君を待ってる
18



 寝覚めても、目が覚めても一人なのは、安心とほんの少しの不安を呼んだ。静けさには一日も経たない内に慣れてしまい、表面的には何事もないような日々だった。
 家にこもりきりになるのは望むことではなかったので、太一はなるべくジムに行くようにしていた。ベッドに入って、すぐに眠れるくらいに体を疲れさせておけば、夢を見ない。規則正しい生活のおかげで、余計なことを考えずに済むのが、何よりありがたかった。
 光子郎がどうしても抑えきれなかった強い口づけの痕が肌から消えてしまっても、彼からの毎日の電話は無くならなかった。本当に仕事をしているのかという太一の声に、光子郎は笑っていた。
 光子郎の声を聞いた後、太一はソファでも床でも構わずに寝転がった。目を閉じなくても、天上を見上げているだけで思い出せた。
 光子郎の気配は彼の声を聞いた後、体に戻ってくる気がする。指先の感触を、はっきり思い出すと、たまに涙がこぼれるときもあった。哀しくもないし、喜びの涙でも安堵の涙でもない。乾きを潤すためだけに涙はこぼれてきた。
 たぶん、光子郎が優しかったからだろう。彼ほど優しい触れ方をする相手は初めてだった。触れられるたびに、すくむ体をいたわるように扱われた。慣れない手つきは、それを補う優しさばかりで痛みさえも消すかのようだった。
 傷つけあい、貪りあうような行為と時間が、今までは当たり前だった。それでよいと割り切り、慰めも見出していた自分が、その行為自体に、どれほど疲れていたのか、思い知らされた気分だ。体を重ねることには快楽を得るだけでい、他の意味もあったのだった。
 まだそれをおぞましいと、思う時期も確かにある。光子郎の声に被さるようにして、時折、頭の中で三つの笑い声が聞こえた。
 夢の中でも、目が覚めているときでも、不意に笑い声が聞こえてくる。誰かが自分の名を呼ぶ。ぞっとするような笑い声と呼び方で八神と呼ぶ。
 声の響きに背中と手が痛み、腕には冷たく鋭い感触がよみがえる。かさついた手と湿った唇が欲望を込め、体中を這いまわっていく。
 そして、それを自分は――。
 冷たい床から身を起こして、太一は乱暴に床を叩いた。拳に鈍い衝撃がきて、記憶を揺らし、沈めていく。体中に冷たい汗を掻いていた。
 みんな覚えている。だから忘れなければ。思い出してはいけない。そこには快楽など存在していなかった。悦びもなかった。何も覚えていない。それが正しいことだ。
 激しく上下する胸を押さえて、深く息を吸う。深呼吸を繰り返すと胸が幾らか楽になった。目元の潤みは、まばたきして乾かした。
 目を閉じ、太一は肩をつかんだ。大丈夫だ。何も覚えていない。自分は誰の名も呼んでいないし、姿を思い出してもいない。すべて暗闇に沈んでいる。
「……」
 太一は身を丸めた。
 少しだけこうしていて、眠くなったらベッドへ行こう。すぐに寝付けるはずだ。


