君を待ってる
16



 メモリーカードに納められた映像は全部で三十二枚あった。印刷されたのはその内の八枚だ。
 枚数を確認した後は引き出しの一番奥に仕舞い、そこに鍵をかけた。曲作りに勤しむときのため、ヤマトがたまに使うこの部屋は、ヤマト自身の几帳面さで、綺麗に整頓されているので、空も掃除には入らない。だが万が一ということを考え、鍵は持ち歩いた。
 ディスクをと写真を見るのは迷った。それらを先延ばしにし続け、ついにある日、ヤマトは食事を終えてすぐに部屋に引っ込んだ。言い訳を作るまでもなく、堂々と言える立派な理由があった。 
 先日のライブに、誰かがレコード会社の関係者を呼んでいたらしい。ヤマトが作曲し、演奏したあの曲を彼らは気に入ってくれたらしく、一般にも売り出そうかという企画が持ち上がっている。今までにも似たようなことがあったが、今度の企画は規模が違う。大手のレコード会社からの話だ。今までのように裏方に徹するのではなく、表舞台に出られる可能性もある。
 床に楽譜を広げ、おさらいのようにあの曲を弾いてみた。出だしは静かだ。本当に静かだ。あの写真を手に入れても、何も変わらない自分と同じように静かだった。
 写真に触れたのは二度だけだ。それらを奪い取った日、街灯の下で印刷された写真をちらりと見た。
 そしてこの部屋で何が写されているかは見えないよう、裏返しにして数を数えた。 
 それきり机の奥に仕舞ったままだ。触れもしていない。そのかわり、いつもあの写真とメモリーカード、太一のことを考えている。
 どうすべきなのだろう。考えるようとすると混乱してしまう。深呼吸をしながら、ベースを仕舞い直した。壁に頭を預け、電灯と白い天井を眺めた。
 男たちに見つかることもないし、警察沙汰になるようなこともなかった。あの日の夜は、日常に沈んでいる。このまま忘れてしまいたい。そうできない確かな証拠を持っていたとしても、なかったことにしてしまいたかった。
 煙草を取り出しかけ、ヤマトは舌打ちした。ライターも煙草もリビングに置いたままだ。取りに行けば、空に注意されるだろう。このごろ吸いすぎだというのは自覚していた。
 暇になった手が反対側のポケットを探り、中身を握った。
 青いピックを取り出し、ヤマトはそれを光に透かした。男たちが持っていたということは太一が持っていたということだ。どうしてという理由を考えることもせず、ヤマトはピックを手の中に包み込み、立ち上がった。
 部屋の鍵を閉める。空は入ってくるときはノックをするが、もしも、ということがあった。この秘密を彼女に隠し続けるには用心に用心を重ね、それでも足りないくらいだ。
 隠し事をしている後ろめたさはピックを握り、唇を噛むことで殺した。
 椅子を引き、腰を下ろすと鍵を取り出した。深呼吸して、鍵を鍵穴に差し込んだ。
 カチリと錠が開き、ヤマトは引き出しを半分ほど開けた。雑多な品ばかりが仕舞われた引き出しの奥に手を伸ばす。くしゃくしゃになった紙袋が指先に触れた。親指と人差し指だけでつまみ、手元に引き寄せる。
 迷わない内に袋の中に手を入れ、写真の角が指を刺すのを感じながら、メモリーカードと写真を取り出した。
 初めに写真を表にした。使用した機器の性能がよかったのか、はっきりしたきめの細かい写真に仕上がっている。肌に浮かんだ汗が弾く光も見えるほど写りのよい写真だった。
 どうしても直視できなかった。手を震わせ、写真を遠ざけた。あの夜のような醜悪な黒い瘴気が、そこから立ち上っているように見える。幻の毒気にひどいめまいを感じた。
 視界の端から太一が見えた。幾つもの手が太一の体を支え、操っているようだった。足を広げさせ、顔を上げさせ、思うさま、その体を蹂躙している。
 喉を仰け反らせた太一もいた。一人の男が彼の足の間に体を進めている。ちらりと見える腕に小さな彫り物があった。特徴といえば、それくらいだ。太一以外の男は背中か手、足ぐらいしか写っていなかった。
