君を待ってる
19



 思い切って、電話をかけてみれば、あっけないことに、光子郎の携帯電話は使用されていなかった。まさか、自分に番号を知られたからかと根拠のない疑いを持ちつつ、ヤマトは丈に電話をしてみた。
 この間の無礼を詫びないどころか、覚えてもいないヤマトに文句も言わず、苦笑混じりで、丈はヤマトの早口の問いにうなずいた。
「分かると思うよ。ちょっと待っててくれ」
 今日は自宅にいたらしく、紙をめくったり物を動かしたりするような物音が、向こうから聞こえてきた。
「あれ? おかしいなあ……」
 幾つになっても代わらないおっとりした声が遠くなり、すぐに近くなった。
「あった、あった。前、控えておいたんだ」
 かさかさと紙が触れる音がする。
「言うよ?」
「ああ」
 丈は光子郎の住所と電話番号を教えてくれた。もちろん、彼の両親が今も住まう家の住所ではなく、現在彼が滞在していると思われる家の住所だった。
「もう一回、言おうか」
「いや、大丈夫だ」
 高層マンションが建ち並ぶ区域だった。ヤマトは今度こそ礼を言って、電話を切ろうとしたが、丈は呼び止めた。
「なあ、ヤマト」
「なんだ?」
 幾分、いらいらした口調でヤマトは応えた。
「なんだか、この間から変じゃないか?」
「俺が?」
「何かあったのかい」
 一瞬だけ、ヤマトは丈に自分の抱えた秘密を打ち明けようとした。彼なら信頼できる。写真のデータをどうしたらいいかも、一緒に考えてくれるはずだ。誰かと、この重苦しい事実を共有するだけで、ずいぶんと気が楽になるだろう。
「丈……」
 太一が、と言いかけて、ヤマトは口を閉ざした。衝撃を受ける友を思いやったのではない。胸にあったのは別の思いだった。
 丈は必ず、力になってくれる。だが、彼に写真を見せることが出来るだろうか。
 ヤマトは言葉を呑み込んだ。 駄目だ。あんな太一の姿を、これ以上人目にさらすことなど出来ない。
「――最近、忙しくてさ。イライラしてるみたいだ。そのせいじゃないか」
 なめらかに嘘がこぼれてきた。丈の疑いも言葉の表面を滑っていくだろう。
「なら、いいけど……」
 丈はため息をつかない代わりに気遣うような口調になった。
「あまり無理するなよ。空くんも心配するだろうし」
「分かってるよ。じゃあ、ありがとうな」
 電話を切ると、ヤマトは楽譜の隅に走り書きしたアドレスを見つめた。
 この時間なら光子郎は家にいるだろう。いなくても、留守電に伝言を残しておけばいい。たとえ、彼が太一の所在を伝えることを拒んでも聞き出すつもりだった。この間の電話では自分が教える立場だった。今度はその逆になるだけだ。
 ヤマトは煙草を一本吸うと、煙が漂う内に光子郎の自宅へ電話をかけた。呼び出し音が途切れ、ぷつっと微かな音が聞こえた。
 繋がったのだ。ヤマトは名乗ろうとして、届いた声に低く息を呑んだ。
「光子郎、俺、決め……」
 少し遅れて、太一も沈黙を守った。
 小さな息づかいの音をしばらく互いに聞かせ合い、その後、太一は恐怖を滲ませた声で訊ねた。
「誰だ?」
 太一は自分が誰なのか知っている。ヤマトは、そう直感した。
「太一……」
 ヤマトの声に太一はひっくと小さなしゃっくりのような息を漏らした。
 怯えた気配が伝わってくる。ヤマトはなるべく穏やかな声になるよう気をつけながら名乗った。
「ヤマトだけど……」
「どうしたんだ」
 太一は感情を噛み殺すような調子で言った。
「光子郎に用か」
「いや……」
 光子郎に訪ねたかったのは太一の所在だった。
 目的であった太一が見つかった今、理由も言い訳もなくして、ヤマトは指を動かした。
 すでに火を消していた煙草をつまみ、先端を灰皿に押しつける。柔らかい手応えと共に煙草の先が崩れていった。
「光子郎なら、今アメリカだ。用があるなら、そっちに連絡しろ」
 その言葉に安心した自分が、よく分からなかった。
「太一、お前――」
 ヤマトは安堵が胸に広がっていくのにとまどい、妙な抑揚の声で訊いた。
「光子郎のとこにいるのか」
「ああ。悪いか」
 指で挟んでいたフィルターも、ぐしゃりと崩れた。始めに聞いた光子郎に呼びかける太一の声は震えていて、侵しがたい哀しみのようなものも漂っていた。しかし、ヤマトに向けた今の言葉には、はっきりと棘がある。
「間借りしてんだよ」
「そうか」
 苛立ちで胸が熱くなる。それなのに頭の一部は醒めていた。脳の中心に金属でも差し込んだように金気臭い冷たさだった。
「向こうの電話番号、教えてやるから、そっちにかけろ」
 太一が驚くほど丁寧な口調で、光子郎の住所と電話番号を言い出した。優しさも感じられる。ヤマトにか、それとも光子郎に向けられているのか。
