依頼した件に関して、光子郎は期日を指定したわけではなかった。早いほうがいいが、はっきりした成果がつかめないうちは最低限の連絡だけでいいと念押ししている。時間がかかっても、怒りや憎しみが風化するわけではない。むしろ恐ろしいのは誤った報告の方だったが、その点での腕は確かだったらしい。
依頼した興信所からは、三日に一度、決まった時刻に連絡がメールで来る。週の最後には、かかった費用のことも付随されていた。安いとは言えない。しかし金額はではなく、結果が問題だった。
体を休めるに足りる程度の睡眠を取るだけで、他の時間はすべて仕事に費やしていた光子郎だったが、ある日のわずかな休憩時間に、二通りの眼差しを見せた。
先に見せたのは穏やかな眼差しの方で、彼が日本へメールを送るときや、電話をかけるときに限って、見られる視線だった。
カフェインを抜いたコーヒーのマグを持って、光子郎は画面を見つめていた。
事務的とも言える簡潔な内容のメールは太一からで、検査の結果が記されていた。
結果的に、すべて陰性だったが、用心のために、少し期間を開けて、再検査をするとのことだ。最後の方に、おまけのようにして、心配かけたなと書かれていた。メールソフトにあった機能を使ったらしく、そこだけは自筆だった。
懐かしい太一の筆跡に体中の力が抜ける。安堵とも喜びともつかない感情が、広がった。今すぐ、日本への航空チケットを予約したい気分にかられ、それを抑えるために、光子郎はマグを口に付けた。今の仕事のペースから考えても、帰国はそう遠い話ではない。目の前の仕事の山を片付けたのち、仕事先を変えようかと考えていた。
ちょうどいいことに、二社から誘いがかけられている。一社は日本、もう一社はヨーロッパの方からだ。どちらも収入の面からいっても、今の勤め先より条件はいい。太一が、この先どうするか決めてから、自分も決めることにしよう。彼が行く場所に、自分も付いていけばいい。
微笑を浮かべて、光子郎はもう一通のメールを画面に映した。
画面が代わり、送られてきた内容に目を通した瞬間、今までの暖かみは光子郎の瞳から消えて、酷薄な光が宿った。
再度の確認を頼むという文章の下に、三人の男の写真が映し出されている。隠し撮りだが、顔の判別は充分出来た。
三人の男の顔は、光子郎が唯一の資料として提供した防犯カメラからの映像と見事なほどに一致していた。それだけでなく、骨格や皮膚の状態も、提供された写真との一致が確認されたと記されてあった。
それなりの悪評判で顔を知られていた男たちだったらしいが、最近は三人でよくつるみ、遊び歩いていたらしい。ずいぶんと豪遊していたので、見つけるのに苦労はなかったようだが、発見の直接的なきっかけは、あるスナックでの喧嘩騒ぎだった。その経過も報告書にはある。
探していた男たちの一人が店にいた客の一人にトイレで殴られた。それを発見した店のママが騒ぎ、他の客が警察を呼んだ。客を殴った男の顔は分かっていたのだが、肝心の被害者が仲間と共に警察が来る前に店を出てしまっており、事件を立証することができなかったのだ。
うやむやのうちに騒ぎは終わってしまったが、これが結果的に男たちの発見に繋がった。おそらく薬の取引からきた争いではないかと付け加えられている。
それらの報告に目を通した後、光子郎は細かく書かれた一人、一人のプロフィールを読み始めた。この男たちの名は、その顔と共に目的を果たすまでは忘れられぬだろう。
望んだ情報は、彼らの名や住所といったありきたりなものではなかった。もっと深い、彼らがこれまで社会に残してきた痕跡のすべてを光子郎は欲していた。
流し読みしても、彼らが自分の怒りをなだめるような善行や過去をもっているわけではないことは分かった。むしろ読むほどに感情は熱くなってくる。三人分の報告を読み終えて、光子郎は腕を組んだ。
これで、すべてが終わったわけではない。ただの人捜しなら、もっと安全で、費用から見ても良心的な興信所はある。光子郎が求めていたのは、割高ではあるが料金を追加すると、それに見合った働きをしてくれる興信所だった。その働きには法に触れることも含まれているが、よほど経験を積んだ司法関係者でなければ、違反だと指摘することもできないはずだ。そちらでの実績も確かめてある。