 唇を噛み続け、ヤマトは他の写真を見るためにパソコンを立ち上げた。機器が接続されているのを確かめると、一気にカードを押し込む。
 画面に映された太一を見つめ続けた。それも十二枚までが限度だった。ついに、欲望を露わにする太一を見ることに耐えられなくなり、ヤマトは電源を落とした。これ以上、見続けていると自身までもが辱めを受けるようで恐ろしかった。
 太一はこんな姿を写させて、悦に入るような男ではない。あの夜、太一の身にどんなことが起きたか、再度思い知らされて、ヤマトは額を押さえた。
 すぐそこに自分はいた。声を出せば、届く距離に。駆け出せば、手が掴める距離に。
 太一を救い出せる場所にヤマトは立っていたのだった。それも太一が去ってしまった後にもだ。
 見つめていた部屋の明かりの下で何が行われていたかを、過ぎた後に知ることになった。その時間の一部がとどめられている証をヤマトは手に入れてしまった。悔恨と嫌悪と殺意を一緒にして、見てしまったのだ。
  太一以外の顔は写さないようたくみに撮られた写真を使い、男たちが何を企んでいたかは予想できた。会話の内容を思い出すまでもなかった。薄汚い欲望の証拠をヤマトは握っている。
 どうしたらいいのだろう。このまま机の奥深く封印しておくべきなのか。それとも処分するべきなのか。
 理性や常識、哀れみ、同情、怒り、そんな様々な感情が、これ以上写真が誰かの目に触れないようすべきだと声を上げて、訴えている。それが一番いい方法なのだろう。
 メモリーカードを両手に持った。右手と左手に力をこめればいい。それで終わりだ。嫌な感触と思いだけが残るだろうが、それもすぐに消えるはずだ。忘れなければいけない。
 ヤマトはカードを折りかけた。破壊するつもりだった。跡形もなく、くしゃくしゃにしたかった。写真は燃やしてしまえばいい。すべてを消してしまえばいい。
 カードの端から、がちっと硬い音がした。真ん中に薄い線が走った。もうすぐ折れる。線が伸び、白い色がはっきりしたところで、ヤマトはメモリーカードを投げ捨てた。机上に置いてあったすべての荷物を床へなぎはらった。広げていた写真がはらはらと床へ落ちていく。
 一枚だけが机に張り付いていた。血走った目でヤマトは写真を取り上げ、ポケットからライターを取り出すと、フリントをはじいて、炎を生み出した。揺らめく炎は明るい。
 火が写真の角に移り、端を焦がし、炎を広げようとした瞬間、ヤマトは火を指でつかんだ。ちりっとした痛みが人差し指と親指を刺す。
 小さな水膨れを作り、ヤマトは写真を燃やそうとした火を消した。大した動作でもなかったがに荒い息をつくと、顔を伏せた。
 自分が知らない太一がそこにいる。彼は快楽を得る際、あんな表情を浮かべるのだ。
 写真をつまみ、太一の恍惚とした表情を確かめた。半分閉じられた瞼から向けられる視線と、あの日の視線が重なり、指の火傷よりも、はっきりした熱さを唇に呼んだ。
 太一の唇が触れた箇所を舌先でなぞり、ヤマトは目を閉じた。気づかない内に吐き出した低い息には間違いなく欲望がこめられていた。そのことを否定せず、ヤマトは熱くなる体で、太一を思っていた。


 
 翌朝、目を腫らして、キッチンに顔を見せたヤマトに空は眉を翳らせた。
「ずっと起きてたの?」
 曲作りに専念したいと言って、夕食後、部屋に籠もった夫に空は心配げな目を向けた。
 ドアから漏れる明かりは真夜中を過ぎても消える気配はなく、声をかけるのも、ヤマトが部屋に入るときの雰囲気からためらわれたのだ。
 空はそれを後悔した。一言、声をかけておくべきだった。
「目が真っ赤だけど」
「いや……。少し寝た」
 ヤマトの返答は遅い。空は味噌汁を注いだ椀をヤマトの前に置き、片手をテーブルに付くとヤマトの顔を覗き込んだ。