「これでいいだろ。じゃあ……」
「今、一人なのか」
 煙草をなおも捻りながら、ヤマトは目を閉じた。
「だったら、どうした」
「……大丈夫なのか」
「何が」
 太一の声がわずかに震えた。
「その部屋は――危なくないのか」
「どういう意味だ」
 太一の息が荒くなって、声が低くなった。
 失言に気づき、ヤマトはうろたえ、口ごもった。
「いや、その……」
 取り繕わなければとヤマトは言葉を探した。
「セキュリティとか、しっかりしてるとこなのか。お前、あんまりそんなのを気にしないから……だから……」
 ヤマトは唇を噛んだ。
 太一が電話を遠ざけたのか、音がぴたりと止んだ。呼吸する音も聞こえなくなる。ヤマトは太一の名を呼んだ。
「余計なお世話だ」
 返ってきたのは、力のこもらない怒りの言葉だった。
「悪い……」
 謝るヤマトの声にも力はなかった。
「別にいい。用がないなら切るぞ」
「太一」
 ヤマトは悲鳴のようにして叫んだ。
「何だよ」
「そっちに行ってもいいか」
 太一が絶句した。
「そんなに時間はかからないと思う。待っててくれ」
「ふざけるな」
 怒気よりも恐怖が濃かったのはヤマトの気のせいではない。太一の怯えを感じ取った瞬間、ヤマトは何としてでも太一の元へ行こうと決めた。
「顔、見たら、帰るから」
「気色悪いこと言ってんじゃねえよ。絶対、来るな!」
 すさまじい勢いで、電話を切られた。
 耳鳴りが収まる前にヤマトは立ち上がり、部屋のドアを開けた。ポケットを探り、財布が収まっているのを確かめると、床を乱暴に歩きながら玄関へ向かう。
 車のキーを取り上げ、靴に片足をつっこんだとき、がちゃりと錠が開く音がして、扉が開いた。
「空」
 驚きのあまり、非難するような声になった。空は今日、遅くなると言っていた。彼女がいなかったから、太一に電話をかける気になったのだ。
 空も驚いた顔で、出かけようと支度していたヤマトを見つめた。
「親父さんたちと夕飯食べるって……」
 玄関で見つめ合った後、ヤマトはキーを握りしめて言った。
 空は目を伏せた。
 言ってしまえばいい。父に急用が出来て、中止になったのだ。ただ、それだけの話だった。
「……ヤマトこそ、どうしたの?」
「俺は――煙草、買いに行こうかと思ってたんだよ」
 空は自然と眉を寄せた。決して悪気があったわけではない。ここ最近、ヤマトの喫煙量が増えていたのが気がかりだった。
「最近、吸いすぎじゃない?」
 きつい口調ではなかったが、たしなめるような言い方にヤマトはキーを下足箱の上に放り投げた。
 外国製のメダルがついたキーホルダーが壁に当たって跳ね返り、足下に落ちる。
「だったら止める。これでいいんだろ」
 突然のヤマトの癇癪に空は顔を歪めた。
「ヤマト」
 非難のこもった口調にヤマトは靴も脱ぎ捨て、リビングへ行った。胸ポケットに入っていた煙草の空箱を屑籠に強く投げ捨てる。
 後ろを振り向くと、リビングに戻ってきた空と正面から顔を合わせた。
「ヤマト」
 空の瞳が驚きと不安で揺れている。
「どこか行くなら行ってきても……」
「もういい」
 そうと意識しなくても、苦々しげな悪意のある言い方になっていた。
 もちろん罪悪感を覚えたが、今更引っ込みがつかない。ヤマトは苛立たしげに舌打ちしながら空の横をすり抜けた。
「私、遅いほうが良かった……?」
 震える声が聞こえ、ヤマトは思わず振り向いたが、空は背を向けたままだった。うなだれた空のうなじがか細い。
 謝ろうとしたのに、出てきたのは、もっとひねくれた言葉だった。
「くだらないこと言うな。馬鹿馬鹿しい」
 自分の言葉が空にどんな傷を与えたかを確かめないで、ヤマトは部屋に入った。力をこめすぎたのか、ドアは大きな音を立てて閉まり、その音に空もヤマトも、びくりと肩を震わせた。
 机の上に置きっぱなしだった楽譜とそこに書かれた住所を見つめ、ヤマトはそれを取り上げた。手の中で握りつぶすまでは出来たが、それ以上指一本も動かせなかった。くしゃくしゃになった紙がかさついた音をたてる。
 行かなければならなかった。部屋のドアを開け、空の姿を見ないようにして、太一に会いに行かなければ。彼は一人で、部屋にいる。だが、ヤマトが出ていけば空も一人になるのだった。
 ヤマトは動けなかった。
 太一は一人だ。空も一人になる。
 現在と予想される未来の秤は見事なほどの釣り合いを保っていた。その異常さが、ヤマトの動きを止めていた。空と太一。二つの存在はすでに同じ重みを持っていた。


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