君を待ってる
20



 電話を切り終えた太一はしばらく呆けたように立ちつくしていた。考えることも出来ず、息を吐き、また吸い、機械のような動きで歩き出した。
 今までいたリビングの窓を閉め、鍵をかけた。寝室として使っている客間の部屋も同じようにすべての鍵をかけた。
 ふらふらした足取りで、すべての部屋の戸締まりをしてしまうと、玄関の鍵を三重にも閉め、その前に傘立てを置き、リビングから持ってきた椅子も置いた。最後にテーブルも引きずろうとし、廊下にひっかき傷を付けた。
 ぎちっと木がこすれる音を耳にして、ようやく我に返る。壁につっかえてしまい、動かないテーブルに寄りかかると、太一はまた立ち止まった。
 ヤマトは、何と言ったのだろうか。
 ここへ来ると言っていた。待っててくれ、とも。
 太一はふたたびテーブルを引っぱり出した。しかし力が入らない。手が震えている。爪がテーブルに当たって、何かを思い出させた。床の上を滑る足の爪――皮膚の上を走った銀色の光。
 太一は首を振った。早く、入り口を塞がなければ彼が来てしまう。何の障害物もない扉を、自分は簡単に開けてしまうだろう。忘れようと決めたヤマトの顔を見るためだけに、彼を迎え入れる。
 太一はテーブルの角が壁に傷を付けるのも構わず、テーブルを引いた。十センチほどの線が壁に出来る。塗料が剥がれて、淡いクリーム色の粉やかけらが床とテーブルの上にこぼれた。
 ――あれも、これくらいの大きさだった。もっと透明で、小さな結晶粒だったが、一つ一つの大きさはテーブルにこぼれている塗料のかけらぐらいだった。それは注射器の中に入れられた水に溶けていったのだ。
 太一は腕に鋭い痛みを覚え、恐る恐る目線を下げた。むき出しの右腕に、ぽつんと傷がないだろうか。小さいが鋭い針で刺されたような赤い痕が。
 笑い声が聞こえたような気がして、太一は辺りを見回した。足音が聞こえはしないか。太一はもう一度、腕に目をやった。
 もし、赤い針痕が見つかったら、どこかに逃げなければいけない。今度こそ、ドアを閉めて、誰にも入らせないようにして、彼らが去るのを待つのだ。息を殺して、物音も立てずに、ひっそりと。
 腕には傷一つなく、少し曲げられたままの形で、そこにあった。
 目の前が少しぼやけた。幻と現実を上手く入れ替えることが出来ず、太一は自分がどの時間に存在しているか分からなくなった。
 誰かの声が廊下で響いたが、耳を澄ませば音は消える。
 そして、また掴みにくい位置で、笑い声が聞こえる。男達の優越感に満ちた笑い声、女達の欲を秘めた甲高い嬌声。肉がぶつかり合うくぐもった音と濡れた淫猥な響きを持つ音。すべて、肉欲を知り、それを求めるようになった頃に覚えていた。
 相手に不自由したことはなく、独り寝が寂しければベッドに連れ込む相手は、どんなときでもすぐ見つかった。むなしさを覚えるより早く、その瞬間だけの悦楽に酔うようにして、女を抱き、男を抱き、また抱かれてきた。体を解放すると、心が楽になると知ったのだ。
 だが、わずかな忘却を願った結果、何を失い、得てきたというのか。
 あの時、手に入れたのは眩しいほどの金メッキが施された幸福だった。それが今までで一番、幸せな時間だったといったなら、自分は狂っているのだろうか。
 誰にはばかることもなく、思い切り、ヤマトの名を呼べた。名を呼ぶたびに幻想のヤマトは悦びを与えてくれた。それが、ずっと欲しかった。望んでいた。
 そうしてヤマトの名を汚したのだ。偽りのヤマトの体の感触は、いまだに生々しく、あの時間の幸福も消え去ってはいない。
 太一は床に膝を付いた。テーブルの表面を汚していた塗料が、吐いた息に落とされて、散っていく。うつむいて、床を見つめ、太一は板張りの廊下に付いてしまった傷を撫でた。床のへこみを何度もなぞる内に、切れ切れになった記憶が繋がっていった。
 幸福だったと認めさえすれば、そこに恐怖はない。静かに流されていくだけだ。何人かの男の顔が浮かび、ぼやけると、たった一人の男の顔になる。
 あれはヤマトだったのだと太一は信じ始めた。
 幻でも、偽りでもなく、ヤマトはあの時、自分と一夜を過ごしたのだ。そこにはヤマトと太一以外存在せず、邪魔する者は誰もいない。常に心の片隅を占める彼女も、想いを向けようとしている彼もいなかった。