ビジネスと割り切れば、その背後にある暴力組織のことも気にならなかった。かえって役に立つだろうという意識もある。もしものときのために、幾つかの保険は必要だろうが、今は、その段階ではない。
もう一度、これまでの経歴を読み直し、光子郎はある一点で目を留めた。
男たちの一人はドラッグの売人でもある。他の二人も、それに関係していると見て、間違いはないだろう。
彼ら三人が出入りしている店は、合法、非合法含めて様々なドラッグの取引場所にもなっているらしいが、そこが近々摘発されるようだ。おとり捜査が行われている可能性もあると記された文を読んで、光子郎は奇妙な息をもらした。
三人のうち、二人はすでに逮捕歴がある。残る一人は初犯であるから、おそらくは執行猶予、実刑を受けてもそんなには長くないだろうが、他の二人はしばらくは刑務所内で時を過ごすと考えられる。
まだ、先は長かった。光子郎は冷めたコーヒーを飲み、時間はあると自分をなだめた。
何もかも始まったばかりだ。太一との時間も、男たちへ怒りを向けることも。
――報復でも復讐でもよかった。胸の内に溢れる感情を、どう名付けても決めたことは一つだけだ。
許さない、それだけの思いだった。
※
太一の所在を確かめるに当たっては幾つかの方法があった。
解熱剤と、空の作ってくれた食事で風邪を治したヤマトは、自分が穴を開けた二日半の仕事を片づけられるだけ、片づけた。
自分が抜けた替わりを務めてくれた友人達に、感謝を込めた軽口を叩き、その日を終えると、帰宅する前に太一のマンションへ向かう。
どうしても、そうしなければというせっぱ詰まった思いが、どこから来るのか、確かめはしなかった。
マンションの周りは相変わらず静かだったが、あのとき捨てられていた煙草も、止まっている車も見られない。どれだけの時間が経っているのだろう。
チャイムを幾ら押しても、太一からの応対はなく、マンションの管理会社に連絡しても、はっきりした答えは返ってこなかった。反対に電話に出た男に不審に思われる始末で、彼に切られる前に自分から電話を切った。
ニュースでも太一に関することは、ほとんど流れていない。水面下で幾つものクラブとの交渉が進んでいると聞いたが、まだ決定はされていないようだった。はっきりしているのは、今まで所属していたクラブからは完全に脱退するということだけだ。
チャイムを押すのを諦めると、ヤマトは迷った挙げ句、ネットを通じて太一のエージェントの連絡先を調べ、その事務所へ電話をかけてみた。
時間的に考えれば留守番電話になっているのが当然だった。何も伝言を残さずに電話を切り、ヤマトは床に張られた大理石に映った自分の姿を見ていた。天井から下がったシャンデリアの明かりが、自分の影よりも強く光っている。その光を踏み、ヤマトはホールから出た。
丈に連絡したのは、ホールからの階段を降りながらだった。
人混みの中にいたのか、丈の声は最初、くぐもっていた。
「丈? 俺、ヤマトだけど」
「ヤマト?」
丈の声が笑いを含んだ。
「久しぶりだなあ。どうしたんだい?」
穏やかな口調は尖る心を包むようだ。
「お前、太一の連絡先、知らないか?」
「太一の?」
「ああ。なんか携帯が通じなくて、マンションにもいないみたいだからさ」
言い訳を早口で言うと、ヤマトは丈の答えを待った。
「ごめん。知らないんだ」
すまなそうな丈にヤマトは落胆を隠した。
「そうか……」
ヤマトが礼を言う前に、丈は親しさのこもった話しぶりで続けた。
「でも、僕じゃなくて、光子郎に訊いてみたら、どうかな」
ヤマトの沈黙には気づかず、丈は言った。
「光子郎も、この間、太一のことを探してたし――太一も忙しいみたいだね」
光子郎。心の中でだけ、つぶやいたつもりだったが、丈にも聞こえたらしい。
「そう。伝言が入ってたんだ。太一が、こっちに来てないかって」