 赤い目も気になるが、頬も赤い。吐息が熱っぽい気がして、空は手を伸ばした。額に触れ、自分の額の熱と比べる。
「熱があるみたいよ」
「そうなのか」
 ぼんやりした視線で、ヤマトは空の顔を見つめ、気怠げなまばたきを一つした。
「体温計、持ってくるから、待ってて」
「いいよ」
 ヤマトは手を振ったが、空は薬箱を置いた棚から、細い体温計を持って、ヤマトの横に立った。
 体温計を差し出されては逆らえず、ヤマトは昨日から着たきりのシャツの襟を広げた。
「火傷?」
 目聡く空が指先の小さな火膨れに気づく。ああと、返事して、ヤマトは体温計を脇に挟んだ。
 数秒ほどで、数字が表示される。ろくに見もしないで空に渡すと、空は驚いたようにヤマトの顔を見つめ直した。
「何度?」
 微熱程度だと思っていたが、そうではないようだった。
「八度九分。あなた、寝てなきゃ」
 体温計を置くと、空が肩に手を置いて、立ち上がるように促した。
「姪浜に連絡しないと」
 電話の前へ行こうとしたヤマトに首を振って、空は言った。
「私がしておくから、ベッド……」
「いや、他のやつにも言っとかないと」
 レコード会社の企画部の男からもらった名刺をどこに仕舞ったかと思い出そう俊、ヤマトは頭を振った。
 こめかみのあたりから頭痛が生じ始める。熱を計った途端に、急に苦しくなった。
「空、大丈夫だから」
 ベッドの用意をする空に笑いかけ、ヤマトは壁によりかかった。
「お前の方が間に合わなくなるぞ」
 空は時計を見上げ、渋々うなずいた。
「無理しないでね」
「分かってる」
 ヤマトの腕に案じるような仕草で触れると、空はバッグを持ち上げた。
「早く帰ってくるようにするわね」
「ああ」
「保険証は居間の一番上の引き出し。診察券もそこに入ってるから」
「分かってる」
 お粥を作っておけば良かったとつぶやく空にヤマトは苦笑した。
「適当にしてるから平気だ」
「うん……。何かあったら電話してよ」
 これではこの間と逆だ。心配性はお互い様らしい。
「ただの風邪だって」
 玄関へ向かいながら振り返り、話しかけてくる空に言って、ヤマトは手を振った。
「気をつけてな」
 心配そうな行ってきますの声が消えてから、ヤマトは苦しげな息を吐き出した。
 壁に手をかけ、ゆっくり寝室に戻る。途中で、コードレスフォンを取り上げるとベッドに沈み込んだ。熱くなる頭を整理して、仕事仲間やスタジオに連絡をした。喉が嗄れていないのと、どうしても、という仕事が入っていないのが幸いだった。
 解熱剤でも飲んで、一日おとなしくしていれば熱は下がるだろう。案じる友人たちに、なるべく元気そうな声を出して答えるとヤマトは電話を切った。
 これが最後の電話になるはずだった。あとは布団をかぶって、寝るだけだ。
 電話を枕の下に入れようとして、ヤマトはじっとダイヤルボタンを見た。体の熱が、指先に集まっていくのがわかった。
 太一の携帯電話の番号を押す指に迷いはなかった。ボタンに触れる人差し指が痛かっただけだ。
 太一の応答はなかった。三回かけ直した後、自宅にかけてみた。こちらも出ない。男たちの言葉が正しかったことに怒りを覚え、ヤマトは電話を空の寝る側に放り投げた。
 痛む指先を冷たいシーツで冷やして、目を閉じた。
 昨夜、空しか使わなかったベッドは彼女の匂いが強かった。空に抱かれているようだと安堵し、それからかすかな息苦しさの中、ヤマトは短い眠りに落ちた。



 どこまでも落ちていく感覚だった。生暖かく、重たい空気が体を包んでいる。緩やかに落ちていく。夢の中の自分の目を通して、そして夢全体を見通して、ヤマトは自分を包む空気が固まっていくのに気づいた。
 体が白いもやの固まりに突っ込んでいく。通り抜けないまま、誰かに受け止められた。確かめる間もなく、耳元で声がした。