 名を思い出そうとしても、もう出来ない。ヤマトの隣にいた彼女の名は何だったのだろうか。愛そうと決めた男は、どんな顔をしていたのだろうか。
 彼しか、ヤマトしか浮かんでこない。どんな記憶も欲しくなかった。ヤマトだけしか存在しない世界に行きたい。そこで、ヤマトだけを思い出しながら、消えていきたかった。
 理性を捨てた先にある世界は黄色味を帯びていると聞いた。あるいは紫や赤にも見えるとも。だが、太一が覗きかけたのは白い、清らかな世界だった。
 まるで――デジヴァイス。かすかに残った理性が囁き、小さな光を思い出させた。
 デジヴァイス。それは一番眩しい時間の結晶のような存在だ。太一はそっとつぶやいた。
 デジヴァイス。それだけは忘れてはならない。あの思い出を忘れることは、ヤマトを殺すも同然のことだ。
 太一は壁に後ろ頭をつけると、目を閉じた。あの思い出がある限り、行きたい世界には辿り着けないのだった。健やかな思い出が狂気の淵で自分を引き留める。
 太一は床に落としたままの手で、それを握る振りをした。五本の指を曲げて、空を掴む。もう何ヶ月も前に同じ仕草をした。握る真似をするだけで、余程の時でないと触りはしない。
 自分が触れて、あれを汚すのが恐ろしかった。何を持ってして、汚れたとするかは分からないが、デジヴァイスを握りしめていた少年時代と今では、何もかもが違う。体も心も、信じるものも変わりすぎた。
 もう、あの機械は奇跡を起こしてくれない。それでも、そこに在るだけで、ひとつの慰めとなった。こんな時なら触れてもいいだろうか。握りしめて、思い出に浸っても許されるのではないのだろうか。
 太一はテーブルに手を置きながら立ち上がり、冷たい汗に濡れた額を拭った。テーブルが塞ぐ廊下を、体をねじって、進みかけ、奇妙な違和感に囚われた。
 泡のように記憶が一つ、二つ浮かんで、弾けた。太一は深く息を吸い、耐えるために、顔を上げた。
 絶望には早いはずだ。もしかして、この家にあるかもしれない。光子郎が持ってきてくれた可能性がある。太一は身を翻し、最初に自分の部屋に入った。


 部屋中を荒らし、かき回す。小さな隙間から高い場所にあるクローゼットまで、開けられる収納スペースは、すべて探し回った。光子郎の整頓された部屋までも無茶苦茶にしてしまい、それでもデジヴァイスは見当たらなかった。
 太一は額に汗を浮かべ、本を蹴散らしながら、もう一度探し始めた。見落としたのかもしれない。そこら中に散らかった物と物の間に収まっているのかもしれない。
 デジヴァイスが、この家にはないと太一が悟ったのは、家具の位置がすべてずらされた後だった。
 煌々と輝く電灯の下で太一は立ち上がった。地震が起きた後でも、こうはなるまいというほどに荒らした部屋には目もくれず、玄関へ向かった。
 デジヴァイスがある場所ならば、どんな場所も恐れるつもりはなかった。幻に抱かれたあの部屋にデジヴァイスがあるなら、自分は行かなければならないのだ。
 光子郎と過ごした部屋に彼との日々を置き、そのことも知らず、太一は最初の闇の中へ踏み出した。
 何もかもが倒れ、散らばった部屋の中で電話が鳴ったとき、太一はエレベータを出て、夜の街を走っていた。



 ドアを開けても重苦しい空気は漂っていた。踏みしめた廊下のきしみが、点けっぱなしのリビングの明かりと共に静けさを強調する。
 空は寝室にいた。ドアに背を向け、ベッドに腰掛けている。疲れたような背中がぴくりと動いて、そのまま固まった。
「空」
 やっと言葉を出せた。ヤマトの重みが加わって、スプリングがたわみ、ベッドがきしんだ。
 空は振り向かなかったが、肩が震えて首が垂れた。髪が肩を滑って、胸元へ落ちていく。
 ヤマトは手を伸ばして、空の肩に手を置き、顔を近づけた。静かな横顔が見え、引き結ばれた唇が現れた。
「ごめん……」
 空が首を振った。乱れた髪を梳く代わりに空の体を抱き寄せ、ヤマトは肩に顔を伏せた。
「本当に、ごめん」
 掌の中で空の肩が震える。一時間ほど前のささくれ立った心が、撫でつけられたように静かになっていった。
「もう、いいの」
 かすれた声がして、そっと空の重みがヤマトの肩にかかった。空を抱きしめ、ヤマトは目を閉じた。