「俺のとこにも……」
太一さん、そちらにいらっしゃいませんか――少し、うわずった声だった。光子郎の声を聞いたのはいつだったのだろう。そして、太一に無視されて、子供のように機嫌を損ねていた自分はなんと答えたのか。
「やっぱり? 太一に急用があったらしいよ。後で、電話したらそう言ってたし」
足下が廻る。自分の声を遠く感じながら、ヤマトは丈に光子郎から、電話があった日を訊ねた。これ以上、打ちのめされたいわけでもなかったが、丈の答えに、やはりヤマトは衝撃を受けた。
同じ日だった。では、光子郎は太一を見出したのだ。
「ヤマトも――」
「ありがとう、丈」
無意識につぶやいて、電話を切ると、ヤマトは振り返った。空を切り裂くようにして、マンションがそびえ立っている。すべては、この場所で起きたのだった。
ぞっとするほど暗い夜空に星はなかった。家々に灯る明かりだけが、眩しかった。
ヤマトはふらふらと歩き出した。どこかに行かなければならない。ここ以外の場所なら、塵にも等しい可能性だが、太一が見つかるかもしれなかった。
行く当てもないまま、しばらくふらついて、ヤマトは目についたコーヒースタンドに入った。ばらついた思考をコーヒーの苦みで押さえつける。
有線放送は絶え間なく流行曲を流していた。騒がしい歌ばかりを立て続けに聞いて、ヤマトは苛ついた。煙草を取り出し、アルミで出来た安っぽい灰皿をカウンターから持ってきた。
店内は蛍光灯で照らされ、窓ガラスから見える外も夜だというの建物や車からの光で明るい。道行く人々の顔もはっきり分かる。半分飲んだコーヒーが冷えてしまい、灰皿が五本分の吸い殻で汚れてしまうと、ヤマトは携帯電話を取り出した。
この番号を押すのは何年ぶりだったろう。いつからか、お互いの携帯電話で連絡するのが当たり前になっていたから、太一の家の電話にかけるのは、めったになかった。
決して覚えやすい番号ではなかったが、ヤマトは途切れることもなく、正しい番号を思い出せた。
旧友がかけるには、少々遅い時間だったかもしれない。それでも、電話を取った声は若い女性のものだった。
「はい、八神です」
彼女と話すこと自体、本当に久しぶりだ。友人の妹という存在は、こんなものかもしれない。
「石田といいますが……」
ヤマトが名乗ると、ヒカリの声は固くなった。
「ヤマトさんですか?」
「そう……お久しぶりです」
ぎこちない敬語のヤマトと違って、ヒカリの口調は滑らかだった。
「こちらこそ。空さん、お元気ですか」
儀礼的になりすぎない程度の親しみを込めて、ヒカリは訊ねた。
「ああ」
それきり、太一の妹はヤマトを促さず、沈黙を守った。自分から口を開くわけでもないし、ヤマトの言葉を待つ様子もない。
このまま、ヤマトが電話を切ってしまっても、ヒカリは驚かないのかもしれなかった。沈黙の無気味さを払おうと咳払いして、ヤマトは太一が今、どこにいるのかを問うた。
「お兄ちゃん、ですか」
ヒカリの声の調子が変わった。兄に対する愛情と、それからかすかな敵愾心。含まれた二つの感情にヤマトは言葉を詰まらせた。
「私、ヤマトさんはお兄ちゃんの携帯の番号を、知っていると思ってました」
「あいつの携帯、通じなくなってるみたいで、だから……」
ヒカリは静かに言った。
「住所も知っているんでしょう?」
「……家にいない」
それしか言えない自分が、ひどく惨めに思えた。
「悪いんだけど、別の連絡先を教えてもらえないか」
冷たいそれでなく、とまどった沈黙が返ってきた。
「別の?」
「急ぎの用事があって。なるべく早い方が……いいんだ」
本当にそうなのか。今更、太一に会っても仕方ないのではないか。
ヤマトの声音に何を感じ取ったのか、ヒカリは多少口調を和らげた。
「無理なんです」
「無理? 知らないってことか?」
一瞬、最悪の想像をしかけたが、ヒカリの次の言葉が否定してくれた。
「――言われてるんです。しばらく連絡はしないでくれって」
「え?」
「お兄ちゃんが言ってたそうなんです」
太一から直接聞いたわけではないらしい。ヒカリの言葉には不安があった。