(欲しいんだ)
 腕が伸ばされた。ひやりとした肌の感触は次の瞬間熱くなった。腕だけでなく、唇も、足も、体全体がヤマトに絡んでくる。
(ヤマト)
 唇が開く。
(お願いだから)
(あんな奴らより、ずっと、ずっと、お前が)
 太一に包まれきってしまったのか、自ら彼を抱きしめたのか。
 曖昧だった感覚が一つ方向へ向けて走り出す。太一の声が嬉しげに弾んだ。
 ヤマト。
 声はどんな愛撫より、誘惑の仕草より、蠱惑的だった。彼が求めているもの与えられるのだった。悦びながら、ヤマトは太一に応えた。



 ――夢の中での白い快楽が終わると同時に、ヤマトは飛び起きた。下着が濡れ、肌に張り付いていた。嘘だろうと言いかけ、ヤマトは黙って服を脱いだ。汗を吸ったシャツも着たきりだったジーンズも、汚れてしまった下着も全部脱いで、パジャマ代わりの上下に着替えると、脱いだ衣服を持って、部屋を出た。
 ほのかに洗剤の香りが漂う脱衣所で洗濯機を回し始めると、洗面台によりかかり、ヤマトはふらつく体を支えた。頭が痛む。胸が苦しくなって、数度咳き込むと、ヤマトは台に拳を叩きつけた。
 痛みも、熱のためか伝わるのが遅い。洗濯が終わってしまうまで間があるので、ヤマトはリビングのソファに倒れるようにして座り込んだ。
 よくある生理現象だ。悩ましい夢を見て、それに体が反応することなど、男ならばめずらしいことではない。肉体が大人へと変化し始めた少年期にも何度も体験した。それは知らない異性の肉体を思ってのときもあれば、唇で触れ、手で抱きしめた空を夢見たときでもあった。
 男としては当たり前のことであったし、嫌悪も後ろめたさもあったが、こればかりは理性だけでは、どうしようもないこととして受け止めていた。
 ひんやりしていたソファが、自らの体温で温くなってくる。体を動かして、冷たさを求めた。寒気もあったが体を冷やしたかった。
「くそっ」
 夢を思い出しただけで、頭が痛くなる。熱が出たのも、夢を見たのも、あんな写真に一晩中、向き直っていたからだ。
 心臓が倍の早さで脈打ち始め、ヤマトは手で顔を覆った。
 衝撃的な写真だったから、夢に出てきてもおかしくないはずだ。友人が、大切な親友が、あんな下衆な男たちに――。
「くそっ……」
 ヤマトは罵り、唇を震わせた。
 夢の中の太一は写真よりもずっと淫らだった。唇を濡らし、足を開き、自分の名を呼んでいた。そんな太一に夢とはいえ、ヤマトは応えたのだった。
 その証拠が、まわっている洗濯機の中に入っている。
 ――最低だった。あの男たちも、そしてそんな彼らに辱められた太一に欲望を覚える自分も最低だった。
 太一は男だ。大切な友人で、人として最悪の屈辱を受けた。その一部を目にしたからといって、こんな卑しい夢を見るなど、許されることではない。それは二重に太一を辱める行為だ。
「……」
 思い出すのは止めなければいけない。そうしなければ、自分はいつまでも、夢の中の太一と現実に触れた太一の唇の感触ばかり、思っているだろう。
 ヤマトは洗濯が終わり、乾燥が済んでしまっても、起き上がろうとはしなかった。
 体中に刻まれた幻の肌と現実の唇の柔らかさを忘れるため、ヤマトはソファで動きもしなかった。



 主婦相手の授業なら夕方で終わってしまうが、今日は会社帰りの女性たちのための授業の予定があった。休憩時間に空は自宅に電話をかけてみたが、ヤマトは出なかった。ベッドで眠っているのだから、そちらの方がよい。
 今日で二回目の授業だったので生徒たちはまだ花の扱い方に慣れていない。一人は鋏で手を切ってしまい、そのせいで終業時間が十分ほど遅れてしまった。
 生花の瑞々しい匂いが残る教室を出て、講師の控え室に戻ると、挨拶もそこそこにビルを出る。駅前のビルなので通勤には便利だ。自宅の近くのスーパーで、消化しやすく栄養もある食材ばかりを購入して、家へ帰った。