 胸に空の手が触れる。優しい指先の感触にヤマトは泣き出したくなった。ひくりと唇が震え、吹き出すようなおかしな吐息が漏れた。
 ささやかだったが、ヤマトの異変に気づいて、空はつと顔を上げた。小さな少年のように哀しく歪んだ顔が目に入る。
「ヤマト……?」
 ヤマトの鼓動を確かめていた手を挙げ、頬に触れた。指先で撫でると、ヤマトは目を伏せながら空の指を掴んだ。ほんの少しの間を置いて、ヤマトは空に唇を重ねた。幼い子が母の温もりを求めるような必死さが感じられる口づけだった。
 とまどいつつ、ヤマトの腕に籠もった力に押されて、空は目を閉じた。ヤマトの頬を手で包み、口づけに応える。
 ヤマトの腕になおも力がこもり、いつしかベッドに組み敷かれていた。ヤマトの刺々しい言葉が胸に応えたのも確かだった。だが、ヤマトは自分の取った態度に、空よりも傷ついていたのだろうか。
 遮二無二な動きでヤマトは空を求め、触れてきた。あたたかい体に拠り所を求めるようにしてヤマトは空を抱き、果てた後も彼女を抱きしめ続けた。
 疲労と苦痛も強かったが、荒々しいヤマトの愛撫に哀しさが感じられて、空はヤマトを抱き返し、その背中をシャツ越しに撫でた。
 ヤマトが少年の頃から抱き続ける愛しさは歳月を経ても強まるばかりだった。彼の中の子供は、まだ怯えているのかもしれない。諍いを恐れるのはいつもヤマトだった。
「――空、きつくなかったか」
 空を抱きしめたままで、ヤマトが訊ねてきた。
「大丈夫」
「ごめんな」
 空は笑い、ヤマトの胸に頬を押し当てた。
 まだ体の奥に、どうしようもない陶酔が残っている。服は乱れ、皺になっただろうが、朝までこのままで居たかった。
 力強いヤマトの腕の中で、空は目を閉じた。不安は薄くなっていた。きっと、朝には消えてしまっているだろう。



 空は眠ってしまった。服装はお互いに乱れたままだ。着替える気にも、着替えさせる気にもならない。情事後の疲労というには、体にわだかまるそれはあまりに重かった。
 シーツの温もりと空の体の温かさ。二重の温もりに腕から力を抜いた。ヤマトは空の顔は見ないようにして、髪の間に指を滑らせた。十数年も傍らにあった温もりだ。甘い髪と肌の匂いは、もはや懐かしいという気にもさせる。
 ――太一と約束したわけではなかった。行っていいかと訊ね、来るなと断られた。言葉は一方的なものだ。ならば、ここにとどまっているのが正しいのかもしれない。これが選択ということだろうか。
 空の寝息は安らかだ。彼女の平和を乱したくなかったので、ヤマトは起き上がらなかった。髪を梳くのも止めた。体中に沈黙がのしかかってくる。。
 空の横で目を閉じようとして、ヤマトは本当にそうかと自問した。空を起こしたくないから身動きしないのではなく、目を覚ました彼女に見つめられることを恐れているのではないのだろうか。
 太一に会いに行くという言葉の中に込められた疚しさを、空が感じ取ったらどうすればいいと自分は考えている。
 太一に会いに行く。表面的には、何らおかしくない行動だ。けれどその裏に自分は何を期待していたのか。自分の言葉に、なぜ太一が怯えたのかは、そこにある。
 体を鎮めたというのに漏れる吐息は熱かった。じわりと体の中心に熱が集まっていく。
 空の自然な抗いの中に自分を拒む太一を見ていた。拒まれ、抵抗されることが、憎く、くやしく、手首をきつく締め上げた。触れた唇の感触は違和感があって、たった一度感じた柔らかさを探していた。
 何より、自分を見上げる瞳に、あの苦しいまでに切迫した感情を求めていた。
 口づけられたからか、辱められている写真を見たからか。そんな対象ではなかったはずの同性の肌を得たかった。
 唐突に、そして激しく襲ってきた思いを、ヤマトは目を閉じて受け止めた。――自分は間違いなく、太一に欲望を抱いている。それも凶暴で歪んだ、浅ましい形で。
 意味の掴めない悲しみとうずく嫌悪、戸惑い。みな、太一から生まれていた。それらを包み込むのが情欲だ。
 太一へのどうしようもない情欲はヤマトの体を煽っていった。耐えることしか出来ない熱は、心と体の奥底に沈んで、ふたたび浮かび上がるのを待っている。


 
 荒涼とした部屋は感情も凍てつかせてくれた。ライトが足下を照らし出していく。それが部屋の惨状を隠し、あるときはもっとひどい形で映し出した。