 寝起きが良くなったのはいいのだが、その割には、あまり寝た気もしない。鳥の鳴き声を聞きながら、太一は五分ほど、ベッドの上で寝返りを繰り返していた。開けっ放しにしていた窓から、風が入ってきて、カーテンを揺らしている。
 Tシャツとジャージ姿で眠っていたので、太一は着替えないまま、顔を洗いに行った。
 歯磨きを済ませ、戸棚にポツンと置かれている髭剃りを取った。光子郎が行ってしまってからは買い置き分も太一しか使わない。
 安全刃だったが、手元が滑って、太一は顎の左辺りを切ってしまった。
「いてえなあ……」
 泡が染みる。口元を覆っていた泡を流してしまい、血が滲んだ傷を一撫ですると、太一はタオルを片手に握って、光子郎の部屋に行った。
 朝、出かけるまでのわずかな時間、この部屋の窓を開けて、空気の入れ換えをする。部屋の空気が新しいものになるとき、太一は光子郎を思った。
 少年期の細い、頼りなかった体は、しっかりした男の身体に変化して、機械にばかり触れていた指先が情欲を滲ませるようになっていた。他人の身体への触れ方は誰に教えてもらったのかと、おかしくなり、そんなことを考える自分が嫌になった。いつまでも光子郎を昔のままと見ている方が、おかしい。
 太一は光子郎のベッドに腰を下ろした。シーツが少し皺になっているのは、太一が光子郎ほどベッドメイクが上手くないからだ。
 光子郎が行った日に昼過ぎまでこのベッドで眠って、それ以来使っていない。太一は勢いよく体を倒し、光子郎のベッドに寝てみた。シーツからは、ほのかな石鹸の匂いしかしなかった。太一はさらさらしたシーツに頬を押し当てた。
 シーツは柔らかい感触で、太一をくすぐり、受け止めた。目を閉じていても、光の眩しさが分かる。あの日もそうだった。閉じた瞼の裏で、太陽の光が舞っていた。耳元でささやかれる光子郎の言葉。想いを告げる優しい言葉。
 そこに感じる違和感は消してしまえる。苦しいが平気だ。ゆっくり始めていけばいい。光子郎との時間が、ヤマトの面影を覆ってくれるはずだ。
 自分の体すべてに光子郎への想いが満ちる日が、早く来て欲しかった。心の奥底まで、光子郎で満たされれば、きっと世界は別な姿に見える。そこには親友のヤマトと、その妻である空が在るはずだ。大切な二人。彼らの並ぶ姿に、ほほえましさと羨望を感じられるようになりたい。早く、その日が来ることを。
 ――その日、初めて太一は光子郎を恋うた。彼の不在に鳥肌立つような寂しさと不安を感じた。



 どこから入ったものか、ジムの地下駐車場にスポーツ紙の記者が数人いた。岡がうるさげに追い払ったが、太一はスポーツバッグを肩から下げたまま、微笑して見せた。  
 マスコミに対しては無愛想な場合が多い、『八神太一』選手の機嫌良い雰囲気に勢い込んで、一人の男が質問を投げかけた。
 岡は首を振ったが、太一は車に乗り込む前に記者たちをからかうような口調で、ぼそりとつぶやいた。
「アメリカかな」
 色めきだった記者たちを振り切って、岡は車を発進させた。
 銀の混じった白の車は車道に出ると、他の車両に混じって、のろのろと走り出した。夕方過ぎ、ちょうど道が混み始めている。
 信号街で車がで止まると、岡は窓から外を眺めている太一をちらりと見た。窓ガラスにこちらを見る岡の姿が映ったらしく、太一は岡に顔を向けた。
 瞳の中にまだ見え隠れしている迷いは数日後には消えているだろう。太一は決めたのだ。岡は太一の言葉を待った。
「アメリカに行く」
「そうか」
 太一は二つほどのクラブ名を口にした。ニューヨークにほど近い場所に本拠地があるクラブばかりだった。
 岡はギアを変えて、車を発進させると、もう一度うなずいた。
「分かった」
 もう一つとは未交渉だが、残る一つからは誘いが来ている。細かいことは明日からでいいはずだ。太一が決めたなら、そこへ行けるように渡りをつけるのが岡の仕事だった。
「明日、資料を持ってくるよ」
 クラブの成績や受け入れの状況、移籍金、報酬、条件。仲間になる選手たちについて。それらは帰宅してでも調べ上げられる。
 太一は頼むと言って、背もたれにもたれかかった。岡は早めに車のライトを点け、車の運転に集中しようとした。
 隣で窓の外を眺める太一。幾つものクラブ経営者が欲しがる選手だ。
 サッカー選手として、太一が活躍を始めた初期の頃から彼の元で働き、備わった実力と、その人気のほどを、すぐ側で目にしてきた。チームの要になり、経営陣やスポーツメーカーにとっては、素晴らしい広告塔にもなりうる男。肖像権でもめたことや、コマーシャル出演の莫大な金額に驚いたのも懐かしい話だ。
 素行の悪さに腹を立て、厳しく注意すれば、反省の色が見られないどころか、逆にふてくされた態度を太一は取った。それで、辞めてやる、辞めろの大喧嘩したこともある。
 喧嘩の仲裁に入ってくれたのがが光子郎で、あの時初めて、太一の古い友人である彼と顔を合わせた。太一との付き合い方も光子郎に教わったようなものだ。
 その後、気が合わないと思っていた太一と親しくなっていくのに時間はかからなかった。知ってみれば面白い相手だ。
 彼と毎日のように顔をつきあわせて、軽く五年は経つ。代理人として、莫大な年収の管理人として、またマネージャーとして、そして何よりも友人として、苦労しながら付き合ってきた。
 それに疲れたわけではなかった。自分の替わりが出来たのかもしれない。それとも自分が替わりだったのか。
 今は海外にいる友人の日本での仮住まいの前で、太一を下ろす時に岡は声をかけた。
「なあ」
 半身を外に出していた太一は振り返った。顎の隅にある小さなかさぶた、そのぽつんと赤い傷を見つめて、岡は笑った。
「泉のところに行くのか」
 太一のうろたえる様を見られるのは、彼に近い場所にいる者の特権といっていい。
「そういうわけじゃねえよ」
 頬の辺りに羞恥の赤がかすめ、太一は車外に出た。これも嫉妬の一種かもしれないと苦笑して、岡は太一が閉め忘れた窓を閉めた。
「じゃあ、明日」
「ああ」
 太一が手を振って歩き出した。ホールの中に間違いなく入っていくのを見届けて、岡は車を出した。
 自宅へ戻る前に、もう一仕事、片付けておこう。ひょっとしたら来週には記者会見を済ませて、ニューヨークへ発っているかもしれない。ならば光子郎が喜ぶはずだ。友人の喜びを露わにした声を想像して、岡は微笑した。
 バックミラーには無人の玄関ポーチが映るばかりだった。