 明かりを点け、荷物をダイニングのテーブルにおくと、そっと寝室のドアを開けてみた。部屋の空気はこもっていて、むっとしている。
 ヤマトは背を向けていたので、足音を忍ばせ、空は枕元に立った。寝乱れた髪が、枕に散っている。頬が赤く、とっくに成人した男の寝顔にしては幼く見えた。頬に触れると、髭が伸びているのが分かった。
 眠っていたので、ずれた布団をかけ直してやったが、その仕草にヤマトは寝返りを打ち、はっと目を開けた。
「空?」
 熱があるにしては鋭い視線だった。
「ただいま」
 しわがれた声に空は眉をひそめた。
 額に手を当ててみると、朝よりも高くなっているようだった。
「帰ってきてたのか」
「今ね。……熱、上がってるみたいよ」
「そうなのか」
 ヤマトは瞼を閉じ、ぐったりと顔を伏せた。
「薬、飲んだ?」
「いや」
 ヤマトはきつそうに首を振った。この分では、何も胃に入れてないだろう。急いで、お粥を作るため空は部屋を出た。
「……あ」
 水を使う際に服の袖を上げようとして、空は小さな声を上げた。
 袖口に小さな赤い染みが付いている。鋏の刃で指を切った生徒の手当をしたときに、その血が付いたようだった。まだ新しい染みなので、今から洗えば落ちるはずだ。
 上着だけを着替えて、空は汚れたシャツを手に、脱衣所に入った。他に汚れ物もある。朝、時間のないときは、帰宅してから洗濯することもめずらしくない。
 アイボリー色の洗濯機の蓋を開いて、空は首を傾げた。手を伸ばして、中身を取り出す。ヤマトが今朝方、着ていたものだ。手にした感触からすると、洗うばかりか、乾燥まで終わってしまっているようだった。
 空は自分の分の洗い物と他の衣服やタオルを洗濯機に入れ、スイッチを押した。
 響き出した水音と共に疑問符が浮かんだ。
 ――おかしい。それは直感といってもよかった。じわじわと沸き上がる不安は、結婚前にも何度か感じたものだった。
 許せる嘘と許せない偽り。ヤマトは嘘が下手だ。どこか不器用に、言い訳のように話す。その話し方も愛しい。
 だが、別れまで覚悟した誤解は、ヤマトの何気ない嘘から始まっていた。太一の取りなしと説得がなかったら、たぶんこうして二人一緒にはなっていない。
 それほど大きな亀裂だった。一度きりだとはいえ、あの頃の日々の不安と恐怖を、れてはいなかった。
 あの時の不安もこれに似ていただろうか。こちらの方が大きくはないか。
 些細な出来事だ。熱を出した夫が、ぐったりした体で洗濯をした。ただ、それだけだった。きっと友人に話せば笑われるに違いない出来事だろう。
(いいじゃない。うちなんか、気が付いたら、洗濯機に服をぽーん。それだけよ。結局私がやってるの。結婚前は家事は分担とか、言っ てたくせに、結局口だけ)
 几帳面なヤマト。友人にも羨ましがれ、それを誇りに思うこともあった。けれど、几帳面すぎないだろうか。
 服を着替えるのはおかしくない。だが、あの体で、ヤマトはなぜ洗濯をしたのだろう。帰ってから、自分が洗濯をすると、分かっているはずだった。潔癖なところがあるヤマトらしいといえば、そうかもしれないが、それは体調がよいときの話だ。高熱を出しているヤマトが、洗濯する必要性などどこにもなかった。
 空は手にしていたヤマトの服の皺を伸ばすと畳み始めた。後で仕舞うために藤で出来たかごに入れる。
 閉め忘れていた洗濯機の蓋を閉め、不安もその中へ放り込んだ。
 こんなことよりも、もっと大事なことがある。お粥には栄養を付けるために卵を落とそう。早く良くなってもらいたい。夫の分の夕食を作るため、空はキッチンへ向かった。
 畳まれたヤマトのシャツの襟は、ほんの少し曲がっていたが、空は気がつかなかった。
 

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