 倒された家具類には目を向けず、ただ一つの部屋を目指し、太一はうつむいて早足に歩いた。足下の灯りは眩しすぎる。けれど光がないと前も見えない。
 この部屋を出ていくときは、光子郎の腕に抱かれるようにして出ていった。それきり部屋に戻ったことはない。必要な物は新しく購入するか、光子郎の物を借りた。それで何事もなかった。
 目的の部屋のドアノブを回すには、少し時間が必要だった。自分を奮い立たせるため、太一はデジヴァイス、とつぶやいてみた。
 ノブを回す手に力が入り、太一は部屋へ入った。
 明かりを点けると、部屋を見る前に引き出しを開けた。デジヴァイスを収め、ヤマトのピックを入れていたはずの引き出しには、何も入っていなかった。太一は一度、引き出しを閉めて、開け直した。手応えはまったくなく、中の空白を確かめただけだった。
 振り返ると、荒らされたままの部屋が目に入る。あの時間の名残は、それだけだった。
 鼓動の早い脈打ちに、太一は胸を押さえた。喉から溢れそうな声を堪えた。
 この無茶苦茶な部屋すべてを探しても、いやマンション中を探しても、デジヴァイスは見つからないだろう。
 それでも太一はのろのろとした動きで、部屋を探してみた。手が埃で黒くなり、同じく汚れた頬に汗が流れた。物を動かす音や、ドアの開け閉めの音、太一の息づかい、そんなものが部屋のあちこちを移動しながら響き、消えていった。
 遠くから救急車のサイレンが聞こえるのを機に、太一はふらりと立ち上がった。
 彼らには何の価値もないはずだった。大切に仕舞い込まれていたから、持っていったのかもしれない。
 太一は目を鋭く光らせた。
 たとえ何を捨てても良かった。デジヴァイスだけは失うつもりはない。言葉にも表せぬほどのすべてが、デジヴァイスにはある。
 淀んだように思われた部屋の空気から逃れると、太一は近くの駅を目指して、駆け出した。闇を恐れることも忘れていた。
 頬に付いた埃を拭って、太一は今ではレトロな感さえ漂わせる公衆電話の前に立った。
 駅の構内にもその周辺にもまだ人は多い。人目があるところならば、ある程度までの安全は確保できる。
 もう二度と使用しないと思っていた番号を太一は押した。
 やがて電話口に出た不審そうな男の声に、鳥肌が立った。電話機に覆い被さるようにして、表情を隠す。このまま話しもしないで、電話を切ってしまいたかった。
 駅の喧噪を男に聞かせると太一は低い声で名乗った。男の驚きを楽しむ余裕など無い。太一は動揺と恐怖を感じさせることなく、男に自分の家から持ち去った物を返すように告げた。
 男の言葉は聞かない。ただ返せと繰り返した。
「小さな機械だ。昔のポケベルみたいな形をしてる。それとピックもあったはずだ。その二つだけ返せ。後はいい」
 男は黙りこくった。彼のいる場所からも駅とは違う人の声がする。
「……いいぜ。取りに来いよ」
 男の声にねちっこいものを感じて、太一は静かに言った。
「お前が来い」
 今いる駅の名を伝えると、男は鼻で笑った。
「お前が来た方が早い。返して欲しいんだろ」
「――どこにいるんだ」
 男がいるのは、一度だけ連れられて行ったことのあるクラブだった。いい噂は聞かないが、男の仲間ばかりが集まる店ではないし、繁華街にある店でもある。
「分かった。今から行く」
「待ってるよ」
 男の声が下劣な響きを帯びる前に、太一は自分の中に存在していたすべての憎しみを込めて、囁いた。
「今度、俺に薬を使ってみろ。必ず――」
 太一は淡々とした調子で言い、そこに何を感じ取ったのか、男は押し黙った。
 殺意を響かせた言葉を言い終えると、太一は荒い息を付いて、受話器を乱暴に戻した。
 周りの雑音が戻ってくる。人々の賑やかな話し声が聞こえ始めた。足が崩れそうになり、太一は電話機の置かれた台の端を掴んで、支えにした。
 冷たい金属が掌に食い込む。深呼吸をして、太一は唇を引き締めた。怒りと憎しみが残っている内に行かなければ。
 太一は歩き出した。意識しないと、足を引きずってしまいそうだった。


 クラブのドアは錆びた鉄色をしていた。ドアの前に四人ほどの若い少年達がたむろしていたが、太一の目を見ると、怖じ気づいたように、こそこそと背を向けた。