ヤマトが口を開こうとすると、ヒカリはきっぱりと言った。
「だからヤマトさんも、お兄ちゃんには連絡しないで下さい」
ヒカリが兄を呼ぶ声には切なげな感情が、いつもある。ヤマトをそう呼んでいたタケルは、そのような呼び方はしなかった。性の違いではなく、ヒカリが太一に抱く感情の違いが、そこにはあったのかもしれない。
「ヒカリちゃん、俺は――」
「ごめんなさい」
電話は切れた。ヤマトにはかけ直すことができなかった。
彼女は太一に一番近い女性だ。では、自分はどこに位置した男なのだろう。
思いの外、長居したコーヒースタンドを出て、ヤマトはうなだれた。体は重く、肩に背負ったベースケースも重かった。
※
玄関に生けられた白い花が、落ちていた。散ったわけでもないようで、花は開いたまま、がくからぼとりと花瓶敷きの上へ落ちている。盛りのまま落ちた花を見るのが嫌で、ヤマトは花を取り上げると、リビングへ入った。
「お帰りなさい」
「ただいま」
テレビを観ていた空が振り返る。
「遅かったのね」
「……ちょっとな」
ヤマトは手にしていた花をテーブルの上へ置いた。
「何か食べる?」
「頼む」
空が立ち上がって、総菜を温め始めた。
ヤマトが上着を脱ぎ、ベースケースも置いて戻ってくると、花は水を張ったガラスの小皿に入れられていた。
「これ?」
空は罰の悪そうに笑った。
「水をあげすぎたみたい。落ちやすい花だったから、気をつけなきゃいけなかったんだけど」
「そうか」
「ビールは?」
「酒はいいよ」
ヤマトがほうれん草の胡麻和えに箸を伸ばすと、空も向かいに腰掛けた。
「調子どう?」
「大丈夫。なんか世話かけたな」
空は頬杖をついて、小さく笑った。
「今更、水くさいこと言わないでよ」
「そうだな」
空はテレビに目をやった。横顔は静かで、後ろで軽く結ばれている髪がさらりと肩に流れている。
「……ねえ」
ヤマトは空に目を向けようとしたが、頬張った厚揚げの煮物が意外なほど熱かった。奇妙な顔をして、口の中の熱さから逃れようとするヤマトに空が吹き出す。
「何やってるの」
「あち……」
どうにか口の中の厚揚げを飲み込んで、ヤマトはキッチンへ行った。
ペットボトルの蓋を開けて、水をグラスに注ぐと、一気に飲み干す。
「舌、火傷しなかった?」
「平気」
かすかに舌はひりついているが痛みはない。ペットボトルを持ったまま、席へ戻って、ヤマトは食事を再開した。
「どうかしたのか?」
空は皿に浮いた花を見ていたが、ヤマトの問いに顔を上げた。
「なにが?」
「今、言いかけてたろ」
今度は箸で厚揚げを割る。舞い上がった湯気は醤油の甘い薫りを含んでいた。
「――明日、私も遅くなるから」
「分かった」
空はちらりとヤマトを見て、微笑した。
「男の人と会ってくるの」
ヤマトは顔を上げた。
「男?」
かすかな不快感がヤマトの声にはあった。
もう少し、からかうつもりだったが、空はそれを諦めて、お父さんよとヤマトの眉間の皺を解かせてやった。
「義父さん?」
「帰りに会うの。母さんも一緒にね」
「そうか。よろしく、言っといてくれ」
空はふと首をかしげて、小さな声で言った。
「あなたも来ない?」
「俺も?」
ヤマトは驚いたように空を見つめ、気まずげに首を振った。
「また今度でいいよ」
「会いたがってたのに」
空は言ったが、ヤマトが断ったのを気にはしていないようだった。しばらくヤマトの遅い夕食に付き合うと寝室に行ってしまった。
一人きりになってしまうと、ヤマトは携帯電話を左手でもてあそんでみた。
着信履歴を調べれば、光子郎の携帯電話の番号はすぐに分かるだろう。それだけは、できなかった。
疲れだけが体に溜まる。ヤマトは後かたづけもしないままで、手持ちの煙草を全部吸ってしまうと、寝室へ戻った。
明日こそは、という思いを抱き、空の横に身を横たえた。小指一本分にも足りない程度の距離が開いたのは、部屋が少し暑かったせいだろう。
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