っているような二人の顔がヤマトを認めて鋭くなり、厳しい目線のまま、横を通り過ぎようとした。
「お疲れさまです」
警備員だけには何気ない声で挨拶し、ヤマトには目を向けない。
ほらねと言いたげな警備員から目を逸らし、ヤマトは男二人に声をかけた。
「岡さんですか」
年長の男が振り向き、今気づいたという風に、ヤマトを見た。
「石田といいます。八神太一の……友人なんですが」
「そうですか」
目線も言葉も、それほど変わらない。若い方の男が相手にするなと言いたげに首を振ったが、岡はヤマトに向き直った。
「……八神に確認して貰っても結構です。石田ヤマトと言ってもらえば、すぐに分かると思います」
心を動かされたというよりも相手をした方が話を早く切り上げられると思ったのだろう。岡が義務感だけに満ちた声で訊ねた。
「それで何か、ご用ですか」
「太……八神が、今どこにいるか――」
言いかけて、ヤマトはこちらに耳を傾けている警備員に気づいた。岡も同じだったらしく、ヤマトに苦いものを孕んだ目線を向けた。
「申し訳ありませんが、そういったご質問には、お答えできません」
「あいつの知り合いでも無理なんですか」
言葉を荒げたい気持ちを抑え、ヤマトは声を低くした。
「今は八神本人にとっても大事な時期です。その辺を考慮して頂きたいのですが」
ヤマトに二の句を継がせず、柔らかいが、断固とした口調で岡は続けた。
「石田さんが八神のお知り合い、というのを信じないわけではありません。ですが、友人だというなら、今はなるべく騒ぎ立てないで頂きたいんです。――お分かりですよね?」
こうして、今まで報道関係者をあしらってきたのだろう。淀みのない口調で話し終えてしまうと、岡はヤマトに軽く頭を下げて、歩き出した。
好奇と意地悪な満足感の視線をよこす警備員には気取られないように、ヤマトは胸元を探った。
これを使えば、あの男たちと同じ処まで堕ちてしまう。それなら、それで良かった。太一に会えないのなら何をしても意味はないのだ。
適当な一枚を探り出し、震える手でつまむ。写真が熱いように思えた。確認はしなかった。写真の無惨さは比較できないものだ。
岡と隣の男を追いかけ、二人が振り向くと同時に、岡の腕を掴み、こちらに身をねじらせるようにして引き寄せた。彼の手に素早く写真を押しつけ、ヤマトは手を引く。
「きさま!」
若い方の男が怒りを露わにして、掴みかかってきた。襟元を締める男に逆らわず、ヤマトは岡を見つめ続けた。
岡は掌に滑り込んできた奇妙な手触りのそれをちらりと眺め、青い冷たい顔つきになった。次にヤマトに目線をやったとき、憤怒と言うには激しすぎる怒りに満ちた眼差しになっていた。
「――鹿島、止めろ」
「岡さん!」
「こいつと話がある。お前は帰ってろ」
岡はその言葉と目線で部下らしい男の口を封じた。彼が渋々、振り返りながら立ち去り、姿も見えなくなるのを確かめると、岡はヤマトに近づいてきた。
「……どういうことだ」
「太一に会わせて欲しい」
「誰が」
岡は荒々しく言うと、拳を震わせた。彼が自分を殴りたがっているのが痛いほどに察せられる。
「これをどうするつもりだ」
手の中の写真が皺だらけになって、岡の掌に収まっている。
「どうもしない。太一に会わせてくれ」
岡は応えなかった。
ほとんど脅しに近い言葉をヤマトは口にした。
「……三十二枚ある。カードに入っているのはそれで全部だ」
ヤマトの言葉に、岡が奥歯を噛みしめる音が続いた。
「なにが欲しいんだ。金か」
「違う。太一に会わせてくれれば、それでいい」
自身の言葉が胸に突き刺さった。それでいいなどと本当に思っているのだろうか。
岡は汚らわしい物を見るようにしてヤマトに視線を向け、すぐに顔を背けた。
「ついてこい」
岡の背中は、それをまったく望んでいなかったが、ヤマトは黙って、彼の後を追った。
もはや、これしか、すべがなかったのだと、自分に言い聞かせ、伏し目がちになる目線を上にやった。街灯が照らす影は長く伸びて、ヤマトは足下まで届く岡の影を踏みしめ、歩いた。
二分ほど歩いた先にある駐車場で車に乗り込むと、岡はヤマトが完全に乗り込んでしまうのを待たず、車を発進させた。
響くエンジン音を聞きながらドアを閉め、ヤマトは窓の外だけを見ていた。何も考えないようにするには、それが一番のように思える。
尾を引くようにして流れていく街の光は誰ともしれない人の涙のように見えた。
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