 クラブのある通りに足を踏み入れたときから、この辺りの空気が太一には気にくわなかった。いかがわしい店が建ち並ぶからでもなく、そこに集う人々の茫洋とした表情のせいでもない。
 空気が張りつめている。嫌な気配だった。試合が敗戦になりかけたときの緊張感にも似ている。この空気を覆すのは、たまらなく快感だが、ここはゴミや反吐が散らかる路上だ。
 首の後ろの毛が逆立ち、太一は自然と忍び足になりながらドアを開けた。
 むうっと甘みのある匂いが流れてくる。空気をなるべく吸わないようにして、中へ入った。
 クラブの照明は、かなり暗く、煙のような白いもので視界も悪い。フロアにも壁際にも座り込む男や女の姿が見えた。何人かの足につまずきかけたが、わざと突き出された足は蹴り飛ばし、太一は男を捜した。
 たまに奇声が店内に鋭く響き、笑い声があちこちで爆発する。騒がしくなったと思えば、急に静かになり、やがて前よりもひどい騒音になる。
 以前、訪れたときよりも雰囲気は悪くなっているように思えた。だが、常連客から見れば居心地がよくなったのかもしれない。どの顔も、彼らなりに幸せそうだった。
 カウンターの手前にある汚いソファに、腰掛けた男の姿が見えた。
 どうやら彼一人のようだ。他の二人が見えないことに太一は安堵した。あの男一人ならば、どうにでもできる。
 妙な空気のせいで、頭が重い。漂う匂いのためか、頭の後ろが甘く痺れてきそうだ。長居しない方がいいだろう。カウンターにいた見知らぬ男が、こちらを見たようだったが、すぐに視線を戻した。
 太一は煙草にしては太い紙巻きを口にくわえている男のそばに近づいていった。
 男はとろんとした目を太一に向ける。太一を認めると、その目に恐れが浮かんだ。
 ――男ではなく、自分を哀れんだのかもしれない。彼の腕に安らぎを求めていたわけではなかった。ほんの少し、あるかないかのヤマトの面影に惹かれていた。荒々しい男の指先が優しくなりかけた頃に言われた、ある申し出を無視したのも、そのせいだ。面影だけを重ねる男と幸せになどなれるわけがない。体の飢えと心を一時、満足させてくれれば、それで良かったのだ。
「……」
 男の名が喉に張り付いた。名前の響きもヤマトに似ていた。
 男が太一に目を向け直し、笑うように唇を歪めたが、それがなぜか開いたままになった。
 店の出入り口近くを凝視している。太一が用心しながら視線を変えようとすると、入り口付近から叫びが聞こえた。
「――逃げろ!」
 扉が大きく開かれ、そこから大勢の人の気配と、怒号が流れ込んでくる。
「麻取だ。動くな!」
 太一は振り返り、様々な服装の、しかし視線だけは、しっかりした男性や女性が店に入ってくるのを見た。
 厳しいというより、殺気立った雰囲気が、辺りを支配し、客たちが波打ったように、騒ぎ出す。テーブルが倒れ、ガラスの割れる音や悲鳴が響いた。
「おとなしくしろ、おらっ!」
 ドアに走り出す男を取締官が抑え、逆に店の奥へ走り出す女性を別の女性取締官が腕を掴んで抑えた。  
 見つめるだけの太一だったが、強く手を引かれた。顔を向けると、男がいつの間にか立ち上がって、手首を掴んでいる。
 嫌悪を感じる前に男の視線と言葉が届いた。逃げるぞと動いた唇は誰にも似ていなかった。男自身の唇だった。
 ヤマトは彼でなく、彼もまたヤマトではない。それは単純なことだ。理解できていたら、もっと別の今と未来もあったのだろうか。考えるのも、気づくのも、遅すぎた。
 店の奥でも誰かの叫び声が聞こえる。店の裏口からも取締官が入ってきたらしかった。
 次々に客が取り押さえられていく。暴れる客たちを圧倒的な力でねじ伏せ、手慣れた確実な動きで身体検査が始められていた。逃げ出す素振りも、抵抗も見せず、ただ立ちつくしていた太一と男にも大柄な取締官が二人、近づいてきた。
 薬が与える恍惚と理性の合間を行き来している男に見つめられた。彼と正面から目を合わせ、太一は首を振った。
 捜査官たちに挟まれ、車まで連れて行かれるとき、どこかでよく響く幻の笛の音を聞いた。それとも退場を示す赤い色が見えたのか。
 試合終了、と太一は誰にも聞こえぬようにつぶやいてみた。 


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