 玄関の鍵には革製のキーホルダーを付けていた。握りしめていたので、じんわりと生暖かい。
 一人きりの部屋に入る前に太一は左右の廊下を見回した。誰もいないのを確認して、扉を開ける。部屋の気配に耳を澄ませて、靴を脱いだ。明かりをつけるときには無意識に身体が緊張してしまう。誰もいない部屋だが、気を張りつめつつ、脱衣所まで行った。
 汗で汚れたスポーツバッグの中身を洗濯機に入れ、今着ているシャツもついでに放り込んだ。
 自室で新しい衣服に着替え終わると、することはなくなった。夕食はジムを出る前に済ませてある。冷やしていたスポーツドリンクがあったのを思い出し、太一は冷蔵庫を開けた。酸味の効いたそれを飲みながら、太一は荷造りを始めようと考えた。
 明日は家に電話するか、それとも顔を見せて、また日本を離れなければならないと告げようか。ヒカリが、また眉を寄せるだろう。
 笑いかけて、太一は黒い小さな影が胸を横切るのを感じた。思い出してはいけない。心に命じ直し、太一はキッチンを出た。
 光子郎からは、あと一時間すれば電話がかかってくる。その時に伝えてしまおう。
(あのさ、俺、そっちに行くから。いや、詳しいことはまだ決めてねえけど、そっちに)
 光子郎の元へ。
 太一はペットボトルを置いた。それでいいはずだ。心の奥底まで、光子郎の面影を宿らせよう――。
 なぜか不安にとらわれて、太一は周りを見回した。静かだ。誰もいない。もうすぐここを出て、光子郎と二人だけの生活が始まる。思い出話が出来るようになる。彼と暮らすのは楽しいだろう。その頃にはヤマトのことは忘れているはずだ。
 ――ヤマトを忘れるのがつらいから、こんなに不安になるのだろうか。あれほど、胸をかきむしられるような思いを味わってきたのに、まだ未練を残しているのだろうか。
 太一はシンクの縁をつかんだ。何もかも忘れよう。小さな光るあれのことも。太一は指を震わせ、顔を上げた。
 思い出したくない。忘れてしまいたい。すべてが黒い時間だった。けれど、沈めようとした記憶の底で、何か光ってはいないか。
 太一は首を振った。何も覚えていない。それが正しいのだ。太一は足を引きずるようにして、ソファまで歩くと、身を横たえた。
 光子郎からの電話が鳴るまで、時間はあった。彼と話せば迷いは消えるだろう。
 太一は目を閉じ、疲れが呼ぶ眠りに、引き込まれかけた。
 途端に響いた電話のベルに、太一はあわてて身を起こした。そんなに深く眠ったのかと驚いたが、時計を見れば五分も経っていない。今日は早めにかけてきたのだろう。疑うこともなく、太一は目をこすり、受話器に手を伸ばした。
 肩と耳で受話器を挟んで、太一は決心を光子郎に伝えることで、今の迷いや怯えを眠気のように振り払おうとした。
「光子郎、俺――」
 表示された番号を見たのは、電話の向こうで、はっと息を呑む気配を感じてからだった。

<<<<
>>>>

<<<